見える世界が歪んでる   作:藤藍 三色

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 友を信じぬ者は断罪され、友を信じた者は熱い鉄を飲まされる。友を疑った者はその身を擦り減らし、友を疑わなかった者は何も知ることはできない。

 そして友を持たない者は、やがて心を悪鬼へと変えてしまうだろう。









アズカバンの囚人
第零章


 

 

 

 

 

 水無月(みなづき)(ゆづる)にとって母である水無月レティシャは、何故生きているのかわからない存在だった。

 

 父である水無月(いつき)を心底愛していたレティシャは母であり、母ではなかった。父が死んでからろくに世話をされた記憶がない弦にとって、親代わりだったのは自身が死ぬまでの半年間、精一杯の面倒をみてくれた祖母と、今でもずっと気にかけてくれている叔父のコンラッド・アクロイドだけだ。

 

 髪と左目の黒色、その他いろいろは父からもらい、右目の青紫色(ヴァイオレット)と容姿、そして魔法薬の才能は母からもらった。弦にとって母が母であるという認識は自分の目と顔と魔法薬の才能だけによるもので、それ以外はてんで似ていないと思えるほどだ。弦の推理力や運動神経、観察眼などの彼女を構成するほとんどを目の当たりにして、父を知る人は必ずこう言う。

 

「斎によく似てきた」

 

 だからこそ、弦は思うのだ。

 もし自分が父そっくりな容姿で、なおかつ男だったら、弦は母に愛されていたのだろうか。

 母は父しか愛さなかった。それこそ自分の家族すら、彼女は愛さなかった。魔法薬の才は一等素晴らしかったが、性格や考え方、その気性は決して褒められるものではなかった。そんな母を見て育った弦は、記憶の中の父をいつもお手本にし、そして祖母を目標にすることで母に背を向けていた。反面教師というやつだ。

 

 母は自分を愛してくれない。

 母は自分を見てくれない。

 母は今日も部屋に閉じこもっている。

 

 あの人が何をしていたのか、なんとなくわかっていた。父が死に、葬儀では人目をはばからず泣き崩れ、父を失って泣く弦を見もせずにあの人は父の入った棺桶に縋り付いていた。

 その次の日から部屋に籠るようになったレティシャは、昼も夜も関係なくなにかを研究し続けていた。弦は部屋に入ることはしなかった。できなかった、というのが正しいかもしれない。

 

 それまで笑顔を向けてくれていた母は、あの日から笑顔を見せてくれなくなった。同じ食卓を囲まなくなった。手を繋いで買い物へも行ってくれなくなった。話を聞いてもくれなくなった。抱きしめてもくれなくなった。

 幼いながらに聡明だった頭は理解した。母は父がいたから自分を愛してくれていたのだと。娘を愛する母親として父に愛してもらいたかったのだと。生まれたときから、母は自分など欠片も見てくれていなかったのだと。

 

 父が死んで半年後。母の行動にようやく慣れたその頃に、祖母が死んだ。病死だった。傍で最期のそのときまで祖母の傍にいた弦は泣いた。一人で泣いて、葬儀では泣き腫らした顔のまま出席した。通夜にも葬儀にも母は参加しなかった。弦は父の眼鏡のレンズをガラスに変えてそれをかけ、髪を短くした。母はちらりとも見なかった。

 

 まだ五歳であった弦は家にいることに決めた。料理も洗濯も掃除も、叔父夫婦の手を借りながら自分一人でできるようになり、小学校に通い始めた。授業参観や行事に母を呼ぶことはなく、面談のあるときは叔父に頭を下げて頼んだ。そんな弦のことを心配した教師は何人かいて、直接家に来た大人もいたが、弦は全て玄関先で追い返した。魔女である母の姿を見せるわけにはいかなかったし、なにより家の中に入ってきてほしくなかった。

 

 家の中は、弦が唯一安心できる場所だった。誰の目もない。母が傍にいる。自分の力を隠すことはない。父と祖母の思い出をいたるところで思い起こせた。

 

 泣かないと決めた。弱くないと言い張った。父の眼鏡に勇気をもらって、めそめそ泣くことのないように髪を切って女の子らしく振る舞わなくなった。

 少年のようになっても母には見てもらえなかったけれど、父の眼鏡をかけていれば、弦はいくらでも幼いころの父に近づけた。そうしていれば、母は父のようにいなくならないのではないかと縋っていた。

 

 弦は不思議だったのだ。何故、あんなにも愛している父がいなくなったこの世界で母が生きているのか。父以上に大切なものなんてないこの世になぜ未だに留まっているのか。自殺と言う知識を得てから、弦は毎日のように母が死ぬのではないかと考えた。

 けれど母は死ななかった。弦がホグワーツに入っても、次の学年に進級しても、死ななかった。

 

 それが救いのように思えた。会話なんてこれっぽっちも成立しないけれど、顔を合わせる日がないこともあるけれど、ぶたれたけれども、母はまだ生きている。このまま、自分が大人になるその日まで生きてくれるのではないだろうか。自分の寿命がつきるその日まで生きてくれるのではないだろうか。

 

 魔法薬学者である母と、いつか魔法薬について話ができたら。母もまだ研究していない部分を研究して、なにか結果を残せたら。母は自分にも欠片の興味を持ってくれるのではないか。

 

 未来への希望は、周りから見えればとでも些細なことで、とても母親に願うようなことではなかったのかもしれない。だから誰にも話さず、胸の奥に閉じ込めて弦は成長していた。

 だからこそ。十四歳の誕生日の二か月前。十三歳十カ月。七月九日。弦は絶望に近い感情を、この日抱くことになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 母が、死んだ。毒薬を飲んで自殺した。使われた毒薬が魔法薬だったので表の警察には届けず、裏に連絡を回して内々に処理してもらった。

 

 最後まで、母親になれない女性だった。

 

「ユヅル。フランスへ来ないかい? そこで一緒に暮らそう」

 

 いいえ、行きません。

 私は母の子だけれど、それ以上に水無月の子だから。

 この家を出て、郷で暮らします。

 

 ポツリポツリとそう返す弦は、感情が麻痺しているようだった。だけどポロポロと両目から涙は溢れて止まらない。その手にもった手書きの、それこそメモのような短さの遺書は少しだけ皺が寄っていた。

 

 

   水無月弦へ全ての財産と権利を譲渡する。

   水無月レティシャ

 

 

 少し崩れた日本語の文字。遺書ってこんなものだっけと言うくらい短くてぶっきらぼうで簡潔なもの。ああ、母さん。私の名前、憶えていてくれたんだ。漢字、書けるんだ。

 

 叔父さん。

 

「……何だい?」

 

 母さん、私の名前、憶えていたみたいです。ほら、漢字でしっかり書いてある。

 

「ああ……本当だね」

 

 一度も呼んでくれなかったのに、覚えてはいてくれたみたいです。

 

「うん」

 

 ひどい、です。

 

「うん」

 

 死ぬ前に一回くらい、呼んでくれればよかったのに。

 

「うん」

 

 それだけで私、幸せだったのに。

 

「……うん」

 

 呼んでくれたら「母さん」って返事したのに。

 

「……うん……っ」

 

 ひどい、なあ。

 

「そう、だね……ひどいね……っ!」

 

 

 

 痛いくらいに抱きしめてくる叔父のせいで、もっと涙が溢れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 









 母さんへ

父さんのところへ行けましたか?
父さんに会えましたか?
父さんと笑っていますか?

私は、とりあえず生きています。
これからも生きていきます。

いなくてもなんとかなってるので、大丈夫です。
だから、父さんのところへ行けてよかったね。

部屋の中の研究、失敗ばっかだったから捨てた。
成功しなくて本当に良かったと思う。

今まで、生きてくれててありがとう。
こういうのも変だけど、死んでおめでとう。
父さんとそっちで存分に過ごしてください。

私は絶対、もっとずっと長生きするから。
まだまだ、この世界で知りたいことがたくさんあるから。
当分、そっちには行けません。

生まれ変わってもいいけど、父さんも一緒に行ってね。
母さんは生まれ変わってもそのままだろうし。

さようなら。
私の、たった一人のお母さん。

 水無月 弦





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