登校中、胸中に抱える不安がペダルを漕ぐ足を鈍らせていた。
由比ヶ浜の駆け魂を捕まえた後、ハクアが言った言葉を思い出す。
『バディーとして、なるべくお前の近くに居られるようにするわ。今から手続きしてくるから!』
嫌な予感しかしない…。
こういう時の展開は大体決まっている。アニメなんかではお馴染みだ。現実とフィクションを同列にはできないが、今の状況自体がフィクションみたいなものなので、ほぼ当たっているだろう。
手続きとか言ってたし、絶対あのパターンなんだよなぁ…。
昇降口に着くと、ちょうど靴を履き替えている由比ヶ浜の姿が見えた。
由比ヶ浜はこちらを見て俺の姿に気づき、遠慮がちに手を振って挨拶してくる。
「あ、ヒッキー…やっはろー」
「…おう」
昨日のこともあって、どうにも気恥ずかしい。それ以前に学校で挨拶を交わす友達がいない俺にとっては、相手が誰であれ気恥ずかしく感じるのだが。
ハクアが言うには、由比ヶ浜はあの時の出来事を覚えていないらしい。駆け魂から解放されると、地獄のエネルギーにより攻略時の記憶を消されるのだそうだ。じごくすごい。
由比ヶ浜のためというのもあるのだろうが、地獄にとって都合が悪いから消す、というのが真実なのだろう。じごくこわい。
どこからが駆け魂攻略になるのか疑問ではあったが、挨拶してきたということは、少なくとも奉仕部に来たことは覚えているらしい。
結局、由比ヶ浜の真意はわからず終いとなってしまったわけである。
"あの時"という言葉。そして、なぜ駆け魂が出たのか。
駆け魂が出たということは、心のスキマが埋まったからである。すなわち由比ヶ浜の悩みとは…これ以上は考えるのをよそう。どつぼにはまりそうだ。
由比ヶ浜が覚えていない以上、この件はこれまでだ。
友人に挨拶する由比ヶ浜の姿から視線を外し、考えをかき消して階段を上がった。
× × ×
「今日からこの学校に通うことになりました、比企谷ハクアです。八幡共々よろしくお願いします」
「は…?」
朝のホームルームにて、予想通り、転校生としてハクアが紹介された。
…ちょっと待て。転校してくるまではいい。いやよくないけど、まあありがちなパターンだ。
でも比企谷ってなんだよ、どういう意図だ。公に関係者だとばらす必要あるのか。そんな自己紹介したらいろいろ勘繰られるだろうが。
しかしよく考えれば俺の名前はクラスに知られていないので、「比企谷って、もしかして…?」とはならず、「八幡って何?神社?」となるだけだった。
ハクアは俺と目を合わせると、どうだと言わんばかりにふふんと笑った。
はいはいじごくすごい。
ていうか何でもありすぎるでしょ地獄…。予想していたとは言え、人間の学校に悪魔ねじ込むとかどうなってんの?うちの学校、県内でも有数の進学校なんだけどコネでもあんの?
それにしても、ああして制服着てれば普通の高校生にしか見えないんだな。昨日までの鎌を持った姿と比べると、とても悪魔だとは思えない。
まあどうでもいいが、端的に言って似合っている。
ハクアは指定された後ろの方の席に着き、「よろしく。お前、名前は?」なんてやり取りをしている。
その言い方喧嘩腰に聞こえるからやめた方がいいと思うな。
そんな会話を聞きながら、俺は「あいつ本当は何歳なんだろう」などと更にどうでもいいことを考えていた。
× × ×
休み時間、廊下の窓から外を眺めて俺は深くため息を吐いた。
普段なら10分足らずのこの時間など自席で寝たふりでもして授業を待つだけなのだが、前の時間、その前の時間と続いていい加減嫌気がさし、こうして逃げ出してきたのだった。
高校生になろうとも、転校生に興味を持つのは変わらないらしい。ハクアの周りには休み時間の度にクラスの連中が集まっていた。
まあハクアの容姿と"ハクア"という名前が話題に拍車をかけているのだろう。ちょっとずれた高圧的な口調もどうやら受けているらしい。
帰国子女だとかハーフだとか、そんな会話が聞こえてきた。そういう設定でいくのか。
取り囲まれてオロオロするハクアのことなど知ったこっちゃないんだが、こっちにまで飛び火すると話は別だ。
せっかく俺との関係どころか俺の存在もばれていなかったのに、ハクアが「あそこにいる比企谷八幡と訳ありな関係だ」なんて説明をして話をややこしくした。なんだよ訳ありって…そこの設定も考えとけよ…。
その所為で俺は「あれが比企谷?」「どんな顔だっけ?」「えーあれ?…え、どれ?」「いつからクラスにいたの?」などと認識され始めてしまったのである。…そこからなのかよ。
内容はどうあれ、遠巻きにひそひそとやられるものほど鬱陶しいものはない。
やれやれともう一度深くため息を吐いた。
ハクアもあれで俺もこれでは、話すどころではない。まあ昼休みにでもなれば話せるだろう。
「ヒッキー…」
ぼーっと外を眺めていると、背後から声をかけられた。
ちらっと視線をやり、由比ヶ浜がいるのを視認する。まあこんな呼び方するのはこいつしかいないんだが。
視線で先を促すと、由比ヶ浜はもじもじしながら話を続けた。
「あの、ハクアちゃんって…」
お前もかよ…。どうしたって女子はそういう話が好きなんだな。
「…聞くな」
「あ、うん、そ、そうだよねー…あはは…」
俺がうんざりしながら答えると、由比ヶ浜は困ったように力なく笑い、それきり俯いて黙ってしまった。
…なんだよその顔は。
俺はがしがしと頭を掻いて、言葉を選びながら口にした。
「…あーあれだ。実は俺もよくわかってねぇんだ」
「そうなの…?」
「ああ。一応あいつのことは知ってるが……詳しいことはわからん」
嘘は言っていない。ていうか全部真実だ。まじでなんだよこの状況。
「話聞こうにも、あれじゃあな」
ハクアの周りに集まっている連中の方を顎で指し示す。
あの中に割って入って渦中の人物に話しかけるなんて芸当はぼっちには無理だ。
「だ、だよねー…。…ハクアちゃん、可愛いししょうがないよ」
「…そうだな」
どうでもよさそうに適当な相槌を返すと、由比ヶ浜は納得したのかしてないのか、「じゃあ、また」と小さく手を振って教室の中へと消えていった。
その姿を見ながら、最後にもう一度軽くため息を吐く。
由比ヶ浜の記憶が消せるのなら、いっそ俺の記憶も消してくれればよかったのに、と俺は益体もないことを考えていた。
× × ×
現国の授業が終わった後、教卓に立つ平塚先生は俺に目を合わせて名前を呼んだ。
「…比企谷」
「はい」
返事をしたのは俺ではなく、もう一人の比企谷だった。
順応するの早ぇよ。慣れない名前呼ばれてよく咄嗟に反応できるな。
「ああ、いや。君ではなくてだな…」
平塚先生はそう言うと、ハクアから俺の方に向き直った。かと思えば、やや下を向いて視線を外して言葉を続ける。
「その…は、はち…八幡、の方だ…」
…いや、先生が生徒の下の名前呼ぶだけで照れるっていうのはどうなんですかね…男に免疫なさ過ぎるでしょ。
おかげで俺まで顔が熱くなっちゃったよ。
「この後、私の所まで来るように」
平塚先生は軽く咳払いをして、いつもより若干強めの口調で用件を言いつけて教室を出ていった。
えーなんで呼び出し…心当たりないんだけど…。
不意打ちの呼び出しに出だしが遅れ、見渡すとハクアの周りにはすでに人が集まっていた。また逃したか…。
諦めて教室を出ようとすると、ハクアと目が合った。縋るようにこちらを見てくるが、残念ながら俺にはどうすることもできない。
そのまま通り過ぎ、一先ず用事を終わらせておこうと俺は職員室に向かった。
「どういうことだ?」
言われた通り平塚先生の下にのこのこやって来ると、開口一番に睨みつける様な目で問われた。後ろめたい事はないはずなのに、その目に恐れてつい答える声が震えてしまう。
「な、なにがでしょうか…」
「ハクア君のことだ」
先生までそれですか…聞きたいのは俺の方なんですけど…いい加減ハクアと話をさせてほしい。
打ち合わせておかないと、こうして聞かれた所で答えることもままならない。
「…さあ、俺にも何が何だか」
「とぼけるつもりか?」
「い、いえっ、決してそういうわけじゃ…」
ちょ、まじで恐いんですけど。なんでこんなに怒ってるのこの人…俺なんかした?何もしてないよな。してないはず。大丈夫だ。
「苗字が一緒というのは、その…」
俺が自問自答していると、先生はさっきまでの殺気を収めており、言いづらそうに言葉を詰まらせた。
そして、おずおずと口を開いた。
「け、結婚、してるからじゃないのか…?」
「………は?」
冗談で言っているのだろうか。そうだよな、本気でそんな馬鹿な考えするわけないよな。
ならばここは俺も冗談で返すべきなのか。
しかし、結婚に関して平塚先生に冗談を言うのはよくない気がする。
ここは至極真っ当な答えを返しておこう。
「いや、俺まだ結婚できる歳じゃないですし…」
「そ、そうだよなー!いやぁ、私もわかってはいたんだがな。世の中万が一ということもあるからなー!よかったぁ、生徒にまで先を越されたかと思った…」
おいおい、大丈夫かよこの人。生徒と張り合うとか、もう周りの人みんな結婚しちゃったの?誰かもらってやれよ…。
「いやしかし、君と住所が同じだったものだから気になってな。兄妹というわけでもないんだろう?」
なんだそれ。どういうつもりだあいつ。というか段々わかってきちゃったんだけど…。
いや…考えすぎだな。俺の住所を居住地としたのも便宜上書いただけだろう。そのはずだ。
そんな事を考えて俺が言葉を詰まらせていると、先生はすまなそうな顔で軽く頭を下げた。
「ああ、すまん。君にも色々事情があるのだろう。こういうことを聞くのはよくなかったな。悪い」
「いえ…すいません。ありがとうございます」
別に騙しているわけではないのだが、そう言われてしまうと逆にこちらが申し訳なくなってしまう。
平塚先生は軽く手を上げ、タバコに火をつけた。
「…そうだ。由比ヶ浜の依頼は解決できたみたいだな」
突然出てきた由比ヶ浜の名前に、じわりと背中に汗が滲む。
「あ、あーいや、解決ってほどでは…あいつ何か言ってたんですか?」
「何も聞いていないよ。ただ、由比ヶ浜の様子を見ればわかるさ。前よりいい顔をしているからな」
「……そうですか」
俺にはよくわからないが、生徒をよく見ている平塚先生が言うのならそれは正しいのだろう。やはり由比ヶ浜の心はあの時に満たされたということなのか。
…忘れたいと思っても、人間そう簡単には忘れられない。全くもって厄介なことを抱え込んでしまった。
「…まあいい。これからもよろしく頼むよ。雪ノ下のこともな」
「…あいつは俺なんていない方がいいって言うと思いますけどね」
半ば八つ当たりのように皮肉を返すと、平塚先生は顔を歪めて「かわいくないやつだ」と笑った。
俺は軽く一礼して職員室を後にした。
× × ×
職員室から出ると、疲れ果てたハクアの姿があった。どうやら連中から逃げ出してきたらしい。
本当なら聞きたいことも山々だし文句の一つでも言ってやりたい所だったが、「八幡…」と縋るように言われてはその気も削がれた。
「…大丈夫かお前」
「大丈夫じゃないわ…人間が集まるとあんなに手強いなんて…」
「自業自得だろ…」
言って、俺は先を歩く。
ハクアはたたっと駆け足で横に並び、横目で俺を見ながら口を開いた。
「…なんで助けてくれなかったのよ」
「無理言うなよ」
「ホウシブでしょ?」
「関係ねぇな」
ハクアはキッと睨み、すちゃっと鎌を振り上げるような仕草をしたが、当然その手に鎌はなく所在なさげに構えを戻した。その勢いをクラスで見せろよ…。
「私にはこのやり方、向いてなかったみたいね…」
「何の話だ」
「…こっちの話」
よくわからないことを言って、肩をカクッと落とす。
勝手に転校してきて勝手に落ち込んで、めんどくせぇなこいつ…。
そんなんじゃ聞きたいことも聞けないし、文句も言えないじゃねぇか。いつものドヤ顔はどうした。
まあ励ますつもりじゃないが、貴重な昼休みも半分ぐらいしか残ってないことだし、俺は今一番しないといけないことを提案した。
「…とりあえず、飯食うか」
「…うん」