七月三十一日。ハリーの誕生日だ。プレゼントは送ってある。ハーマイオニーが「箒磨きセット」を送ると言っていたので、弦はクディッチで使えるグローブとゴーグルを送ったのだ。どちらもサイズフリー、つまりは装着者に合わせて大きさを変えてくれる品物だ。雨にも耐久があるというのでそれにした。前に贈ったものはそろそろ消耗がひどくなっているだろう。
その日に届いた手紙の中にはホグワーツからのものもあった(アクロイド邸と繋いだポストはそのまま使っている)。教科書リストを見る。必修科目と選択したルーン文字学と魔法生物飼育学のものを用意すればいい。ただ飼育学の「怪物的な怪物の本」だけがひっかかった。名前からして物騒なものなんだが。
封筒にはさらに昨年まではなかった三枚目の紙が入っていた。見ればホグズミード村への外出許可証だ。
ホグズミードはホグワーツにもっとも近い場所にある村だ。毎年、三年生以上の生徒が外出日に利用するためさまざまな店があるらしい。叔父から聞いたことがある。
「……」
しばし悩み、弦はそれをそっと封筒に戻した。今年はホグズミード村に行く気はおきない。母の喪にふすと言ったら大袈裟かもしれないが、ホグワーツは母の母校だ。ホグズミードに行って母もここに来たのだろうかと考えるくらいなら、一年待って気持ちを落ち着かせてから「自分のため」に遊びに行きたい。テリーたちには行く必要がないと言いつくろっておけば渋々だろうが納得してくれるだろう。
「……ああ、もう」
ごろりと畳に身を投げ出す。まったくもってふっきれない。当然だ。母の死からまだ一か月も経っていないのだから。慌ただしく動いていたから考える暇がなかっただけで。
レグルスが心配してよってきたので、その頬を撫でつつ思う。ホグワーツに言ったら、今年はことあるごとにこうなりそうだ。面倒くさい。だが仕方ない。
思考を切り替えるためにほかの郵便物も見る。テリーたちのものにはホグワーツに行く前に一度会えないかというものだった。遊びの誘いだろう。八月五日か。まあ、問題ないだろう。返事を書こうと便箋とペンを用意した。
その三日後の八月三日に、弦は叔父に頼んで日本まで迎えに来てもらい(前の家に設置していた移動キーは引っ越しと同時に撤去した。二年と言う短い寿命だった)、イギリスのアクロイド邸から「漏れ鍋」に煙突飛行ネットワークを使ってとんだ。
店主のトムにいらっしゃいと声をかけられたので挨拶を返し、さっさと買い物を済ませてしまおうと動き出す。しかしそれは思わぬ人物によって止められた。
「ユヅル!」
「ハリー?」
ハリー・ポッターの姿に弦は素直に驚きをあらわにした。
どうやらハリーはホグワーツに行くまでこの「漏れ鍋」に滞在することになったようだ。魔法大臣の計らいだそうで、弦は首を傾げる。随分とVIP待遇だ。
「僕、おばさんふくらませちゃって、それで退学処分になるかと思ったら大臣が事故だから仕方ないって取り消してくれたんだ」
「そりゃまたラッキーだったね。二度目はないだろうけど」
「まあね。ふくらませちゃったあとすぐに伯父さんの家を飛び出しちゃったからここにいるんだ」
「ふーん」
それにしても妙だなと思う。家出は保護者のもとに帰すのが一般的な対応だし、なにより法律を曲げてまでハリーをホグワーツに戻すなんて。
これはまた何かあったな。ハリーに関して。巻き込まれ体質は健在のようだ。
「ユヅルは眼鏡かけるの止めたんだね」
「必要がなくなったから」
「へー。でもそっちのほうがいいと思うよ」
「そう? まあ、いいけど。それよりハリー。学用品の買い物は済ませたか?」
「まだだよ」
「なら一緒に行こう。私も教科書を買いに来たんだ」
「行く!」
まずはグリンゴッツでそれぞれの金庫から必要な分のお金をおろした。弦の金庫は母の遺産が統合されたからか前来た時よりも金貨が山ほど積まれており、さらに手つかずの金庫があと三つほどあるらしい。母の研究はよほど儲かるようだ。使い道があまりないのだけれど。
薬問屋で魔法薬学の材料を探し(それ以外のものも買う弦にハリーが信じられないものを見る目をしていた)、マダム・マルキンの洋装店ではそれぞれ背が伸びて丈の合わなくなった制服に変わる新品を買った。スカートは丈を調整すればいいが、カッターシャツまではどうにもならん。
最後に教科書を買いにフローリシュ・アンド・ブロッツ書店へ行った。そこで二人は驚きの光景を目にする。魔法生物飼育学の必修本、つまりは教科書である「怪物的な怪物の本」が百冊も檻の中に入れられ、さらに互いに互いを食い合うような状況になっているのだ。びりびりと紙が破れる音や本の鳴き声がやかましかった。店員なんかは涙目になって必死になだめている。
「あの本、僕、ハグリッドから誕生日プレゼントでもらったよ……」
「今年の魔法生物飼育学の教師、ハグリッドなんじゃないか……」
そんなこと言っている場合ではない。問題は、あの涙目の店員に弦があの本が欲しいと言わなければいけないということだ。
ふと影の中からレグルスが顔を出した。
「うわっ! えっ、なに!?」
「レグルス。ペットみたいなものだよ。レグ、どうした?」
レグルスは子犬の姿のまま「怪物の本」を見つめていたかと思うと、弦に向かってしっぽで背を撫でる仕草をした。それを何度も繰り返すので弦はぴんとくる。
「……ああ、背表紙を撫でればいいのか」
一つ鳴いて肯定するレグルスはよじよじと弦をよじのぼろうとするので抱き上げて肩に乗せる。それから店員に声をかけ、弦は「怪物の本」を頼んだ。店員は絶望した。
「背表紙、撫でると落ち着くと思いますよ」
「えっ!」
おそるおそる背表紙を撫でる店員は、すっかりおとなしくなった本に驚いたあと、すばやくそれをベルトで縛った。それから感極まったように弦にお礼を言う。
「ありがとうございます! これでもう安心です!」
「どういたしまして。ハリー、本を探そう」
「あ、うん」
ハリーは占い学と魔法生物飼育学を選んだらしい。教科書を揃えるとハリーはクディッチの雑誌を、弦はいくつか気になる本を買った。あとは学校の図書館でも探せば十分だろう。ふくろう通販もあるし。
全ての荷物を鞄の中に収めていく弦を見て、ハリーは首を傾げた。
「その鞄、何か魔法がかかってるの?」
「検知不可能拡大呪文だな。私の持ってるトランクにも同じものがかかってる。市販でも売られている品物だな。魔法を覚えれば自分でかけれるようになる」
「ユヅルはできるの?」
「まだできない。便利だから覚えたいんだけどな」
「できるようになったら僕の鞄にもかけてほしいな」
「自分で覚えろ」
それにもしあげるとしてもハーマイオニーが優先だ。彼女の鞄は年を重ねるほどに哀れになっているような気にする。
五日となって再びダイアゴン横丁にやってきた弦は待ち合わせ場所のフローリアン・フォーテスキュー・アイスクリームパーラーに向かった。そこのテラスにはすでに三人が座って雑談に興じている。テリー・ブートにマイケル・コーナー、そしてアンソニー・ゴールドスタイン。みんな弦にとって唯一無二の親友だ。
久しぶりだと挨拶しあい、弦は蜂蜜バニラを頼んだ。そこからは学校にいるのと変わらない。
「日刊預言者新聞、見たか?」
「いや、見てない。なにがあった?」
「アズカバンから脱獄だと。シリウス・ブラック」
マイケルが新聞の一面を見せてくる。写真の中にやせこけたギラギラと目つきの悪い男が動いていた。ひどく凶暴な様子だ。十二年前、彼は呪い一つで十三人も殺したらしい。まさに虐殺である。
「
「ブラック……純血の一族だったっけ。『聖28一族』の」
『聖28一族(Sacred Twenty-Eight)』は、カンタケラス・ノットによって書かれた「純血一族一覧」に出てくる用語である。1930年代の時点で「間違いなく純血の血筋」と認定されたイギリスの魔法族の一族を現す呼び方である。
弦たちの同級生で言えばハンナ・アボット、ミリセント・ブルストロード、ネビル・ロングボトム、ドラコ・マルフォイ、セオドール・ノット、パンジー・パーキンソン、そしてロン・ウィーズリーがその縁者である。ただしウィーズリーはこれに分類されることにひどく反発したと言う記録が残されている。“穢れた血”と言われた時についでに純血家系も調べて得た知識だ。心底どうでもよかった。
この二十八家の中にアクロイド家は含まれていない。何故ならこのときアクロイド家は「うちは純血とは言い難い」と曖昧な家系図を理由に辞退しているからだ。これはアクロイド家がイギリス国外からも伴侶を受け入れていたことからも本当に純血であるかどうかを考えさせたようだ。その当時の当主の嘘っぱちだと思うが、それほどに分類されることを嫌がったのだろう。
ウィーズリー家は多くの家と親戚関係でもあり、その血に様々な一族の要素を取り入れていたのと同時にマグルへの偏見もなかった。それどころか友好的であったことから、反発を期に純血主義者たちからは「血を裏切る者」と言われるようになったと言う。
その一方でブラック家は純血にこだわってきた一族だ。従兄妹や再従兄妹同士の結婚を繰り返していたとされる。近しい者同士の婚姻はあまりにもよくない。それほどまでに純血にこだわるのはもはや狂気だ。実際、ブラック家の者はどこか凶暴な一面も持っているとされている。この一族もまた、純血の一族と広く親戚関係にある。
「ま、純血の一族なんてみんな親戚同士みたいなもんだけど、ブラック家はやりすぎ。ブラック家直系はそのシリウス・ブラック以外は残ってないらしいぜ」
「一人っ子?」
「いや、二人兄弟らしい。父に聞いた話だが、歳の近い弟がいたと聞いている。そいつも生死不明だけど」
「そう考えると、あの家って恐ろしい謂れとかいっぱい残ってるよね。ほぼ滅んだのも自業自得というか、なんというか」
「ふーん」
もう一度、写真の中のシリウス・ブラックを見る。
「で、このブラックさんはどういう人物だったわけ?」
「くわしいことは知らん。だけど“例のあの人”の手下だったって話だ」
「あの人の失脚後すぐに虐殺事件おこして捕まったらしいけど。なんで今になって脱獄したんだろうね」
アンソニーの言葉にマイケルもテリーも「さあ?」と肩をすくめた。
「……ああ、成程。だからハリーが“漏れ鍋”にいるのか」
「どういうこと?」
「ハリーは今、漏れ鍋にいる。家で問題起こしたみたいでな、家出中。普通ならすぐに家に帰されるのに、ハリーは魔法大臣じきじきに保護されている」
「魔法大臣が保護ぉ?」
「そう。不自然な対応だから不思議だった。でもシリウス・ブラックが関係しているなら理解できる。つまり、彼からハリーを守るなら魔法界にいたほうがハリーは安全だ」
シリウス・ブラックがヴォルデモートの手先であったのなら、その脱獄目的が闇の帝王を倒したハリーであっても不思議はない。
「少なくとも魔法省はそう考えているんだろう。だからハリーはホグワーツに戻ることが望まれている。あそこにはダンブルドアがいるから」
法律を曲げてまでハリーを学校に戻したいのだろう。
「今年もポッターがらみでいろいろありそうだな」
「まったく……ユヅル、また僕らは君のフォローか?」
「私がすすんで巻き込まれているみたいに言わないで欲しい」
「ユヅルはいっつも面倒臭そうだもんね」
ただ気になるのはどうしてそこまでシリウス・ブラックを警戒しているか、だ。それほどまでに強力な相手なのだろうか。相手は杖を持っていない。彼の杖は取り上げられとっくに処分されているだろう。それに脱獄生活で弱っていることも考えられるはずだ。まあ、狂気は思いもよらない力を呼ぶけれど。
「少し洗ってみるか……」
ぽつりと零された弦の言葉を耳ざとく拾ったテリーが「一人であれこれするの禁止!」と言った。
「で、うちの主席殿は何をする気なんだ?」
「別に。ただ脱獄囚がどんな人物だったのか謎だから調べてみようと思って。魔法省の警戒する理由がまだ足りない気がする」
「じゃあ、僕とマイケルはブラック家について調べるよ。二人よりも調べやすいと思うし。ユヅルは叔父さんに知られたくないでしょ?」
「うん」
「俺はブラック個人のプロフィールでも調べるかな。ブラック家ならホグワーツ生だろ。そっち調べるわ」
「なら私は脱獄方法でも考えるかな。あとは当時闇の勢力に加担していた人達についても調べてみる」
あのアズカバンを脱獄したのだ。誰かの手引きがあってもおかしくはない。自力で脱獄したのならそれはそれで方法が気になるところだ。
カシギ草は三日間乾燥させたものを粉末状にする。真夏草の花蜜は少し煮詰め、そこにカシギ草を加え、さらに灰をいれてよく混ぜる。
呼び出した火の精におこしてもらった妖精の火をつかって鍋を温めていく。混ざったものが煮詰まる前に火から鍋をおろし、そこでユグリの実を砕いて粉末にしたものを入れ混ぜる。
「≪癒しの風よ 歌え 歌え 怒りの雷よ 鎮まれ 鎮まれ 小さな燈火に温められた治りの水は 止まり木の役目を果たすだろう≫」
足下に円系の光陣が現れる。幾何学的な模様を浮かび上がらせたそこから光り輝く蔓が伸び、芽吹いた葉がきらきらと光の粒子を散らした。葉の一枚をとり、それを鍋の中にいれる。葉はすぐに溶けてしまい、薬の色は白色に代わった。
次の瞬間に陣も蔓も消えてなくなってしまう。弦は鍋に蓋をすると二日間寝かせるために地下の貯蔵庫に向かった。
水無月の薬は他のどの家も真似できない。それは水無月の血に宿る力を秘術として使い作り上げているからだった。先ほど現れた蔓こそがそれで、あれは弦の持つ力が具現化したものである。地球上のどこにもない、弦だけの植物。同じ水無月の者であっても個人個人で植物は違う。祖母の蓬は白い木だった。ただし花だけはどんな形でも五枚花弁であり「水無月の花」と呼ばれている。
その植物の葉や花、エキスなど様々なものを薬に混ぜることでより強力な薬を作るのが水無月の秘術だ。そしてその植物の具現化には水無月の血が覚醒していなければならない。
血はおよそ十五歳までに完全に覚醒する。覚醒し始めたころから具現化した植物を使って薬師として修行が開始するのだ。弦が具現化できるようになったのが十歳の頃で、それまではひたすら書を読み知識を身に着け薬草を育てることしかできなかった。
この覚醒ができるのは一代に一人まで。たとえ子供が二人いたとしても片方しか覚醒しない。序列は関係なく、覚醒したほうが家を継ぐのだ。そしてその覚醒だって必ず現れるわけではない。弦の父がそうだった。
水無月の土地に来れば覚醒する者は覚醒する。だから水無月の家は血を重要視していない。たとえ一般人と結婚して子供ができても、覚醒すれば家は継がれる。覚醒しなければ次の世代にかけるしかない。そうやって細々と繋いできたのだ。
だから弦にとって血は繋ぐものであって濃くするものではない。純血主義を理解し共感することは一生ないだろう。根本の考え方が大いに違うのだから。
ちなみに、水無月の秘術を扱うにはさきほどのような「祝詞」と呼ばれる詠唱が必要になる。これは水無月の血が覚醒していないと何を言っているのか理解不可能で、神の言語ではないかと問われることもあったそうだ。そんなことは知らん。ただ代々そうやって祝詞を捧げて薬をつくってきたのだ。このことから水無月の家の薬師は“さえずるもの”と呼ばれてきた。祝詞は不思議な抑揚を持っているそうで、はたから見えれば歌っているようだ、さえずっているみたいだと言われた結果そう呼ばれるようになったらしい。たいそうな呼び名だ。
貯蔵庫に薬を納め一息ついた。依頼された薬はあれが最後だ。
「薬草園管理用式神の確認、屋敷管理用式神の確認、敷地結界の確認、防衛機能の確認……水樹様への挨拶」
今日は八月二十八日。家を出るのは三十日だからそれまでにできる限りのことはしておかないといけない。
くうんと足下でレグルスが鳴いた。頭を撫でる。
「お前もしっかり挨拶してね。水樹様はお前を守護者にしてくれたのだから」
水無月の敷地全ての土地神である水樹様は、弦が従えたレグスルを土地の守護者つまりは自身の眷属として迎えてくれた。レグルスもまた水樹様のもとで色々なことを学んでいるようだ。
「ゆづる」
その証拠に彼は少しずつ人語を介し始めた。
「おなかすいた」
「そう言えばもう三時か。お八つにしよう」
「おやつ」
幼くつたない話し方だけれど、おかげで弦は毎日会話ができる。それはとても嬉しいことだった。