人の思考を阻むのは案外簡単なもの。
部屋では角谷がキーボードを叩いていた。画面にはアルファベットが適度に隙間を取りつつ整然と並べられている。
「会長、船舶科と農業科から返答が得られました。」
隣の部屋から両手にペンとメモ用の小型のノートを握った小山が部屋から戻って来る。
「それで?」
「農業科からは人員さえ得られれば艦首付近の農地のさらなる拡大は可能と、ですが水と肥料と土砂の流出を防ぐための一定の面積の林が必要とのことです。」
「肥料、生ゴミ出たらそれで何とかならないかな?」
「古典的ですが、考えてもいいかもしれません。やはり薬品関連は授業優先にせざるを得ませんから。林も何とか残せれば、といったところでしょうか。」
「薬品、といえば化学科から要求来てたよね。」
「なんやら授業準備で過って塩酸の瓶を割ってしまって数が足りないので補給が受け取れたら優先的に欲しいと……」
「無理だね。」
「ですね。やはり食糧と日用品無しには。」
「日用品、って私たちが求めてきたものではないけどね。」
「過去ですしね。」
「それで、船舶科は?」
「もし補給を安定して受けられるならば学園艦を止めてそれのエンジンなどの可動部の点検と原子力関連の者をを残せば、即ち学園艦を再び可動出来る状態にするための最低限必要な人材を残してくれれば5割以上の人員は回せるだろうとのことです。」
「5割以上か。それは大きいね。」
「ではそれも過半した上でこの農水産業増強計画を立てていきます。」
「あとは坂木さんとこでの今日の紙切れとの交換は?」
「今日は束が3つ減ったそうです。」
「ふぅむ。これである程度は交換が出来たかな?」
「そうですね。お差し出し出来る貴重品もそれなりに有りますが、本当に売りたい物はもう出てきてしまっているので、この先の価値の高いものの増量は厳しいのでは?」
「……そうなると、使えそうなものを今日のうちに持ってきてくれる?」
「……明日の夜に出発ですか。」
「…………っと、よし!」
角谷はずっと叩いていたキーボードから指を離して斜め後ろに大きく伸びる。
「んー、終わったー!これを明日松阪先生にチェックして貰えればオッケーだ!」
「おー。おめでとうございます!」
「これで何とかイギリスと上手くいけばいいけど……」
「イギリスでもその後を考えねばなりませんね。」
「それまでには原子炉がマシになってくれればいいけど。」
「それと、住民の不満も気にしなくてはなりません。もう配給を始めてから2週間程、どうにかして不満を解消させませんと。」
「……爆発しかねないよね。でも下手に今1回配給増やして味を占められたりあとあと食糧が足りなくなる方が怖いんだよね。まぁ、交渉纏めれば済む話なんだけどね。」
「流石にこの様子だと農業科、水産科の増産が間に合うか分からないですしね。」
「……と、そうそう。今日も夕方の配給組7時くらいに帰ってくるかね?」
「五十鈴さんたちならそのくらいには帰ってくるんじゃないですか?」
それを聞いた角谷は背もたれから身を起こして指を小山の方に向ける。
「それじゃあさ、8時くらいに艦橋の大浴場取ってくれない?」
「大浴場ですか?いつも通りに学園のシャワー室ではないのですか?」
「今日は折角気分がいいし、それに不満抑えるために住民に開けている娯楽の一つなんだから、私らが使っても良いよね。」
「はぁ……船舶科にまた連絡しておきます。」
「いや、私が連絡しとくから小山は隣のみんなにそう伝えといて。あと一応その報告机に置いといて。」
「分かりました。」
小山は持っていたノートを角谷の机の上に置いて隣へ向かっていった。角谷も久々に席を立ち、痺れる足を屈伸で戻してからゆっくりまた別の隣の部屋へ向かう。無線からイヤホンを手に取り、船舶科のいる艦橋へ繋げる。
「もしもし。船舶科の長坂です。」
「長坂ちゃん?角谷だけど。」
「今度は会長ですか。人を送れるかどうかは先程小山副会長にお伝えしましたが?」
「あーちがうちがう。まずは今夜8時から1時間艦橋の大浴場取れる?」
「大浴場ですか?生徒会用のではなくて?」
「いやー、流石に生徒会の人間を全員連れてくると生徒会用だと狭くてね。」
「うーん。まぁ、今日1日だけなら大丈夫ですかね?試験始まってますし、そうなると学生客も減るので。というより、生徒会全員こっちに来ちゃって仕事大丈夫なんですか?」
「まー夜になれば物流関係の仕事も減るし、今日は明日からに向けた交渉の準備が一応くぎり着いたからね。」
「それなら良いのですが。」
「あと飲み物持ち込み大丈夫?」
「うーん……こぼさないでくださいよ。」
「ありがと。あとは明日からついてくる人は?」
「こちらで大橋班から2名選んでおきました。前の様に出発前に顔合わせで。」
「おっけー。それじゃあ、よろしくね。」
角谷はいつもの場所にイヤホンを戻して鼻歌を拭きながら隣に戻ってきた。
「……ん?やけに騒がしいね?」
すぐに生徒会室の方が騒がしいことに気づく。その訳は扉の前に辿り着くとすぐに分かった。
「温泉だー!」
「やっと満足にシャンプー使えるよ!」
「キター!」
角谷は手を掛けたドアノブから手を離し、自分の席に戻り、画面を眺める。
「……ふぅ、何処にも苦労かけてるねぇ。とにかくこれを成功させねば、私たちには明日がない。」
8時過ぎに艦橋に到着した生徒会員総員は角谷の先導の元意気揚々と大浴場へと向かった。皆手には旅館で貰うようなグッズを握っている。
「じゃ、よろしくね。」
大浴場の前に立っていた担当の者に場所を空けてもらうと、後ろからの猛烈な圧力を察して角谷は道を空けた。最早奇声に等しい音声とともにその穴から生徒会の者たちが突入する。
「1時間ですからね!」
「はーい!」
小山の呼びかけに対しても軽い返事しか返ってこない。楽しげな会話とともに皆急いで風呂に入る準備を整える。
「小山。例のもの、持ってきた?」
「もちろんです。」
「じゃあ、人数分入れて渡しちゃって。」
「はい。」
小山は風呂に入る者たちに一つづつ注意を付けて手渡していく。そしてその残りが2つになり、それらを角谷と小山が手にとって風呂場へ向かう。中では既に身体をひと洗い済ませた者たちが湯船に浸かって待っていた。
角谷と小山もすぐにそれに合流する。湯気は湯船からもうもうと立ち登るが、角谷は中にいる顔を全て確認できた。湯に入った瞬間はびりっとくるが、時期に腹まで浸かると気持ちよくなり、右手を挙げそのまま肩までつかった。
「ふー。」
「会長!挨拶があるんでしょ!早くお願いします!」
「全く、入って一息くらいつかせてよ。」
「会長、お願いします。」
「んじゃ、今まで私たちは2週間学園艦の存続に向けて働き続けてきた!残念ながら中華民国に対しての交渉は失敗したが、その反省を我々はまだ生かす余裕がある!そして、その時が明日からだ!
私はこの間で必ずや支援を得られるようにする!だから今日は私がこの全ての努力あって交渉に迎えることを自覚するために集まってもらった!生憎乾杯できるものはみんなの手にある茶くらいしかないが、この時間くらいは無礼講だ!私を励ましてくれ!
それでは、柄になく前置きが長くなってしまったが、我々の大洗女子学園の存続を誓って、乾杯!」
「乾杯!」
全員の紙カップが高く掲げられたのちに、その全てが各々の口に運ばれた。小山が素早く紙カップを回収しつつ、角谷は生徒会の者たちの中に突っ込み、軽くもみくちゃにされている。
「ていうか、頑張ってんの生徒会だけじゃないですよ、会長。住民の皆さんと農業科、水産科、船舶科を忘れたら怒られますよ。」
「そーだそーだ!」
「しまった。」
「やっちまえー!」
という感じで水かけ祭りも発生しており、これを外から眺める男がいたら、さながら阿房宮のような光景だろう。まぁ人数は阿房宮の千分の一よりも少し多いくらいだが。
暫くして生徒会の者たちはそれぞれのグループに分かれてお喋りを始め、角谷はそれを抜けて露天風呂へ向かった。外は中とは寒暖の差が激しく、湯船に向け滑らない程度の早足で向かってすぐに入ろうとする。
「っ!」
だが露天風呂は中よりも温度が高く、思わず入れかけた足を上げる。だが次は足が浸かり、そのまま身体を沈めていく。
「会長さん。」
「五十鈴ちゃんか。今ここにいるのはこれだけ?」
「そうですね。他は大浴場にいるか、本格的にシャワー浴びてます。」
シャワー場は全て埋まっており、旅館の温泉定番の羊油のシャンプーが惜しみなく使われている。角谷は手の力を借りつつ、床の石を軽く蹴って華のもとへ向かう。
「今日はみんなの気晴らしですか?」
「まぁそうだね。まさかここまで喜ばれるとは思ってなかったけど。でもさっき言ったこともある。」
「むしろ会長さんって励まそうとするとさらに陽気に励まし返されそうなイメージなんですが。」
角谷の顔は先程までと非常に対照的だ。
「でも、交渉だけは……励まされたくもなるんだ。」
「と言いますと?」
「文科省での交渉で、背中に銃は突き付けられないからさ。」
「……」
「だから、期待を背負ってることを嫌でも身に染み込ませないと精神的にやっていけないんだ。香港でもマカオでもインドシナでもフィリピンでも私たちはよく分からない異界人。何らかの方法で動きは確実に封じられる。それはやっぱり恐怖さ。」
「……残念ながら私には分からないです。」
「分からなくていいさ。自分の命が人に握られている事なんてあって欲しくない。だから交渉に行くのは私と通訳の松阪先生と船を動かす人だけでいい。必要最小限さ。」
「……はい。すみません、別のことで私から一つ聞いておきたいのですか、いいでしょうか?」
「どうしたの?」
「……風紀委員のこと、どう考えてらっしゃいますか?」
「風紀委員、か。」
角谷は首を傾け肩に湯をかける。
「小山副会長は廃校の情報の流出を全力で止め、今回も治安維持に協力してくれている風紀委員を無闇に疑うことはできないと仰っています。」
「……でも、配給後に見に来たり、秋山ちゃんを呼び出したりもしているんでしょ?」
「要件までは確認できていませんが。」
「そして、こちらから与えたとはいえ、この学園艦で数少ない『暴力』を使える機関だ。確かに現状協力してくれているが、今まで暴動などの動きを持ってこないことも疑う要因にはなる。」
「疑い始めるとキリがないとも言いますが。」
「だけど一度生えてしまえば収拾がつかない。その為には全ての芽に気を配らなくちゃいけないさ。」
「……風紀委員はその芽に含まれると。」
「そうなるね。私の前までは共に生徒を統制する機関として余り仲は良くなかったしね。今回くらいだよ、まともに協力したの。」
「ではこちらも風紀委員の動向をつかめた方が良いですかね?」
「そうだね。かといってこちらが疑っているとばれたら向こうは動くかもしれない。細心の注意を払う必要があるね。」
「……分かりました。小山副会長に黙ったままというのは心に来ますが、念のため警戒しておきます。」
「よろしくね。」
角谷は湯の中で足を前に伸ばす。
「それと、一つ提案なのですが、」
「なになに?」
「制服で交渉に向かうというのは、余りよろしくないと思うのですが。」
「ほぅ。それはまた何故?」
「確かに私たちからすれば制服は正装かもしれませんが、相手は我々の常識が通じない人たちです。そして相手からしたら制服はよく分からないミニスカートとリボンのついた襟付きの長袖くらいとしか見られません。」
「ふむ……確かに一理あるね。じゃあ、五十鈴ちゃんは何が良いと思うの?」
「そうですね……次は香港ですか。香港ならイギリス領ですから、ドレスとか?」
「ドレス、ね。似合うかな?」
「ですが爵位を持つ方にあうならば、それなりのファッションは必要だと思いますよ。」
「確かに買取で高い服はあるだろうけど、私着れるかな?」
「丈を何とかできれば大丈夫だと思います。あとは……香港も元中国ですし、チャイナドレスもありかもしれません!」
「ち、チャイナドレス……」
胸の前で手を叩きながらにこやかな顔をしている五十鈴にいや流石にとは言い返せない。
「確かこの前世界史の資料集眺めてた時にチャイナドレスは中華民国が女性公務員制服として決めたものって書いてあったんです。それなら私たちが日本から来たという欠点も抑えられるかもしれませんよ!」
角谷はやっぱり五十鈴ちゃんってどっかしら抜けてるとこがあるんだよな、と少し頭を抱えつつ、この嬉々と話す者の言うことをどうやって否定しようか思いを巡らせていた。
「あ、会長!励まされる張本人が出てっちゃダメじゃないですか!」
「無礼講の間にやるんですから早く来てくださいよ!」
まだ時間のあるうちに他の生徒会の者たちがこっちに来ている。これは好都合と角谷はこの会話を区切ることに成功した。
生徒会の者たちとひと時を過ごし、風呂の時間は終わった。帰りは上着をもう一枚羽織って帰路につく。風呂出た直後だが彼女らはこの後20分歩き、おまけに買い取った貴重品を生徒会室へ運んで貰わねばならないのだ。楽あれば苦ありとはよく言ったものだ。
次の日、10月25日の夕刻、学園艦は東沙群島の西方に辿り着いた。香港はここからほぼ真北にある。マカオはその少し西だ。
学園艦内部の補給船ドックでは長坂艦長の指導のもと出航に向けた準備が着々と進められている。今回はちょいと差し入れの荷物と食糧が増えているので手間がかかり、前よりも準備が長引いている。
「すみません、そちらは準備が整っているのに、こちらが時間をかけてしまって……」
「いいよいいよ。別にこっちもそう急ぐわけじゃないんだから。」
角谷は結局五十鈴の案の折半、自身が持つ一番きちんとした服である長めの黒いスーツに腹に皮のベルトを締めタイツを履いた、お高いフランス料理店に安心して行ける服をチョイスした。背中にはもう1セットの白いワンピースが入っている。そして生徒会の者の一部が角谷の顔に薄化粧を施した。
今回乗る4人は化粧とかに興味を持つ暇もない船舶科2人と男1人と角谷だ。そして角谷も髪型は人並みに気にするが、化粧を余りするたちではない。その為にカバンに増えた一つの入れ物にはその担当者が書いたメモ書きが入っている。
松阪も要求を受けて買い取りのアル◯ーニのスーツを着こなしてきた。
「それで、今回の交渉予定の確認だが。」
「はい。まずは香港、そしてマカオを予定しています。香港の結果は万が一失敗したら一度外洋に出て無線の届く範囲で学園艦に伝える予定です。」
「なるほど。で、前の中国語の提案内容を持っているのは何故だ?」
「一応資料程度には使えるかと。」
「分かった。食糧は2週間分か。」
「無論そこまで長居する気はありませんが、向こうも判断に時間が必要ですからあって損はありません。ですが備蓄にも余裕がないので前みたいにあげるのは厳しいかと。」
「ふむ。」
荷物の搬入も終わり、長坂が2人の娘を連れて角谷の方に来る。
「すみません、やっと終わりました。」
「ありがとね。その子らが今回来る船舶科の人?」
「そうです。こちらの短髪が有馬、こっちの長髪メガネか永野です。共に大橋班で優秀な人材です。」
「じゃあ今回は2人に操縦と通信とか任せるからよろしくね。」
「はい!」
角谷の差し出した手に応えながら2人は元気に返事した。それらの挨拶が終わると、角谷は後ろで待機していた生徒会の者たちと顔を合わせ、一言だけ放った。
「前の出発の時の罰則、有効だからね。」
そのこれに対して、生徒会の者たちは前ほど狼狽えなかった。
その30分後、4人の乗った輸送船は手を振られながら汽笛もなしにゆっくりと補給船ドックを出ていった。香港までは9時間の予定である。夜空は少し曇っているのか、余り星は瞬かなかった。
次回から香港編かもしれない。