ザックは恐怖に耐えながら獣道を進んでいた。彼の背後には見目麗しくも残忍な女、それに付き従うように
足元に細心の注意を払い、仕掛けられた罠を見つけると、彼は道をわずかに逸れた。
「お、お二方。そこにはベアトラップがありますんで……」
気を付けてください。そう言おうとしたが、遅かった。
ベアトラップに挟まれたクラーゲの足首からは血が滲み、ズボンの裾はズタズタにちぎれていた。普通の人間だったら足首も折れていることだろうが、彼女は何も気にせずにそのまま足を踏み出した。
ベアトラップは彼女の足首に食らいついたまま土台ごと地面から引き離され、彼女が左足を動かす度にガシャガシャという音を鳴らした。
「え?」
ザックは我が目を疑った。こんなこと、まともな神経では……、人間ではできない……。しかも何故か、傷を負っているのにそれを感じていないようだった。
まるで痛覚がないかのようじゃないか。
ザックはクラーゲの不気味さに息を飲んだ。
当のクラーゲは自分の左足を見下ろすと、ベアトラップを怪力でぐにゃりと変形させて外し、それを茂みへと投げ捨てた。
彼女は自分の穴の開いた胸とズタズタになった左足を見比べ、やはりなと思った。
(この世界はゲームの世界なんじゃないか? とか言っていた奴がいたが、本当かもしれないな)
何事もなかったように前へと進みながら、彼女は自分の胸へとそっと触れる。掌が真っ赤に濡れるが、構わず傷口へ徐々に手を近づけていく。
そしてぐっと強く胸を押してみるが、思った通りまったく痛くない。心臓を貫かれた時も、ちくっとしただけで、死を覚悟するほどかといえば、全くそんなことはなかった。正直、ただただ、視覚的な損傷が派手なだけである。
実際に負うダメージは少なくても、心臓を貫かれれば致死量以上の血が流れるし、おそらく首を撥ねられれば撥ね跳ぶのだろう。だが、HPがゼロにならない限り死ぬことはない。無論、首を撥ねられてどうやって体を動かすかなど知らないし、知りたくもないが。
これはいい情報を得た、とクラーゲは真っ赤に染まった右手をぐっと握った。
と、ここで気付く。足音が少ない。
もしや逃げようとしているのか? クラーゲはザックがいる、もしくはいなくなっているだろう後方へと目をやった。
「どうした、ザック? 早く案内せよ」
「へ?」
いつのまにかザックはぼうっとしていた。二人に置き去りにされる形となっていることに気付くと、彼は直ちに彼女らの前へ出て頭を下げた。
「……ところで、お聞きしたいんですが」
「なんだ?」
「その……あのお嬢さん、ヨロイお嬢様はどこへ行ってしまわれたんで?」
ばらばらになった馬車にはこの二人以外誰も乗っていなかった。本来はザックらの標的であるヨロイという名の、虚弱な美少女が乗っていたはずなのだ。しかし、彼女は忽然と姿を消した。代わりに乗っていたのは
「ここに居るっすけど」
「えっ!?」
兜の奥から聞き覚えのある声がした。
ありえない、ありえるはずがない。ザックは兜をとって素顔を晒したヨロイを呆然と見た。
「実はあたし、こう見えても力には自信あるんすよねえ」
「か、身体が弱いっていうのは?」
「嘘に決まってるじゃないっすか。同情を誘って運賃安くさせるための方便すよ」
ザックはこの二人との交渉時に、確かに『身体が弱い』というセリフと同情を誘うような言葉を聞いた。
つまり騙す側も騙される側も、お互いが互いに騙し合っていたというわけである。
「程度はどうであれ、お互い様というやつだな」
口端を上げ、クラーゲは鼻を鳴らした。
ザックは冗談じゃないと思った。これのどこがお互い様なんだ、と。こちらは襲撃担当の仲間が皆殺しにされているんだぞ。
彼はクラーゲの発言に怒鳴り散らしたかったが、どうにかそれを抑えた。抑えなければ容易く殺されてしまうから必死に堪えた。
奥歯をぐっと噛みしめながら二人を伴って獣道を進み森を抜けると、凸凹の草原にある窪地から、光が漏れ出しているのを発見した。あそこがアジトだ。
ザックは二人にあの洞窟が自分らのアジトだということを告げた。
その入り口と思しき穴の前には、人が二人いた。見張りだ。
「ふうん。ヨロイさん、あの見張りは私がやるよ」
ザックがクラーゲを見ると、その手にはいつの間にか、甲冑をつなぎ合わせて作ったかのような身の丈を優に超える大弓が握られていた。しかもその規格外のサイズに見合うだけの、ランスのような巨大な矢も添えられている。
ザックが呆気にとられる間もなく、クラーゲは番えていた矢を放つ。
彼女の大弓から放たれた矢は、寸分違わずに獲物へと的中した。
ザックは起きた惨事に目を剥いた。矢を射られた見張りの男は、立ち尽くしたまま腰から上が吹き飛んでいたのだ。
突然の惨劇に、見張りの片割れは呆然としている。
クラーゲはその隙にもう一度矢を番え、放つ。この時、彼女は自然に己の口が弧を描いたことに驚愕した。
片割れ同様に、上半身が吹き飛んだ見張りを確認すると、クラーゲは頭をぶんぶんと左右に振った。
(やばいだろ、今のはさすがに。俺はサイコパスなんかじゃない、サイコパスなんかじゃ……あれ、俺? なんで『俺』なんて言葉遣いしてるんだろう。『私』、だろう)
己のことなのに己のことが理解できない。クラーゲは頭上にハテナを浮かべて首を忙しなく傾げた。
「お見事。……あれ? クラーゲさん、どうかしたっすか?」
「いや……なんでもない」
顔を覗き込んできたヨロイから視線を外す。
クラーゲは重大な事実に気付いてしまった。だが、今ここでヨロイ一人に言ったところであまり意味はない。
まずは気に入らない野盗どもを皆殺しにすることが先決だ。
婦女を攫うなど、同じ『女』として許せん。王たる己の許可なく醜行をはたらくとは、いったい何様のつもりだ。
今のクラーゲは、傲慢な感情に支配されていた。そしてその感情を鎮めるには、そういった感情にさせる元凶を絶たねばならない。
見張り二人が死んで数分もしないうちに、塒の辺りが騒がしくなってきた。
「さて……。ザック」
「は、はいい!」
急に声をかけられ、ザックは間抜けな声を上げて肩を尖らせた。
「お前たちのアジトというのはあそこでいいのだな?」
クラーゲはそう言って窪地を指した。
ザックはぶんぶんと必死に頷いた。
ならば、あそこに巣食う者たちを消せば、このイライラをどうにかできるだろうか。
「じゃあ、とっとと終わらせましょうよ。そんで早く宿に戻って、晩御飯、晩御飯」
グロテスクなものを見ておいて、よく晩飯などと無邪気にはしゃげるものだ。
ザックはヨロイの浮かべる、眩しいほどの笑みに恐怖した。
「そうだな。こんな下らない連中は、とっとと始末した方がいいだろう。もちろん、道中のゴミ掃除も抜かりなく……な」
ぎろり、と黄金の瞳がザックの顔を捉えた。
「ひ――!」
叫び声を上げるまもなく、ザックの首は地面を転がった。
ザックが視界に捉えた最後の映像は、刀に付着した血を払って納刀する、亡者の姿だった。
洞窟内はランタンが等間隔に吊るされており、その内部は二人がイメージするものとは程遠く、明るかった。
奥の方で男たちが木で出来た粗末なバリケードからこちらの様子を窺っているのが見える。そして、その手にはボウガンが握られている。
(クロスボウか……しかもお粗末な劣悪品)
男たちの持ったそれを一目見ただけで、クラーゲの警戒心は薄くなった。だが目などに当たったら、どうなるのかわからない。本当に失明する可能性もあるかもしれない。
クラーゲは万が一に備えて、
「撃てー!」
クロスボウの射程圏内に入った途端、バリケードに隠れていた男たちが一斉に顔を出した。次いで、風を切る音と共に飛来する幾多もの矢。
クラーゲはヨロイの真後ろに隠れることでそれを躱し、ヨロイはスリットを腕で覆うことで矢を全て防ぎ切った。
「な、なんだよあの鎧は……?」
クロスボウの一斉掃射を受けても傷一つつかない漆黒の鎧に、男たちは戸惑いの感情に支配された。それでもその間が僅かなものだったのは、彼らが場馴れしているからだろう。
男たちの中から一人が身を乗り出した。
「くたばりやがれえっ!」
彼は勇敢にも剣を片手に、ヨロイの頭に向かって斬りかかった。
がんっ、という鈍い音。彼の振り下ろした剣は、彼女の左手に握られたボード状の特大剣によって容易く防がれた。
まるで巨石を叩いたようだった。その反発を受け、彼はたたらを踏む。大きな隙だ。そこを突かれ、男は首に剣を差し込まれた。
特大剣を盾にしてからのカウンター。これらの一連の流れがあまりにも自然過ぎて、男たちは仲間が一人やられたというのに、その光景に見入ってしまっていた。
男を殺したことで僅かな、雀の涙ほどのソウルがヨロイに吸収される。
(なんだろう……この感覚)
ソウルを吸収した時、ヨロイはほのかな充足感を覚えた。そして、それに抵抗を感じないことに、己自身の異常に瞠目した。しかし、この充足感を抑えるのは勿体ないように彼女は感じた。
ヨロイは顔だけを後ろへと向ける。
「クラーゲさん、お願いがあるんすけどいいっすか?」
「なに?」
「ここはあたしに任せてくれないっすか?」
「? ……まあいいけど」
クラーゲは首を傾げ、やけに好戦的なヨロイを訝しんだが、拒否する理由もないため許可を出した。
「バリケードを強行突破した後、奥の連中をお願いします。あたしの背へ」
クラーゲはヨロイの背中にぴたりとくっ付いた。
行くっすよ、という掛け声の後、二人は一気に駆け出した。
ヨロイは勢いそのままにバリケードに突っ込んでそれを破壊すると、慌てて腰の剣に手を伸ばした男の首を撥ねる。
バリケードから姿を現した者は剣で刺殺し、隠れたままの者は特大剣でバリケードごと圧し潰す。剣圧が暴風のように吹き荒れ、男たちはまともに剣を構えることすらできずに殺され、ソウルを食われていく。
煙焔を剣に纏わせるまでもなく、男たちはいとも簡単に全滅した。
あまりにも早すぎる、いや、少なすぎる。十数人の男を殺したが、得られたソウルは200にも満たない。
スリットの奥から「ちっ!」という大きな舌打ちが聞こえた。
「足りない……こんなんじゃ全然足りないよ」
血まみれの騎士の呟きに答える者は誰もいない。
ヨロイは小さくため息をつくと、先行したクラーゲの後を追った。
■
鋭い斬撃が頬を掠めて、赤い線ができる。
雑魚を駆逐し、歩を進めているときに放たれた一撃。その一撃を放った者に、クラーゲは『大したやつ』だと素直に心の中で褒めた。
一方のその一撃を放った男は苦虫を潰したかのようだった。
だがそれはほんの一瞬。彼は一撃を放った刀を手元に戻すと、口を開いた。
「ブレイン・アングラウスだ。そっちの名は?」
「……ふん」
「名乗る気はねえってか」
クラーゲはつまらなそうに鼻を鳴らすことで返事をした。
そして、さっき傷つけられた場所にそっと手を触れる。
(少しだけ……、ひりひりする……?)
それは紛れもないダメージを負った感覚だった。しかもそれは、野盗に心臓を貫かれた時やベアトラップに足を挟まれた時よりも痛みの度合いは大きい。
そのことにクラーゲは、ブレインに対して好感を持った。
「まあ、この私に僅かとはいえダメージを負わせたことは褒めてやろう。私の名はクラーゲ」
「……聞かない名だな。それだけの力量があるのになぜ無名なんだ? それとも――」
ブレインはそこで一拍置くと、クラーゲの腰に差してある刀に目をやった。
「南方――砂漠の都市の出身か?」
ブレインの問いに、クラーゲは首を横に振る。
「なんだ、違うのか」
と、ここで彼は気づいた。クラーゲは胸辺りが赤黒く染まっている。血だ。つまり、それほどまでの重傷を負っているのだと。
だが外見に反して、女は一切の苦痛や疲弊といった感情を見せていない。
なんでもありの
「おいおい、いったいどんなトリックだよそりゃ? うちの連中も結構やるもんだと思ったんだがな、俺の勘違いか?」
ブレイン・アングラウスは飄々とした態度で軽口を叩きながらも、その視線は鋭かった。
気配と長年の勘からして、この女は『人間』だ。
あの傷を見た時、最初はモンスター(
故に、目の前の女は人間なのだという結論が彼の中で出た。
「ああ、勘違いだ。この傷は私の恥。お前らの仲間に見事に騙されてしまってな」
「そりゃご愁傷様だな。だとしたら、なんであんたはそんな傷を受けて死なずにいる?」
クラーゲの答えに、ブレインはなおさら訳が分からなくなった。
ブレインの問いかけに、クラーゲは薄ら笑いを浮かべた。
「秘密だよ。よく言うだろ? 女は一つや二つくらい秘密を抱えているものだ、ってな」
(やはりか。この女はうちの連中が手に負えるような奴じゃない。あいつら、とんでもない者の逆鱗に触れちまったか)
「……随分とでけー秘密なことで」
襲撃の一報が入った時点で戦闘の準備は万全に済ませてある。
ブレインは武技『領域』を発動させると、油断なく刀へと手をかけた。
「居合の構え……ふうん」
ぼそりと呟いたクラーゲは、おもちゃを見つけた子供のような目をした。
「どれ……お前の実力、この私が測ってやろう」
クラーゲは少し声を弾ませて言うと、ブレインと全く同じ構えを取った。