仮面の男――レイドは、素直に驚きと感嘆の溜め息を漏らした。
司会と客達の放つ歓声が、ホールに木霊する。今日描いていたはずのシナリオは目の前で覆され、勝利の栄冠はあの少女に奪い取られてしまった。
彼が“奪い取られる”など――さて、何年振りの事だろうか。
「成程、素晴らしい……。定められた舞台を、
レイドは何かを納得したかのように、仮面の奥で深く静かにほくそ笑む。
彼の用意した脚本では、今日の挑戦者は負ける運命にあったはずだった。その為にこそ観客を誘導し、扇動し、トレーナーベットの数を膨らませておいたのだ。それは彼と共に貴賓席に座る大企業の重役や、ポケモン協会の幹部職員など、面倒で怠惰な連中ばかりが集まっていたからである。つまりは、ただの接待賭博だったということだ。
決して泥を塗るべからぬ欺瞞の一戦。あれはただ負けるべくして招かれた、哀れな主演という名の道化。そのはずだった。
だが、結果はどうだ。今、満場の喝采を一身に浴び、まるで見当外れな賞賛を送られているのは紛れも無く彼女だ。道化を演じさせられたのは、脚本を書いた自分の方。
しかも、彼女は自らの意志と信念を貫き、勝ち抜いた。観客をこうまで熱狂させる所以はそれだ。ただポケモンバトルに勝利したというだけではない。彼女の様子を見る限りは恐らく、一戦目にしてこちらの意図に気付いていただろう。それを知って尚、正面からの正々堂々たる勝負を望み、挑み、勝った。泡銭を賭けてはその行方を目で追うしか能のない馬鹿共でさえその高潔さに憧れ、惹かれ、見惚れる。その誇り高い輝きを今、彼女は放っているのだ。
久しく見ていなかった、勝負師としての素養。そして、古くはきっと英雄として迎えられる一種の特異性。土壇場における瞬発力と明晰さは、勉学や経験ばかりでは養えるものではない。どうあっても、天性の恵みが物を言う。
彼女がああして喝采を浴びているのは偶然ではない。ただ、その舞台が今日、この場所だったというだけの事。愚かしくもそれを利用し損なったのは遺憾な限りだが、別に良い。所詮は遊戯、むしろこの狂奔は歓迎すべき“
「まさか、最後の一幕にこんな良いものを観られるとは……私も中々、ついている」
言いながらレイドはゆっくりと立ち上がり、傍らのテーブルに転がしてあった小包を手に取った。渡される予定のなかった勝者の証だが、だからと言って用意しないという事ではない。彼はそういう意味では不正のない人間であり、また心の何処かで舞台の破壊を望んでもいた。
ごく僅かに開けておいた、針の穴のような突破口を切り開き、もしも潜り抜けた勇者がいたのなら。そう思って、約束通り祝福の用意は常にあった。ただ、彼の描いた脚本に従う結果以外において、そのような勇者はただの一度たりとも現れなかっただけである。
そんなこれまでの軌跡を少しだけ思いながら貴賓室の扉を開けた時、横から下品な怒声が響いた。
「レイド! 貴様、これはどういう事だっ! 貴様の言う通りにベットしたのに、大負けじゃないか! 一体どうしてくれるんだッ!」
レイドは胡乱な瞳で、その方を見遣った。チビで白髪の男は、いかにも高そうな礼服に身を包み、意味もないだろうに豪奢な杖まで突いている。その杖を振り回しながら、何やら怒り狂っていた。ああ、こいつは誰だったか――もう、上手く思い出せない。
しかし、形式上の慇懃さだけは崩さない。レイドは深く頭を垂れながら、落ち着いた声で諭す。
「これはこれは……何か、当方に不手際でもございましたか?」
「何か、じゃないだろう! 今日のエキシビションマッチの勝者は、貴様の方だったのではないのか!? ワシはそれを信用して一千万も賭けたと言うに!」
何事かと思えば、なんと卑しい要求だろうか。
確かに、エキシビションマッチの存在意義とはほとんど、接待賭博としてのものではある。
だが、仮にもここは賭場。何が起こるかわからないスリルに身を任せ、その緊張に金を投げ込むからこそ愉悦を得られる場だ。
今更、こんな低俗な客がいたものかと思うと溜め息が出る。さては、年収だけでこの貴賓席に通したか。その担当者は見つけ次第、再教育が必要だろう。
我らが誇りある――ロケット団の一員として。
「お客様が何を申されているのか解せません。賭けとは、結果がわからぬものに金を投げるものでは? あなたの言い分はまるで……賭け事のイロハもわからぬまま
「な、なんだと……!?」
その男にとって、まさか罵倒が返ってくるとは思っていなかったのだろう。顔色を失いながら、二の句を継ごうとする。
しかしその前に、レイドの冷たい語調が遮って突き刺さった。
「申し上げたでしょう? 本日は全てを得、また全てを失う日であると。あなたは言葉が理解できない猿だ。或いは、たった数十分前の言葉さえ覚えていられない鶏だ。それではとても、とても……賭け事など、難しくてできないでしょう?」
いつの間にか、男の目の前にレイドは立ちはだかっていた。男は知らぬ間に、自分の身体が小刻みに震えている事に気がついた。
たった一人を相手に、何をこうまで怖がる事がある? 言い返せ、この無礼を言い返せ。この非礼を言い返せ。
だが、仮面から漂う、底知れぬ威圧感と――無感情。それは真っ暗な洞穴を目前にしているかのような、圧倒的で絶対的な闇だった。ただ一人の男が醸す闇が、何故こんなに深く暗いのか。
仮面の隙間から覗く唇が、避けるように嗤った。
「ご安心なさい。ここは遊びの場。得るものは金だけ、消えるのも金だけ。あなたにとっては、
纏わりつくような低い声が、耳朶にぐらぐらと響く。
「――
するりと挙げられた右手が、ぱちんと指を鳴らした。
「お客様がお帰りだ。丁重に――くれぐれも丁重に、お帰り頂きなさい」
男はもう、何も言うことができなかった。
ただ、レイドという男が纏う闇の片鱗を垣間見て、その意味をほんの少しだけ理解した。
黒服の男達に引き摺られるように連れられ、去りゆく仮面の背中を見送る。
あの仮面の奥にある眼球が一体何を見ているのかは知らぬ。その心が、何を思うのかさえわからぬ。ただ、彼の言葉から感じ取った意味に含まれていたのは。
それは――生命という極めて最終的な財産を、たった一枚のコインと同じように容易く廻るルーレットへ投げ込む