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帰ってきた日常
「……平和ですねぇ」
日曜日の昼下がり、青山は缶コーヒーを片手に公園のベンチに腰を掛けていた。
「気がついたら、一週間が経とうとしていますね。原稿も、真っ白です。リンちゃんに怒られちゃう……」
怒られると言うわりには焦りなどはまるでなく、その声色はどちらかと言うと寂しさを感じさせるものだった。辺りには青山の他には人影がなく、その呟きに対する返答は当然ない。
「ひょっとしたら、彼と言う存在も、私自身が作り出した幻だったのかも知れません……これは、書けそうかも! タイトルは……そう、『確かな幻』 仕事が上手くいかずにふらふらとする主人公。たまたま入った喫茶店で、不思議な人から勇気をもらう……次の日そこに行くと喫茶店はなくなっていて……」
「日曜日もネタ探しですか? 翠さん」
「あら?」
「はい?」
話のネタをまとめだしたとき、聞きなれた、しかしここ最近は聞いていなかった声が青山の耳に入ってきた。その方向に目を向けると、いかにも遠出をしてきましたといった感じの荷物を持った男性が立っていた。
「カオル……くん?」
「なんですか?」
「……お久しぶりです~」
「あー……まぁ、そうですね。お久しぶりです、翠さん」
青山は存在を確かめるようにカオルの名前を呼び、挨拶をした。カオルはどこか照れ臭そうに、同じように挨拶をした。
「新しい作品はどんな感じですか?」
「そうですね~ たった今、書けなくなっちゃいました」
「えっ、なんでまた……」
「カオルくんのせいですよ?」
「なんでですか!?」
嬉しそうに微笑みながら言う青山にカオルは戸惑いと驚きの入り交じった声をあげた。
「カオルくん」
「なんですか?」
「お帰りなさい」
「……その、ただいまです」
青山によりいっそう笑顔でそう言われ、カオルは照れ臭そうにそう返すのだった。
「やっぱり、ここは落ち着くな…… 」
「私も、カオルくんをみていると落ち着きます」
「……なんでですか」
帰ってくるなり、溜まった洗濯物を洗濯機へと突っ込み、父親に挨拶をしたカオルは早速ラビットハウスのカウンターの中に立っていた。
「このゆったりとした時間……久々だな……」
「私はいつでもゆったりとしていますよ~」
「何の報告ですか、それ」
カオルは呆れ気味に言いながらも、青山の前にブルーマウンテンとコーヒーゼリーを置く。
「ありがとうございます。このコーヒーゼリーを食べるのは久々です」
「大袈裟な……それに親父が作っているでしょう?」
「いえ、カオルくんがいないときはコーヒーを一杯だけ飲んで帰っていたので……」
「……? あっ、翠さんひょっとして俺がいなくて寂しかったですか?」
「はい、とても」
「……え?」
「カオルくんがいなくて、寂しかったです。なにも言わずに居なくなるので、いつ帰ってくるのか、毎日夕方に来て確かめてたんですよ?」
「そ、そうなんですか、それは、その……すみません……なんか」
日頃、からかわれていた仕返しのつもりが、見事なカウンターを受けたカオルはたじろぎ、顔を赤くしながらうつむいた。カオルは改めて思った。青山には勝てそうにない、と。
「それで、カオルくんは今までどこへ?」
「パン屋の方へちょっと……あれは、何て言うんだろう。手伝い……? 修行……?」
「パン屋ですか~ 喫茶店の常連としましては、パン屋さんにカオルくんがとられちゃったみたいで、少し、妬けます……パンだけに~」
「翠さん、寒いです」
「あら~?」
コーヒーの香りが漂うラビットハウスでそんなやり取りをしながら、カオルは帰ってきたと言うことを実感していた。
「でも、カオルくん。次に長くいなくなるときは教えてくださいね。私、寂しいですから……ごちそうさまでした。また来ますね」
原稿を何枚か書き終えたあと荷物をまとめてから青山はカオルに微笑みそう言った。その儚げな笑みにカオルは息を飲んだ。
「その、翠さん。迷惑じゃなければ、連絡先を交換しませんか?」
そして、カオルは自然とそう青山に言っていた。
「……はいっ!」
思いもよらない提案だったのか、驚いた表情のあと、満面の笑みで青山は返事をした。
「考えたら、翠さんの連絡先を知らなかったんですよね……」
「ふふっ、カオルくんと新しい繋がりができたみたいで嬉しいです~」
「なんか、くすぐったい言い方ですね……」
カオルの言葉に青山は大事そうにスマートフォンを握りしめるのだった。
「……ベーカリー保登で働いた身として、この喫茶店つぶれないか不安になるな」
絶え間なくお客が来ていたベーカリー保登と比べ、ラビットハウスは三十分に一人お客が来るか来ないかといった感じである。今は店内にお客がおらず、カオルは呟くようにそう言った。
「(じいさんは隠れ家的な店にしたいからこれでいいって言ってたけど、あれってお客が来ないことの言い訳だったんじゃ……)」
カオルがそんなことを考えていると、来客を知らせる鐘が鳴る。
「いらっしゃいまーっと、チノにココア。おかえり」
「あっ、カオルお兄ちゃん!」
「…………」
店内に入ってきたのは頭にティッピーを乗せたチノとココアだった。カオルはいつもと同じように出迎えながら、こうして声を掛けるのも久しぶりだなと、少し懐かしい気持ちになった。
「チノ?」
「っ!」
「おぉっ!?」
「ち、チノちゃん!?」
チノはカオルに体当たりをするように抱きつく。身長差のためか、チノの頭がカオルの心臓を殴打し、地味な痛みを感じながらも、最近はこれが流行っているのかと見当違いなことを考えていた。ティッピーはチノの頭から転がり落ち、「のぉわぁああああ」と、よくわからない断末魔を上げて落下した。
「いなくならないと言ったのに嘘でした」
「いや、そこはほら、帰ってきただろ?」
「何事もなかったかのようにコーヒーを淹れてたね!」
「そういうことではありません! いきなりいなくなったのが問題なんです!」
「そうだそうだー 私もチノちゃんも寂しかったんだよ? あ、でもいつもよりもチノちゃんが甘えん坊で私としては少し嬉しかったかも?」
「こ、ココアさん! そういうことは言わなくていいんです!」
「仲が良さそうで何よりだ」
すっかりと姉妹のような二人にカオルは思わず微笑む。
「そして、お兄ちゃん。パンの匂いがします」
「本当!? 私も、チノちゃんと一緒にギュー!」
「なんで抱きつくんだ……?」
二人に抱きつかれながら、カオルは制服に着替えてなかったことを思い出した。思っている以上に自分はこの仕事が好きなのだと苦笑した。
「(まぁ、翠さんが店に来てたし、それでも急ぎすぎだな……)」
「……カオルお兄ちゃんから、お姉ちゃんの匂いがするよ!?」
「……なぜ、ココアさんのお姉さんの匂いが……?」
「あー……一緒に働いてたからな」
「そ、それでも、パンの匂いよりお姉ちゃんの匂いの方がするよ……?」
「どういうことですか、お兄ちゃん。説明を求めます」
「い、いやぁ……なんでだろう。駅までスクーターで送ってもらった時か……?」
カオルは別れ際のモカとの出来事を思い出しながら、それを頭から追い出して答える。より鮮明に思い出せば確実に顔がみるみるうちに赤く染まることだろう。
「と、とにかく、今すぐ脱いでください。そしてコーヒーを飲んでください」
「えぇー? パンの匂いもいいと思うよ? お姉ちゃんの匂いは気になるけど……」
「パンよりもコーヒーです。私のお兄ちゃんなんですから言うこと聞いてください」
「そ、それは聞き捨て置けないよ、チノちゃん!」
「あー……とりあえず着替えてこよう。そして落ち着け。原因が俺なだけに心苦しい」
「すみませんでした……色々と思う所があって……」
「ごめんなさい……」
「いや、気にするな。匂いうんぬんはともかくとして、次からはちゃんとどこに行くか話してから出かけるから」
「「絶対ですよ(だよ)?」」
「ああ、約束だ」
カオルはふたりの目を見て頷く。その真剣さが伝わったのか、二人は頷いた。
「それならいいです。では、改めて……」
「そうだね、チノちゃん!」
「?」
二人は目を合わせると、声を合わせてカオルにこう言った。
「「おかえりなさい、(カオル)お兄ちゃん!」」
「チノ、ココア……ただいま」
カオルは二人に笑顔で答えた。その日のチノはカオルの後ろを常に付いて歩き、それを見たココアも付いてくるというよくわからない光景にタカヒロとティッピーは首をかしげるのだった。
ティッピー「おかしい。リゼの家から帰ってきて、店内に入ってからの記憶が曖昧じゃ……」
カオル「……その、なんだ。事故みたいなもんだ」
ティッピー「……? なんにせよ、カオルよ、おかえり」
カオル「あぁ……また、これからよろしくな、じいさん」
ティッピー「うむ。あと息子が『カオルが連絡をくれない』と拗ねていたから、フォローをしとくようにの」
カオル「親父……」