新米提督苦労譚~艦娘たちに嫌われながらも元気に提督してます~ 作:ぬえぬえ
「おはよー」
「今日はなにー?」
「えーあれ好きじゃなーい」
「好き嫌いはだめだよー」
ふんわりとした日差しに包まれた大きな食堂は沢山の艦娘で溢れかえっていた。寝癖を付けた者、瞼が閉じている者、キッチリ身なりを整えている者、整えている中で気付いていないだろう寝癖を付けた者。鎮守府の朝を三者三様に表現している彼女たちではあるが、その表情は一様に『笑顔』だ。
その光景は普通である。複数人が共に過ごす場所であれば、必ずと言って良いほど見られる光景。珍しくも無く、なんてことのない日常風景だ。ここが鎮守府と言う戦争の最前線であっても、そこに集う艦娘たちにとっては当たり前のように繰り返される日常である。
だけど、この鎮守府は
今しがた彼女たちが口にしている食材、そしてこの大海原を駆け巡り鎮守府に帰ってくるための燃料、自身の身を守るために深海棲艦を屠る弾薬、それら全て大本営から送られてきたモノである。だが、敵対した彼女たちが敵対から今日までずっとそれらを口に出来ていたとは思えない。事実、彼女たちはつい最近まで出撃や遠征でかき集めた資材を食材とし、それで食い繋いでいたと聞いている。
燃料がどんな味か、弾薬がどんな食感か、鋼材がどれほど腹持ちがいいのか、実際に口にしたことのない身としては何とも言えない。ただ当時の彼女たちが今目の前にある『日常』を過ごしていたとはどうしても思えなかった。これだけは分かる、分からざるを得ない、分かりたくなくても目の前にあるから理解するしかないのだ。
では、誰がこの『日常』を取り戻したのか。いや、誰が作り上げたのか。そんなの、分かりきっているだろう。
「ッ」
その時、唇に鋭い痛みとそこから広がる鉄の味を感じた。その場所に手を近づけると、少し粘度を持った温かいものに触れた。その手に視線を向けると、指先に赤い血が付いていた。いや、指先だけでなく掌全体がほんのりと赤みを帯びている。血まみれと言うわけではなく、握りしめていたせいで止まっていた血液が勢いよく流れだしたからだ。
そして何故か、それが腹立たしかった。血液が流れることは普通である。生きていく上で必要不可欠なことである。それが無意識の内に握り締めていたことで血液が止められていた、それだけだ。握りしめることを止めれば血液は再び流れ出す。目に映る手のように最初は赤く染まるだろうが、時間が経てば普段の肌色に戻る。
そんな当たり前のことが、普通のことが、そうなっていくその過程が目の前に広がる
そんな御伽話から俺は―――――
語り部は言った。俺が求めている答えは彼女たちが持っている、それを受け取って判断してみろと。しかし、語り部は
そして、俺はここまで足を運びながら背けた。理由は先に言った通り、見せつけられたから。今まで行ってきた接し方がその難易度を跳ね上げていることもあったが、一番はそれだ。背を向けてきたものを直視することが嫌で嫌で堪らなかったのだ。
この感覚は初めてではない。ついさっき感じた、この前感じた、あの時感じた、何度も何度も感じたものだ。『ついさっき』は長門との問答だ、『この前』は大本営で父上から席を外すよう言われた時だ、『あの時』は父上が必要だと溢した時だ。
どれもこれもただ一人、唯一無二、この『日常』を作り上げた、この馬鹿げた御伽噺の中心、そこで盛大にスポットライトを浴び続ける主役――――――明原 楓が居たのだ。
脇役が何を言っているのか、そう言ってしまえばそれまでだ。これは主役が輝く話だ、その一部である脇役にスポットライトが当たるなんてありえない。脇役はせいぜい主役を引き立てるだけの舞台装置、悪く言えば噛ませ犬だ。その存在意義は主役を引き立てさせるのみであり、それ以外を望まれることは決して無い。
だけど俺は――――目立ちたがり屋で我が儘で、どうしようもなく諦めの悪い
そして逃げ出した。その座から、そこから伸びる道から、その先で歩いている主役の後ろ姿を前にして、それを見たくないなんて我が儘で。ポッと出の脇役にそのスポットライトは眩し過ぎた。
見る度に惨めになって、目を向ける度に心が荒んで、視界に入れまいと顔を覆って蹲る。その先に答えがあると、一歩さえ踏み出せば手に入ると言われても、その一歩が途方も無く遠く、重く、耐え難いと決めつけてしまえば脇役は――――――いや、人と言う生き物はそこで立ち止まり、膝を折り、顔を覆い、塞ぎ込んでしまう。
だからこそ主役が必要なのだ。塞ぎ込んだ脇役たちを立ち上がらせ、その一歩を踏み出すために。そのきっかけに、その理由になるために。御伽噺だろうが与太話だろうが、『話』を進ませるために主役が必要なのだ。
そして、その座に脇役がとって代わるなんて出来ない。そんな話の中で脇役が出来るのは、せいぜい主役がやってくるまでその場で蹲っていることかそれを悟らせないように振る舞うことだけだ。
その中で、振る舞うことを選択した多くはなるべく感情を表に出さない。それは本心を悟られることを良しとしないからだ。その逆に感情を出す者もおり、こちらの方が性質が悪い。何せ、それが出す感情は本心と全く別のものであるからだ。また、そういう存在ほど
そして前者後者関わらず、そういう脇役たちは一度
「……ぁ」
そんな
肩から腰までスッポリ入るセーラー服型のワンピースに身を包む駆逐艦。彼女は確か、幾多の戦場を駆け巡り生還し続けた武勲艦『雪風』の名を冠する駆逐艦だったはずだ。だけど、それは本当に
ここに来てから俺は何度か彼女を見ている。その時、いやいつ何時目にしても彼女は笑顔だった。見た目相応の笑みを浮かべ、見た目相応に元気よく振る舞い、悩みなんか一つも抱えてないかのように日々を過ごす、そんな極々普通の艦娘であった。
だけど今、俺の視界にいる彼女は今までの姿からかけ離れていた。いつもの笑みが無く、明るい雰囲気もない。かと言って肩を落としているわけでもなく、暗い雰囲気を醸し出しているわけでもなく、何かに悩んでいるわけでもない。
ただ、何事も無く佇んでいる。何事も無く佇み、抱いているであろう感情の一片すらも見えない、ありとあらゆる
いや、むしろそれは『人』と呼べるのか? 殺し尽くしたのではなく、元々
俺がその仮説に落ち着く前に、その艦娘は俺に向けていた視線を外した。能面のような顔のまま、何事も無かったかのように背を向けて行ってしまったのだ。
その後ろ姿を前に、俺の足は勝手に動き出していた。
「待て!!」
自分でも驚くほど大きな声でそう吠えた。先ほど、食堂に踏み出そうとした足が、艦娘たちに声をかけようとした喉が全ての機能を失った筈なのに、今のそれらはちゃんと機能して、それぞれが持つ役割を果たしている。その筈なのに、彼女は意に返さない。返すための意があるのかすら疑問になるほど、全く動じることなく前を行ってしまうのだ。
淡々と進んでいく彼女の背に追いつけとスピードを上げる。すると、それに呼応するかのように彼女の歩も早くなった。だがそれは俺のようにゆっくりと、そして速度が一定しない不安定な上がり方ではなく、スイッチが切り替わったかのように急に、そして一切ぶれることない安定した上がり方だ。それはもう、人間業とは思えない。
息が荒くなってきた、脚が重くなってきた、軍人として身体づくりをしてきた俺でもこのまま走り続けるのが難しくなってきた。それでも、彼女は変わらない。身体が訴えてくる要求に競り負けそうな俺と違い、それらを感じさせない、むしろそれらが存在していないかのように、彼女は変わらず進むだけだった。
だけど、その歩みが途中で止まった。
「何してやがる!!」
横殴りに怒号が飛んできたからだ。同時にその艦娘は怒号の方を、その直後に俺も向いた。その先にはもう一人の艦娘が、此処にやってきた時に無断で執務室に入ってきた艦娘の一人。俺が詰め寄った方だった。名前は確か――――
「天龍さん」
俺が思いつくよりも前に、艦娘がその名を口にした。その声も抑揚が無く、感情も無く、ただ発音だけが完璧な機械が発した電子音のようである。しかし、その声で名を呼ばれた天龍はそれに言葉を返すことなく俺たちに近付き、俺と艦娘の間に立ち塞がった。
「雪風に何かしようってんならただじゃおかねぇぞ!!」
立ち塞がると同時に天龍はそう吠えた。執務室で見た時の彼女とは別人のような、いや別なのはその声だけだ。そう発した彼女の顔はあの時とと同じように強張り、その身体は明らかに震えており、あの力強い声を発したとは思えないほど頼りない姿だった。
その姿が、何故か重なった。何とは言えない、だって重なったそれを実際に見たことが無いから、俺が見ることのできない
「逃げろ!!」
俺が固まっているのを見かねてか、天龍は後ろに居る雪風にそう言い放つ。その言葉に雪風は特に何も言葉を返すことなく、クルリと後ろを振り向いてまた走り出した。その後ろ姿に、またもや俺の口が勝手に動いていた。
「楓のこと、どう思っているんだ!!」
俺の口から、喉から、腹の底から勢いよく飛び出した言葉。それは先ほどあれだけ躊躇した、嫌悪によって吐き出すことを拒んだ言葉だった。だけど今この時、何故かそれはいとも簡単に飛び出した。そして、その言葉は一度も意に返さなかったその艦娘の歩みを止まらせた。
それだけではない。歩みを止め、向けられなかったその顔をこちらに向かせ、無いのではないかと思われたその顔に『驚き』と言う感情を浮かばせたのだ。
「此処が悪いとか此処が嫌とか、そこまで具体的に言わなくてもいい。好き嫌い、それだけでもいい!! お前は楓を……アイツと言う人間をどう思っているんだ!?」
そのまま勢いに任せてそこまで言い切り、それと同時に
そして何より、俺が彼女にそこまでの反応をさせるためにあれほど嫌っていた主役様を利用したからだ。
しかし、そんなことなどどうでも良いと思えるほどの答えを艦娘は発した。
「しれぇはしれぇです」
そう、抑揚の無い、感情の無い、無表情で。彼女はそう発したのだ。それを起点に、その場は時が止まったかのような静寂に包まれた。風やさざ波などこの世の全ての音がかき消え、呼吸することすら忘れてしまったのかと思うほど、静かだった。
だがそれも長くは続かない。その静寂を破ったのは俺。密かに回っていた頭が、その答えが投げかけた問いに対していささか的外れだと、ようやく分かったからだ。
「い、いや、そうじゃなくて、人間としてアイ―――」
「しれぇは」
再度問いかけようとした俺の言葉を遮る様に、
「しれぇです」
そう言い切ったその顔は、これ以上の口答えは許さないと言わんばかりの『怒気』を孕んでいたのだ。同時に抑揚の無かった声色が若干低くなっていたのだ。
あれ程無感情だった
「失礼します」
次の瞬間、それはそう言い頭を下げ、クルリと後ろを向いて走り出した。もう、その顔がこちらを向くことは無いだろう、そう思わせるほどその足取りは早かった。
そう、早かったのだ。
「え、あッ!?」
そんな声とも思えない声と共に視界の端からいきなり天龍が現れた。先ほどよりも更に顔を引きつらせながら、だけどその目は俺を捉えておらず、どちらかと言えば俺の横に注がれていた。そしてあろうことか、俺を突き飛ばしたのだ。
そして突き飛ばされた直後、前髪が何かに触れた。その感覚は一瞬で消え、同時にすぐ近くで鋭い金属音が鳴り響いた。金属音に軽く耳をやらせながらもすぐに体勢を立て直し、いきなり突き飛ばした天龍を睨み付ける。そして、何故彼女がそんな暴挙に出たのかを理解した。
そこに居たのは龍田、彼女は今しがた俺が居た場所にの真横に前かがみに立っていた。その片腕は腰のあたりに、もう一つの腕は彼女の顔の近くにあって、そしてその視線はつい先ほど俺が立っていた場所に注がれている。
その場所にはコンクリート――――――に突き立てられた薙刀が、そして人の髪の毛のような黒いものが散乱していた。早い話、彼女は俺が今しがた場所目掛けて薙刀を振り下ろしたのだ。
「龍田ぁ!!」
視界の外から天龍の怒号が聞こえた。それは先ほどよりも力強く、大概の人なら身を強張らせてしまうほどの迫力があった。しかしその怒号、そして名前を呼ばれたはずの龍田は意に返さず、地面に注いでいた視線を俺に向けた。
向けられた対象を動けなくしてしまうほど、尋常ではない『殺意』を帯びた目を。
それを向けられた俺は地面に足が縫い付けられてしまったかのように動けなくなった。まさに蛇に睨まれた蛙。ただただ訪れる死を前にして逃げることも泣くことも出来ない、一人では何も出来ない脇役のように。あとは蛇が牙を剥くのを待つばかり。
そして、龍田は流れるような動作で俺に向き直り、薙刀を振り上げる。今度こそ蛙に牙を突き立てるために、その動きに一切の躊躇も迷いもない。
それを前にして、俺は動けなかった。それは恐怖からであろう。しかし、もう一つだけ理由があった。それは振り上げられた薙刀が日の光を反射し、示し合わせた様に俺の目が眩んだ。
白く染まる視界の中で、龍田の目に涙が浮かんでいたのを見たのだ。
「やめろってんだろ!!!!」
しかし薙刀が振り下ろされる直前、天龍の怒号と共に龍田の身体が横に吹き飛んだ。いや、吹き飛んだように見た。吹き飛んだ先を見ると、地面に倒れる龍田の腰に天龍が抱き付いている。恐らく、天龍がタックルしたのだろう。
しかし、それでも龍田は俺にあの目を向け、俺目掛けて薙刀を振り回そうする。それもすぐさま腰から離れた天龍が薙刀の柄を掴みそのまま龍田を組み伏せた。突如始まった艦娘同士の取っ組み合いに、俺はへたり込んだままそれを見ている。
だが、それも次に聞こえた怒号で強制終了した。
「
それを発したのは、今なお龍田と取っ組み合っている天龍であった。いきなり名前を、それも隠している筈の方を叫ばれ、俺は頭の中が真っ白になる。
「龍田は俺が抑える!! だからさっさと逃げろ!!」
また天龍が叫ぶ。その言葉もまた予想外、襲い掛かる龍田から俺を逃がそうとしているのだ。次々にぶつけられる予想外に、俺は何も出来ずにいる。それに業を煮やしたのだろう、龍田を組み伏せながら天龍が顔を向けてきた。
「おい、聞こえてんのかァ!?」
「お、俺―――」
「
俺の言葉を掻き消す様に、いや受け取った上ですぐさま答えをぶつけてきたその言葉に、あれ程動かなかった身体が動いた。それは今この場から逃げ出すため、と言う脇役らしい何とも情けない理由だ。
でも、それでも、それが出来るようになった『きっかけ』は、紛れもなく俺を見てくれた
そんな人を置いて、
「
その背に、その人の
◇◇◇
どれほど走っただろうか。分からない。
我に返った時、俺はフラフラだった。血管もろともはじけ飛んでしまう程暴れ回る心臓、それに押された肺から喉が焼けただれてしまうかと思うほど高温の空気を何とか吐き出し、手足が棒のよう且つ足のあちこちに鈍い痛みを感じ、額から止めどなく零れる汗に滲んだ視界が外の情報を遮断している。
ここは何処なのだろうか。分からない。
文字通り、転げまわる様に走った結果だ。此処の鎮守府は無駄に広く、敷地の半分近くを森林に覆われている。恐らくはその森林なのだろうと思われるが、探検する暇も気も無かったために実際にこうして足を踏み入れるのは初めてだ。勿論、此処がその森林だと言う証拠はぼんやりと見える緑だけだ。
何処に行けば良いのだろうか。分からない。
それは本館や宿舎などの居住区にどうやって帰ればいいか、と言うわけではない。あの時、天龍に名前を呼ばれたあの時、あの場から逃げてしまったこと。命の危険があったとは言え、ずっと欲していた人が居たあの場から逃げてしまった今、あの場に戻ることは、いや出会うことすら出来ないだろう。
それならば何処に行けば良い。何処に行けばあの場に、あの時のような場所に行ける。せっかく巡ってきたチャンスを、答えがあると言われた場から、与えられた筈の座から尻尾を蒔いて逃げた脇役は。一体何処に、一体何処へ、一体何を、何をどうすれば良いのだ。
いや、無いのだ。そんな場所など、何処にも無いんだよ。脇役の未来なんか、どうでも良いのだ。スポットライトが当たる主役以外に目を向ける観客なんかいない。まして、一度向けられたスポットライトから逃げ出した脇役なんかに。もう二度と、そんな機会は訪れない。
なら――――――
カーーン
その時、奇妙な音が聞こえた。
俺の認識が正しければ、ここは森林の中。聞こえるのは風に吹かれた木々が鳴らす音、ここで暮らす鳥たちのさえずり、それぐらいであろう。でも、今しがた聞こえたその音はその2つではない。
こんな自然あふれる場所に似つかわしくない程に乾いた
カーーン
また聞こえた。先ほどよりも大きい。どうやら音の場所は近いようだ。そう気づいたとき、独りでに足が動き出していた。ぼやける視界も少しだけハッキリしており、やはり此処が鎮守府内にある森林の何処かであることが分かった。それ故に、似つかわしくないその音が余計気になった。
カーーン
もう一度、その音が聞こえた。同時に、俺に視界にその音の主が現れた。
そこは、森林の中でぽっかりと開けた場所。あれ程密集していた森林はその場所を境にパッタリと消え、代わりに足首ほどの高さがあろう草が風に吹かれ靡いている。そしてその先、そのぽっかり空いた場所の中心にポツリとある金属で作られた墓のようなものがあった。
墓と言ったが、正確に言えば地面にただ分厚い金属版が突き刺さっただけの無造作なモノだ。それが墓だと思ったのもその前に添えられた献花があったからであり、その前に立つ一人の艦娘が居たからだ。
頭に電探を模したカチューシャらしきものを付け、その髪は頭の両脇で二つにまとめると言う独特の髪型である。肩を大きく露出させた白衣を黄色の太い紐が胸の前で結ばれている。膝上までしかない黒の袴には白いフリルがあしらわれ、スラリと延びる足は黒いニーハイソックスに覆われていた。
その艦娘はよく知っている。むしろ、此処に配属される前から知っている。初代提督との連絡が途絶えた後、ボロボロの使者と共にもたらされた決別宣言、のちの脅迫染みた文言、それらを考え、大本営に送り続けた艦娘――――――金剛型戦艦一番艦、金剛だ。
その時、金剛の身体が動いた。彼女は自らの腰に視線を向け、同時にその先に手が持ち上がる。その手にあるのはやはり此処に似つかわしくない四角い金属のような、いやどこからどう見てもただの金属―――――資材的に言えば鋼材である。それも所々角や側面が欠けた、明らかに品質の悪いものだ。
金剛は少しの間、それに視線を向け続けた。そしてその目からは生気が感じられない。だが、それは雪風のような精密機器のような意味ではなく、何の目標もゴールもなくただただ無駄な日々を過ごしている、そういう
そんな目を今まで鋼材に落としていた彼女は、ふとその目を前に向けた。同時に片手を前に、もう片方の手――――鋼材を握る手を後ろへ、上体が少し反り返る程振り上げたのだ。
そう、まるで手にしているものを投げつけるように。
カーーン
そして、その音はまた響いた。金剛の手から離れた鋼材は一直線に墓に吸い込まれ、その距離がゼロになった瞬間、その音が鳴ったのだ。これで先ほどの音の正体が、金剛が墓に鋼材をぶつけていたことだと分かった。
しかし、墓にものを投げつけるとは非常識にも程がある。だけど墓前にある献花は真新しく、明らかに変えられたばかりのものだ。この状況から察するに、献花を変えたのは金剛だろう。
もっと言おう、墓の状態は良くない。此処から見える限り、手入れされていると言えるのは申し訳程度に表面を磨かれたぐらいか。少なくとも金剛以外に此処を訪れる艦娘はいないのだろう。こんな辺鄙な場所にわざわざ足を運ぶことには感心するが、それでもその行動は非常識を通り越して非道である。
そこに眠る存在に失礼である。そこまで行き付いたところで、俺の思考は途切れた。目と鼻の先に何かが落ちてきたからだ。
「ッ!?」
思わず飛び出た声。次の瞬間、それが漏れた口をおさえた。足元に目を向けると、所々欠けた鋼材がある。先ほど金剛が投げた鋼材が勢い余って遠くに飛び、偶然俺の目の前に落ちてきたのだ。
「誰?」
同時に、視界の外から金剛の声が聞こえた。驚いている様子も焦っている様子もない、かといって冷静でも落ち着いているわけでもない。どちらかと言えば、気に掛けることすら億劫だ、と感じられる程気の抜けた声だった。
その声に、俺は口をおさえながら視線だけを向けた。そこには、先ほどの立ち尽くす身体に首だけを動かして俺の方を見る彼女の姿。その目は、やはり先ほどの生気のない目だった。
しばし、沈黙が訪れた。俺は口をおさえつつ、金剛は生気の無い目のまま黙って相手を見つめ続けたのだ。俺が黙ったのはこの鎮守府で最も危険とされる艦娘を前に警戒していたから。彼女が何故黙っていたのかは分からないが、確実に言えることは彼女の表情は愚かその目でさえも一向に変わらなかったことぐらいだ。
「なんだ、貴方デスカ」
その沈黙も、やはり何も変わらない金剛が漏らした言葉で破られた。いや、その言葉ではなく、彼女が俺から目を離したから。まるで、興味を失ったように。
「おい」
そして、その興味を失ったような態度にまた腹が立ってしまった。せっかく与えられた場から逃げ出した脇役は、いや脇役は愚か舞台装置にもなれない俺は、性懲りもなくまた欲してしまったのだ。
「what?」
「何をしていた?」
俺の言葉に、金剛はこちらを振り向かずに心底鬱陶しそうな声を上げる。その態度にまた腹が立つも、先ほどと同じ轍を踏まない様、先ずは先ほどの蛮行を問いただすことにした。
「何って……墓参りデス」
「あれが墓参りだと、鋼材をぶつけることが供養になるだと? ふざけているのか?」
憤りを隠すことなく問いかけるも、金剛はやはり興味なさげに首を傾げるだけだ。だが、何かに気付いたのか納得した様に小さく頷くと、何故か俺ではなく先ほど鋼材を投げつけた墓へと近づいていく。その後ろ姿にその行動の意味を理解し切れない俺を尻目に、彼女は墓の前に辿り着いた。
そして、何故か片足を持ち上げた。
「こうしろ、ってことデスカ?」
その言葉とともに、金剛は持ち上げた足を勢いよく、躊躇なく、一切の迷いなく、
だが、彼女にそれを気にする様子はない。振り下ろした足を動かし続ける。その先にある墓を何度も足蹴し、そのままグリグリと踏み付け続けたのだ。
「おい、何を!!」
「散々こうされたんデス、
俺の言葉にも、金剛は涼しい声で墓を踏み付けるのをやめない。むしろ、段々と力が込められ、それに比例するように墓が後ろへ後ろへと徐々に倒れていっているようにも見える。このままでは墓が倒れてしまう。それだけは本当に不味い。そう思い、彼女の蛮行を止めるべく近づき、その肩を掴んだ。
「やめろ!! 眠っている方に失礼―――――」
「は?」
その一言、一切の温かさを感じさせないその一言は俺の身体を瞬く間に強張らせた。同時に体感温度が一気に下がり、手足の感覚が遠退く、ような感覚に襲われた。口から漏れる呼吸が白く見える、ような幻覚を見た。
いや、それは一言
『憎悪』と―――――。
「失礼……失礼?
そう、淡々と『失礼』と言う言葉を発しながら、彼女はあれ程向けてこなかったその顔をようやく向けてきた。同時に、向けられたことを後悔した。
何せそこにあったのは、到底人ととは思えない程限界にまで見開かれた目が――――――『憎悪』に満ちた目だったからだ。
「失礼、失礼……あ、あぁ、そう。
そこで言葉を切った金剛は今までずっと踏み続けてきた墓から足を離した。だが、それは足蹴をやめたわけではない。彼女の足は墓の表面を何度も小突く方法に変えただけだ。まるでそこを見ろと言わんばかりな彼女の行動に、俺は小突かれている墓の表面を見た。
『音 鷹少佐 墓』
所々が酷く損傷しているために文字が掠れて読めず、辛うじて拾えたのがこの5文字である。だが、それでこの墓に眠っているのが誰か、そしてその誰かが彼女にとってどれほどの存在であるのか、今の彼女を見れば分かった。
「
そう言い切った金剛は笑っていた。『笑みを浮かべていた』ではなく『笑っていた』のだ。それは、その下にある『憎悪』を通り越した別の感情を隠す為であろうか、それは分からない。だけど、彼女のその『笑い』が仮面であることだけは分かった。
そう、その点
「な、なら何で墓を作ったんだ……」
それ以外にあった疑問を、俺は無意識の内に漏らしていた。そう、そうなのだ。もしこの墓がその人物であれば、何故こんなところに
もしこれが憎悪を叩き付けるためのサンドバッグであれば、文字通りサンドバッグを作ればいい。何も墓を建てる必要もないし、むしろ忌々しい
しかし今こうして墓があり、あれ程の仕打ちをしつつも金剛が墓参りをしていると言うことは、少なくともこれを作って供養したいと言った存在が居たということだ。そして、その存在もまた彼女にとってとても大きな、下手をすれば彼以上に大きな存在であったということだろう。
俺の言葉に『笑っていた』金剛の顔が僅かに強張った。だが、強張ったのはそこまで。彼女はすぐに
「頼まれたからデース」
頼まれたから、恐らくそれが真実だろう。その答えは俺の問いにちゃんと向き合っており、その返答に俺自身も納得出来た。
そして、やはりそこにあった
「なら
その言葉を向けた瞬間、金剛の顔から
彼女は頼まれた、これほど憎しみを抱いている彼の墓を建てることを。そして彼女は鋼材をぶつけ、あろうことか足蹴する程憎悪した存在の墓にこうして墓参りをしている。それをさせるほど、『その存在』とやらは彼女にとって大きいのだろう。
そして、その存在が今しがた、いや恐らく金剛が今までずっと行ってきたことも頼んだのであれば、俺の矛盾は解消される。墓を作ってそれをぞんざいに扱うことを願われたのなら、彼女は嬉々として墓を建てて好きなだけ蛮行に走るだろう。
だけど、その線は消えた。その証拠に、金剛は今もなお呆けた顔をしている。頭が追い付いてないのか、果ては理解することを拒否しているのか、少なくとも今までやってきたことは頼まれたことに含まれていないのだろう。
そしてそれは、金剛がその彼に対する感情を押し殺してまで叶えた頼まれたことを、
「そん、な、筈、は」
ポツリと漏れた金剛の言葉。そこに、先ほどまでの憎悪はない。ただただ、困惑した声色だった。同時に聞き取れない程の声で何かをブツブツ呟き始めた。何を言っているのかは分からないが、その声が次第に震えていくことは分かった。
だけど、その先で何を言えばいいのか
「あ、や……」
何か言わなければならない。言わなければ金剛が何をするのか、どうなってしまうのか。それが分からなくても、それが最悪の結果を招くことぐらいは分かる。だけど、その焦りに反して口から出るのはただの声。言葉でもない、ただの鳴き声だ。
そのせいでどんどん焦る、焦って頭が回らず、また鳴き声が出る。堂々巡りだ。そこから抜け出す術を、
何を言えばいい、何を伝えれば彼女を繋ぎ止められる、何を、何を、何を。
こういう時、
「一つ、聞いても良いデスカ?」
その答えが出る前に、金剛がそう問いかけてきた。彼女を見ると、先ほどの取り乱していたとは思えない程落ち着いていた。その顔に『笑み』を浮かべて。『笑い』ではない、『笑み』だ。それも、先ほどの仮面とは比べ物にならないほどに自然で、普通な、
まるで笑み以外の表情を与えられなかった、それだけしか浮かべられない、それすらも張り付けた仮面である。大本営が
「貴方がテートクだとしマス。そして貴方は戦果第一、
唐突に投げかけられた問いに、俺は体温が一気に下がるのを感じた。それは今まさに俺があの方から託された密命そのものであるからだ。何処で漏れた、もしくは誰かが察した、どちらであるか、或いはまた別の方法か、どちらにしろ彼女の口からそれが飛び出したことに驚く他なかった。
「勿論、
今俺の顔を見て何を思ったのか、金剛はそんなことを言ってくる。それは冗談染みていて、本当に例えばの話であるかのようだ。それが図星の俺からすればこれを例えばの話で片づけられるのか、と問いかけたくなる。だが、それをしたところで彼女の『笑み』は変わらないだろう。
だから、こうなってしまった、こうしてしまった彼女にせめてもの償い――――になるのか分からないが、せめて正直に、
「後悔……すると思う」
此処が反旗の芽であり早急に摘まなければならない且つ周りの鎮守府の引き締めにもなる。そういう納得できる理由があればきっちり遂行する。そう言い切り、実際にそれをやっている。なのに、今俺はやっていることと真逆なことを吐き出した。お前は何を言ってるんだ、と言われるだろう。そう言われ、罵られ、批判を受けることも分かってる。
だけど今は、
勿論、覚悟はある。だけど、それは俺が
また、いくら納得できる理由があったとしても、頭がそう理解しても、人を殺したと言う事実からは逃れられない。その事実は心の何処かに罪悪感を芽生えさせる。それ一つは小さくとも、繰り返していけば取り返しのつかない大きさに、全身をスッポリ覆うほどの大きさに膨れ上がる。それに覆われた人はゆっくりと、じっくりと、確実に蝕まれ、飲み込まれ、やがて思考を止めるだろう。
それが普通の人、
……と、ここまで
でも、もしその言葉と心の声が違っていたら、その覚悟とやらに塗り潰された『本音』はどうなる。
本来、それは明るみに出ることはない。何せ本編となんら関係がないからだ。RPGゲームで何度話しても同じことを、同じ表情を、それを何度も繰り返す村人の心の内なんて描かないだろう。せいぜい、主役たちがストーリーを進めることで話す内容が変わるだけ、結局はそれを繰り返すだけの人形に過ぎない。そんな人形に裂く時間もテキストもなく、その人形自身も変わることがない。だから明るみに出ない、だから何も分からない、吐き出した言葉と心の声が違っても、それを表に示す術が無いのだ。
でも、俺はその人形ではない。御伽噺の中で散々に暴れ、矛盾をまき散らし、無様な姿だけを晒す。主役の宿敵でも、登場人物たちの噛ませ犬でも、彼らに経験値になるモンスターでもない。物語とは関係ないところで喚き散らし、逆方向へ突っ走り、知らない内に退場している、そんな存在だ。
だから、俺はそう
恐らく、この御伽噺の
「アッハハハハハハハハハハ!!!!」
その返答は、
「あ、あはッ、あははッ……そうですかそうですか、
一しきり笑い続けた金剛はそう呟くと仰け反っていた上体を戻し、俺とは反対方向に歩き出した。その足取りはスキップのように軽やかであり、彼女が進みたびにその巫女装束がフワリと揺れる。見惚れてしまいそうな程美しい光景である。しかし、今の俺にそんな余裕はなかった。
何せ、その進む足が、揺れる装束が、彼女が奏でる鼻歌でさえも、全てが全て一糸乱れぬことのない、まさに
「貴方がテートクじゃなくて、本当に良かったデース」
俺と反対―――墓の前に行き付いたときに彼女から漏れた言葉。それは俺への侮辱である。俺じゃなくて、今の提督で良かった、脇役以下の俺じゃなくて、主役様のアイツで良かった、本当に良かった。そう言っている。だが、今の状況を前にしてその言葉に噛み付けるほど、
「……何でだ」
「そんなの決まってるネー。だって―――――」
お決まりの台詞を吐き出すと彼女は、いや
「此処に、
その言葉とともに、彼の墓のすぐ横に足を振り下ろした。それも、今までの音とは比べ物にならない程鈍く、大きな音を響かせ、同時にその横にある彼の墓が軽く傾いたのだ。
「もう墓参りなんて面倒くさいこと、これ以上増やさないでくだサーイ。だから――――」
そこで言葉を切った金剛はいきなりその場で腰を下ろした。それも先ほどの矛盾に苛まれていた筈の墓に、躊躇なくその腰を下ろしたのだ。腰を下ろした金剛はその足を前に投げ出し、それと同時に袋に手を突っ込む。
出てきたのはやはり鋼材であった。それも、先ほど墓に投げつけていたものとは比べ物にならないほど高品質の、まるでつい今朝方くすねてきたものであるような。
だが、それも次に聞こえた金属音。甲高く乾いた音ではない、低く鈍い音。金属同士がぶつかった音のではなく、金属が
「
そう、金剛が言った。その言葉を発した口元に小さな金属片を付け、明らかに
そしてその言葉を発したほんの一瞬、灰色の瞳が
その言葉に何も反応出来ないでいると、それは手にしていた鋼材を無造作に放り出した。鋼材が落ちたのは彼女が腰を下ろしている墓の横、つい先ほど勢いよく踏みしめた場所だ。そして次の瞬間、その鋼材目掛けて彼女の足が振り下ろされる。何度も何度も振り下ろされ、果てはグリグリと踏みにじられた。
その行為が示す意味を、俺は嫌と言うほど理解した。
その姿に、俺は何も言わず背を向けた。背を向け、力の限り全力で走り出した。何故なら、一刻も早くここから逃げ出すため。先ほどと変わらない、やはり脇役らしい理由だ。
でも、そのきっかけは違う。そこに行き付いたきっかけは俺を、脇役以下の俺を、
違う、
俺が否定したことで最悪の結果になった――――そんな場所に、脇役以下の俺がしてしまったからだ。
「
そんな俺が背を向けて逃げる際、その結果が今にも泣きそうな声でそう呟くのが聞こえた。それはもしかしたら、準主役が漏らした『本音』だったのかもしれない。だけどそれを拾い上げる
またもや俺はその場所から、そして自ら掲げたはずの覚悟すらも捨て去ったのだ。
そこからの記憶は曖昧だ。どこまで走ったのかも、何処かで立ち止まったのかも、そこで泣き喚いたのかも、頭を抱えて塞ぎ込んだのかも、何もかも覚えていない。恐らく御伽噺とは関係ないところで喚き散らしたのだろう、そことは関係ない場所に突っ走っていたのだろう、まさに俺と言う存在がやりそうなことをやっていたのだろう。だから記憶にない、周りの誰も、まして俺自身の記憶にも残ってないのだろう。
記憶がはっきりしてきた―――――御伽噺に戻ってきた時、俺は食堂前に居た。真上にあったはずの日が山裾の向こうに消え始めていた。その時間、食堂には今日の出撃を終えた艦娘たちで賑わっている。いつもなら、この時間帯は避けている。今までは食事位職務を忘れてゆっくりしたいと思っていたが、今思えば
だけど今日は、今日だけはそんなことどうでも良かった。いや、むしろ彼女たちに
やはり、食堂は
だが、その中で一つだけ『真剣』な表情があった。それは俺に法螺話を吹き込み、今日という一日を散々にしてくれた語り部殿だ。彼女の表情は、俺に向けられた真っ直ぐな目は『答えは出せたか?』と問いかけてきていた。それに、俺は同じように目で答えようとした。
「わッ」
だが、それは素っ頓狂な声とともに下腹部を襲った衝撃、そして衝撃を受けた場所に広がる生暖かい湿り気に阻まれた。本来であれば多少驚くはずなのだが、今の俺はそれにさして反応しなかった。
「ひッ」
また、声が聞こえた。今度は素っ頓狂な声ではなく、明らかに引きつったモノ。それを受けて、ようやく俺は視線を足元に、先ほどの声を上げた存在に向けた。
そこに居たのは名も知らぬ駆逐艦だった。駆逐艦は自身を見下ろす俺の視線に固まっている。その手には、彼女の掌に収まるぐらいのカップがあり、その中には茶色い液体が半分ほど入っていた。鼻をくすぐる甘い臭いからしてそれはホットチョコレートだろう、そしてつい先ほどまでそのカップはホットチョコレートで満たされていたのだろう。
どうして分かるか、って。何故ならそのホットチョコレートが制服の下腹部目一杯に広がっていたからだ。つまりこの駆逐艦は俺とぶつかり、手にしていたホットチョコレートを俺の制服にぶちまけたのだ。
「あ、あ……」
その駆逐艦は声にならない声を上げる。その身体は小刻みに震え、その瞳は大粒の涙を湛え、全身を使って恐怖を表していた。言葉にならない声を、心の声を引き出した。そう、俺は都合よく解釈してしまった。だから、顔を変えた。
「貴様、謝罪の一つも出来ないのか?」
そう、駆逐艦に問いかけた。それに対して、彼女は大きく身を震わせるのみ。一言も発しない、いや発せないのだ。ただ己の全部を使って『恐怖』を表すことで手一杯なのだ。
「おい、人の一張羅を汚したんだぞ? 聞いているのか?」
もう一度、問いかける。今度は問いかけるだけではなく、その駆逐艦へ手を伸ばした。それに更に身を震わせた彼女は俺の手から逃れようと後退るも、それを許す筈がない。離れようとしたその首元を掴み、強引に引き寄せた。
「何とか言え」
顔を近づけ、今までよりも低くドスの効いた声で囁く。目の前には涙でグチャグチャの駆逐艦で一杯である。ガタガタと歯を鳴らし、声を出せない代わりに首を降り続けている。それは「やめて」と言う意思表示であろう。そこまで分かっていて、俺は
何故か―――それは待っているからだ。
誰を―――――そんなの決まっている。この『当たり前』を作り出した主役様を。
何で―――――分かり切ったことだろう。一人でも多くの
今までずっと御伽噺の外でしか喚き散らしてこなかった。だから誰にも見られず、気に掛けられることも、拾われることも無かった。ずっとずっと、無意味なことをしていたのだ。好転もしない、逆転もしない場所で力の限り暴れ回ったところで、ただ己を摩耗させるだけだ。本来はそれでいい、脇役以下の存在が御伽噺に出ること自体可笑しいのだ。
しかし、俺はそれを良しとしなかった。我が儘で自己中心的な俺は、誰にも知られずにただ摩耗するだけの場所ではない、自らを
そして見つけた。見つけるも糞もない、最初から隣に横たわっていたヤツの御伽噺だ。そこで喚き散らせばいい、暴れればいい、そうすれば嫌でも目が集まってくるのだ。それも一人ではなく、多くの目にとまる。例えそれがほんの一瞬でも、多くの目に見られたと言う事実は変わらない。
たった一人に見られ続けるより、たった一瞬でも多くの人に見られた方がいい。それだけでもう十分だ、脇役以下にはそれぐらいが丁度いい。いや、脇役以下じゃない。こうして御伽噺の中で騒ぎを起こし、主役の手によって退場させられるから、もしかすると脇役の一人と言えるかもしれない。
その時、また衝撃を受けた。今度は足元、そしてまたもやその場所全体に生暖かさを感じる。駆逐艦から離れ、足元を見る。そこには先ほど彼女が手にしていたカップが転がっており、それから最も近い俺の足首からつま先までホットチョコレートに染められていた。早い話、彼女が取り落としたカップが俺の足に落ち、残りをぶちまけたのだろう。
『汚れ、と言った方が的確か』
それを見た時、俺の頭に長門の言葉が過った。そして、今しがた自分が立っている場所、そして今しがた
心の声を押し殺し、言葉はそれ真逆のことを、身体は言葉通りに動かし、顔には
そんな、俺の願望そのものを表すその役名は―――――――
「
ポツリと漏れた一言。それに返す者は居ない。いや、一人だけ。一人だけその言葉に
それは
視界が、身体が一気に横へ吹き飛ぶ。吹き飛ぶ直前、駆逐艦を引き寄せていた腕を掴まれ、強引に引き剥がされた。だからそちらに顔を向け、振りむきざまに拳を喰らったのだ。
固い床の上を転がり、何処かのテーブルに突っ込んだところで止まった。痛みで眩む視界、熱を帯びる頬、
「林道」
ぼんやりとした視界の中で、俺の名前を呼ぶ声がした。それは隠している方の名前でもなく、偽っている方の名前でもない。そして、その名前を呼ぶのは、この鎮守府で一人しかいない。
段々と視界がハッキリしてくる。そして、ようやく現れた。
そこに居たのは、