見える世界が歪んでる   作:藤藍 三色

16 / 34
第九章

 

 

 部屋は厳粛とした空気の中に言い知れない不気味さを感じさせた。左右に一対となって等間隔に並ぶ蛇の柱は威圧的だったし、薄暗い壁に足音が反響して耳の裏でわんわんと鳴っているようだった。

 最後の柱を超えた先には巨大な石像が壁を背にたっていた。その顔は猿のようにしわくちゃで、長い顎鬚はその石像の足元まで伸びていた。上から下へと視線を動かし、ようやくその石像の足元に赤毛の少女が横たわっているのに気が付く。

 

「ジニー!」

 ハリーが小声で叫び弾けるように駆け出していく。ハリーが跪く反対側で弦も膝をつき、ぴくりとも動かないジニーを見た。

「ジニー! 死んじゃだめだ! お願いだから生きていて!」

 杖を脇に投げ捨ててハリーは両手でジニーの両肩を掴んだ。仰向けにしたあとその顔に触れて、驚いた様に手を離す。それもそのはずだ。彼女の肌はまるで体温が感じられないくらいに冷たく、そして白くなっていたし、目はやはり固く閉じられていた。石にはされていないが、それでも生きていると自信をもって判断できる状態ではなかったのだ。

 

「ジニー、お願いだ。目を覚まして」

「ハリー、揺さぶるな。今、診てる」

 手首に指をあてて脈を図り、それでも十分じゃないと首に手をあてる。弱い。次にその胸に右耳を押し当て、しっかりと心臓が動いていることを再度確認した。

「心臓は動いてる。ただ体温が異常に低い。まるで冬眠しているみたいだ」

 弦はそこではっとした。ハリーの向こうに誰かいる。

 

「その子は目を覚ましはしない」

 その存在は静かすぎる声でそう言った。背の高い黒髪の少年は、すぐそばの柱にもたれていた。その両目から読み取れる感情が決して良い物ではないと感じ取った弦は、背中に嫌な汗がつたうのを自覚した。

 ハリーは彼のことを「トム・リドル」と言った。これがあの日記の持ち主か。目の前にして朧気だったトム・リドルという存在を認識する。成程、この少年は確かに見目麗しく、それだけでこちらの警戒心をほぐしてしまう。飲み込まれるような雰囲気に弦はジニーをかばうように身を乗り出した。

 

「目を覚まさないって、どういうこと? ジニーはまさか、まさか」

「その子はまだ生きている。しかし、辛うじてだ」

 トム・リドルはハリーに集中している。ならば、と弦はジニーに意識を集中させた。鞄を漁って薬品を取り出し、ジニーの首と手首にその薬品を塗った。体温を高めるそれは肌に塗ることで血液を通して全身を温めていくのだ。

 

 その間にも二人の話は続く。

「君はゴーストなの?」

「記憶だよ。日記の中に五十年間残されていた記憶だ」

 記憶を定着させた? 日記に? そんなことができるのだろうか。日本で恨みつらみを閉じ込められた品物を見たことあるけれど、あの日記はそんな感じはしなかった。それにこうして一人の人間として話せるなんて、まるで分身のようだ。憑依させた式神でもあるまいし、そんなことができる魔法がここには存在するのだろうか。五十年経った現在でもこんなに明確に存在を維持できるものなのだろうか。

 

 トム・リドルがハリーの杖を持っている。それを手で遊ばせながら、彼は落ち着きをはらった態度のままハリーとの話を続けていた。

 バジリスクは呼ばれるまで来ないと彼は言う。杖がハリーには必要ないと彼は言う。

「僕はこの時をずっと待っていたんだ。ハリー・ポッター。君に会えるチャンスをね。君と話すのをね」

「いい加減にしてくれ。君にはわかっていないようだ。いま、僕達は『秘密の部屋』の中にいるんだよ。話ならあとでできる」

「いま、話すんだよ」

 トム・リドルは譲らない。余裕のある表情を崩さない。彼は時間が経つのを待っているのだろうか。ゆっくりとした会話は時間を稼いでいるようにも見えた。

 

 ふっと息を吐きだして、弦は意識を額に集中させた。二人には聞こえない音量で真言を唱える。

 

「おんそうはんば どばんばやそわか」

 

 第三の目の開眼。霊能力者にとって必要な能力のひとつだし、なければ危険だ。生まれたときから開眼している感受性の強い者もいるが、弦は水無月の守り神の加護が強いため自分から解放しなければ開眼することはない。

 ジニーに見える力がとても弱い。魔力と呼ばれるそれは魔女であることを考えれば驚くほど少なかった。そしてそのジニーの魔力から一本の糸がのび、トム・リドルに繋がっている。糸を辿ってトム・リドルを見たとき、弦はまるで全身の毛を逆立てた猫のように身体を強張らせた。

 

 魔力にはそれぞれ固有の色がある。個性とも言えるそれは日本もイギリスも変わらない。自分とハリー、そしてジニーがいるだけでこの場に三色の魔力が存在することになる。そしてトム・リドルが憑依やら分身やらでここに存在しているなら彼の魔力は四色目となる。

 しかし、トム・リドルの魔力はジニーの色が混ざっていた。それは、つまり。

「お前! ジニー・ウィーズリーから魔力を奪ったな!」

 

 弦の怒声にハリーが肩を跳ね上げ、トム・リドルはそこでようやく第三者の存在を認識したようだ。その目にちらりと赤い色がのぞき、まるで理解できないと言う表情を睨みつけて弦は怒りのままに言葉を紡ぐ。

「ジニーがこうなったのはそいつのせいだ、ハリー! そいつはジニーから魔力を奪って実体化してる。日記に記憶を宿した程度で、実体化できるわけがない。他人の魔力を食い物にしてるだけだ!」

 他者の魔力を奪い自分の力にするなんてものは禁忌の術だ。傷を癒し、病を癒し、人が生きるために手をかしてきたのが水無月家で、弦が祖母から教わったその信念が最も嫌い厭う術だ。

 

「闇の魔術を扱うお前がジニーをどうやって惑わした!?」

「……成程。あの時のへんな紙切れと言い、君は僕の知らない魔法が使えるみたいだね」

 そう、僕はジニーの心を惹きつけた。何カ月もの間、彼女の話を聞き続けた。

「彼女の望む答えを、彼女の望む言葉を与え、辛抱強く絶えた。十一歳の小娘のたわいのない、くだらない悩み事を聞いてあげるのは、まったくうんざりだったよ」

 その整った顔立ちには似つかわしくない笑顔はいっそ醜悪なほどだ。

 

「自分で言うのもどうかと思うけど、僕は必要なればいつでも誰でも惹きつけることができた。だからジニーは、僕に心を打ち明けることで、自分の魂を僕に注ぎ込んだ」

 ああ、ジニーは自ら招いたのか。この闇を。この悪を。この人間にしては邪悪すぎる得体の知れない何かを。

「ジニーの魂、それこそ僕のほしいものだった。僕はジニーの心の深層の恐れ、暗い秘密を餌食にして、だんだん強くなった。おチビちゃんとは比較にならないぐらい強力になった。十分に力が満ちた時、僕の秘密をウィーズリーのチビに少しだけ与え、僕の魂をおチビちゃんに注ぎ込み始めた……」

「どういうこと?」

 ハリーがちらりと弦を見た。弦は答える。

 

「そいつがジニーを操ってこの一年の事件を起こしていたんだよ。学校でバジリスクが問題なく動けるよう鶏を殺したのも、ミセス・ノリスに、四人の生徒にバシリスクをけしかけて石にしたのも、全部そいつがジニーを操り『秘密の部屋(こ こ)』を開けて行ったことだ」

「まさか」

「そのまさかだ」

 弦の言葉をいともたやすくトム・リドルは肯定する。

 

 ジニーは始め、なにも自覚していなかった。まったく、これっぽっちも自分が事件を起こしている事なんて知らなかった。他の生徒と同じように謎につつまれた犯人に怯え、怪物に怯えていた。しかし、それはいつしか疑念への怯えへと変わってしまった。

 記憶がないことに気が付いた。ローブに鶏の毛がついていた。ハロウィーンの夜に自分が何をしたか覚えていない。ローブの前に赤いペンキがべったりとついていた。パーシーに顔色がよくないと心配された。なんだか様子がおかしいと事あるごとに言われる。きっと疑ってる。きっと怪しまれている。

 

 あたしは、気が狂ってしまった。

 

「バカなジニーのチビが、日記を信用しなくなるまでに、ずいぶん時間がかかった。しかし、とうとう変だと疑いはじめ、捨てようとした。そこへ、ハリー、君が登場した。君が日記を見つけたんだ。僕は最高にうれしかったよ。こともあろうに、君が拾ってくれた。僕が合いたいと思っていた君が……」

「それじゃ、どうして僕に会いたかったんだ?」

 怒りをその身に押し込めているハリーに、再びトム・リドルの意識が集中し始める。その隙に弦はジニーの脈を図った。先ほどよりも体温が上がって脈拍が少しだけ多くなっている。少しずつ回復している。ジニーとトム・リドルの間の繋がりはまだあるし、弦にそれを切る術はないが意識がない今が好機だ。

 

 鞄の中から小瓶を取り出す。それを隠し持ちつつ、蓋を外して時を待つ。

「そうだな。ジニーがハリー、君のことをいろいろ聞かせてくれたかね。君のすばらしい経歴をだ」

 貪るような、餓えた視線がハリーの稲妻の傷痕を舐める。

「君のことをもっと知らなければ、できれば会って話をしなければならないと、僕にはわかっていた。だから君を信用させるため、あのウドの大木のハグリッドを捕まえた有名な場面を見せてやろうと決めた」

「ハグリッドは僕の友達だ」

 ハリーの声は震えていた。

 

「それなのに、君はハグリッドをはめたんだ。そうだろう? 僕は君が勘違いしただけと思っていたのに……」

 トム・リドルの甲高い笑い声が部屋に響き、弦は眉をよせた。耳障りなそれはもうほとんど彼の性格そのものように見えた。人とは身体を捨てれば、その心のありようがもっとも顕著に表れる。彼の姿はまさにそれだった。

 五十年前のそのとき、彼とハグリッドを比べたさいに彼を信じた者は多かったようだ。何せ彼は“優等生”だったのだから。問題児だったハグリッドの信頼と彼の信頼は比べるまでもないだろう。

 

 ハグリッドの無実を信じ、トム・リドルを疑ったのはダンブルドアだけだった。『秘密の部屋』を五年間の月日を費やして自力で見つけたトム・リドルは残りの学生生活の全てをダンブルドアに監視されるようになった。部屋を再び開くことはできず、彼は日記に十六歳の自分を保存しようと決めた。いつの日か、誰かに自分の足跡を追わせ、サラザール・スリザリンの崇高な仕事を成し遂げるために。

「君はそれを成し遂げていないじゃないか。今度は誰も死んではいない。猫一匹たりとも。あと数時間すればマンドレイク薬が出来上がり、石にされたものは、みんな無事、元に戻るんだ」

 ハリーの反論をトム・リドルの態度は崩れない。

 

「まだ言ってなかったかな? 『穢れた血』の連中を殺すことは、もう僕にとってはどうでもいいことだって。この数か月間、僕の新しい狙いは君だった」

 トム・リドルはハリー・ポッターに多大な興味を示していた。だからもう、ほかはどうでもいい。ジニーが死んでも関係ない。たとえその魂が自分に日記から飛び出せるほどの力を与えていたとしても。

 彼はハリーに聞きたいことがあると言った。

 

「これといって特別な魔力も持たない赤ん坊が、不世出の偉大な魔法使いをどうやって破った? ヴォルデモート卿の力が打ち砕かれたのに、君のほうは、たった一つの傷痕だけで逃れたのは何故か?」

「僕がなぜ逃れたのか、どうして君が気にするんだ? ヴォルデモート卿は君よりあとに出てきた人だろう」

「ヴォルデモートは」

 

 僕の過去であり、現在であり、未来なのだ。

 

 ハリーの杖が空中に光の文字を生み出す。

   TOM MARVOLO RIDLE

 杖が振られ、文字が並び替えられる。

   I AM LORD VOLDEMORT

 

「アナグラムか……!」

 ミドルネームを知っていれば、気付けただろうか。いや、もしもの話などどうでもいい。まだ、その瞬間は来ない。逸る気持ちを抑える。

 

「この名前はホグワーツ在学中にすでに使っていた。もちろん親しい友人にしか明かしていないが。汚らわしいマグルの父親の姓を、僕がいつまでも使うと思うかい? 母方の血筋にサラザール・スリザリンその人の血が流れているこの僕が? 汚らしい、俗なマグルの名前を、僕が生まれる前に、母が魔女だというだけで捨てたやつの名前を、僕がそのまま使うと思うかい? ハリー、ノーだ。僕は自分の名前を自分でつけた。ある日必ずや、魔法界のすべてが口にすることを恐れる名前を。その日が来ることを僕は知っていた。僕が世界一偉大な魔法使いになるその日が!」

 

 弦にはとんと理解できなかった。この少年の言っている意味が。それはまるで幼い子供が癇癪を起こして支離滅裂な、意味すら通らない言葉を喚いているように感じられ、そうと納得してしまえば理解することすら放り投げてしまいたくなるほどくだらないことのように思えた。

 自分にとって名前とは最初に親にもらった愛情の証で、姓とは誇りだった。自分の両親を、生まれた家を誇ることこそ当然であり人が生きて死んでいくのと同じくらいに自然なことだった。それは弦がもとからそうだったゆえかもれしないし、水無月という家がそうさせたのかもしれない。

 

 けれど、弦が心の底から両親と祖母と家を愛しているのは純然たる事実だった。

 だからトム・リドルのことを理解することはできないし、共感もできない。したくもない。彼の境遇がいかようであれ、それが人の命を奪っていい理由にはならないのだから。

「違うな」

 ハリーの声には計り知れないくらいの憎しみと、それを上回る決意が宿っていた。

 

「何が?」

「君は世界一偉大な魔法使いじゃない。君をがっかりさせて気の毒だけど、世界一偉大な魔法使いはアルバス・ダンブルドアだ。みんながそう言っている。君が強大だった時でさえ、ホグワーツを乗っ取ることはおろか、手出しさえできなかった。ダンブルドアは、君が在学中は君のことをお見通しだったし、君がどこに隠れていようと、いまだに君はダンブルドアを恐れている」

 トム・リドルの顔から微笑みが消えた。ようやく、感情的で醜悪な面が出始める。

 

「ダンブルドアは僕の記憶にすぎないものによって追放され、この城からいなくなった!」

「ダンブルドアは、君の思っているほど、遠くに行ってはいないぞ!」

 睨みあいのさなか、どこからともなく場違いなほど美しい音楽が聞こえてきた。鳥のさえずりにしては壮麗で、楽器が奏でる音にしては生きる力がみなぎりすぎている。この世のものとは思えない旋律は背筋をぞくぞくと刺激し、そして心臓を早鐘のようにする。

 

 その場に介入してきたのは深紅の鳥だった。白鳥のように大きく、それ以上に美しいその鳥は最後まで優雅にとびきり、ハリーの肩にとまった。歌が止む。

「不死鳥だな……」

 トム・リドルが鳥を睨みつけた。

 あれが、不死鳥。なんて綺麗なんだろうと弦は目を瞬いた。そのときばかりは怒りも何もかも忘れ、ただ単純に目の前の動物の美しさに目を奪われる。

 

 不死鳥は魔法生物だ。この世の生物の中でも美しく、重い荷物も軽々と運び、ペットとなったからには主人にこの上ない忠誠を捧げる。またその涙には癒しの力が宿るのだ。炎の中で死に、灰の中から再び生まれてくる彼らは生と死、どちらであってもその姿は美しい。

 トム・リドルの反応から見て、あれはダンブルドアのペットのようだ。ハリーの足元に不死鳥から落とされたのは古い組分け帽子だった。ぴくりとも動かないそれが贈られた真理はまだわからない。

 

 敵の嘲笑の中で、ハリーは思ったほど頭を混乱させてはいないようだ。考えを必死に巡らせている。しかしあまり話を長引かせては、ジニーが危ない。応急処置として体温を上げてはいるが、魂を握られているのだから根本的な解決にはなっていないのだ。元凶を絶たなければ、ジニーは助からない。まだバジリスクさえ出していない相手は、話をするだけの余裕がある。

 

「二回も――君の過去に、僕にとっては未来にだが――僕達は出会った。そして二回とも僕は君を殺し損ねた。君はどうやって生き残った? すべて聞かせてもらおうか」

「君が僕を襲った時、どうして君が力を失ったのか、誰にもわからない」

 ハリーは話を長引かせることにしたらしい。ならばと弦はジニーの傍でその身から魔力を奪わせないよう、慎重に力を注ぎ始めた。気付かれないようゆっくりと、ひそかに、そして確実に。

 

「―――この身に宿る神聖なる加護の御力をお貸し頂けるよう、かしこみかしこみお願い申し上げます―――」

 今は遠く、直接言葉を交わすことはかないませんが、どうかどうかその御力をお貸しください。どうか私に、友を救う手助けをさせてください。

 握ったジニーの手が熱を持つ。自分の中から微かに流れ出た力が彼女の中の魂をゆっくりと覆い始めた。

「僕自身にもわからない。でも、なぜ君が僕を殺せなかったのか、僕にはわかる。母が、僕をかばって死んだからだ。母は普通の、マグル生まれの母だ」

 怒りを押さえつけようと微かな震えを滲ませるハリーの声が聞こえる。

 

「君が僕を殺すのを、母が食い止めたんだ。僕は本当の君を見たぞ。去年のことだ。落ちぶれた残骸だ。辛うじて生きている。君の力のなれの果てだ。君は逃げ隠れしている! 醜い! 汚らわしい!」

 トム・リドルが少しだけ動揺した気配が伝わってきたが、弦はそれを見ずにただただ祈りを続けた。ジニーを死なせないよう、願い続けた。あの方の力を異国で請うのはひどく不作法で無礼だったけれど、それでも続けた。帰ってしっかりと頭は下げるつもりだし、罰も受ける覚悟はできていた。

 

「そうか。母親が君を救うために死んだ。なるほど。それは呪いに対する強力な反対呪文だ。わかったぞ。――結局君自身には特別なものはないわけだ。実は何かあるのかと思っていたんだ。ハリー・ポッター、なにしろ僕達には不思議に似たところがある。君も気付いただろう。二人とも混血で、孤児で、マグルに育てられた。偉大なるスリザリン様ご自身以来、ホグワーツに入学した生徒の中で、蛇語を話せるのはたった二人だけだろう。見た目もどこか似ている……。しかし、僕の手から逃れたのは、結局幸運だったからにすぎないのか。それだけわかれば十分だ」

 

 話が終わる。それがわかって、弦はいつのまにか閉じていた目を開いた。しかし視線はジニーに固定したまま、可能な限り気配を殺す。トム・リドルの意識は今やハリーにしかない。弦がジニーに何をしているのか、気付きもしないのだから。

「さて、ハリー。少し揉んでやろう。サラザール・スリザリンの継承者、ヴォルデモート卿の力と、有名なハリー・ポッターと、ダンブルドアがくださった精一杯の武器とを、お手合わせ願おうか」

 

 トム・リドルが動く気配がしたあと、その口からかすれたシューシューという音が漏れた。それはハリーがやったのと同じような、けれどまったく違う蛇語であった。ハリーには意味がわかったのか、わかりやすく身構えた。それに怪物がようやくお出ましになることを確信し、弦はそっと鞄の中に手をつっこんだ。目当てのものを引き出す。

 

 石像が動き、その口から巨大な蛇が出てくるのが弦にもわかった。またトム・リドルが蛇語を発する。バジリスクが動き、ハリーにずるずると迫った。ハリーが逃げ出し、バジリスクがそれを追い、飛び上がっていた不死鳥が動くのを感じて弦は手に持ったそれを床に叩きつけた。

 瞬時に意識のないジニーの周りを半球の結界が覆う。護りの御符は弦の意図通りジニーを守ってくれるだろう。ある程度は。

 

 自分の身体能力を高めるもの魔法薬を飲み干し、空になった小瓶をトム・リドルに向かって投げつけた。それと同時にフォークスがバジリスクの両目を潰してしまう。それを横目で確認し、弦はようやくこちらを認識したトム・リドルと向かい合った。

 彼は投げつけられた小瓶を手で払いのけており、無傷だ。不快そうにこちらを見てくれるが、弦はその五割増しの視線で彼を睨みつけているだろう。

 

「君は僕との決闘がお望みかな?」

「まさか。決闘なんて伝統的で正統性のあるものを望むわけがない。そもそもそれは、人間同士の間でのみ成立するものだ」

 言外にその相手にも値しないと言ってやれば、相手は信じがたい侮辱を受けたと言うふうに顔を歪ませた。

「小娘風情が、随分と生意気な口を聞く」

「死にぞこないはよほど短気と見える」

 緑色の閃光が飛んできた。それを身を翻すことで避け、走り出す。二度三度と同じものが放たれるが、弦は呪文で相殺するか交わして見せた。

 

「エクスペクト・パトローナム!」

 

 杖先から銀色の大虎が飛び出し、トム・リドルに襲い掛かる。それにはさすがに驚いたのか避けた彼は、自分を超えてバジリスクへと向かう大虎に呪文を放った。しかし身軽にそれらを交わして、バジリスクの胴体へと大虎は突進する。

 不死鳥と合わせてバジリスクを混乱させる大虎にトム・リドルは舌打ちすると、蛇語で強くなにかを言った。バジリスクへの指示だろう。それを待ってやる必要は弦にはない。

 

 取り出した試験管をバジリスクの近くに投げつけ、落下して割れた瞬間にそこへ呪文が行くよう杖を振る。魔法薬と呪文が合わさって部屋を揺らすほどの爆発が起き、バジリスクの胴体の一部を吹き飛ばした。

「貴様っ!」

「決闘なんてお綺麗な競技(スポーツ)やる気は端からないんでね。泥臭く殴り合いましょうか、先輩」

 強く床を蹴ってトム・リドルに肉薄し、左手で抜いた警棒でその顎を狙う。咄嗟に避けたトム・リドルが呪文を放とうとするが、蹴りでその腕を反らして放たれるものを明後日の方向へ飛ばす。それを見届ける暇など与えず、呪文を放ちつつ警棒を打ち付け蹴りを繰り出すという肉弾戦へと持ち込んだ。

 

 魔法使いとしての自分を誇っている相手に、マグルの体術を織り交ぜたこの戦法はひどく煽られ冷静さを欠くことだろう。

 トム・リドルの腹に警棒を叩き込んだところで、弦は一度距離をとった。咳き込みはしたが、杖を手放すには至っていない。

「げほっ……君は、あまりにも淑女らしくないようだ」

「敵を前にしても黙って粛々と座っているだけなら、淑女なんてなりたくもない」

「口の減らない後輩だ!」

「そりゃどーも!」

 

 相手の呪文が頬すれすれをとんでいき、自分が放った呪文が相手の足元を爆発させる。飛び散る破片をそのままこちらへと飛ばしてくるので警棒で叩き落としながら再び相手に近づこうとするが、破片と共に襲来した呪文が弦の身体を後方の壁に叩きつける。衝撃に息がつまり、床へと落ちるまえに態勢を整えたが痛みで膝をついてしまった。

 トム・リドルが一歩こちらに踏み込んだが、その目がバジリスクの方へ向けられたので弦もそちらを見た。

 

「ハリー……!」

 バジリスクが大口を開けてハリーを飲み込もうとするが、彼はどこから取り出したのかわからない剣をその口蓋に突き立てた。バジリスクの巨体が横様に床に倒れて、フォークスも大虎も痙攣するその身体から離れる。

 フォークスがハリーの傍に行く一方で、大虎は弦の傍にやっきた。その身体を弦の身体にぴとりとくっつけ、まるで支えるかのようにしてくれる。

 

 壁にもたれたハリーがずるずるとしゃがみこんだ。その腕に刺さっている一本の牙を見て、弦はなんとか彼の傍に行こうとする。しかしそれはリドルに杖を向けられることで断念せざるをえなかった。ハリーが牙を傷口からぬき、そこから鮮血があふれ出る。

「ユヅル、と言ったかな。君はそこでその虎と共に大人しく見てるといい。ハリー・ポッターは死ぬ。ダンブルドアの鳥にさえそれがわかるらしい」

 

 バジリスクの牙には猛毒がある。確実に死んでしまうそれは、確実にハリーの身体を蝕んでいるんだろう。傍による不死鳥を撫でることもなくぐったりとしているハリーの腕に、不死鳥の涙が落ちた。

 それを見てもトム・リドルはなにも思わないらしい。弦はそっと虎を撫でた。その理知的な瞳がわかっていると告げてくる。

 まだ、勝機はある。

 

 朗々と何かを語っていたトム・リドルがようやくそのことに気が付いたとき、ハリーの腕には傷痕はなかった。

 不死鳥の涙には癒しの力が宿る。そのことを忘れていたトム・リドルに大虎が襲い掛かり彼の意識を一瞬だけかっさらった。その一瞬だけあればいい。弦はずっと放置され、静かに床の上に鎮座する日記をハリーの元まで蹴っ飛ばす。

 

「ハリー、やれ! それが本体だ!」

 ジニーとの繋がりが絶たれたトム・リドルの身体が明確にしたのは日記との繋がりだ。存在を固定するために日記に溜めていた魔力を求めたために、弦にはその繋がりがはっきりと見えた。トム・リドルは気付いていないのだろう。無意識化のことは隠さないがゆえに最も顕著にそれを見せてくれた。

 ハリーが牙を日記に突き立てた。耳をつんざく悲鳴が響き渡り、おそろしいそれが強くなるたびに日記から黒々としたインクのようなものが溢れ出る。あれがトム・リドルの禍々しい力そのものなのだろう。

 

 牙の毒が紙を溶かし、日記に大きな穴を開ける頃には部屋のどこにもトム・リドルの姿はなかった。しばしの静寂が部屋を包み込み、そしてハリーが日記から弦に目を向けたときお互いがお互いの無事を確認して大きく息を吐きだした。

 弦はジニーを覆う結界をとき、虎を消した。ハリーはバジリスクから剣を引き抜くと、組分け帽子と日記を拾い上げてこちらへと歩み寄ってくる。

 

「終わった、ね」

「そうだな。ほら、これとこれ飲んで」

 満身創痍のハリーに二つの小瓶を差し出す。

「なに、これ?」

「一つは解毒効果のある薬草のエキスだ。不死鳥の癒しの力はわかってはいるけど、一応。もう一つは単純に言えば体力回復の薬だよ。身体、重たいんだろう?」

「ありがとう」

「うん」

 

 体力を回復させるほうは弦も飲んだ。動き回ってさすがに疲れている。もう一つあったので不死鳥にも差し出せば飲んでくれた。

「賢い鳥だね。名前は?」

「フォークスだよ。ダンブルドアの部屋で会ったんだ」

「そっか。フォークス、来てくれてありがとう。バジリスクの目を潰してくれて助かった」

「うん、本当に。ありがとう、フォークス」

 フォークスがぴゅるると鳴いて、撫でる弦の手に頭をすりつける。綺麗な体毛だと思っていると、ジニーがその身体を震わせた。

 

 彼女はとろんとした寝ぼけ眼のまま身を起き上がらせると、ハリーと弦を見た。とくにハリーの手のなかの日記を認めた途端、顔を青ざめさせてその両目から涙を溢れさせる。

 ジニーは嗚咽交じりに言った。その間、ハリーはしっかりとジニーと目を合わせて話を聞き、弦はその背を撫でさすった。

 彼女は全てを自覚していた。全て自分でやった。トム・リドルに乗り移られていた。打ち明けようとしたけれど、パーシーの前ではできなかった。

 トム・リドルの行方を聞くジニーに、ハリーは優しい声色で言った。

 

「もう大丈夫だよ。リドルはおしまいだ。見てごらん! リドル、それとバジリスクもだ」

 大穴のあいた日記をジニーに見せて笑うハリーにジニーは顔を手で覆った。

「あたし、退学になるわ!」

 悲痛なそれに弦もハリーも顔を見合わせた。しかし気付かずジニーは続ける。

「あたし、ビ、ビルがホグワーツに入ってからずっと、この学校に入るのを楽しみにしていたのに、も、もう退学になるんだわ。パパやママが、な、なんて言うかしら!」

 

 さめざめと泣くジニーに、弦は口を開いた。

「馬鹿なことを言うんじゃない。君の両親が、君が無事だったことを喜んで泣くことはあっても、どうして戻ってきたんだと怒ることがあるわけがないだろう。君が無事で、生きていることをみんな喜んでくれる。退学になんてならないよ。全て悪いのは日記のトム・リドルで、君じゃない」

「で、でも」

「誰も死ななかった。いい? 誰も死んでないんだ。石になった人は元に戻る。君は誰も殺していないし、君自身もこうして生きていられる。大丈夫だよ、ジニー。さあ、これを飲んで。身体がまだ冷たい」

 

 渡した薬をジニーは泣きながら飲んだ。感情を安定させ、身体を温める効果のあるものだ。本来なら白湯で割って飲むのが一番いいけれど、取り乱しているジニーには十分効果があるだろう。

「それに怒られるっていったら、勝手に抜け出してこんなところまで来た私とハリーだろうよ」

「それにロンとブートもね」

 

 

 

 






 誤字報告がありました。ありがとうございます。
×I AM VOLDEMORT
○I AM LORD VOLDEMORT
 失礼しました。
 これからもよろしくお願いします。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。