からりとした晴天の一日だった。
夜行彦一は真っ昼間からパブに入っていた。
壁一面が窓ガラスで、天井には小さなキャンドルライトが三つ散らばっている。カウンターやテーブルはマホガニー調だ。
シックな雰囲気のいい店だった。
「ふぅ、疲れたー」
「行儀が悪いぞ、彦一」
テーブルに突っ伏した彦一を、対面に腰を下ろしたレティシアが窘めた。
魔王襲来時にはロリではなく美女になっていたらしいが、今はまたロリに戻っている。
どういうメカニズムになっているのか興味が尽きないが、下手に突っ込めばまたしてもロリコン疑惑へと話題が飛び火するのは間違いないだろう。
「まぁ無理もないか。慣れぬことをしたのだからな。しかし、あれはひどい敗戦だった」
「人には向き不向きがあるんだっての。釣りスキルを競い合うって何なんだよ」
ギフトゲームの名称は『ミッドガルドの釣り師』。
北欧神話において雷神トールが釣り上げたのが、おのれの尻尾をくわえている大蛇ヨルムンガルド(ミッドガルド)である。
その逸話にのっとり、最も大きな獲物を釣り上げたコミュニティが優勝というゲームだった。
「まさか長靴を釣り上げてしまうとは、ある意味でそれは才能だぞ」
レティシアが含み笑いをしながら彦一を揶揄する。
長靴、傘、帽子、鞄。箱庭にも不法投棄の問題があるらしい。
そして、やっと釣り上げたフナが約二十センチである。三十秒先までしか見えない彦一のギフトでは、釣りのように長時間かけて行う勝負は不向きだった。
レティシアが言うように、ひどい敗戦になってしまった。
ちなみに優勝したコミュニティが釣り上げたのは三メートルまで成長した金魚である。魚には痛覚がないため、満腹になっても止まらずにひたすら食べ続けるというが、三メートルになると、もはや怪物である。
「お待たせしました、お客様。ご注文をどうぞ」
「えっと。手長エビのフライとシェファーズパイ。付け合わせにプティング」
「ローストビーフ、マッシュポテトのサラダ、それとベイクドビーンズを頼む」
「飲み物はレモネードで。お前は?」
「紅茶を。アッサムで」
注文を取りに来た店員に、彦一はメニューを手に取ると、ささっと注文を終えてしまう。
「ところで吸血鬼なのにトマトジュースじゃないんだな」
「……彦一は『箱庭の騎士』について多大な偏見を抱いているようだな」
彦一は滅相もないと肩をすくめる。
この金髪ロリメイドは彦一へのお目付役であった。
彼も箱庭都市に慣れてきたようで、ふらっと『ノーネーム』の拠点を出ては、三日ほど音信不通になったりする。性格は十六夜たちよりも控え目ではあるが、迷子になりやすい根無し草の気質なのである。
さらに厄介事にも巻き込まれやすいとあって、手の空いていたレティシアに監視の役目が押し付けられていた。
店員が料理を運んでくる。
タルタルソースのかかった手長エビのフライをつまんでみる。
「ふむ。悪くない」
メシマズではない英国料理を出せる店だった。普通に美味い。どうやらアタリを引いたようだ。
「ところでお前、俺には主殿とかご主人様とか呼ばないんだな。何か理由でもあるのか?」
「呼んで欲しいのか? 主従プレイがお望みなら、そう言ってくれれば――」
「やめろ。これ以上、俺にあらぬ性癖を付与しようとするな」
レティシアが冗談だと笑う。心臓に悪い冗談である。
「さて、午後の予定だが……」
昼食を堪能しながら、彦一は脳内からメモ帳を引き出した。釣りのギフトゲームで惨敗しているため、他のギフトゲームで名誉挽回を狙うというのが正道なのだろうが、この時点で彦一はやる気を失っている。
ギャンブラーの親戚が曰く、調子が悪い時はさっさと見切りを付けてしまうに限るとか。ツキに見放されているのに勝負に拘泥してしまうと、ずるずると負けが続くだけである。と言うわけで、予定していたギフトゲームは忘れることにした。
「適当に土産を見繕ってゴーホームだな」
パチンコに負けたオッサンが家族に景品を土産にするのと、ほとんど同じ行動である。
彦一は自覚していたが、あえて気付かぬフリをした。
宵の明星、彦一は書庫に足を運んでいた。
窓からは月明かりが注ぎ込んでおり、ランプにも火が灯っているが、それでもまだ明かりが足りなくて目当ての本を見付けるのに四苦八苦する。
「十六夜。鳥山石燕はどこにあるんだ?」
「ん、どれを探してるんだ」
「百器徒然袋」
「たしか上から二段目の和綴コーナーにあったはずだが」
彦一は十六夜に礼を言ってから脚立を探した。本棚の上の方になると、手を伸ばしても届かないのである。
「……って、脚立がないぞ。どこ行った?」
「雨漏りを補修するために黒ウサギが持ち出していましたよ」
「うわ、めんど」
ジンの発言に、彦一は肩を落とした。妖怪物を読みたい気分だったのだが、わざわざ脚立を取りに行くのは面倒だったので、手近にあった本で我慢する。『大奥義書(グラン・グリモワール)』という黒魔術の手引き書だった。
「『ノーネーム』の屋敷がボロいのはわかってるから、黒ウサギを批難することはできないんだけどな。雨漏りの補修も任せっきりだから、脚立を使ったら元の場所に戻せとも言えないか」
「黒ウサギには苦労をかけていますからね。何とかできないでしょうか」
「屋敷を補修してくれる妖精っていなかったか。『茶色い小人(ブラウニー)』とか」
「便利そうだな、そいつ。拉致るか」
「拉致!? 駄目ですよ、十六夜さん!」
十六夜が邪気ひとつない笑顔で提案するも、ジンの猛反対によって却下された。『ノーネーム』のネームバリューを下げる行為のため、十六夜も本気で言っていたわけではなく、あっさりと引き下がる。
「まぁブラウニーも無償で働いてくれる妖精ではないからな。食糧などの代償を必要とする。契約関係にあると言うべきだろう」
彦一がブラウニーについて補足を加えると、十六夜がさらに話を発展させた。
「屋敷に関係している妖精と言えば、白雪姫に出て来る小人は、原典ではドワーフと訳されているらしい。こっちの話でも白雪姫が小人の世話をする代わりに、食糧と寝床を提供して貰って共同生活を送るという、ある種の契約が働いているわけだ」
「うちには妖精はいませんけど、子どもたちが相応の働きをしていますよ」
なぜか男三人が書庫に集まっている。交わしているのは特に意味のない雑談である。
ページがめくられる乾いた音が書庫に響いている。
三人とも読書を愉しんでいるという風ではなく、淡々と情報を取り込む作業をしているような感じだった。
「お前らは朝、女の子に起こして貰えるとするなら、どんなシチュエーションがいいと思う?」
「なっ――唐突に何を口走っているんですか!?」
文字に目を落としたまま、脈絡もなく言い放った十六夜に、ジンが飛び上がった。
「色々あるだろ。腹の上に乗っかって揺すられるとか、布団を引っ張られてベッドから落とされるとか。何度も声をかけているのに起きてくれなくて涙目になっている女の子とかグッとくるよな」
「来ますけど!? たしかに来ますけど!?」
「俺も気持ちはわかるけど、それは女に夢を見すぎてないか。リリとか黒ウサギに『朝食が片付かないか起きてください』と言われるなら有るだろうけど、そういう義務的な起こされ方だとグッとこないからな」
「誰が現実の話を言っているんだ。俺はシチュエーションを語っているんだが」
「……っ、謀ったな!?」
アホである。
ドヤ顔で勝ち誇る十六夜に、彦一がぐぬぬと歯がみしている。語るに落ちたとはこのことだ。
「シチュエーションか。それなら朝食の支度を終えて、エプロン姿で前屈みになってだな、耳元にそっと『起きてください、兄さん』と甘い声で囁かれると、俺なら一発で落ちるな」
「やけに具体的ですね。気持ちはわかりますけどね!」
「まさかの妹萌えか。お前マジでロリコン疑惑を晴らす気があるのか?」
三人ともアホである。重ねて言うが、こいつらアホである。
「と言うわけで、ちょっとしたイベントを企画してみた」
「は?」
契約書類(ギアスロール)文面。
『ギフトゲーム名 『白雪姫のお目覚め』
プレイヤー一覧 逆廻十六夜
夜行彦一
ジン・ラッセル
概要 プレイヤーの三人は明日、女の子に起こされるまで目を覚まさない。
リリなどの子どもたちは、今回は女の子から除外する。
女の子は黒ウサギ、久遠飛鳥、春日部耀、レティシアの四名とする。
勝利条件 最もグッと来る起こされ方をした者が優勝。
判定は三人の多数決(他薦のみ)によって決する。
票が割れたの場合は勝者なし。
宣誓 上記に則り、『ノーネーム』の男三人はギフトゲームを行います』
十六夜が提示した契約書類に、彦一とジンが絶句した。
「これは――」
「俺たちが白雪姫かよ。最高に皮肉が効いてるな」
これほどアホなギフトゲームが、かつて他に行われただろうか。少なくとも彦一が経験したゲームの中ではダントツのトップでアホすぎるギフトゲームである。
「死ぬ気ですか! いえ、殺すつもりですか、十六夜さん!?」
「何気にお前、うちの女性陣に失礼だよな」
前のホタル調査の時から思っていたのだが、ジンは彼女たちに恨みでもあるのだろうか。
「で、どうする? 参加しないなら、この契約書類は白紙に戻すが?」
「……そりゃ、まぁ」
彦一とジンは顔を見合わせた。
さらに重ねて言うが、男たちはアホだった。
翌朝、まず最初にそれを発見したのは朝食の支度をしようとしていたリリだった。眠たげに垂れていたキツネ耳が、それを見付けた途端にビンと伸び上がる。
「た、たたた、大変です!」
昨夜、十六夜が用意した契約書類がテーブルに置かれていたのである。
リリに叩き起こされた黒ウサギが、怒りで髪をピンク色に染めている。感情が昂ぶると、黒ウサギの髪は変色するのである。彼女は目を皿のようにして何度も契約書類を眺めると、ぶるぶると震えながら言い放った。
「や、やってくれましたね、十六夜さん。彦一さんはともかく、まさかジン坊ちゃんまで巻き込んでしまわれるとは」
「なにを悩んでいるんだ? 叩き起こしてしまえばいいではないか」
「……いえ、たしかにそうなのですが」
レティシアに説かれて、黒ウサギが勢いを失った。
こんなくだらないギフトゲーム、さっさと終わらせてしまうべきだ。とは言え力任せに叩き起こしてしまうと「やはりうちの女は駄目だな」と十六夜に言わせてしまうような気がする。
黒ウサギも女の子。
箱庭の愛玩動物であり、そういった失望を抱かれるのは本意ではない。
「もう、朝っぱらから何の騒ぎよ」
「……眠い。二度寝していい?」
そうこうしているうちに、リリが飛鳥と耀を起こしてきた。
「お二人とも朝早くから申し訳ありません」
黒ウサギは二人に詫びてから事情を説明する。
眠たげに目をこすっていた二人は、話を聞いている内に目を座らせていた。
リリがビクッ! と震えて、全力で食堂から逃げ出すほどである。
「ディーン……」
「NOです! それは駄目です飛鳥さん! お気持ちは痛いぐらいに理解できますが、それをやってしまうと屋敷が壊れてしまうのです!」
「ならこのくだらないお遊びに興じろとでも言うの?」
黒ウサギはギフトカードを取り出した飛鳥を全力で止めた。流石に屋敷を破壊されてはかなわない。雨漏りどころではなくなってしまう。
結論は、起こすしかない。
概要に『女の子に起こされるまで目を覚まさない』と書かれている。放置しておけば、おそらく永遠に目を覚まさないだろう。
それこそギフトゲーム名の『白雪姫』のように。
(彼らが白雪姫とは、笑えない冗談にもほどがあります!)
黒ウサギはぷんぷんと怒りながら、苛立ちを露わにしている飛鳥と、ふらふらと頭を揺らしている耀を引きずって、ひとまずジンの部屋に足を運んだ。レティシアは口元に笑みを乗せて、楽しげに傍観する姿勢である。
「と言うわけで、ジン坊ちゃんの部屋に到着しました!」
「……で、どうするの?」
意気揚々と宣言した黒ウサギが、核心を突いた耀の言葉にうっと呻き声を上げる。
少女四人は立ち止まり、互いの顔を見合わせた。
ジンは小さい頃から自発的に起きてくれる寝坊をしない少年であるため、黒ウサギはこのように起こしに向かったことは一度もなかった。病気で寝込んでいる時に世話をしたことはあるが、それは少し違うだろう。
などと考えていると、膠着状態に飽きたのか、耀がさっさとドアを開けて部屋に入ってしまう。
「あっ、春日部さん! …………春日部さん」
驚きの声を上げた飛鳥が、消沈したように言い直した。
布団をがばりとめくられて、ペシペシと頬をはたかれたジンが目を開ける。彼は失望したように小声で呟いた。
「グッときませんでした。まぁ、こうなりますよね……」
「じゃ、私は寝るから。みんな、後はがんばってね」
やる気なさげに耀が離脱してしまった。
黒ウサギたちはジンへのお説教は後回しにして、次なるお馬鹿のところへと向かう。
次は彦一の部屋である。
そこで黒ウサギははたと気付いた。どうやら飛鳥も同様のようだ。
「……あ、えっと。どうなさいますか?」
「黒ウサギは、どうするの?」
こうしてみると耀は抜群のタイミングでゲームを降りていたと言えるだろう。
黒ウサギと飛鳥は、どちらが彦一を起こすのかで躊躇ってしまう。レティシアが起こすというのもアリだろうが、それをやってしまうと、またしても十六夜をどちらが起こすのかという問題が浮上するのである。
いや、十六夜も彦一もレティシアが起こしてしまうという選択肢すら有り得るのだから。そもそも、女の子ひとりが男ひとりを起こすというルールは存在しないわけで。
(どうしてこのようなくだらないゲームで駆け引きなんてしなければならないのでしょう……)
不思議そうにレティシアが首を傾げていた。
「どうした、二人とも? そこまで彦一を起こすのが嫌なのか?」
「いえ、そういうわけではないのですが……」
散々悩んだ結果、くじ引きが行われた。
リリが三本の紐を両手で隠している。先端に赤い印が付いた紐を引いた者が、彦一を起こすと言うことである。
「いいですか、お二方。恨みっこなしですよ?」
「ええ、わかっているわ。勝敗は時の運というわけね」
「いや、だからどうしてそこまで思い悩む」
三人が一斉にくじを引いて、がっくりと肩を落としたのは飛鳥であった。
彼女は泣きそうな顔をして肩を震わせる。
「どうしてこうなるの……」
「飛鳥さん。申し訳ありませんが、事ここに至っては是非もありません。ご安心ください。この黒ウサギも、十六夜さんを叩き起こして参りますとも!」
「黒ウサギ、あなた……!」
「いやだから、どうしてシリアスになるんだ?」
最後の十六夜をレティシアに任せるという選択もあったが、黒ウサギはそれを良しとはしなかった。飛鳥がこうして身を切っているのに、のうのうと安全な場所から見物しているなど、献身的な月の兎の本能がそれを許さない。
飛鳥がおずおずと彦一の部屋に踏み込んだ。
殺風景な部屋である。書庫から持ち込んだ本が机に積み上げられており、無数のノートが辺りに散らばっている。壁に貼られているポスターのようなものは、どうやら手製の地図のようだった。ホワイトボードには難解な漢字やラテン語が書き殴られている。
書生のような部屋である。
私物は特に見当たらない。読書以外は無趣味というのがよくわかる光景だった。
「彦一君。えっと、その……」
黒ウサギが手に汗を握る。「飛鳥さん、ファイトです」と小声で声援を送っていた。飛鳥が意を決して彦一の肩に手を伸ばす。震える指先でそっと触れるが、彦一は目を覚まさない。
「彦一君、起きて。お願いだから。……う、どうして私が」
「……なんだ、リリか?」
寝返りを打ちながら彦一が呟いた。それはあまりにも無神経な一言で。
「――っ、ディーン!」
『DEEEEeeeeeNNNN!』
そして彦一の部屋が崩壊した。
飛鳥は彦一に対して恋愛感情があるというわけではないのだが、とにもかくにも乙女心とは複雑怪奇なものである。
黒ウサギは死んだ魚のような目をして崩壊した部屋を眺めると、しみじみと頷いて、十六夜を叩き起こすために『疑似神格・金剛杵(ヴァジュラ・レプリカ)』を取り出した。
それから。
お馬鹿三人は食堂で正座させられて黒ウサギのお説教を受けていた。
ジン。耀に普通に起こされる。
彦一。ディーンに潰される。
十六夜。黒ウサギに槍を突き付けられて脅される。
ギフトゲームの結果は、三人揃って無投票で勝者ナシである。
「ちなみにグリム童話の原典では、悪役の王妃様は、白雪姫と王子様の結婚披露宴の際に真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされて死ぬまで踊らされるという。本当は怖いグリム童話ってやつだな」
「彦一さん! 反省しているのですか!?」
「……すいません」
ボロボロになった彦一がうなだれる。
そして黒こげになった十六夜が「グッとこないにもほどがあるだろ……」と諦めきった溜息を吐いていた。
朝食後、黒ウサギは未だにガミガミと怒っており、飛鳥は目を会わせるとぷいっと顔を背けられる。耀はジト目で、レティシアは含み笑いを漏らしている。リリはあたふたとするばかり。居心地が悪すぎるため、彦一はさっさと屋敷を抜け出してしまった。
彦一はあてもなく商業区画を練り歩く。
場所は三七〇〇二二外門前。
中央広場には井戸があり、その周囲には無数の鉢植えが並べられていた。色とりどりの草花が見る者の目を楽しませてくれる。
(広場と言うよりも庭園だな。意匠はローマ風か。あれさえなければ――)
彦一は広場の向かいにそびえ立つ石塔を見上げた。
石塔というよりも城壁と言うべきかもしれない。ともあれ見張り台としての役割を担っているようだが、このような場所に塔を建てる意味は果たしてあるのだろうか。ただの飾りならば問題ないのだが。
「骨董品の割には、物々しい警備だ」
そして無数の歩哨が塔の周囲を巡回していた。毛皮のマントを羽織り、革製の鎧を着込んだ兵士である。背中には分厚い両手剣を背負っている。
スコットランド、ハイランダーだ。これが現代ならコスプレで済むのだろうが。
「兄ちゃん、ここらは初めてか?」
「ああ。何時もこうなのか?」
「いや、普段は――先月までは、ここまで息苦しくはなかったんだがな」
魚介類を売っていた屋台の店主が、塔を見上げていた彦一に声をかけた。
「『デイヴィッズ・タワー』と『ハーフ・ムーン』がもめてんのさ」
「理由は?」
「さぁ、俺も知らんよ」
商品を買えば教えてくれるのかと思ったが、見たところこの店主は何も知らないようだった。
(もめ事か。関わり合いにならない方がいいだろうな)
彦一は店主に礼を言うと、早足で別の外門に向かおうとした。
「本当に『ハーフ・ムーン』のやつらの手の者じゃないんだろうな?」
「何度も言わせるな。無関係と言っているだろう。それとも関係ない者に絡むのが、そちらの流儀だというのか?」
「……いやいやいや」
彦一は何もないところで躓いて転びそうになる。
警邏の兵に絡まれているのは金髪ロリ吸血鬼メイドだった。
両腕を組んで眼光鋭く、幼い少女にあるまじき威圧感を放っているが、はっきり言ってそれは逆効果である。ただ者ではないと主張しているようなもので、ハイランダーの兵士はさらに警戒を強めていた。
「何やってんの、お前?」
「彦一! やっと見付けたぞ。まさか私がお前の監視役だと言うことをもう忘れてしまったのか?」
「いや、忘れてないけど。そこまで徹底するほどのものか?」
レティシアはさも当然のことのように言っていた。
彦一はどうしたものかと溜息を吐く。とりあえず目の前のもめ事を解決することにした。
「ともかく、こいつは『ハーフ・ムーン』とは無関係だ。こいつのギフトカードに『純潔の吸血鬼(ロード・オブ・ヴァンパイア)』と書かれているだろう。『箱庭の騎士』が理由もなく、あんたらに敵対すると言うのか」
「吸血鬼だと?」
「『箱庭の騎士』があんたらのもめ事に介入するほど、何か後ろ暗いことでもやっていると言うなら話は違うがな」
「い、いや……疑ってすいません……です」
ハイランダーが無理やりな謝罪をする。
彦一は不満顔なレティシアの手を引いて、早足でその場から立ち去った。
「落ち着け、彦一。……少し痛いぞ」
「……あ」
困ったように訴えられて、彦一は慌てて手を離した。
われに返る。未来の分析すらできなくなるほど冷静さを失っていた。
レティシアが問題を起こして、彦一がその後始末をさせられているという被害妄想じみた考えがあった。そして、わざわざ彦一のようなものを追いかけてきたという劣等感もあった。それらがない交ぜになって、彦一を苛立たせていたのである。
「悪い。なんかキレてたみたいだ」
「いや、私も悪かった。なぜかお前には世話をかけてしまうようだな」
「お互いさまか」
「そうだな。お互いさまだ」
ふっと微笑んだレティシアに、彦一は肩から力を抜いた。
ディーンに潰されて、黒ウサギに説教されて、どうにも今日はついてない。やることなすこと上手くいかない。
散策は切り上げて、部屋に引きこもるべきか。彦一が決意するのと同時。
またもやハイラインダーの兵士たちが、彦一たちを取り囲んだ。
「『デイヴィッズ・タワー』の連中と何を話した?」
「……いや、もう勘弁してくれ」
逃げ切れる未来は見えていたが、さらに後々、面倒事に発展するのは目に見えていた。
彦一たちは『ハーフ・ムーン』のアジトに連行されて、兵士の取り調べを受けていた。
やっと解放された時には正午を回っている。
お昼時だったが、この三七〇〇二二外門で昼食を取る気にはなれない。さっさと移動して、別の場所でレストランを探した方がよさそうだ。
「あ、えっと、すいません」
「あん?」
「ひぃ! ごめんなさーい!」
荒んだ顔をして振り返ると、そこには風采の上がらない小柄な青年がいた。
栗色の髪をしており、顔付きは童顔、革鎧を着込んだ兵士だったが、ハイランダーというよりは騎士のように見えた。
ぱっと見たところ育ちが良さそうな、悪く言えば世間知らずの御曹司に見える。
「すいません。コミュニティのみんなが、あなたたちに酷いことをしてしまって……」
「……もしかして、お前は『ハーフ・ムーン』の?」
言外にリーダーなのかと問うと、青年はオドオドしながら頷いた。
レティシアと顔を見合わせる。
先ほどまで彦一たちを苛立たせていた首魁である。その元凶だから嫌味たらしくて暴力的な人間だろうと想像していたのだが、あまりにイメージにそぐわない青年の風貌に、二人して拍子が抜けしてしまう。
「そのままだとお二人とも納得できないでしょうし、食事をご馳走するので、そこで事情を説明しようと思うのですが。あ、その、お二人のご都合がよろしければの話で……」
「もっと堂々としないか。だから部下に侮られるんだ」
「ひぃぃ、ごごご、ごめんなさーい!」
レティシアが叱咤とともに断言する。こいつは部下に舐められていると。青年は肯定も否定もしなかったが、それはおそらく事実なのだろう。
「僕は『ハーフ・ムーン』のリーダーで、ロバートと申します」
食事処は昨日入ったような英国風のラウンジである。
が、出て来たのは生臭いロブスターだった。ハズレである。こう言っては何だが、客をもてなすような店ではない。なのにロバートはそんなロブスターを嬉しそうに食していた。
「あ、ウナギのゼリーはどうですか? ここの店のは絶品なんですよね」
「いや、結構だ」
「ならハギスはどうです? 代表的なスコットランド料理ですよ」
「お前はもうちょっと空気を読むことを覚えた方がいい」
やはり典型的な坊ちゃん育ちだ。どちらも間違っても一般人に勧めていいものではない。
彦一はちびちびとコーヒーをすすり、レティシアは紅茶を舐めている。ガツガツと不味い飯を平らげているのがロバートだった。
「それで、えっと、どこから話せばいいのでしょうか。僕たちの『ハーフ・ムーン』と『デイヴィッズ・タワー』は、かつては同じコミュニティだったんです。それがお家騒動のようなもので、分裂してしまったんですよ」
そしてロバートは話し始めた。
「分裂したのは五百年前のことです。僕たちは過去の遺恨なんて、とうの昔に忘れ去って、つい最近までは大過なく過ごしてきました。大昔のことでいがみ合うなんて疲れるだけですからね」
「……ってことは、ここ一ヶ月の間に何かあったわけだ」
魚屋の言葉を思い出す。ロバートは憂いを帯びた目をして頷いた。
「先月のことです。『デイヴィッズ・タワー』の倉庫から神代のギフトが出て来たんですよ」
そこまで聞いて、彦一は大体の事情を察した。
過去に分裂したコミュニティ。そして価値のある遺産。
二つのコミュニティは自らを正統な所有者と主張して、ギフトの所有権をめぐって争っているのだろう。
レティシアが呆れたように吐き捨てた。
「よくある話だな。『デイヴィッズ・タワー』から発掘されたのだから、そのギフトとやらは向こうのものになるだろう。この問題の根本にあるのは、お前の統率力不足だ」
「……返す言葉もありません」
ロバートの部下が暴走している。それだけのことだった――と思っていた。
さらに付け加えられた情報に、レティシアが言葉を失い、彦一は頭を抱えることになる。
「でも僕の力不足だけなら、ここまで問題が大きくなることはなかったはずです。階層支配者(フロアマスター)に一報して沙汰を待つだけなのですから。――しかしながら、時期を同じくして僕たちの『ハーフ・ムーン』でもギフトが発掘されたんです」
それは偶然というにはあまりにも出来過ぎていた。
「こうなってしまうと、どちらが正統な後継者なのか決着を付けなくてはなりません。僕の声では止まりませんでした。おそらく『デイヴィッズ・タワー』の方も同じで、首脳陣は頭を抱えているのだと思います」
「馬鹿な! 上は苦悩している、下が勝手に騒いでいるだけとでも言うつもりか!」
レティシアが立ち上がりながらテーブルを殴り付けた。ロバートがビクリと身をすくめる。
「そ、そんなつもりは……いえ、そうですね。あなたの仰る通りでしょう」
「で、そっちで発掘されたギフトというのは?」
「『運命の石(リア・ファル)』。別名は『スクーンの石』。もっとも、僕たちのところにあるのは玉座ではなくて、ただの石の破片なんですけどね」
「……なんてこった」
旧約聖書に聖ヤコブという人物が出て来る。
別名をイスラエル。すべてのユダヤ人の始祖である。
そのヤコブが頭に乗せたことがある聖遺物が『運命の石』だ。それはスコットランド王家の国宝であり、歴代の王はこの石の上で戴冠の儀式を行ったという。
「……ってことは、お前はスコットランドの王族ってことか?」
「末裔ってことになってます。眉唾ですけどね」
笑顔で答えるロバートは、やはり空気が読めていない。
にしても『デイヴィッズ・タワー』に『ハーフ・ムーン』。おまけに『運命の石』。
今回の厄介事はスコットランドの伝承を元にしているらしい。
彦一は溜息を吐きながら、頭の中で情報をまとめ上げていく。
『デイヴィッズ・タワー』はスコットランドの首都エジンバラの城にあった塔である。
女王メアリー一世の治世の時、宗教と婚姻問題によって貴族たちが謀反を起こし、反乱軍がこの『デイヴィッズ・タワー』に立て籠もった。
メアリー一世は退位させられてイングランドに亡命する。その後、『デイヴィッズ・タワー』はイングランドのエリザベス一世によって完膚無きまでに破壊された。その跡地に再建されたのが『ハーフ・ムーン・バッテリー』である。
二つのコミュニティが根本を同じくするというのは、この逸話が元になっているのだろう。
そして分裂したコミュニティは、新たに発掘された『運命の石』によってその正統性を主張することができるようになったわけだ。
当然、両者は争って石を奪い合う。これが現在の状況である。
「あと、言いにくいんですけど、『デイヴィッズ・タワー』の方で見付かったギフトは……」
「いやもう聞きたくないんだけど、帰っていいか?」
「そんな殺生な! 愚痴を言う相手もいないんです。お願いですから聞いてくださいよ!」
「ここまで聞いてしまったんだ。今さら後には退けないか」
レティシアの言うとおりだった。
彦一には見えていた。今すぐここで逃げ出したところで、店の出口でハイランダーに取り押さえられると。二人とも見張られていたのだ。ロバートは『ハーフ・ムーン』のリーダー。当然の処置だった。
「『デイヴィッズ・タワー』で発見されたのは『ダグダの大釜』で――」
「あ、ごめん。ちょっとトイレ」
「逃げる気でしょう!? 絶対に逃げる気でしょう!?」
縋り付くロバートに、彦一は力なく微笑んだ。そしてレティシアが笑みを引きつらせた。
『ダグダの大釜』とはケルト神話に登場する四つの神器のひとつ。
豊穣神ダグダが所有する大釜である。
伝承では『誰をも満足させずには帰さなかった』とある。
それはつまり願望を叶える器であるということだ。
――聖杯。
『ダグダの大釜』とは願望器としての機能を持ち合わせた聖遺物である。
魔王に襲われたり、ペストで死にかけたり、そして今度は聖杯だった。
「まさかガラハドみたいに昇天したりしないだろうな。関わりたくねぇ……」
アーサー王に聖杯の探求を命じられた騎士のひとりであるガラハド卿は、数々の試練の末に聖杯を手に入れたが、穢れのない騎士として天に昇ってしまった。
「ガラハド卿のように穢れひとつ持たないほどの無垢であれば、彦一もまた天に召されるのだろうが、この現世に彼ほど清らかな魂の持ち主は存在しないだろう。危惧するほどのことはあるまい」
「それはそうだが」
彦一は周囲を見回した。『ハーフ・ムーン』の屋敷にある一室である。
ロバートの説明の後、彦一たちは客分として迎え入れられていた。事実上の軟禁だったが、逃げられないと悟った彦一たちは、ひとまずは現状に甘んじている。
もしロバートがこの状況を想定して、彦一たちに話を吹き込んだとするならば、あれは相当な策士ということになる。……が、どうせ空気が読めていないだけだろう。いるだけで迷惑を振りまく輩というのは、たしかに存在するのである。
「ところで、なんで部屋が同じなんだ?」
がっくりと肩を落とした彦一に、メイド姿のレティシアがこくりと首を傾けた。
「部屋を分けておいて襲撃されたらどうするんだ。ここは敵地のようなものだぞ」
「いやまぁ、そうなんだけど、そうではないと」
「それとも彦一は、私と一緒に寝るのは嫌なのか?」
これが並みの男ならば、ころりと落ちていただろう。
だが彦一はかつて『ぼっち』だった高校生。人間関係の機微には疎い。
「そりゃ嫌に決まってるだろう。俺は周りに人がいると寝られない性質なんだよ」
「……きっぱりと言い切られると、流石の私もちょっとだけ傷付くな」
ならどう言えと。
彦一はとりあえずベッドに腰を下ろした。そして即座に起立する。
「――って、なんでダブルベッド!?」
「ノリツッコミか。しかもタイミングが遅いぞ」
冷静に返されると、こう意識しているのが馬鹿らしく思えてくる。
彦一は嘆息してベッドに横になった。今日はもう色々ありすぎて、ひたすら疲れていた。
「周りに人がいると寝られないだと? そう言っておきながら、二十秒も経たない内に寝るやつがあるか」
レティシアが不満そうに呟いて、彦一の頬に手を乗せた。
まだ寝ていなかったのだが、彦一は恥ずかしすぎて起きていることを告げることはできなかった。
翌日は何事もなく、さらに翌日。
メシマズだけは未だに許せないが、そろそろ軟禁生活にも慣れてきた頃だった。
『デイヴィッズ・タワー』と『ハーフ・ムーン』による話し合いの場が設けられた。
そこになぜか同席させられる彦一とレティシア。
『箱庭の騎士』が味方にいれば心強いという打算が透けて見える。彦一はそのおまけだった。
「俺たちの要求はただひとつ。『運命の石(リア・ファル)』だ」
口火を切ったのは向こう側だった。
リーダーらしき騎士はロバートとは違い、頼り甲斐がありそうな風貌をしていた。
名前はジェームズ。
筋骨隆々とした金髪の武人である。年齢も三十代を過ぎて、人間味に深みが出て来ていた。
ロバートとジェームズを見比べながら、貫禄負けも甚だしいなと、彦一はこっそりと嘆息する。
「そんな身勝手な言い分が通るとでも思っているのか?」
「思わんよ。だからこその話し合いではないのか? どちらかの言い分を通すのではなく、落しどころを模索するための意見交換。この場でそれが行われないなら、俺は退席させて貰うとするが」
「それは……」
おまけに理屈を知っていた。
交渉の主導権をあっさりと奪われている。『ハーフ・ムーン』の幹部とは役者が違っていた。
「だが、考え方によっては二つのコミュニティを統合するいい機会だと思わないか? 『デイヴィッズ・タワー』も『ハーフ・ムーン』も、それぞれ別れていては弱小コミュニティに過ぎない。それが合わされば六桁の上位に食い込めるようになる」
ごくりと生唾を呑み込む音がする。
このままジェームズの甘言に乗ってしまっても構わないのではないか。そういう空気が作り上げられていた。
茶番だった。ナンセンスだ。彦一は肩をすくめる。
「だ、駄目だ。申し訳ないが、それはできない」
反論したのはロバートである。
ジェームズの目を見ることすらできずに、自分の膝を見詰めている。まるで負け犬だった。だが、負け犬にも矜持があるのだ。
「あなたたちが所有している『聖杯』が本物ならば、僕たちも臣従するのはやぶさかではない。でも、おかしいだろ。下層のコミュニティから『聖杯』ほどのギフトが発掘される? 僕たちが『運命の石』を発掘した時に、計ったようにタイミングを合わせて出て来るだろうか」
震える声でロバートが告げる。
「我らの聖杯が贋作だと言うつもりか」
「だってそうだろう。『聖杯』ほどのギフトがあるなら、僕たちみたいな弱小コミュニティなんて捨て置いて、さっさと上に行ってしまえばいいじゃないか。僕たちが持つ『運命の石』は、ただの石っころだ。聖なる石だ。戴冠の儀式に用いられる、ただの道具だ。実利主義者の君がこだわるほどのものではない」
ロバートは顔を上げて、ジェームズを睨み付けた。
よく言った――レティシアが腕組みしながら小声で賞賛する。
とにかくこれでジェームズの思惑から外れることができる。
彦一は胸をなで下ろそうとしてから、ジェームズの瞳が侮蔑に染まっているのを見て、ハッと気付かされてしまった。
「あんたはこれを最初から仕組んでいたのか!?」
「夜行さん、どうしたんです?」
急に立ち上がった彦一に視線が集まる。ロバートが暢気に首を傾げていた。
ジェームズは『落しどころ』と表現した。その違和感の原因は、周りにあった。
「ロバート。俺は貴様ほど鈍感で、貴様ほど身の程を弁えない痴れ者は他には知らん。まさか『筋書き』すら読めていないとはな。その道化っぷりには哀れみすら覚えるぞ」
「――なっ」
『ハーフ・ムーン』側の人間が一斉に席を立ち、ジェームズの背後に移動する。
すべての根回しが事前に終わっていた。
『ハーフ・ムーン』の人間はとっくに降伏していたのだ。傀儡の君主であるロバートを除いて。
「お前たち、どうして……」
「申し訳ありません、若様。ですが、我らは軟弱なリーダーには従えませぬ」
彦一が額に手を当てた。
「立ち上がるのが遅すぎたってことか」
「そんな、どうして……僕たちは、仲間じゃなかったのか!?」
これほど空虚に響く言葉は他にない。
ロバートの元部下たちは無言で首を横に振る。
「では『運命の石』を渡して貰おうか」
「……嫌だ」
「ふん、愚図が」
ジェームズは鼻を鳴らすと、『ハーフ・ムーン』の幹部に何事かを命じた。ロバートのことなどすでに眼中にないと言った様子である。
彦一は消沈したロバートに、言葉をかけるべきか迷ってしまった。
このまま彼を捨て置けば、彦一たちはこの厄介事から解放されるだろう。ジェームズのやり方はたしかに強引だったが、不幸になったのはロバートひとりだけだ。
納得はできる。だが、納得したくない。
「やれ、彦一。言ってやれ」
「だが、それは」
「旗印も名前も売り渡してしまった卑怯者がのさばる光景など見たくもない。言え、彦一! 正義も信念も持たない輩の悪行を見過ごすな!」
「そう、だな。たしかに、そうだ」
レティシアの血気に、彦一は背中を押された気分だった。
ふんぞり返っているロバートに向かって言い放つ。
「……『運命の石』は『ハーフ・ムーン』の所有物だ。それを無理やりに強奪するなら、あんたの行為は非合法的な蛮行であると言わざるを得ない」
「非合法? 合法だとも。『運命の石』は『ハーフ・ムーン』の幹部の合議によって『デイヴィッズ・タワー』に譲渡されるのだからな」
「いいや、非合法だ。なぜならそいつらは『ハーフ・ムーン』の旗を掲げることをやめた『ノーネーム』だからだ。旗も名も誇りも捨て去った連中の合議に、決定力など存在しない。そこにいるのはロバート以下の負け犬どもだ」
彦一が断言すると、裏切り者たちが動揺して空気が揺れた。
自分たちでコミュニティを売り飛ばしたのに、コミュニティから追放されるのが恐ろしいのだろう。未練がましくて見ていられなかった。
「あんたがその負け犬どもを拾ってやると言うなら、好きにすればいい。そいつらはもう『ハーフ・ムーン』の人間ではない。そうだな、ロバート?」
「……そうだ。父祖の誇りに泥を塗ったやつらに居場所を与えるほど、僕は寛大ではない! クソっ、なんでこんなことを言わなければならないんだ!」
血を吐くような台詞である。
これで『ハーフ・ムーン』というコミュニティは幕を下ろしてしまった。
「『運命の石』? あんな石ころが欲しいなら、正々堂々とギフトゲームで奪いに来いよ!」
ロバートが手の平を机に叩き付けた。
契約書類(ギアスロール)文面。
『ギフトゲーム名 『城塞の争奪戦』
参加者一覧
『デイヴィッズ・タワー』と『ハーフ・ムーン』の離反者
『ハーフ・ムーン』のロバート、夜行彦一およびレティシア=ドラクレア
プレイヤー側 勝利条件
ロバートが所有する『運命の石』を日没まで守りきる。
ホスト側の代表、ジェームズの撃破。
プレイヤー側 敗北条件
『運命の石』を失う。
すべてのプレイヤーの戦闘不能。
ホスト側 勝利条件
『運命の石』の奪取。
全プレイヤーの打倒。
ホスト側 敗北条件
日没までに『運命の石』を奪取できなかった場合。
さらにホスト側の代表であるジェームズが戦闘不能になった場合も敗北とする。
宣誓 上記を尊重し、誇りと御旗の名の下、ギフトゲームを開催します。
デイヴィッズ・タワー印』
ゲーム会場は『デイヴィッズ・タワー』が所有している世界だった。
ジェームズが書き上げた契約書類に署名すると、彦一たちの視界が真っ白に包まれた。光が晴れた後には、どんよりとした世界が広がっていた。目の前にあるのは灰色の城塞。大砲の砲撃にも堪えられる難攻不落の城壁である。
彦一は一目でこれがエジンバラ城を模したものだと理解する。
「ここは……」
ロバートが不安げに目を泳がせている。先ほどまで威勢よく啖呵を切っていたのに、血の気が引いてしまったようだ。
レティシアが頼りない青年の姿に呆れながら、腰に手を当てて不敵に言い放った。
「うろたえるな。たったひとりになっても、お前は旗印を背負って立つコミュニティのリーダーだろう。どっしりと構えていろ」
「……あなたたちがいてくれて、本当によかった。僕だけだったならジェームズに一矢すら報いることができずに、今頃は路頭に迷っていたでしょうから」
ロバートが泣きそうな顔をして言う。
謙遜すらできないほどの、明瞭な事実である。だから彦一たちは返事ができなかった。
こそばゆいロバートの感謝に、彦一とレティシアは苦笑する。
時刻はすでに昼の半ばだ。現在は二時頃だろう。
となると日没まではおよそ四時間になる。
それまで逃げ回るか、それともジェームズを迎え撃って打倒するか。
考え込もうとする彦一をレティシアが引きずっていく。城内に入ると、足音が思ったよりも反響することに気付く。痛いほどの静寂が辺りに満ちている。咳きひとつ許されないような荘厳な雰囲気だった。
「ひとまず隠れるか。相手の出方を探ることに――」
彦一は途中で言葉を切った。
背後から転移の光があふれ出す。レティシアの目配せに彦一は頷き返す。
彦一は逃げ出そうとして、レティシアは迎撃に向かった。
「ええぇぇ!? あの目配せは何だったんですか!?」
「……こう言うこともある」
苦虫を噛み潰したような顔をする彦一。彼はヘタレですいませんと弁解していた。
「出鼻を挫くようだが、まさか卑怯とは言うまいな。まずは露払いをさせて貰おうか!」
レティシアから影が奔り、転移直後のハイランダーを蹴散らしてしまった。
強い。圧倒的である。
出オチすぎる光景に、ロバートが頬をひくつかせた。
「かつての僕の仲間も混じっていたんですけど、流石にこれは同情を禁じ得ないです」
同意しようとした彦一は、すっと目を細めて左方を睨み付ける。
ギフトによって、そこから襲撃されることを把握。飛来する弓矢の軌道を読み取って、咄嗟にロバートを蹴り飛ばした。
狙撃手がいる。厄介だった。
「俺たちで時間を稼ぐ。先に潰してきてくれ」
「了解した。速やかに排除することにしようか!」
頼りになりすぎる金髪ロリメイド吸血鬼だった。流石は『箱庭の騎士』である。
どこぞの貴族(笑)とは大違いだ。いや、あれはあれで役に立つのだが。
ロバートも抜刀して応戦。彦一は逃げ回るだけだった。
あらかたの敵はレティシアが片付けてしまった。もう彼女ひとりでいいのではないかと言いたくなるほどだ。
「うわぁ、えげつねぇ……」
レティシアが投擲した槍が、狙撃手がいた区画を丸ごと抉り取っている。
残敵を掃討し終えた彦一たちは、この場に留まる理由もないため、場所を変えることにした。
近くにあった建物に入ると、深紅の壁が彦一たちを迎え入れる。橙色の光を放つシャンデリアが無数につり下げられており、壁には武器や絵画などが飾られていた。
「エジンバラ城にあるクラウンスクエアという塔を取り囲む建物のひとつ、グレートホールだな。ジェームズ四世によって建設され、スコットランド議会の議事堂として用いられていたらしいが、まさかここまで精巧に再現しているとは驚かせてくれる」
「……彦一、もうお前は何なんだ? 頭の中に辞書でも埋め込んでいるのか?」
「俺から言わせて貰えば、そっちの方こそ出鱈目なんだけどな」
知恵しか持たない彦一は、レティシアが持っているような純粋な力に憧れる。力を持たない弱者は、唯一の武器である知恵を研ぎ澄ませるしかないのである。
「にしても、奇妙だな」
「敵がいない。どう言うことだ?」
彦一たちは訝しむ。ここに来るまでに、まったく敵兵と遭遇しなかったのである。
『デイヴィッズ・タワー』はロバートの部下たちを取り込んで、数だけはうんざりするほど揃えているはずなのだが。
「私たちの捜索よりも、他のことを優先している?」
「――っ、しまった!?」
エジンバラ城は要塞である。
当然、敵軍を迎え撃つために各所には要塞が据え付けられている。
「まずいぞ! 大砲を奪われる!」
「まさか、モンスメグのことですか!? あれは時代遅れの骨董品で、老朽化が激しくて実用に耐えうるものではないはずです!」
「馬鹿! ここは敵地だぞ!」
彦一はロバートを怒鳴りつけた。自分たちは誘い込まれているのである。
ジェームズは万全の準備を整えているはずだ。少なくとも彦一ならそうする。楽観するのはナンセンスだった。
『モンスメグ射石砲』。それは『ウルバンの巨砲』と種類を同じくする大砲である。
重量六・六トン。全長四メートル。砲弾の口径は五十センチ。
かすっただけで肉片にされるだろう。そんな化物が、この要塞に配備されている。
慌ててホールから飛び出した彦一たちは、城壁の上でふんぞり返っているジェームズを見付けてしまった。
ジェームズがさっと手を振ると、彼の背後に車輪に引かれた巨大な砲身が現われる。
「避けろ、彦一!」
一瞬、頭の中が真っ白になってしまった。
未来視のギフトでミンチにされている自分自身を見せ付けられてしまい、あまりにグロテスクな光景に言葉を失ってしまう。
彦一はレティシアに押し倒されながら舌打ちする。
「また大砲かよ。なんかパーヴェルの野郎を思い出してきた!」
ジェームズの言動は、わずかにあの狂信者と似通っている。
二人とも鎧姿の騎士である。傲岸不遜でひたすら相手を見下すところなど、示し合わせているのではないかと言いたくなるほどだ。
「どうする、彦一。あの砲弾をかいくぐるのは自殺行為に思えるが」
「まず高所を取られている不利がある。あの大砲も『ウルバンの巨砲』のように連射はできないだろうが、矢の雨ぐらいは降らして来るだろう」
「……撤退だな」
だが、どこに逃げると言うのか。
本来なら自分たちの所有物である建物を砲撃することはないだろうが、ここにあるのは『運命の石』だ。建造物と引き替えにしても惜しくない――いや、違う。
「ロバート。『運命の石』はお前の手の中にあるんだよな?」
「あ、はい。そうですけど。……ああ!」
ロバートが合点が行ったように声を上げた。
ここにはジェームズが欲してやまない宝物がある。砲撃でそれを粉々にしてしまうわけにはいかないのである。
「ロバート。恨むなよ」
「え?」
打開策を見付けて喜んでいたロバートが、笑顔のままで固まった。
彦一とレティシアが申し合わせて、彼の背中に隠れてしまう。
「いや、あの、夜行さん? これはまさか――」
「機関銃は死体を積み上げることによって突破することができるという。名付けて肉壁作戦だ」
「うわあああぁぁぁぁぁ! 鬼畜! 悪魔! 人でなし!」
暴れて逃げ出そうとするロバートを羽交い締めにして『モンスメグ射石砲』に向かって前進した。
その間にレティシアが翼を広げて飛翔する。
完全に腰が退けている砲撃手たちを、横になぎ払った槍で吹き飛ばすと、影からずぶりと飛び出した『顎』が巨砲をズタズタに引き裂いた。
「よし! やった!」
ロバートが歓喜を上げ――彦一のタックルで転ばされる。
ジェームズは飛翔するレティシアを見て取ると、大砲の防衛を諦めて、抜刀しながら城壁から飛び降りたのである。
振り下ろされた刃はかろうじて空を切っていた。
「取ったと思ったんだがな。存外やるようだ」
「この脳筋が。ロバート、やれるか?」
「ぼ、僕ですか?」
すぐに彦一は馬鹿なことを聞いてしまったと後悔した。
こうして相対してみると、体格差は歴然としている。ヘビー級とライト級のボクサーが向かい合っているようなものだ。
レティシアは城壁の上で敵兵に囲まれて足止めを受けている。すぐに駆け付けることはできないだろう。
彦一は瞬時に決断した。
「逃げるぞ!」
「ええぇぇぇ!? これ、どう見ても最終決戦みたいな雰囲気でしたよね!?」
「雰囲気で戦うな、馬鹿! それともお前はあのゴリラに勝てると断言できるのか?」
「ご、ゴリラ……ぷっ」
「………………貴様ら。どうやら死にたいらしいな」
ジェームズが悪鬼のごとき形相を浮かべた。
幅広の両手剣を握り直すと、背を向けた彦一たちを追走する。
(何時も逃げてばっかりだ。……ったく、レティシアはまだなのかよ)
ぶんっと、大剣が頭上を通り抜ける。
彦一はカウンターの要領でジェームズを蹴り飛ばした。姿勢を崩す程度の効果しかなかったが、結果としては上々だ。
「そっちは駄目だ。敵兵が巡回している! ……あ、反対側も駄目みたいだ」
「ならどっちに行けばいいんですか!」
身体中から汗が流れてシャツが肌に張り付いている。服の袖で額の汗を拭うと、彦一は一瞬だけ逡巡、右に進路を取った。深い理由はない。考える時間がなかっただけで、強いて上げるなら、それは勘だった。
石の巨塔、クラウンスクエアに入る。
ずらりとそびえている石の階段に、彦一は思わず呻き声を上げた。
「これを登るのか……」
背後から剣が振り下ろされる。
彦一は振り返らない。ロバートの剣が、それを弾き飛ばすからである。
「うっ、手が痺れる。なんて馬鹿力だ。流石はゴリラ……」
「――っ! ロバート! 貴様だけは生かして返さんぞ!」
こんな時にも空気が読めていないロバートだった。
激高したまま振り下ろされた剣を、ロバートは受け止めきれずに、たったの一撃で壁際まで追い詰められてしまう。
おまけにロバートの剣がぽっきりと折れてしまった。
「……冗談ですよね?」
これが冗談なら、どれだけよかっただろう。
現実だ。折れた剣先が床に転がっている。
「無様だな、ロバート。かつては曲がりなりにも一国の城主だったと言うのに、今や誰ひとりとして貴様を守ろうとはしないのだから」
「……悪いですか。それでも僕は、誇りを捨てて賢く生きるよりも、どんなに馬鹿にされても、自分だけは胸を張って生きていたいんですよ。あなたみたいな卑怯者にはわからないんでしょうね」
「ああ、わからんとも! わかりたくもない!」
ロバートは身を翻す。
折れた剣の柄を握り締めて、階段から飛び降りた。特攻じみた攻撃だ。
「たとえ剣が折れたとしても、あなたにだけは負けたくないんだ!」
彦一の脳裏に、真っ二つに両断された世間知らずの青年が映し出される。
「止めろ、ロバート! 死ぬぞ!」
「うあああぁああああぁぁぁ!」
息ひとつ乱さず二人を追跡していたジェームズは、暗い笑みを浮かべて迎撃の姿勢を取った。両手剣を振りかぶり、タイミングを合わせるために歩幅を調節する。
このままだとロバートが死ぬ。
(どうしてだ! どうして何時も、力が及ばない!?)
未来が見えるだけという使えない能力。
貪欲に知識をかき集めて足りないものを補おうとしているのに、このような理不尽には抗えた記憶がない。
ドゴンッ! と城壁が砕け散る。
「かつてお前は予知できる未来は三十秒先までだと言っていたな」
気が付けば、塔の壁に大穴が明いていた。
ジェームズが悲鳴を上げながら階段を転がり落ちている。倒れ伏しているロバートは……どうやら気を失っているだけのようだ。
「飛鳥や耀のギフトは成長している。お前のギフトはどうなんだ?」
「……それは」
レティシアは彦一を睨み付け、槍の穂先を向けていた。
吸血鬼の元魔王。凍て付くような威圧感が、彦一を貫いている。
「三十秒先から四十秒先になっただけでも、先ほどのような出来事は防げたはずだ。お前は目をふさいでいるのか? 見えているものを、あえて見ないフリをしているのではないか? 前進することすらもできない人間は、ただひたすらに無様だぞ」
「……知ったような口で言うな、レティシア=ドラクレア」
血を吐くような言葉だった。
「百の地獄から一つ光明を探り当てる苦痛が、お前なんかにわかってたまるか」
どうして彦一のギフトが『終末の予言(アルマゲドン)』というのか。
その理由を考えてから物を言えと、彦一は忌々しげに吐き捨てた。
『デイヴィッズ・タワー』はジェームズの敗北により求心力を失って、新しく作られたコミュニティに人材が流出しているという。
『ハーフ・ムーン』は解散。
ロバートは世間知らずを直すため、あとは武芸を磨くために旅に出るらしい。
彦一たちはロバートから、報酬としてコミュニティの遺産を受け取っていた。
プラス収支のはずなのだが、レティシアへの暴言を思い出すと、すべてを無かったことにしたくなってくる。
本を広げても、まったく内容が頭に入ってこない。
彦一は顔に枕を押し付けて、ごろごろと寝返りを打ちまくっていた。
(……なんであんなことを言ってしまったんだ)
完全に八つ当たりである。おのれの無能を棚上げにして、窮地を救ってくれた恩人に向かって言っていい言葉ではない。
「あ、あの。彦一さん。お昼ご飯の時間ですよー」
控え目にドアをノックされる。
彦一は現在、絶賛引きこもり中だった。
食事も部屋に運んで貰っている。そんな生活が一週間も続いていた。
「何があったのかはわかりませんけど、元気を出してくださいね!」
「……ん。ありがとう」
リリはお盆をテーブルに置くと、ペコリと頭を下げて部屋を後にした。年下の少女に慰められるという状況に、自己嫌悪でさらに死にたくなってくる。
「彦一。入るぞ」
「留守です。ご用件は後に――」
「居留守をするなら、もっとマシな言い訳をしろ!」
ノックもせずに現われたのはレティシアだった。こうして顔を合わせるのは一週間ぶりである。
気まずくて彦一は彼女の顔を見ることができなかった。
「窓を開けろ。ちょっと臭うぞ」
おまけに地味に傷付く言葉が放たれる。彦一は枕に顔をうずめた。
「いや、風呂には入ってるんだけどな。換気をしていないだけで」
「部屋の掃除も片付けも、年長組に任せっきりにしているからだ。自分の世話ぐらい自分でできるように習慣を付けておけ」
「……はい、すいません」
お説教だった。彦一はさらに枕に顔を埋め込んだ。
レティシアが気まずげに咳払いをする。
「いや、こんなことを言いに来たわけではないのだがな。……先日は済まなかった。お前の気持ちも考えずに、無神経なことを言ったと反省している」
「謝らないでくれ。あれは全面的に俺が悪い」
彦一は溜息を吐いた。
謝罪しなければならないのは彦一の方だ。できることをせずにコミュニティに不利益を生じさせているのである。
だがそれでも、遠い未来は見たくない。
「不幸自慢みたいになるけど、聞いてくれるか?」
レティシアは頷いた。彦一は寝転がって天井を見上げる。
「昔、このギフトが未熟だった頃は、力を使いこなすことができなくてな。親父が二十年後に死んだり、親父が来年に死んだり、お袋が明後日に死んだり、お袋が一ヶ月後に死んだり。意味がわからないだろ?」
「……未来は無数に枝分かれしている。絶えず変化していく未来においては、遠い未来を見てしまっても、それは予言にならないと言うことか」
だから見えた未来が現実になる可能性は、それほど高くなかった。むしろ低かった。
「未来を誘導するなんて、当時の俺は考えもしなかったからな。ガキの俺は、物騒な虚言癖がある問題児だった。それだけだよ」
それだけなら問題なかった。物心付いた頃には、口を閉じることを覚えていたからだ。
「でも、子どもってのは現実と妄想の区別が付いていないんだ。うちのコミュニティのガキにもいるだろう。夢で見た光景が、実際にあったことだと勘違いしているやつとか。親のいないガキが母親に会って来たと、さも現実のことのように語ったりするように」
常に彦一の世界は狂気と隣り合わせだった。そして。
「核戦争」
最悪の未来を見てしまった。
「俺は妄想の中で、核の炎に焼かれてしまった」
「――っ!」
「発狂して精神病院に直行だ。ベッドに縛り付けられて、よくわからないクスリをぶち込まれて、疲れ果てるまで悲鳴を上げる毎日。正直、どのタイミングで精神を再構築させたのか、自分でもよく覚えていない。三十秒先って縛りは、その時に付けた。その気になれば、もっと先のことも――」
「もういい! もういいんだ!」
そう、こうなる。
不幸自慢だ。話していると自分に酔っているような感じがして、ひどく不愉快になった。
レティシアも聞いていて気分のいい話ではないだろう。
「悪いな。詰まらない話を聞かせてしまった」
「そんなことはない。彦一は今まで、自分のことをあまり語らなかったからな。だから彦一のことを知れてよかったと思う」
気遣われている。彦一は弱々しく笑った。われながら情けない。
「少し、心配していたんだ」
レティシアが床に視線を落としながら言う。
「彦一は何がやりたいのかと言うことすらほとんど主張していないからな。子どもたちに対して面倒見のいいお兄さんになるのも結構なことだが、少しは十六夜たちを見習って好き勝手にしてみたらどうだ?」
「……性格だからな。ちょっと難しい」
彦一は苦笑した。
「ま、ともかく、こんな話をしたのはお前が始めてだ。ちょっとだけ肩の荷が降りたような気がするよ。ありがとな」
「礼には及ばない。これもメイドの務めだからな」
「それはちょっと違うと思う」
「ならばコミュニティの同士としての務めだ」
「それならありかな」
二人は互いに顔を見合わせて、同時に吹き出した。
未来視の問題は棚上げされている。
彦一もレティシアも、あえて話を蒸し返す気にはなれなかった。あとで後悔するかもしれないとわかっていても、和解の空気を壊すことはできなかった。
彦一は人間関係の機微に疎く、レティシアは彦一の心に踏み込むには覚悟が足りなかった。
ぬるま湯のような関係だ。
そんな曖昧な関係が心地いいと思ってしまったのは、果たして彦一だけなのだろうか。
ベッドの端に腰を下ろしたレティシアが不思議そうな顔をして振り返っていた。
・今回その一
オリ主の日常がテーマ。出来上がったのは男たちのジハード。
ついでに出番の減っていた飛鳥をピックアップ。あとジン君も。
・今回その二
レティシアのヒロイン力が天元突破。
感想レスの前言を撤回してロリコンネタを引っ張ってしまいました。感想くれた人ごめんなさい。
・オリキャラのネーミング
スコットランドの王族から。ロバート一世とかジェームズ二世とか。
・飛鳥の起こし方
ツンデレ。これぐらいなら暴力ヒロイン(ヒドイン)にはならないよね?
・春日部耀
「耀」なのに今まで「燿」って誤字ってた。すいませんでした。
ふぇぇ……誰か指摘してくれよぅ。別作品の感想を見て気付いたんだよぅ。
・白雪姫
グリム童話の原典では白雪姫は毒リンゴで永遠に眠るのではなく、実際に息絶えてしまいます。えぐいです。そして復活する白雪姫。ザ・ゾンビ。
・運命の石
かつては予言の力を持っていたけど、キリスト誕生によってただの聖なる石ころに。
それからイングランドにパクられて、ウエストミュンスター寺院の玉座に埋め込まれました。近年になってスコットランドに返還されています。
あとケルト神話に出て来る『運命の石(リア・ファル)』と、スコットランドの王家が所有していた『運命の石』は別物らしいですが、今作では一つにまとめてしまいました。
・ケルト神話の四神器
クラウ・ソラス、ブリューナク、リア・ファル、ダグダの大釜。