相棒 アナザーエピソード 藤色の秘密【相棒×源君物語】   作:十宮恵士郎

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中編

「……はっきりと、筋道を立てて説明してもらえるかしら」

 

 取調室に、年配女性の困惑した声が響きわたる。

 数日前は藤原香子が座らされていた席に、渋い色合いのワンピースを纏う女性が

腰かけていた。

 大学の要職に就くだけのことはある高貴な雰囲気。だがその雰囲気は陰りかかっていた。

 その顔色は悪く、表情も焦りの色が濃い。

 そんな女性――山吹に対し、伊丹は鋭い眼光を向ける。

 

「あなたには、藤原香子を陥れる十分な動機がある。それがわかったってことですよ」

「動機? 一体何の事?」

「あなた、近衛教授との間に恋愛関係のトラブルがあったそうじゃないですか?」

 

 横から芹沢が囁きかける。

 山吹は、ほんの一瞬だがぴくり、と震えた。

 

「恋愛関係? 私があんな若い男と?」

「大学での聞きこみでね、わかったんですよ。

 あなた、一度近衛教授とものすごい口論をしてますよねぇ。

 夕方だったから大学構内に人は少なかったけど、

 それでも何人かの学生が、あなたたちの口論を聞いているんですよ」

「…………!」

「『火遊びだけじゃ済ませない』とか、『あの古典かぶれの女』とか、

 いろいろとおっしゃっていたそうですけど、

 それって藤原香子さんのことじゃないですかね」

「……仮にあなたたちの言うことが正しいとして、それが何になるの。

 私たちの間の問題と、あの女性が巻きこまれた犯罪に直接の関係はないでしょう」

「だったら、こいつをどう説明します?」

 

 伊丹は袋に入れられた証拠品を取り出し、山吹に突きつける。

 形状からして髪留めのようだ。

 

「……それは私の! 一体どこで……」

「女の子が監禁されていた現場でですよ。これが藤原香子のものでないことは

 早い段階からはっきりしていた。

 なので大学構内の聞きこみで訊いて回ったんです。

 そしたらあなた、いつもこの髪留めをして講義をしているそうじゃないですか?」

 

 山吹は自分がどんな証拠を突きつけられたのか理解した様子だった。

 ごくりと唾を呑みこんで、気持ちを落ち着けながら話し始める。

 

「……それは、私が1週間ちょっと前に無くしたものよ。

 だから新しい髪留めを買って使っていたの。

 なんでそれが旧校舎に落ちてたか知らないけど、私はあんなところになんて行ってない!」

「それを一体どうやって証明します?」

「…………!」

「あんたにはアリバイがない。犯行当日も、それどころか

 不審者が目撃されていた時間帯にもだ」

「そんなの、あの女も……!」

「藤原香子にないのは犯行当日のアリバイだけだ。

 不審者が目撃されていた時間帯のアリバイは成立しているんだよ」

「そ、そんな……」

 

 山吹の顔色がますます悪くなっていく。

 今にも崩れ落ちそうな様子で、それでもなお自分はやっていないと言い張る山吹を

伊丹がどやしつけていく。

 ――だが、取調室の外。マジックミラーの向こうから見ていた

特命係の2人は、これ以上中を見るつもりはないようだった。

 

「山吹さんにとって、相当不利な状況ですね」

「しかし、まだ決まりきってはいない。

 気になるのは、事件前に姿を現していたという不審者です。

 それが何者であるのか、そしてその不審者が犯人であるならば、

 なぜ少女に源氏物語を語り聞かせたのか。

 それを確かめれば、真実が明らかになるはずです」

 

 杉下と神戸は目を見合わせて頷き、

廊下を歩き去っていった。

 

 

 

 

 

 

 紫雲大学のキャンパスは、今日も元気な学生たちで溢れかえっていた。

 学生たちの騒ぐ声が、陽気な空気を作り出している。

 だが――それはどこか、健全なそれとは違う要素を孕んでいた。

 ひょっとするとそれは、キャンパスで発声したスキャンダルに対する

邪な興味によるものなのかもしれない。

 ……そんな、少し日常からはみ出したようなキャンパスを歩いていく女子学生がいる。

 ショートの髪に、丸い眼鏡。

 トートバッグを提げ、少し遠くに見える校舎を目指していた彼女の前に、

スーツの2人組が姿を現した。杉下と神戸だ。

 きょとんとした顔をする彼女に対し、2人は警察手帳を取り出す。

 

「萌木若菜(もえぎ わかな)さん、ですね?」

 

 

 

 

 

 

「……山吹先生と近衛先生の口論、ですか。そうですね……

 確か、二週間ぐらい前のことだったと思います。

 図書館で遅くまで本を読んでて、帰ろうと思ったんですけど、

 北門まで行くのに近道を使おうと思って、校舎の中を突っ切っていったんです。

 そしたら、女の人の大きな声が聞こえてきて……

 

『コドモを漁るだけじゃ足りないってこと? 火遊びだけじゃ済ませないで

 同僚にも手を出すなんてね。昔とはいえ貴方を教えた身として恥ずかしいわ』

『よく言うよ。昔は僕の気を引くためなら何でもしたくせに。

 それとも今でも、僕がいなきゃダメってわけ?』

『あんな古典かぶれの変人に、うつつを抜かす男のことなんてどうでもいいわよ』

『正直に言いなよ、妬いてるんだろう? 僕を含めて、大学じゅうの男たちの

 心を捕えて放さない彼女にさ』

『この……!』

 

 だいたい……こんな感じだったと思います。

 怖くなって、途中で場を離れたんで、全部は聞いていません……」

 

 萌木と呼ばれた学生は、多少つっかえながらも一貫した状況説明をした。

 恐らく説明が2回目なので、慣れたのだろう。

 神戸が二度頷き、さらに問いかける。

 

「なるほど。……じゃあ、その頃から犯行当日にかけて、

 山吹先生に何か変わったところはなかったかな」

「うーん……特に、なかったと思います。

 そもそも、近衛先生と怪しい間柄なんてことも、その時初めて知ったぐらいで……

 先生は、ずっと普通に授業してましたよ」

「……なるほど」

「……では、藤原先生の方はどうでしょう?」

 

 それまで黙っていた杉下が、突然口を挟んだ。

 萌木は目をぱちくりさせて、彼の方を向く。

 

「藤原先生ですか? いえ、先生もいつも通りに授業をされていましたが……

 そもそも、藤原先生の容疑は、もう晴れたんですよね?

 今更、そんなこと訊いてどうするんです?」

「あいにく、細かいことが気になってしょうがないのが、僕の悪い癖でして。

 一応、女の子が誘拐された現場から、物証も出ておりますし」

「そんな小物1つだけじゃ、大した証拠にはならないでしょう。

 藤原先生は潔白です。私はそう信じてます」

「君も、藤原先生のファンなの?」

「はい。先生の授業は欠かさず受けてますし、講演も聞きに行っています。

 先生は素晴らしい人です。

 時を隔てた平安時代の文学を、今に蘇らせて見せてくれるんです」

「こんな熱心な学生に恵まれて、藤原先生はさぞお幸せでしょうねぇ」

「私だけじゃありません、藤原先生に憧れている女の子はたくさんいるんですよ……」

 

 

 

 

 

 

「……結局、山吹教授に関わる新しい情報は何も出ませんでしたね」

「そうですねぇ……さて、これからどうしたものでしょう」

「あっ……杉下さん! 神戸さん!」

 

 特命係2人が休憩スペースのベンチに座り一息ついていると、

聞き覚えのある声がした。

 声のした方法を見ると、光海が2人の方へ歩いてくるところだった。

 

「やあ光海君。先日はどうもありがとう」

「叔母さん、容疑が晴れたんだったね。良かったよ」

「……本当に、良かったです! お二人のおかげです!」

「僕たちは何もしていませんよ。捜査一課の皆さんのおかげです」

 

 謙遜する杉下だが、光海は上目遣いを崩さない。

 そして少し言いにくそうに言う。

 

「……あの、ウチの叔母がその……オレの面倒を見てくれた礼をしたいと言っていまして」

「いえいえ、協力していただいたのは僕たちの方ですから」

「そんなこと言わないでくださいよ……」

「あれ……藤原さん?」

 

 神戸の声に、杉下と光海が振り向く。

 確かに少し離れた場所に香子が立って、こちらを見ていた。

 

「あ、香子さん、ちょうどいいところに!

 この方たちがこの前お世話になった警察の人です。

 こっちが杉下さんで、こっちが神戸さん」

「どうも」

「どうも」

「……光海の叔母の藤原香子です。この度は甥がお世話になりました」

「いえ、こちらも捜査に協力していただき、大変助かりました」

「光海から聞いたかと思いますが、お礼をさせていただきたいと思っているんです。

 この近くでお茶でもいかがですか?」

「……ならば、お言葉に甘えさせていただきましょうか」

「ええ。ありがとうございます、藤原さん」

 

 頭を下げる2人に対し、香子は微笑んだ。

 凛として、優しく、しかしどこか作ったような笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

「ええっ!? 杉下さん、源氏物語を読破したことがあるんですか!?」

「読破などという大それたことはしていません。谷崎潤一郎の現代語訳と、

 与謝野晶子の現代語訳の2つを最後まで読んだだけです。

 原文は……挑戦はしたのですが、途中で挫折してしまいまして」

「そ、それでもすごいです……オレ、まともに読んだことさえほとんどなくて……」

「源氏物語は、日本文学の祖とも言える存在ですからねぇ。

 とても興味深いじゃありませんか」

 

 喫茶店に、嬉々として話す杉下の声が響く。

 杉下と神戸、光海と香子の4人は大学近くの喫茶店に足を運んでいた。

 大学の中だと香子が、事件のこともあり目立ってしまい、話しにくいだろう、

という配慮でこの店が選ばれたのだが……

 それでも数人の客が、香子の方を見ながらひそひそ話をしている。

 結局、香子はどこでも目立ってしまうようだった。

 

「杉下さんは、本当に源氏物語についてよく知っておられるようですね」

 

 そうした周囲の状況を自覚しているのかいないのか、

香子は微笑を浮かべて杉下に言う。

 

「杉下さんは、源氏物語のどんなところがお好きなのですか?

「……うーん、いろいろありすぎて、すぐには語りきれませんねぇ」

「では、好きな場面はどうですか。

 杉下さんが好きなのは、どの巻の、どの場面でしょう」

 

 杉下は少し考えこむ様子を見せたが、あまり間を置かずに返答する。

 

「僕が好きなのは……薄雲(うすぐも)の巻、

 冷泉帝(れいぜいてい)が自分の生まれを知る場面でしょうか」

「え、冷泉帝……誰だっけ?」

「しっかりしろ、光海。冷泉帝または冷泉院は、源氏の義理の母、藤壺中宮の息子だ。

 周囲には藤壺中宮の夫であり源氏の父、桐壺帝の息子だと信じられているが、

 実際には源氏が藤壺中宮と内密に関係を持ったことによって生まれている」

「いわゆる、不義の子。そのことで源氏も、藤壺中宮も、深い苦悩を抱えることになる」

「ええ、神戸さん。その通りです。……しかし杉下さん、なぜその場面を?」

 

 訝しげな表情で問う香子に、杉下は平静の表情を崩さず答える。

 

「僕があの場面に見出したのは、源氏と藤壺中宮の罪、その1つの終着点です。

 冷泉院は、生まれて以来ずっと背負ってきた罪、その正体をあの場面で知ることになった。

 自分の出生に関わる罪を、知らず知らず背負って生きていくというのは辛いことでしょうからねぇ。

 彼はあの瞬間に、だいぶ救われたと思いますよ」

「……けれど、そのことで冷泉帝は苦悩し、彼のとった行動のことで

 源氏もまたいろいろと悩むことになった。

 それでも、まだ彼が自分にまつわる罪を知った方がよかったと?」

「ええ。自分にまつわる罪を知らない、というのは恐ろしいことです。

 冷泉帝は真実に至ったのですよ。そのことで、自分を取り巻く環境に対する

 心の整理ができたのです」

 

 きっぱりと、杉下はそう言いきった。

 対して、香子の反応ははっきりとしないものだった。

 いつもと同じやや物憂げな眼差しで――しかし、どこか険しい表情で、杉下を見ている。

 

(……あれ? 香子さん……怒ってる……?)

 

 光海は何となくだが、そう感じとった。

 だが、黙っていた。

 その間に、香子が口を開く。

 

「杉下さん。全てを明らかにすることが、そんなに大事なことなのでしょうか?」

「……はい?」

「杉下さんは、おっしゃいましたね。冷泉帝が真実に至ったことが重要なのだと。

 しかし――それだけ源氏物語にお詳しければ、知っているでしょう?

 薄雲の次の巻で、源氏が妻に藤壺中宮に対する感情を漏らし、

 その後夢で、藤壺中宮がそのことを責めた場面を」

「はい、朝顔の巻の、終わりのところでしたかねぇ」

「そうです。あの場面の、藤壺中宮の恨みを、あなたはどう考えられているのですか?

 許されない恋と知っていながら、それでもその想いを無かったことにすることはできない、

 だからせめて、誰にも言わぬまま闇へと葬りたい、

 そんな彼女の想いがわからないのですか?」

「…………」

「世の中には、秘密にしておいた方がいいこともあります。

 秘密にしておくということが、藤壺中宮の何よりの望みだったのです。

 ……あなたがたにとっては、真実を明らかにすることが大事なのかもしれませんが、

 それが全ての人間に当てはまるわけではないでしょう?」

「……か、香子さん?」

 

 知らず知らずのうちに、香子の言葉は杉下を責めるような風になっていた。

 光海が当惑したように、香子を見る。

 神戸も、この場にいづらそうな表情を作っていた。

 だが当の杉下本人は、涼しい顔で香子を見返し、

 

「……そうかもしれませんねぇ」

 

とだけ、返事をしたのだった。

 

 

 

 

 

 

「君、僕に何か隠していることはありませんか?」

 

 香子と光海との語らいを終え、警視庁の特命係の部屋に戻るとすぐに

杉下は神戸にこう切り出した。

 

「……何ですか杉下さん、いきなり」

「藤原さんが、僕たちにした抗議のことですよ。

 あの時藤原さんは“あなたがたにとっては真実を明らかにすることが大事”と言いました。

 しかし、あの場で真実を明らかにすることを語ったのは僕1人です。

 僕が言ったことだけに反応しているなら、君まで非難の対象にすることはないと思うのですがねぇ」

「……!」

「僕のいない間に、光海君に何か言ったのではありませんか?」

 

 神戸は思わず舌を巻いた。

 “あなたがたにとっては真実を明らかにすることが大事”――

 たったこれだけの言葉で、杉下は神戸の隠しごとを看破してしまったのだ。

 

(……この人にだけは、嘘はつけないな)

 

 そう思って、少し居心地悪く感じながらも、

神戸は重い口を開いた。

 

「……おっしゃる通りです、杉下さん。

 紫亜ちゃんに、電話で話していた光海君の彼女の夕さん。

 桃園朝日さんに、チューターの六条美也子さん。

 彼女たちの態度と、光海君の反応を見て、何かあると思いましてね。

 訊いてみたらわかったんですよ。藤原さんが、光海君をけしかけて、

 複数の女性と交際させているということが」

 

 杉下は、黙って神戸の話を聞いている。

 

「結局、藤原さんが源氏物語になぞらえているのは紫亜ちゃんだけじゃなかった、

 ということです。

 光海君が源氏の君で、藤原さんは源氏の君の恋人たちになぞらえた女の子たちを彼にあてがう。

 君はそれでいいのかと、彼に問うたんです。

 まあ恐らく、光海君のあの様子だと……

 藤原さんにそのことを言いつけたというよりは、彼女の方が僕がそうしたことを察した、

 というのが正しいんでしょうがね」

「……そういう、ことでしたか……」

 

 杉下はぽつりとそう言った。

 だが、そう言ったきり黙りこんでしまう。

 神戸は訝しく思いつつも、何も言わずにいた。

 何となく察していたのだ。

 杉下は今、何によってかはわからないが、真実に近づきつつある、と。

 

「よう! 暇か?」

 

 そんな緊張した空気を打ち破る、気が抜けるような一言。

 二人が振りかえると角田がそこに立っていた。

 いつものようにそう言って、部屋に入りこんで、

コーヒーを淹れる準備を始める。

 

「うーん、今はあんまり、ですかね」

「あ、そう。例のあれ、調べてんのか? 藤原何とかっていう美人さんの」

「ええ」

「いやぁ、あの美人先生も大変だねぇ。

 悠々自適の教員生活を送ってきただろうに、こんなんなっちまって。

 大学の先生にとって、スキャンダルは命取りだろ。

 まだ若いのに、人生計画、傾きかけてるんじゃないかねぇ」

「……課長!! それです!!」

 

 唐突に、全身を震わせて杉下が叫んだ。

 角田も、神戸も、杉下が何を言いだしたのかがわからず、

戸惑いの表情で杉下を見る。

 

「……杉下さん! 一体何です?」

「課長、今何とおっしゃいましたか?」

「えっ……あの美人先生の、人生計画が、傾きかけてるって」

「……そう! それですよ!」

 

 どうやら、杉下は、事件に関する重大なヒントを掴んだようだった。

 ……神戸には、その全容がまだ掴めていないのだが。

 釈然としない顔の彼を尻目に、杉下は一つ大きく頷いて、

なかなか見せない満面の笑みを顔に浮かべた。

 

「……これで、つながりました」

 

 


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