その年のホグワーツは暗闇の中にあった。
ハロウィーンに甦った亡霊が還らなかったというように。
初めは一匹の猫。
ミセス・ノリス。
管理人アーガス=フィルチの愛猫。
それから人間が。
襲われた。
凍りついた。
石になって、動かない。
鶏。ずたずたに引き裂かれた。
そんな事件がもう何度も起きた後、そんな日のこと。
大広間、朝食の席。シリアル、トースト、パンケーキ。ベーコン、ハム、ソーセージ。スクランブル、
赤毛の少女──ジニー=ウィーズリーが三番目の兄のもとに現れる。
隣のテーブルに座っていた少年が立ち上がる。アルテア=レストレンジ。再び彼女の鞄に目をやると、赤毛の少女に声をかけた。
「ウィーズリー妹。ちょっとその本見せてくれないか」
反応は即座。あまり芳しいものではなく。
「は?嫌よ。ハリーならともかく何であんたに見せなきゃいけないのよ」
「ジニー!そんな言い方をするもんじゃない。相手は上級生だろう?」
年季の入ったローブ。傍らに大きな鞄。燦然と胸元に輝くバッジ。グリフィンドール監督生、パーシー=ウィーズリー。ジニーの三番目の兄。
「パーシー、今年の組分け見てなかったの?彼はレイブンクローの一年生よ。」
「そういう問題でもないだろう!というか君もだ。婦女子の日記帳を見ようだなんて──」
「ウィーズリーいも──いや、ジニー=ウィーズリー、頼むよ。中身は絶対に見ないから。実家にあった本と装丁が似ていたから気になっただけなんだ。相応に礼もする」
「ふーん。まあ、古本だしそういうこともあるのかしらね。ま、良いわよ。でもほんとに何も見ないか見張らせてもらうわ。それとここじゃダメ。今日の妖精の呪文の授業の後でね」
「わかった。ありがとう」
「どーいたしまして。お礼、期待してるわよ」
「君たち、話を聞きたまえ!」
返答は無い。どちらからも。
「
生徒達の唱和。一斉に各人に割り当てられた羽根や小石、古い教科書が浮かび上がる。
「よし、問題ないようですな。では次の授業からウォームアップは別の呪文にします!」
少年のそれともまた違う甲高い男の声。そこいらの生徒よりも上背の低い教師。フリットウィック呪文学教授。
「では今日の課題ですが、みなさん教科書の八十七ページを開いてください。そこに今週練習する呪文が載っています。では三人一組になって。ああ、ファベール、ありがとう。でもマンゴーはこちらで運ぶから気にしなくて良い」
三人組。前回までは二人一組であったのに。ざわめき。今までのペアの変更が必要であることに。いくらかの二人組は目を見合せて、あるいは一言二言言葉を交わして立ち上がる。そしてつかつかと。別々の組のところに。別れたうちの一組は赤毛と黒髪の二少女。
「レストレンジ、組みましょ。あ、良いかしら?えっと......」
赤毛の少女、その視線の先には乳白色の髪の。夏の空の群青と冬の海の青灰が交差して。
「あたしは気にしないよ」
「俺も構わない。こっちはルーナ=ラヴグッド。後できれば俺を呼ぶ時は
「“ウィーズリー妹”なんて妙な呼び方してるやつに言われたくないんですけど?要するにアルテアって呼べば良いのね?」
「ああ」
その返答も聞かず。青い目の少女達は忽ちに。もう一人の男など忘れてしまったかのように。二人で話に興じていく。
「ねえ、あなたのこと、ルーナって呼んでも良い?」
「もちろん。あたしもあんたのことジニーって呼ぶね」
「みなさん、三人組はつくれましたか?では一人に一つマンゴーを配るので、歩かせようとしてみてください。
ふ、と果実が宙を舞う。音も無く机の上。
プラチナブロンドの少女は杖を引っ張り出して、一番近いマンゴーを叩く。
「
黄金の果実はふらりと立ち上がる。丸い方を下にして。薄いオレンジの足はぺたりと踏み出して、そろりそろり。しかしそれはあまりにも唐突で。苦情。赤毛のグリフィンドール生。
「ルーナ、やるなら先に言ってくれない?」
「あ、ごめん」
マンゴーはゆっくりと机上を一周。それを満足げに見る青灰色の瞳の少女。鞄から雑誌を広げて読み始める。
BANG.突然に破裂音。その前には杖をマンゴー
「危な!ちょっと、自信無いなら止めてくれない?」
「できないから練習するんだろ......」
「そうかもしれないわねー。しっかし誰かさんと違ってルーナは優秀よね。何せ一発で成功したんだし。流石レイブンクロー!それに比べてこの男は......何であんたレイブンクローなのかしら」
「お前だってスリザリンかレイブンクローかの二択だったら迷う余地なくレイブンクローだろ」
「あ、成程。でもコネとか要らないの?」
「嫌でも向こうから寄って来るな」
「何それ。自慢?」
「
「要らないから」
新しいマンゴーが飛んでくる。教卓に目を向ければ移動魔法を使ったばかりの小さな教師。杖を振りつつ魔法が働かないと唸る少女。もう一度、今度こそと杖を向け、空しく爆破音を響かせる少年。
彼が果実を5つ割った後、授業の終わりを意味するチャイムが鳴って。がやがやと生徒達は教室を出て、昼食の席へ。周囲よりも頭抜けて背の高い、少年と赤毛の少女はひっそりと隠し通路に繋がる角を曲がる。
向き直って、少年。
「お礼、何が良い?」
「あ、何。私が決めて良いんだ」
「あんまり無茶な要求は勘弁してくれよ?」
「そーねー、じゃあ、梟が欲しいわ。夏休みで良いわよ。でも私に選ばせて頂戴」
少女、にやりと笑って。
「はいはい。畏まりましたよ、
「え、良いの?半分冗談だったんだけど。まあ良いや、貰えるんなら。はい、日記。そんな面白いものじゃないけどね。私も使ってないし」
少なくとも、見た目は。
表書きは“
裏返して
トム=マールヴォロ=リドル。
マールヴォロ=リドル。
それは悪夢の姿。記憶に潜む。
それは絶望の声。獄卒の悪鬼。
その名を、かつて囚われた地獄の中で聞いた。
そして
「待って、何す──」
「
絞り出すように。
確信は無かった。今、この時までは。
「ああ、そうか。
そうして少年は。
少年は。
もう一度と、杖を。
「
その呪文は、禁断。
その呪詛は、絶対。
その術式は、絶望。
殆ど密着状態から放たれた緑の閃光は、あっさりと日記帳に吸い込まれる。
悲鳴も上がらぬまま。
インクも流れぬまま。
闇の帝王の一欠片は、崩れて消えた。
器の無傷のまま、崩れて消えた。
「え、な、ちょ、なにしてくれてんのよあんた!」
当然の非難。少年は取り合わず、日記帳を握ったまま迷いもなく歩み出す。三歩進んで振り返り、大股に戻って乱暴に少女の手を掴む。
「ついてこい」
「はあ!?てか何処行く気よ!」
「校長室」
「はい?何、わざわざ怒られに行ってくれるワケ?」
「俺としては
「いやだから意味わかんないってば」
進んで、進んで。疑念の目で見られていることに気づきもせず、少年は。迷いなく早足で歩む。そうして辿り着いた先に屹立する一対の
「しまった。校長室の合言葉わかんねえ」
「ばっかじゃないの!?」
少年少女二人、互いに言い争う。その音に掻き消えて、足音。こつりこつりと、黒革の靴の。角の奥から
「何の騒ぎだね」
「す、スネイプ!」
「ウィーズリー妹、
「え、要る?だって
「お前よく本人目の前にしてそんなこと言えるな......」
「あっ」
「グリフィンドール五点減点。それで?」
「うぎゃ」
「
「何の用で、だ」
「貴方には関係ありません。恐らく私の両親に関わるとだけ」
この場の誰も想定していなかった言葉。
ジニー=ウィーズリーは震える声を。
絞り出すように。零れ落ちるように。
恐怖と驚愕。
それは、絶望にも似た。
「どういう意味よ、それ」
だって“彼”は、友人だったのだ。
T.M.リドル。
トム。
初めての、全てを話せると思った。
それが、関わっている。あの、
少女の動転を掻き消すように、魔法薬学教授は口を開く。必要以上に大きな声で。その無生産な思考を押し流すように。
「
その音を聞くと
高い天井。豪奢な装飾。脇の
「
「通しなさい、此方で話を聞こう」
返事。二階から。
螺旋を描いた昇降は、三人が乗ると動き始めた。ぐるりと一回転して校長、アルバス=ダンブルドアの前へ。二階は天井の比較的低い、手狭な感覚すらする空間。純銀の魔法具は煙を吐き、羽ペンと羊皮紙は宙に舞う。四方の壁には幾つもの中身の詰まった
「いらっしゃい、アルテア、ジニー。まずは掛けると良い」
流れるように杖を振る。融けた金のようなものが宙を泳いで、椅子が二脚。少年少女が腰掛けると同時、黒髪の教諭は口を開く。
「では、我輩はここで失礼させていただきます」
男が螺旋階段に消える。それを見届けて、白髭に覆われた口から声を。アクアマリンに似たその瞳で、じっと何十も年下の少年を見据えて。
「話したいこととは、何かね」
答えて、少年。左手の日記、それを差し出す。
「
老人は受け取り、隅々まで検分。中身は白紙。七十年間誰にも使われなかった日記帳。書かれたかつての持ち主の名を呟く。トム、と。
「
つ、と顔を上げ。半円のレンズの奥から見つめる。視線の先。少年ではなく赤毛の少女。
「ジニーや、この日記を君はどういう風に使ったのかね」
努めてやわらかく。怒りはしないと。少女の責任ではないと。続けた言葉に触発されたか、少女。ぽつりぽつりと言葉を連ねた。
“彼”。トム=マールヴォロ=リドル。かつてのホグワーツ生。監督生で
「私のせいなの」
「いいや、君のせいなどではない」
「ああ。あれは、いやあれ
即座の否定。
眼鏡の奥。瞼で目を隠して老人。考え事。君のせいではない、と繰り返し。
不意に。
羽ペンが踊る。同時に浮き上がった羊皮紙になにやら書き付ける。羊皮紙はくるくると纏まって、蝋も無く印章が捺された。老人はそちらを見もせずに。
「フォークス、ウィーズリー夫妻にこれを届けてくれるかの」
不死鳥。下階にいたはずの。嘴に手紙。
消失。
焼失。
数分。沈黙のうちに。老人は不死鳥の帰還を待て、と。
焔が再び、燃え上がる。虚空に火の鳥と一組の男女。ともに赤毛。
「ジニー!」
来訪者を見て、少女。驚嘆。
「お母さん、お父さん、どうしてここに!」
「ダンブルドア先生に呼ばれたのよ。ジニー、大丈夫?どこも痛くない?」
娘を抱きしめて、母親は。本心からの心配を吐露。
「ちょっと、お母さん、そうゆうのじゃないから。て言うかなんて聞いてるのよ」
「あなたが事件に巻き込まれたって......ねえジニー、本当に平気?無理はしてないかしら」
「ミセス・ウィーズリー。彼女に怪我は無いはずです。
立ち上がった少年は女性に告げる。目に見える傷は無い。何も間違ったことは言っていない。心の傷をつけたのは、少年自身であるけれど。
ホグワーツ校長は語る。この年の出来事。石化。猫と人。死者は出ていない。五十年前に同様の事件。死者が一人。今回は幸運である。
日記を差し出す。ジニー=ウィーズリーは操られていた、と。彼女は責められるべきではない。誰でも同じだった。“彼”にかかっては。
「マダム・ポンフリーのところへ行くと良い。きっと温かいココアを用意してくれることじゃろう」
朱い髪の三人。退出。老人は残った少年に向き直る。
「さて、アルテアや。この名が何を意味するか解るかね」
「アナグラム。“I am Lord Vol-de-mort”」
「何故、そう思った?」
「
「本人、じゃと?」
「ええ」
風の無い冬の日のような冷えきった声。抑えることも揚げることもせず。もうこれ以上聞いてくれるなと言うように。これ以上訊いてくれるなと言いたげに。
「君が話したくないのならこれ以上訊きはしないが──」
「では訊かないでください」
「ならば、話を変えよう。この日記帳と
眼光鋭く、老人の問う。声変わり最中の声は、返して冷然に。
「あまり思い出したいことではありませんが、
「ふむ。時に君は
額に皺を寄せ、どさりと椅子に腰を下ろす。手は両目を覆い。俯く。泣き出しそうな。哭き出しそうな。この半年でできてきた蓋を抉じ開けるのだ。心の瘡蓋に針を刺して剥がしていく。忘れてしまいたかった。もう
「
「然り。君の言っているのは、
「なら自分で調べる。禁書棚の閲覧許可を」
未だ混乱の抜けきらぬように、少年。口調の乱れたまま。
「ならぬ。知って良いものではない」
それは、死刑の宣告にも等しく。
彼は他に道を与えられ無かった。レストレンジ家の屋敷、
だから、知りたかった。
自分は何処にいたのかくらいは。
自分が何をしていたのかくらいは。
自分が何を知っているのかくらいは。
「......自分が何に触れていたのかを、せめて知りたいのです。
「解った。仕方あるまい」
羊皮紙に自筆で書き付け、手渡す。“この者に禁書棚を含むホグワーツ図書室のあらゆる書籍の閲覧・貸出許可を与える。校長、A.P.W.B. Dumbledore”。
「ありがとう、ございます」
ふらりと立ち上がる。一礼して、階段へ。その後ろ姿に声がかかる。懺悔のような。謝罪の。
「すまなかったの。儂は君を助けてやれなかった」
「いえ」
少年に失望は無かった。
失望は期待の後に来るものだから。
希望が無ければ、
おまけ 進級試験、あるいは才能の有無
「うわっ。成績上位者貼り出されてる。個人成績表に順位書いてあるんだからいらないでしょ」
「......おい。薬草学実技二位ってこれ」
「えへへへへ」
「そして魔法薬は下から二番目、と」
「止めて。て言うかアルトこそ、妖精の呪文何があったのさ。筆記三位がどうやったら真ん中以下になるの?」
「いや、うん。結局できなかったんだよ」
「爆発したんだ?」
「......はい」
「そっかー。あ、
「どうも」
「あんま嬉しくなさそうだけど何かあったの?」
「どうして俺の魔法は悉く過剰防衛な方向に行くのか」
「あー。そっか、威力高ければ評価上がるもんねー。あの先生派手好きだし」
「あ、フリットウィック教授が言ってたけど
「いえーい。レイブンクローはお祭り騒ぎ?」
「そこまではしゃがないけどそんな感じ。ところで大丈夫だった?進級できそうか?」
「大丈夫!総合はともかく大概の実技はアルトより上だし」
「つまり理論は......」
「それは言わないお約束。てか魔法なんて使えればそれで良いの!」
おまけのおまけ:ざっくりとした成績(一年時)。
上から順にO(Outstanding), E(Exceed Expectation), A(Acceptable), P(Poor), D(Dreadful), T(Troll)。
Pから下は落第点。平均がA-未満、あるいは落第点三つで進級できず。
アルテア=レストレンジ:筆記は殆どが横並びにE~E+。妖精の魔法と変身術が高い(使えないから頑張った。O-)。実技は、DADA(O+)≧魔法薬学(O)≫薬草学=天文学(E-)>変身術(A)≫妖精の魔法(D-)
エドワード=カートリッジ:理論は壊滅的。+-はあるが、全部P。実技は薬草学(O)≫妖精の魔法(E+)≧天文学(E)>DADA=変身術(A+)≫魔法薬学(D)。