広西大洗奮闘記   作:いのかしら

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どうも井の頭線通勤快速です。
今回は会長と柚ちゃんと華と麻子による解説回となります。本編の流れとは直接は関係していないはずです。
あ、開票始まった。


広西大洗奮闘記 生徒会+@と学ぶ戦間期中国史講座 下

生徒会+@と学ぶ戦間期中国史講座 下

 

小山「どうもみなさんこんにちは。いつも『広西大洗奮闘記』をお読みいただき誠にありがとうございます。閲覧数が日々伸びるのを眺めるのが作者の至福の時だそうです。」

 

角谷「ありがとねー。」

 

五十鈴「今回は10話の解説会の続きでしたよね。何の解説をするのですか?」

 

角谷「この作品のタイトルに関するものだってさ。」

 

五十鈴「この『広西大洗奮闘記』ですか?」

 

角谷「そう。この広西が何かを説明しなくちゃなんない。ストレートにバシッと言っちゃってもいいかな?」

 

小山「ここまで読んで来られた方なら分かるとは思いますが…どうでしょうか?」

 

角谷「それじゃ、クイズ形式にしよっか!」

 

小山「そこまで広西、が使われているものはない気がしますが。」

 

検索中……

 

五十鈴「……ありませんね。」

 

角谷「うん……」

 

小山「他に出てくるのが鎌倉のコンビニだけって……」

 

冷泉「つまり、完全に隠した『つもり』だったわけだな。」

 

角谷「じゃあ言うしかないね。じゃ小山、よろしく。」

 

五十鈴「とその前に注意です。」

 

作者からこの変な設定だらけの駄文を読んでくださる心の広い読者様への注意

・WIKI参考にしてます。

・キャラ崩壊。

・独自見解が混じります。(思想的な寄りはできるだけ抑えるつもりです。)

・解説にネタを混ぜますが、実際の歴史とは一寸たりとも関係はございません。

・これで歴史を勉強した気にならないように、特に受験生!こんなの読むなら資料集や教科書見ろよ!今回は特に受験に関係ない話も載せるから!

・これも歴史上のいかなる人物、出来事、思想を評価、賞賛、非難するものではありません。

・変なところあったらコメよろし。てか絶対あると思う。

・物語本編の流れとは関係しません。

 

登場人物

解説 小山柚子(メイン)

補足 冷泉麻子、角谷杏(ツッコミ)

疑問提示 五十鈴華(?の提示とか)

その他多くの歴史上の人物のみなさん

 

小山「今回のこの広西、は中国南部にある現在の広西壮族自治区のことです。実際は少し異なるのですが、だいたい同じと理解していただいてかまいません。中華民国成立初期、広西省は他の多くの省と同様軍閥による支配がなされていました。

今回はここと隣の広東にいる軍閥の方たちが出てきますので、そこの方たちの紹介とその歴史を触れておきたいと思います。」

 

冷泉「予備知識で持っている人とかほとんどいないだろうからな。」

 

小山「まず、なぜこのように清朝崩壊後の中国は軍閥による群雄割拠状態になったのか説明します。清朝末期においての中国南部の一大反乱である太平天国の乱が広西省の金田村で発生し、それと前後して地方の異民族などが反乱を起こしました。これらは鎮圧されましたが、その後清は光緒親政によって満州人を中心とした中央集権的政府を作ろうとしたため反乱を鎮圧した漢族の有力者らからの反発を食らい、地方と中央の分裂が深刻化しました。

また、その後に成立した中華民国も大総統よりも議会の権力が強く、地方にも一定の権限を与えていたため、袁世凱政権が成立しても地方はその土地の有力者が支配するような状況でした。そして袁世凱が死亡すると地方勢力の力が強まり、本格的な群雄割拠状態になったのです。彼らは教育、衛生、軍事などの面で支配地の近代化を進める一方、各地で互いに争いを繰り広げました。」

 

角谷「そして今私がいる広東とそこのお仲間広西による中国国民党中央執行委員会西南執行部と中国国民党国民政府西南政務委員会っていうのも扱い的にはその地方勢力の一つだね。今後はこれら二つを纏めて『西南派政権』と書くことにするよ。」

 

小山「まずはこの西南派政権の成り立ちから見ていきましょう。ことは北伐ののちに蔣介石が南京政府での権力強化を進めていたことにある一人の男が反発したことから始まります。その人の名は胡漢民、字展堂。人物については後述しますが、1931年に中国国民党の立法院長であった彼は蔣介石が中華民国訓政時期約法を制定する際に反対し、蔣介石と対立します。

それに対し蔣介石はその年の2月に立法院長の役を解き彼を捕らえて軟禁し、その法を可決させます。この強権的な政策に反発した汪兆銘や孫文の子の孫科などが広州で反蔣介石の広州国民政府を樹立しました。また同時期に満州事変が勃発し国内世論としても大同団結の動きが出てきます。

これにより南京政府と広州政府との間で妥協がなされ、南京政府と広州政府を統合する代わりに、蔣介石は国民政府主席を辞任し、広東省の政務機関である西南執行部と西南政務委員会に多大な権利を与えました。実質的に外交権以外の全ての権限、例えば内政、軍事、財政、教育、司法などに関してはほぼ握っていたようです。」

 

五十鈴「ほぼ独立政府ですね。」

 

角谷「例えば広東省では儒教に即した授業が行われてたみたいだしね。」

 

小山「この政権は名目上は蔣介石政権の下にありながら、実質的には西南地域、広東省、広西省、雲南省、貴州省、福建省の五つを支配する政権でした。西南派政権の構成員はほぼこの5省、特に広東省の者によって構成されており、その中心は政治における理論的支柱の胡漢民、そして広東省の軍閥だった陳済棠が握っていました。即ち軍事と政治の両輪のもとこの政権は運営されていたわけです。」

 

冷泉「これについては南京政府についても言えるな。南京政府において軍事は蔣介石、政治は汪兆銘だったわけだ。」

 

小山「南京政府はそれまでの蔣介石、胡漢民体制から林森をお飾りの主席とした蔣介石、汪兆銘体制になった訳ですから、そうとも言えますね。しかし、西南派政権のほうも南京政府に取って代わることを目標とする胡漢民と地方政権として現状維持を望む陳済棠の間では確執があったみたいです。この西南派政権は元々反蔣、反共、反日を掲げていました。その為日本に対し宥和的な政策をとっていた蔣介石とは対立していました。

実を言うと胡漢民はこの西南派政権設立前は中央集権的な国民党による軍事政権成立に賛成しており、その為の反軍閥戦争も支持してます。ですが反蔣の立場を示すため考えをまるっきり反対に変えて地方分権を求めるようになります。」

 

角谷「私こういうころころ考えを変える奴は好きじゃないねー。やっぱり人の上に立つなら芯はしっかりしてないと。」

 

小山「この後共産党の追討を続ける蔣介石に対し、胡漢民はこれを自殺政策とまで呼んで非難します。即ち日本を追い払ってこそ国内が安定すると主張しました。この背景には蔣介石が執拗に共産党を征伐したことにより広東省周辺の共産党員が減少、影響も低下したため共産党への敵視が薄まっていたからとも考えられています。」

 

五十鈴「なんかあべこべというか何というか……」

 

小山「ですが1934年には共産党による中華ソビエト共和国の根拠地瑞金が陥落、長征に出たことにより近くの共産党の影響はさらに大きく低下しました。これで三つの反、のうち一つはほぼ意味をなさなくなります。そしてもう一つ、反日の考えも崩れていきます。胡漢民は中国と日本の戦争において恐るべきは泥沼戦による経済停滞であると主張していましたが、口では言えても現実味は薄いものでした。

元々日本が中国において活動していた華北と西南地域との距離差も影響して、あまり反日は逼迫した問題とは言えませんでした。そこに対蔣介石政権の布石として日本が介入します。日本は松井石根らを中心とした日本大亜細亜協会による西南派政権への工作による『聯日の幻想』によって日本に対する警戒を薄めることに成功します。」

 

冷泉「この松井石根さんは日中戦争時に南京を攻略し、戦後東京裁判で死刑判決を受けているな。」

 

小山「この西南派政権への工作の例として1934年の『両広華僑銀行』案というものがあります。これは南洋華僑の本国への送金をする際の銀行を広州に置くという案です。これは日本にとってそれまで香港経由で行われていた送金を日本に都合のいい場に移すために行われました。西南派政権からしても当時南京政府によって幣制改革や浙江財閥をバックとした税制を領内で施行されたため、西南派政権も財政的基盤としてこれを求めていましたが、結局日本政府が西南派政権を信用できずこの計画は流れてしまいます。

また先ほどの経済面においてもそうですが、その他にも国境への軍隊駐留など蔣介石政権は西南派政権に対して財、軍両面で圧力をかけていきます。即ち、一番の敵は蔣介石だったわけです。」

 

角谷「でも私たちのいる時代はそうでもないっぽいけど?」

 

小山「もうこの時期には既に反蔣の運動は西南派政権内部の中央進出派と地方政権派の対立により限界を見せはじめていました。そしてさらにこの前年である1933年に東隣の福建省で国民党反蔣派の一部が起こした福建事変を機に、蔣介石は西南派政権に対し勧誘工作を仕掛けます。この福建事変には結局西南派政権は中立の立場を取り、蔣介石の軍によってこれは呆気なく鎮圧されます。

この時に中立と引き換えに蔣介石政権に『改革政治案』というものを提示しました。これは理論的、抽象的部分しか受け入れられませんでしたが、これが蔣介石政権と西南派政権の接近のきっかけとなりました。」

 

角谷「蔣介石もそれまでの反蔣介石運動に対しては武力行動が中心だったけど、この頃になると懐柔とかも使ってくるんだよね。接近してもやっぱり蔣介石は西南派政権が嫌いだったみたいだけどね。」

 

小山「そしてこの後、蔣介石と胡漢民はかなりの速さで接近を図ります。和解工作が行われる中、1935年半ばから胡漢民はヨーロッパに外遊に出かけます。そしてその最中の11月1日に起こった汪兆銘狙撃事件によって胡漢民の南京政府復帰は現実味を増していきます。そして外遊中の胡漢民も反蔣からそれを抑える立場へと立場を変えます。

その翌年に香港に帰国しますが、体調悪化により現地に残っているさなかの1936年5月、胡漢民は脳溢血で急死します。そして政治的支柱を失った西南派政権は陳済棠を中心として両広事変を起こし、反日を掲げて蔣介石政権に対し武力行動に出ます。

しかしこれは陳済棠の部下の裏切りによって内から崩れて、間もなく西南派政権はその役目を終えます。そしてこれにより南京政府はそれまでの政治と軍の指導者による合作体制が終わり、蔣介石による軍部独裁政権が成立することになります。」

 

角谷「いやー、長かったね。」

 

小山「と言っても約5年ですが。」

 

冷泉「それでこの後はどうするんだ?」

 

小山「ちょっと付け足し程度に西南派政権の軍備についてちょっと言おうかと。これでも他の軍閥よりは突出した軍備を保有していたんですよ。」

 

五十鈴「お金ないのはそれが理由なのではないですか?」

 

小山「まぁそれもあるかもしれません。とにかく簡単に纏めると陸軍は広東省12万、広西省3万を保有していました。さらに広西省は自警団制とよばれる徴兵制度によって両広事変の際に20万の部隊を編成してます。」

 

角谷「この時代の中国で徴兵制度を導入していたところは少なかったんだよね。蔣介石政権もそうだったらしいし、ある意味で中国の中では先進的だったわけだ。」

 

小山「ですが蔣介石は中央軍のみで99万人の陸軍を保有、さらに第5次共産党追討次には100万の兵力を動員しており、対するには十分とはとても言えませんでした。ですがそれだけではなく、地方政権としてはほぼ唯一独自の空軍を保有していました。機体数は輸送機、練習機などを込みで広東省に約120機、広西省に約50機です。これは当時の蔣介石政権の保有していた機体数が約300機であることを考慮すると充実していた方ではないかと思います。」

 

冷泉「だが問題があった。これは蔣介石政権にも共通して言えるが、当時まだ中国には機体を生産、整備するに十分な工場が無かったんだ。そのためこれらの機体もアメリカ、イギリス、イタリア、ドイツ、日本などから買ったものしか無かった。そのために日中戦争時に中国空軍は開戦初期は奮戦したが機体の補充が間に合わず劣勢になってしまう。」

 

小山「こんなところでしょうか。海軍はいたことにはいたみたいですが、輸送艦福安以外は何者か不明でした。他には海虎、宝壁、広金という3隻があったみたいですが、これらが何か分かる方は教えて頂けると有り難いです。」

 

角谷「ありがとねー。それじゃ、19話以降作品に出てきた実在した人たちを紹介して終わりにするよ。」

 

 

李宗仁(字 徳鄰)

1890年広西省臨桂の生まれで、中華民国の軍人、政治家。新広西派の主要な指導者と言われる。1924年の旧広西派の陸栄廷の失脚後混乱状態にあった広西省を統一し、広西省の統治を始める。北伐にも協力し各地で北方軍閥軍を破る戦功を挙げるが、その後地方勢力の力を削ごうとする蔣介石と対立。蔣桂戦争、中原大戦と二度の反蔣戦争を引き起こすが、いずれも敗れる。

1931年に広州国民政府が樹立されると新広西派もこれに参加、再び広西省支配を取り戻す。この後広西省で『三自三寓政策』や日本の航空顧問団の受け入れなどを実行し、多方面で実績を挙げる。両広事変では陳済棠と同調するが、敗れたのちにも広西省の支配を承認され、日中戦争にも参加している。

この日中戦争次には日本に対して大きな打撃を与えたと中国内に宣伝された台児荘の戦いを指揮した(実際には打撃は与えたものの日本側の戦略的撤退で、後の徐州戦役に繋がる)。日中戦争終結後は国民党政府の幹部として中国国民党副総統、のち総統に就任するが、共産党による中国統一を止めることはできず、アメリカに逃亡する。しかしのちに中国に帰国し共産党政権から歓迎を受け、そのまま北京で没。

余談だが書道が上手い。

ちなみにHOI2だとスキル3攻勢持ちの少将で、恐らく林彪、朱徳、毛沢東、ファルケンハウゼンの次くらいに中国では優秀な将軍。また研究機関としてはスキル4の人海戦術適正と火砲持ちで、ドクトリンにおいては中国ではファルケンハウゼンと白崇禧の次くらいには優秀だったと思う。

 

白崇禧(字 健生)

1893年広西省桂林の生まれで、中華民国の軍人、政治家。李宗仁と共に新広西派の主要な指導者と言われる。祖先はペルシャ商人で、そのため白崇禧もイスラーム教徒だった。李宗仁と共に広西省の支配を確立すると、北伐にて各地で勝利を挙げ、その功績から「小諸葛亮」と渾名された。ちなみに中国では一番の戦略家といえば諸葛亮孔明とされていることからもその能力の高さが伺える。

その後も李宗仁と共に広西省支配を行い、共に台児荘の戦いも指揮している。この日中戦争において焦土作戦による総力戦を提唱し蔣介石に受け入れられている。その一年前まで両広事変などで敵対関係にあったことも考えると相当信頼されていたことがわかる。また3度に渡る長沙会戦を指揮して日本軍を撃退している。

国共内戦時には共産党の林彪が占領した四平の奪回に成功し、これが国民党側の唯一の勝利となっている。台湾での反政府暴動である二、二八事件では参加した学生に条件付きで恩赦を与えるなどしたため現地の人からの敬愛を受けた。

しかしやはり蔣介石とはウマが合わず、国共内戦終盤には防衛大臣を罷免され、南方で最後まで抵抗したのち台湾に脱出したが、その後は実質隠居状態だった。1966年没。台北のイスラーム墓地に埋葬されている。

ちなみにHOI2だとスキル2伏撃持ちの少将で、まあ優秀。研究機関としてはスキル4の電撃戦適正で恐らく中国最優秀かな?でも中国で電撃戦は要らんから微妙……因みにこれまでの中国には満州国は含まないです。含んだら一位独占するから。

 

Sir William Peel

1875年イングランドのNorthumberlandの生まれで、イギリスの政治家、外交官。1930年から1935年まで香港総督を勤める。香港総督の間は電話の自動化やイギリスとの定期フライト就航などの実績を残す。その前勤めたクアラルンプールと香港の通りにその名が残る。

実は5月で退任しているのですが、後任の人が来るのが12月だったので今作ではこの人を出しました。確認が取れずすみません……

 

Samuel Hoare, 1st Viscount Templewood

1880年ロンドンの生まれで、イギリスの政治家、外交官。第3次スタンリー=ボールドウィン政権の外務大臣を勤める。その他にもインド担当大臣、内務大臣、空軍大臣などを歴任する。英独海軍協定の締結とイタリアのエチオピア侵略に対してホーア-ラヴァル協定を結び、イタリアの領土拡張を許した責任を取って辞職する。

 

Stanley Baldwin

1867年イングランドのウスターシャーの生まれで、イギリスの政治家、実業家。保守党の党首として3度に渡り首相を勤める。第2次政権では男女普通選挙権を認め、第3次政権ではドイツのヒトラー政権に対して消極的宥和政策を取る。

 

John Simon, 1st Viscount Simon

1873年マンチェスターの生まれで、イギリスの政治家。大蔵大臣や外務大臣、内務大臣、司法長官などを歴任する。1935年の時は内務大臣。

 

陳済棠(字 伯南)

1890年に広東省防城(現在は広西チワン族自治区)の生まれで、中華民国の軍人、政治家。西南派の指導者の一人とされる。北伐時には広東省に残って海南島の攻略を指揮する。中原大戦では蔣介石側につくも、

その後広州国民政府樹立を機に蔣介石と対立。胡漢民と共に西南派政権を立て広東省を実質的に支配する。この間の産業の育成やインフラの拡充については一定の評価が為されているが、教育においては孔子崇拝を強化したり占星術や風水を人事や財政に持ち込んだりもしている。1936年に両広事変を起こすも失敗し、これにより陳済棠の広東省支配は終わる。国共内戦終盤には海南島を守備するも失敗し台湾に脱出。1954年に台北で病没した。

ちなみにHOI2だとスキル1大将で補給管理と古典派持ち。李宗仁と同い年なのに古典派持ちという悲しさ。研究機関としてはスキル3と上の二人には劣るも、人海戦術においては李宗仁と適正によっては同等くらいに使えたりするのかなぁ。

 

李漢魂(字 伯豪)

1895年広東省呉川の生まれで、中華民国の軍人。広東派の軍人の一人とされる。北伐時に軍功を挙げ、その後は蔣介石派の張発奎の下で蔣桂戦争などを戦う。汪兆銘らが広州国民政府を樹立すると李漢魂もこれに参加、師団長に任ぜられる。

しかし1936年に陳済棠によって実戦部隊から名目上の地位に降格させられたことにより関係が悪化。両広事変の際には陳済棠を裏切り、内部崩壊の一因を作る。日中戦争時には武漢会戦などを指揮、善戦する。国共内戦終結後李宗仁と共にアメリカに脱出し、そのまま静かに余生を送る。1987年、ニューヨークで没。

 

余漢謀(字 握奇)

1897年広東省高要の生まれで、中華民国の軍人。広東派の軍人の一人とされる。蔣桂戦争を蔣介石側で戦ったのち、広州国民政府に加わる。大同団結ののちは紅軍追討に参加する。両広事変時には陳を裏切り、内部崩壊の一因を作る。

日中戦争時には李漢魂と共に広東省の守備につき、日本軍を相手に善戦。国共内戦敗北後台湾に脱出し、そのまま1981年台北で没。

 

胡漢民(字 展堂)

1880年広東省番禺の生まれで、中華民国の政治家。日本に留学し法政大学を卒業後、中国同盟会に加入。辛亥革命時には広東省での革命を成功させる。袁世凱の独裁成立後は孫文の活動に協力し、要職につく。一時政治の表舞台からは引くものの、上海クーデタから南京政府に協力する。

しかしのちに蔣介石と対立し軟禁され、解放後は三民主義信奉者として西南派政権の政治理論的支柱となる。しかし晩年は蔣介石に接近し、1936年に広州にて脳溢血で急死。

 

林雲ガイ(字 毅公)

1881年広東省信宜の生まれで、中華民国の政治家。孫文の政府では財務、法務において要職を歴任する。1935年時には広東省政府主席。西南派政権の内政に手腕を振るった。1948年没。

ガイはこざとへんに亥なのだが変換出来ないのでご容赦を。

 

黄旭初(字 不明)

1892年広西省悟州の生まれで、中華民国の軍人、政治家。新広西派の主要な指導者とされる。新広西派の広西省統一に協力した後、北伐に李、白らが出向くとその留守を預かった。上海クーデタによって省内の共産党を粛清し日中戦争時にも省内で共産党の大弾圧を実施するなど、共産党に対する不信感、警戒心が特に強かった。1931年から国共内戦敗戦まで18年に渡り広西省の内政に手腕を振るった。敗戦後は香港に脱出し、そのまま現地で1975年没。

 

李品仙(字 鶴令)

1890年に広西省悟州の生まれで、中華民国の軍人。新広西派の軍人の一人とされる。元は蔣介石派の軍人の部下として北伐、蔣桂戦争を戦うが、後に新広西派に帰順。南寧軍官学校の校長などを勤め、日中戦争時には徐州会戦、武漢会戦で部隊を指揮する。またこれと共に共産党に対する粛清も行っている。国共内戦後は台湾に逃れ軍人を引退、1987年に没すまで隣組の長として余生を送る。

 

黄光鋭(字 不明)

広東航空司令。アメリカに住んでいた台北系の華僑。少なくとも1932年から両広事変まで広東航空司令を勤めた。

 

アーサー=チン

1913年アメリカオレゴン州ポートランドの生まれで、中華民国空軍、アメリカ陸軍航空隊のパイロット。最終階級は少佐。広東系の父とペルー系の母の間に生まれ、1931年の満州事変を機に広東空軍に入隊し、両広事変後は中華民国空軍パイロットとして日中戦争に従軍。

日中戦争末期に中華民国空軍を除隊しアメリカ陸軍航空隊に入隊。戦後中国航空公司を勤めた後、ポートランドに帰り郵便局に勤務した。1997年ポートランドで没。アメリカでは第二次世界大戦初の撃墜王として認められている。

 

熊少康(字 不明)

1934年から日中戦争時に広州の陥落する1938年まで広州市商会の主席を勤める。実はこの選出のための選挙では17位だったことから、実際は国民党、そして市商会内の派閥の妥協により選ばれたと思われる。

 

 

小山「……多くありません?」

 

角谷「こんなもんじゃない?」

 

冷泉「さらに今後も新たな人が出る予定だからな。今後は解説回を書かない予定だから、その都度解説するぞ。」

 

小山「というより李宗仁と白崇禧の解説がやけに長い気が……」

 

角谷「そりゃ『広西』大洗奮闘記なんだから新広西派の人たちの話は長くなるよ。」

 

五十鈴「率直に疑問なんですが……」

 

角谷「どうしたの?」

 

五十鈴「HOI2って何ですか?」

 

角谷「スウェーデンのパラドックスインタラクティブ社というところが作った、第二次世界大戦の前後をモデルにしたパソコンゲームだってさ。正式名称はHearts of Iron IIっていうよ。作者が好きなんだって。」

 

小山「作者自分のパソコン持ってないですよね?」

 

角谷「ないよ。というよりこのゲーム持ってないよ。ニコ動の実況見てハマったんだって。まぁ詳しく話せば長くなるし、ニコ動とかでガルパン&HOI2の動画見た方が分かりやすいから良かったら見てみてね。」

 

 

小山「これまでの参考資料の一部です。高校の教科書とWIKIは除きます。一部どこのページ忘れてしまったので見つけ次第のせておきます。」

 

1930-1940年代中国華南地域における商人組織の研究 張集歓 2015年

http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/61554/1/Chapfun_Cheong.pdf

 

日中戦争と中国空軍 萩原充 2004年

https://www.koryu.or.jp/08_03_03_01_middle.nsf/1384a27fc6686a1a49256798000a62f6/398bea4145bfd29f49256f0b002cf44b/$FILE/hagiwara2.pdf

 

ゼークトの中国訪問 一九三三年 ――ドイツ側の政治過程および中国政治への波紋―― 田嶋信雄 2008年

http://www.seijo-law.jp/pdf_slr/SLR-077-005.pdf

 

国民新聞1935年6月10日号 支那陸軍の全貌

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10186344&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

神戸大学図書館データ作成

 

神戸又新日報1932年5月6日号 陳策の艦隊に向け第一弾を放たん

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10099555&TYPE=HTML_FILE&POS=1

 

余談

 

ダージリン「どうしたのペコ、そんなそわそわして。」

 

オレンジペコ「いえ、今日誕生日だったのでイギリス史や香港史関係で出番がないかと……」

 

ダ「総督がおいでになったのと私たちはもともと出てないから無いわね。それにしても誕生日おめでとう、ペコ。」

 

アッサム「ダージリン様、このままだと我々がこの作品に出る確率は1%も無いかと思われます。」

 

ダ「『不死の感情』の方で活躍するから問題なくてよ。」

 

オ(手が震えてらっしゃる……)




今作品連載の今後についてなどを活動報告に書くので、質問等の答えや質問などはそちらにお願いします。

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