母が死んで家を引き払うことにした。丁度いいから遺品整理もすべて済ませてしまおうと家中の物を掘り起こすことを決意する。
母の私物は魔法薬に関する本と重要と思われる権利書だけもらって、あとの母の研究書やら薬やらは全て処分することに決めた。母のしていた研究はどうにも怪しいものばかりで、その全てが失敗していることに安堵しつつ、徹底的に処分した。母の持つ財産と権利はすべて弦に譲渡されるため、その手続きは叔父に手伝ってもらうことで完了した。
次に父と祖母の遺品だ。どちらも今まで手つかずの状態だった。父の遺品は本やアルバム、着物だけをもらいあとは全て処分した。もともと父の本は読んでいたものだし、アルバムは弦が小さいころのものもある。着物に至っては水無月の家のものだ。
祖母の遺品が一番厄介だった。薬に関する書物やら道具やらはもちろんもらいうけたし、着物もやはり水無月の家のものだから当然もらった。ただそれらを掘り起こしたときにたくさんの「祖母の物ではない物」が出てきたのだ。ご丁寧に誰々から借り受けた物、または譲り渡す物と書き記された帳も一緒にだ。
おかげで引っ越しを終え、家を引き払ったあとに弦は日本各地を跳びまわらなければならなくなった。祖母が死んで九年。もう忘れている人もいるかもしれないが、祖母がそうしようとしていたものだ。弦が引き継いでやらない理由などない。
幸いだったのは、弦には交通手段があったことだった。それも一般の電車やバス、タクシーが行けないようなところに行ける手段が。
日本にイギリスのような魔法省は存在しない。ああいう政府というものはないのだ。あるのは大規模な自治団体のみ。その団体は「異能協会」と呼ばれている。魔法と言う単体の才能ではなく、異能と呼ばれる、それこそ超能力もふくまれる科学文化からはみ出した能力を持つ者達が集まってできた場所だった。
協会の発足は第二次世界大戦後であり、その当時各地にあった陰陽師の家系や巫女の家系、占術師の家系や祓魔師の家系など、異能を受け継ぐ家の次男以下と突発的に異能に目覚めた個々の異能者が集まって出来上がった。
<異能協会は政府に非ず>
あくまでその行動理念が今でも続く協会をつくりだし、さらには日本中の異能者が利用している。水無月家もその一つだ。
そもそも水無月家は平安時代から続く旧家だ。千年以上の歴史を持つ水無月の薬は異能者の間ではそれなりに役立っているようで、祖母も協会を通じて細々とだが商売をしていた。その祖母が死んで、当主となった弦にももちろん繋がりはある。
異能協会という団体の職員は異能者の一部だ。その職員は家柄も能力もばらばらであり、協会自体は職員の採用条件を担当職ただ一つを除いて成人であること以外に定めていない。もちろん表裏関係なく犯罪者であるなら門前払いどころかとっつかまって牢屋行きだ。
異能協会が主にしているのは異能者たちの仲介と異能者たちの発見、および不遇な環境にいる者の保護、そして異能者たちへの仕事の依頼だ。
異能者たち、とくに旧家には一つの家に一人の担当人がついており、協会への窓口になる。またその担当人は個々に異能に目覚めた者の担当を掛け持ちすることができる。しかし旧家と旧家の掛け持ちは原則許されていないし、旧家の人間が自分の家であってもそうでもなくても担当人となることはできない。担当を通していろいろな繋がりを持つこともでき、弦は情報に精通した担当人だったために情報収集の際はお世話になっている。担当人の特技も十人十色だ。
一般の家に生まれた異能者は「天啓型異能者」と呼ばれている。また逆に血筋が連なっている場合は「継承型異能者」と呼ぶ。突然変異のように先天的および後天的に能力が覚醒したものは前者、能力者の両親および祖父母を持っている場合は後者となる(曽祖父母あたりが能力者でも継承型と言われる)。
異能者としての自覚がない、または自覚があっても周りに手を貸してくれる異能者の存在がいない者をすみやかに見つけ対応するのも協会の仕事の一つだ。異能者として登録してもらえばさまざまな手助けを行うことができる。
また協会の職員ではなく異能者が異能者を発見した場合も協会に連れて行くことが多い。旧家の中にはその能力が自分達の家に合っている場合は自分の家に引き入れたりすることもある。わざわざ後継者を探す異能者もいるが、まったく探さずに一代限りの者も少なくない。
協会も能力に合わせて流派などを紹介したり、個人でも生活できるよう色々とサポートし、本人が望めば異能をコントロールし抑えるための方法を提示することもある。十四歳までの子供を集めた孤児院も存在する。その子供たちは十四歳以降は能力に合わせて用意された異能者のもとへ弟子入りする形になるのだ。
最後に異能者たちは協会から依頼を出されるときがある。「災厄」と呼ばれる甚大なる被害を及ぼすものへの対処だったり、それそのものの討伐だったり。または外国からの依頼だったりと内容は様々だ。仕事に見合った報酬も出るので受ける異能者は多いのだ。
異能者にとって、協会に自身を登録しておけばかなり利点がある。協会の本部がある空間は「表」と呼ばれる主に人間が住んでいる空間とは別の空間に在り(表の裏側に存在するから「裏」と呼ばれる)、すこしずれた場所であるがゆえにときどき一般人がひょいっと足を踏み入れたりする。その場合はたいてい本部の周りに広がる町の住人やらそこを訪れた親切な異能者たちが構い倒してお帰りいただくのだ。
協会本部のある街は日本で一番大きい異能者の街だ。本部と言っているが支部があるわけでもないので、このような街はここだけなのだけれど。本部を中心に円系に広がった街は雑多であべこべでいつでも賑わっている。それこそ夜中でも。
そして街にはさまざまな店があった。どんな野菜でも売っている八百屋に、どんな魚でも売ってる魚屋、どんな肉でも売ってる肉屋。その他に穀物屋や呉服屋、時計屋に靴屋などなど。ここに来ればたいていのものは揃うどころか全て揃うのではないかというくらい揃う。病院だって薬局だって、薬問屋だってあるし、街の治安を守る自警団もいる。火消屋もいるし大工もいる。全国各地どこへでも物を運んでくれる運送屋もいるし、空飛ぶ列車や道路を走っても信号にひっかからないバス、どこへでも運んでくれるタクシーなど運行業も様々だ。ただし外国に連れて行ってくれるところはない。その場合は転移術か表の飛行機および船をご利用ください。
その街へ行くには時間や日付、さらに月の満ち欠けに影響される入り口を使うか、協会が発行している木札を使って
また、木札は協会からの連絡にも使われる。担当からの連絡だったり、異能者全員に向けての緊急連絡だったり。携帯のように使用することはできないが、それでも十分便利な端末だ。個人契約印【識別コード】が刻まれた木の板だけれど。
それがあれば大抵の施設は利用できた。財布代わりのカードにもなる。その木札にあわせた口座をつくってくれる銀行も街には存在し、ひと月に一度の引き落とし日までにお金を振り込んでおけば自動的に引き落とされるのだ。貯金ももちろんでき利子もつく。銀行を運営しているのが協会ができる前から金貸しをしてきた家だから、利息や利子はきっちりしている。安くもなければ高くもない絶妙なラインをついているのだ。その家は白蛇を守り神としているので経営が傾いたことはないそうで、異能者たちは信頼している。なんせ唯一の銀行だし。税金などの法的なものもきっちりかっちりだ。
人間だけではなく妖怪も半妖も住んでいるからいつでもどこでも賑やかで、街が出来た理由が理由のために怪しげな通りも店もない。
誰かを助け、自分も助けられ、義には義を、善には善を返すこの街は、異能者にとってとても良い場所だった。
今日はどうなるだろかと思いながら、弦は協会本部の建物の中にいた。街一番の大きさを誇るこの建物は街のシンボルだ。中には協会が公開している図書や資料がつまった大図書館もあるし、列車やバス、タクシーの乗り場もある。なにより木札が開ける門の出口側がある。
たくさんの門が並ぶ大回廊は青い大理石で床も壁もできている。表面には星空のようにきらきらとした光が宿り、天井を見上げればアーチ状に張られた無数のガラスの向こうによく晴れた青空が見えた。ときどき雨や雪以外に花びらが降ったり光の粒が降ったりすることもある。
大回廊のあちこちの門から利用した者がぞくぞくと現れ、弦と同じように外へ向かって歩いていた。大回廊が通称「青の間」と呼ばれているのと同じように、それぞれの区画には色の名前がつけられていた。
玄関口であり受付であり交流の場でもあるところは床や壁に白い大理石が使われていることから「白の間」。多くの蔵書を所有する博物館でもある図書館は床に使われた赤いカーペットから「赤の間」。会議に使われる大小さまざまな会議室がある一角は一番大きな会議室に太陽の光が最も入ることから「黄金の間」。茶会などにも利用される広大な温室は「緑の間」。交通手段の集結した乗り場は黒い大理石がしきつめられていることから「黒の間」。
すべての間が「白の間」に繋がっている。十階はぶちぬいたのではないだろうかというほど高い天井。空間を自由に使い過ぎだろうと言いたくなるくらい無数の円盤が宙に浮かんでいて、そのうえで職員たちが仕事をしている。床に面している受け付けのすぐそばには各円盤に運んでくれる縦にも横にも動く浮遊器がいくつもあった。
今日は担当に用もないので「黒の間」へ移動する。そこからバスを使って目的地へと向かうのだ。ここ最近は毎日これを繰り返していた。
担当に調べてもらった人達はご存命である人が多く、そうでない人はその家族や弟子に渡すことにした。事前に全員に手紙を出して全員から了承の返事をもらっている。
バスが来たのでそれに乗り込む。運転しているのは猫の顔をした男だった。木札を認証機械におしつけて認証されたので席へと座る。十名を超える人が乗ったが、弦の目的地では弦しか降りなかった。
家や流派、または能力にわかれて里を持つ者達も少なくない。特に里は街のようにちょっとずれた狭間に造られることが多く、今回の目的地もそこだった。
従術者ばかりが集う「
返事と共に送られてきた蛍を籠から放す。通常の蛍よりも一回り大きいその虫の足には籠にくくりつけた紐が結ばれていた。この蛍は帰巣の本能があり、里から離れても里に帰ってくるのだという。そのことから「帰り蛍」と呼ばれているこの虫が飛んでいく方向に行けば里につくはずだ。
深い森の中を歩く。狭間空間だから昼夜の感覚は表の世界とは違う。昼と夜は二日ごとに交代するらしく、今は夜の時間のようだ。暗い森の中を蛍以外の光がふよふよと地面から浮かび上がって頭上の枝葉の間に消えていった。一本いっぽんの木がもはや大樹と言えるほどの大きさをしており、大人五人がぐるりと手をつないでようやく一つの幹を囲めるくらいだろう。水無月の山にも同じような大きさの木やさらに大きな樹はあるが、それも一部だ。大きな森にある全てがこのぐらいの大樹だとするとすさまじい。ここは何千年の時間を超えているのだろう。
地形がそうなのか、大樹の根がそうさせたのか、地面はでこぼこだ。高低差も激しく、膝ぐらいの高さの段差もあれば、二メートルにも及ぶ段差もあった。飛び出た根っこや突起した地面を足場にひょいひょいと身軽に進んでいれば、ふと気になる音を耳が拾った。
聞いていたら哀れに感じてしまうような、情けない鳴き声。子犬だろうかと音の発信源を探せば、暗い森の中に同化するような黒色の小さな子犬が木の根の隙間にいた。
「……」
金色の瞳がこちらを見上げている。不安でいっぱいのそれには涙がにじんでとろけそうだ。
絶対に普通の犬ではない。
「……独り?」
しゃがみこんでそう尋ねれば、犬はまた「クゥンクゥン」と鳴いた。
「迷子かな? おいで。里まで一緒に行こう」
そっと伸ばされた手に恐る恐る近づいた子犬は、指先をちょっと舐めたあと、全身をすりつけるように手にすり寄ってきた。それを抱き上げ、上着のフードの中に入れてやる。上手くバランスがとれたのか、右肩のほうに前足をおいて顔を出した子犬を撫でた。
「落ちないようにね」
わんっと元気よく鳴くその声にちょっとだけ口角があがった。
「主元の里」は
そういう従えるという術を持つ者たちを総称して
実は水無月の薬師はこの従術師としての素質もなければならない。その薬の製法ゆえに妖精や精霊という存在に力を借りなければいけないからだ。水無月の薬師は水無月の土地に住む妖精や精霊と契約を結び、必要なときに召喚することで力を借りる召喚士でもある。
木々の間から暖かな光が見えた。次いで、里が現れる。岩肌がむき出したでこぼこの地形にあわせて建物をたてているせいか整頓されておらず、けれども自然と上手く同化している印象を受ける。木でできた家々の窓からこぼれる光や、道を照らす花の行燈。その蜜を求める帰り蛍たち。電気の光はいっさいないのに、里の中はとても明るかった。
「おや、見ない顔だね」
露店で花篭を売っている女性に声をかけられる。
「こんな森の奥深くに何の用なんだい?」
「人を訪ねに」
「成程ねぇ……そろそろその蛍を離しておやりよ」
ああ、忘れていた。蛍の足から糸を外してやれば、蛍はふよふよといずこかへ飛んで行き明かりに紛れてわからなくなった。
「その籠、かしてみな」
女性がずいと手を差し出すので、蛍が入っていた籠をそこに乗せる。ものの数秒で籠の中に花が溢れた。綺麗に飾り付けられた籠に少しだけ目を見開いて驚いていると、女性は笑って「歓迎の品だよ」と言う。
「外から来る人間なんて少なくてねえ。きたとしても無愛想な男か無礼極まりない男ばかりだ。あんたのように子供は少ないよ」
「そうなんですか……ああ、そうだ。これ、お礼にどうぞ」
籠を受け取って、その手の上にハンドクリームをのせた。水無月印のそれは家でつくったものだ。叔母のヴェネッサに贈ろうと練習していたもので、いくつか成功した中の一つを鞄にいれていた。
女性はにっこりと笑ってお礼を言ってくれた。ついでに弦が訪ねたい人の住まいを教えてくれた。手を振って別れ、教えてもらった方向へ歩き出す。
そのあとすぐに女性が入れ物の底に押された
これから尋ねる人間は
親切なお姉さんに教えてもらった道順どおりに足を運べば、磐佐と書かれた札の下がった門を見つける。トントンとそこを叩けば、少しして返事の声と共にゆっくりと戸が開いた。
「はいはーいっと」
出てきたのは少年だ。弦と同年か、一つ二つ上の男の子。
「こんにちは。水無月と言います。磐佐九野助殿はおられますか?」
「こんにちは。水無月ってーと、今日くるって客人か。どうぞどうぞ。ジジイならいるから」
あっさりと通してくれたことに拍子抜けしつつ、弦は少年についていった。子犬が動き出したので降ろしてやれば、一生懸命ついてくる。
家の中は思ったよりも広い。壁の一部に岩肌が顔を覗かせおり、その隆起を利用して燭台が置かれていたり、別のものが置かれていたりとなかなか賑やかだ。どうやらこの里の家は地形の上に建てられているというよりも、地形にくっつくように建てられているようだ。家を覆うように植物がのびている様をみれば、同化しているという印象が一番しっくりくる。
案内される横で良い里だなあと思っていると少年が立ち止った。
「ジジイ、客だぞ」
がらりと遠慮なく開けられた引き戸の向こうには、一人の老人が座っていた。この人が磐佐九野助だろう。
「やれやれ、騒がしいの。お前はもっと静かに動けんのか」
「うるっせーな。別にいいだろうが」
「日々の積み重ねがいざというときの武器となる。何度言ったらわかるのだ」
「へいへい」
聞く耳を持たない少年は部屋を出て行ってしまい、男性は深々と溜息をついた。そして弦に向き直り、一度頭を下げる。
「馬鹿な孫で申し訳ない。お座りください、水無月殿」
「失礼します」
示された座布団に座らせてもらい、改めて名乗った。子犬は横で大人しくお座りしている。
「水無月弦です。まずはお礼を。手紙の返答と今日の招待、ありがとうございます」
「なあに、
「祖母には到底、およばないうちから噂になるなどお恥ずかしいです」
まだ、何もしていないのに。ただ祖母の名前と水無月の名前が弦という“水無月の子”を目立たせているだけ。
「焦ることはないですよ。あなたはまだ若い」
「……はい」
優しく笑った磐佐に弦は一つ頷いた。そこで今まで大人しくしていた子犬が動き出す。弦と磐佐の間を行ったり来たりして両方の顔をきょろきょろと見ている。
「すみません。実は里に来る前に森の中で拾ったのです。ここの里の子ではありませんか?」
「いや、見たことがありませんね……ふむ……」
磐佐の目がじっと子犬に定められたまま動かない。弦も改めて子犬を見てみた。第三の目はすでに真言を使わないでも開けるようになっている。
その力は澄んでいる。あまりにも清らかで無垢なそれは生まれたばかりだからなのか、それともそういう存在だからなのか。
「成程……どうやら森に迷い込んだようです。ときどきいるのですよ。ここは狭間ですから」
「迷い込んだ?」
「ええ。この子は狛犬に近い存在のようですね」
「狛犬、ですか」
だがこの子犬は黒い。弦の思ったことを察したのか、磐佐も一つ頷いた。
神社を守る守護者である狛犬。それと対となる獅子。どちらも神に仕える神聖な獣だ。その清らかさを表すかのようにその体毛は白い。
「だが狛犬とはまた違う。どうやら獅子が少し交じっているようですね。体毛が黒いのもその影響でしょう。いわば狛犬の亜種というところですか」
磐佐の話によれば、狛犬などの神使と呼ばれる存在は一つの社に二体が原則だという。片方が消えれば、新たなものがやってくる。そうやって役目を継いでいるのだそうだ。
だがこの子犬は存在が明確ではない。狛犬の姿でありながら、獅子の力も持っている。神使にはどうやってもなれない。それすなわち、守るべき神域も持たず、守るべき神も持っていないことになる。
「こういう存在は穢れに弱い。すぐにでも魔に堕ちてしまうでしょう」
「……」
そうなれば、この子犬はどうなるだろう。魔となれずに消えていくのか、それとも完全に魔となって人に討たれるのか。
「……あなたが使役してみてはどうです?」
磐佐の言葉に弦ははっとなる。しかしすぐに迷うように視線を巡らせた。
「水無月家の者は十分、従術の素質がある。この子を見つけ、哀れに思うなら手を差し伸べてはどうですか?」
「……私はまだ、未熟です」
「そうでしょうとも。しかし、それを理由に逃げてはいけません。そして、別のことを理由に逃げてもいけません」
「っ……」
迷っている。だって、未熟で、まだまだ一人の足で立つことすらできていないのだから。そんな自分が一人で生きていくことすらできないこの小さな存在を守りぬけるのだろうか。
それだけじゃない。家族を失って、一人になった。あの静かな山の中にいて、涙が止まらない夜もある。ずっと孤独なような気がしてたまらなく寂しくなる時もある。不安定で、情けなくて、失った痛みが心に残っている。また、そんな思いをしたら。また、大切にしていた存在を失ったら。
確かに逃げだ。母以外にも大切な存在はいるくせに、さらに増えることに怯み、失うことに脅えるなんて。逃げでしかない。
逃げるな。
力を尽くしてこその生。
逃げるな。
意思を持たないのは既に死んだのも同然。
逃げるな。
戦え。
逃げるな!
「私は、水無月です」
誰かの痛みを、苦しみを和らげ、そして生きる力を取り戻してもらうために手を貸してきた一族の末裔。
「この子が生きたいと願っているのなら、それに手を差し伸べるのは自然なことです」
そして、水無月弦個人として生きようとしている小さき存在に手を貸さないということはない。
「磐佐殿。私とこの子に契約の儀を施してくださいませんか」
人ではないものと契約するのは初めてではない。年を重ね、力を増すたびに契約できる数は増え、薬をつくるために妖精や精霊と契約を結んできたのだ。それは守り神である
けれど聖獣との契約はその範囲ではない。水樹様の手を借りることは端から視野に入っていなかった。
召喚する際の入り口でもあり、従者として従える契約書のそのものである契約印は、磐佐が用意した青く雫型に整えてある石に刻まれた。
子犬に与えられた名は「
蜂蜜のような甘い金色が喜色を示して見上げてくる。
「よろしくね、私の小さな家族」
一つ鳴いたレグルスに、弦は嬉しげに笑った。