新米提督苦労譚~艦娘たちに嫌われながらも元気に提督してます~   作:ぬえぬえ

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唯一『要求されたモノ』

 『足が重い』

 

 廊下を歩きながら、私は口に出さずに溢した。足だけではない。腕も頭も、全身が鉛のように重い。意識も朦朧としている、息も荒い、立っているのもやっとだ。それほどまでに、私の身体は異常を訴えていた。

 

 やはり私は体調を崩している。それは私ではなく司令官や大淀さんから指摘された時、それよりも前に起きた時から分かっていた。分かっている上で強行したのだ、回復は先ずしていない。そこに先ほどのことだ、悪化したのは間違いない。

 

 まさに満身創痍、その言葉を絵で表したとしたら今の私だろう。こんな状態で海に出れば確実に落とされる、陸である今でもふと力を抜けば倒れてしまうかもしれない。それほどまでに最悪のコンディションだ。

 

 このまま倒れてしまえば、誰かが見つけるまで私は廊下(ここ)で何時間も放っておかれる。それこそ、古びた道具のように捨て置かれてしまうだろう。それが海上なら、僚艦たちを逃がした上でのそれなら、私はなんの躊躇も無く受け入れただろう。

 

 

 だけど、私の足は未だに動いている。足だけではない。振り子のように前後を揺れる腕も、もたげた頭から僅かに前を見据える目も、今にも倒れそうな上体を懸命に保とうとしている腰も、全てが動いている。燃料なんて既に尽きている、原動力なんかどこにも見当たらない、なのに動いているのだ。

 

 先ほど、足がもつれて倒れた。その衝撃が全身を襲い、意識が飛びかけた。でも、私はそこで動かなくなることを拒んだ。震える腕に精一杯の力を籠め、無理矢理立ち上がる。立ち上がる際、液体が手の甲に落ちた。それは生暖かく、こうして歩いている今も落ち続けている。それを拭うことも、止めることもせず、ただただ歩を進め続けた。

 

 

 それは一重に、司令官が私を支え続けた(・・・・・)からだ。

 

 

 一歩踏み出すごとに私の耳に彼の言葉が、それを漏らした彼の顔が浮かぶのだ。そこにあるのは笑顔、暖かな笑顔だ。私に向けられたとても頼もしい、とても優しい、好きになれそうな、そんな笑顔。

 

 一歩踏み出すごとに今にも倒れそうな私の身体を彼が支えるのだ。私の腕を取り、背中を支え、そのまま押してくれる彼の手は暖かく、心地よく、そして安心を与えてくれた。

 

 勿論、それらは私の思い込みだ。彼の言葉も、笑顔も、その手も、実際には無い。だけど一つ、ただ一つだけ彼を感じることができるモノがある。それを時折触れている。その存在を確かめるように、そこに居てくれると身を持って知るために。

 

 

 そんな言葉に支えられ、私はようやくたどり着いた。

 

 

 目の前には、いつもの扉だ。毎日、毎朝、毎晩、目にしている。何も変わらない、いつもの扉だ。だけど、今は違う。いつもの扉のはずなのに、それは壁に見えた。とてつもなく高い、てっぺんが見えない壁だ。乗り越えることをよしとしない、私の侵入を拒む頑強な壁だ。

 

 それを前にして、私の中に恐怖が生まれた。果たしてこの壁を越えることが出来るのか。いや、仮に越えたとして、その先に待つもっともっと大きな壁に太刀打ち出来るのか。いや、出来るわけがない。あれだけのことをやったんだぞ、自分勝手も甚だしい。そんな不安と自己否定を孕んだ恐怖が襲ってきたのだ。

 

 目の前が黒く染まっていく。手足の感覚が消えていく、思考が真っ白になっていく。今すぐにでもこの場から逃げ出したい、一歩前に踏み出すよりも此処から背を向けて逃げ出した方が容易である、だから逃げろ、耳を塞げ、背を向けろ。そんな言葉が恐怖を掻き立て、無理矢理引きずるように後ろ髪を引っ張る、それに引かれて身体が少し浮いた。

 

 

 

 『大丈夫、俺がいる』

 

 

 だけど、その瞬間司令官の声が聞こえた。言われたこともない、向けられたことも無い。ただ私が彼とのミサンガに触れた時、何処から聞こえたと勘違いした、いわば幻聴だ。

 

 だけど、私はそれが幻聴だと思わない。その言葉だけで私を蝕んでいた恐怖が消えたからだ。引っ張られる感覚も消え、逆に手足の感覚から思考、黒く染まっていた視界も元通りになる。

 

 

そして、気付いた。自分の手が後頭部へ、己の髪を纏めるミサンガに触れていることに。

 

 

 彼は自らの手でミサンガを付けるという『行動』で示してくれた。それは彼が傍に居ると、そう言われたも同然だ。それは私の思い込みだろう。でも、彼は勝手(・・)にそれをやった。なら、勝手(・・)に言葉にするぐらい問題無いだろう。

 

 ミサンガに触れ、在りもしない司令官の温かさを感じ、目を閉じて深呼吸する。不思議と、先ほどまで感じていた身体の不調がほんの少しだけ軽くなった気がした。それを受けて、私は目の前にそびえる壁に手をかける。すると、あれだけ高々とそびえていた筈の壁はいともたやすく私、いや私たち(・・・)を受け入れた。

 

 

 壁を越えた先で、私は三つの視線に晒された。

 

 

 一つはハチ。いつも腰掛けている椅子に身を預け、お手製の本を読みふけっていたのだろう。彼女は本から目を離し、入ってきた私を見た。

 

 一つはゴーヤ。私に背を向けて床に座り込んでおり、入ってきた音に反応してゆっくりと顔を向けてきた。そこにあったのはいつものブスッとした顔だ。

 

 一つはイク。二段ベッドの上段に腰掛け、空中に垂らした足を忙しなくブラブラさせていた。私が入ってきた時、真っ先に視線を向けたのは彼女だ。

 

 

 三つの視線が私に注がれる。これもまた、いつものことだ。だけどその視線が注がれてすぐ、それらは驚いた表情に変わった。

 

 

 

「どうしたの、その顔!?」

 

 

 そう叫んだのはハチだ。彼女は手にしていた本を放り投げ、一目散に私に駆け寄ってきた。途中、近くにあったティッシュ箱を引っ掴み、数枚を引き抜いて同じように放り投げた。

 

 ゴーヤも表情を変え、顔だけでなく身体ごと私を向く。その時、ほんの少しだけその腰が浮いたように見えたが、ハチが真っ先に駆け寄ったことで浮いた腰は床に落ち着いた。

 

 イクも表情を変え、思わず腰掛けていた上段から飛び降りようとしたのだろう。だが、下にゴーヤが居たこと、そしてハチが駆け寄ったことでそれをやめ、梯子を伝って素早く降りてきた。

 

 

 だけど、次の瞬間ハチが押し付けてきたティッシュによって視界が塞がれてしまう。

 

 

「何処かで転んだ!? ぶつかった!? それとも殴ら…………れるわけないか、取り敢えずこれで顔拭って。あぁ、服にも付いてる。落ちるかな、これ……」

 

 

 普段の彼女からは想像も出来ないほど饒舌に喋るハチにティッシュを押し付けられ、その隙間から彼女の姿を見る。ハチは先ほど放り投げたティッシュ箱を拾い、新たに数枚ティッシュを引き抜いて私の手を拭っていた。さっき転んだ時に付いた液体、鼻血を拭っているのだ。

 

 

 その瞬間、私はあの時の――――――血で汚れた自分の手が重なった。

 

 

「駄目、汚れちゃう」

 

 

 そう言って、ハチの手を振り払おうとした。彼女が汚れる必要は無い、汚したくないと。だけど、それは叶わなかった。

 

 

「何言ってるの、ほっとけないよ(・・・・・・・)

 

 

 語気の強いハチの言葉、そして彼女が私の手を離すまいと力を込めたからだ。その言葉に胸の奥がざわついた。

 

 

 いや、ざわついただけじゃない。締め付けられた、苦しくなった、辛くなった、吐き出したくなった。何もかもを吐き出す、そうすれば楽になる。司令官が言っていた言葉を思い浮かべ、実際に吐き出した末の感覚を思い起こし、その末に与えられたモノを力の限り噛み締めた。

 

 次に何かが溢れた、止めどなく、勢いよく、堰を切ったように、溢れ出してきた。それは何なのか、私には分からなかった。それ自体の見当がつかなかったわけではなく、何もかもが当てはまるから断定が出来なった。

 

 

「あ、あの―――」

 

 

 だから、そう声が漏れてしまった。そして、そこで言葉が止まった。

 

 それは、いきなり皆の視線が改めて集まったからではない。大きな音に私の言葉を掻き消されたわけでも、誰かが口を挟んだわけでもない。

 

 感情の中に、本当に小さなしこりが現れたからだ。

 

 

 

 私の想いは、果たして言葉(・・)で伝わるのだろうか――――

 

 

 分かっている、分かっているのだ。司令官が言ったように、本心を伝えなければいけない、私から伝えるのが筋だと、それこそが最善策であることぐらい、分かっているのだ。

 

 だけど、今まで私は彼女たちの言葉を拒んできた。拒んだために彼女たちは言葉ではなく行動で伝えてくれた。それ程の手間と時間を要求しておいて、私は今この時、それも言葉だけで想いを伝えようとしている。彼女たちに要求した様に、私も何らかのことを要求されなければいけないのではないか。

 

 

 いや、それ以前に私とのやり取りで言葉なんか役に立たないと思われているかもしれない。私とのコミュニケーションツールは行動だと、言葉なんか薄っぺらい紙と一緒であると。そう思っているとしたら、私が言葉()に書きつけた想いなんか読まれることなく捨てられるのではないか。むしろ、今まで言葉をないがしろにしてきた私のそれに、何の価値があると言えるだろうか。

 

 もっと根本的なことを言えば、そもそも私に何の価値がある。確かに、司令官から『綺麗』と言う価値をもらった。でも、それは司令官だけであり、今目の前に対峙している彼女たちに通用する保証はない。となると、私に一体何があるのだ。『旗艦』と言う立場を取っ払った今の私に何が、何もない私は彼女たちと同じ土俵に立っているのか。そんな私の言葉なんか、何の価値があると言うのだ。

 

 

 

 いや、分かっている、それは全て私の思い込み、万に一つも在りはしないただの被害妄想だ。だけど、今まで私が積み重ねてきた業、そして彼女たちに強いた苦痛を天秤にかけると、どうしても万に一つの『一つ』ではないか、と思ってしまうのだ。

 

 恐怖の芽は本当に小さく、最初は些細な胸の引っ掛かりだと言える。しかし、本当に恐ろしいのはその成長スピードだ。本当に小さな一粒だったとしても、一度芽生えてしまえば瞬く間に深く根を張り、葉を茂らせ、やがてその人自身を飲み込んでしまう。

 

 そして飲み込まれてしまえば最後、一人で抜け出すことは不可能だと言っていい。まして、『汚れ』である私だ、それは全くの不可能である。さっきのだって、司令官が引き上げてくれただけ。私は何もしなかった、何も出来なかった、ただ彼が差し伸べた手に縋りついただけ。

 

 

 

 

 あぁ、なんだ。結局、私が出来ることって、本当に無いのか。

 

 

 

「イムヤ?」

 

 

 ふと、ハチの声が聞こえてきた。先ほどの力強さはなく、困惑したような声色だ。思わず、顔を上げると、三人の顔が見えた。どれもこれも心配そうな表情をしている。

 

 

 

 

『動かないの?』

 

 

 だけど、その顔を見た瞬間、その言葉が聞こえた様な気がした。それを発したのが誰かは分からない。でもしっかり聞こえた、心に刻み込まれた、そしてそれは静まっていた筈の恐怖を掻き立てるには十分だった。

 

 

 すぐさま視線を足元に向ける。心臓の音が聞こえない、呼吸も出来ない、温度を感じない、まるで時間が止まってしまったかのように、何もかもが感じなくなった。いや、恐怖に飲み込まれてしまったのだ。

 

 

『また逃げるの?』

 

 

 それなのに、その言葉だけはハッキリと聞こえた。気付いたら、私の手はまたもやミサンガにあった。さっき、恐怖に呑まれた私を救い上げてくれた、それがまた起こるとでも思ったのだろう。現に先ほどは触れるであったが、今は束ねられた髪ごと握りしめている。

 

 だけど、何も起こらない。まさに今、喉から手が出るほど渇望しているのに、まったく起こらないのだ。ただ、無言で自分の髪を握りしめる私、そんな私を見つめる皆だけ。

 

 何も起こらない、何も言ってくれない、勝手にしてくれないし、勝手にさせてくれない。お願い、何かちょうだい。何か縋れるものを、支えてくれるものを、背中を押してくれるものを、私の逃げ場を――――。

 

 

 

『逃げるのは悪いことじゃない』

 

 

 そう思ったら、その言葉が現れた。これは幻聴ではなく、彼が実際に言ってくれた言葉だ。そうだ、そうじゃないか。彼はそう言ってくれたじゃないか。

 

 

『もし駄目だったら帰ってこい』

 

 

 次に、その言葉が現れた。これも幻聴ではなく、彼が実際に言ってくれた言葉だ。そうじゃないか、今すぐに解決する必要は無いのだ。一回駄目でもまた次がある、今日が駄目でも彼の元に戻ればいいじゃないか。

 

 

 

 何を心配する必要がある。もう、逃げ場(・・・)はあるじゃないか。

 

 

 

「何で、今日の出撃を取り止めたの?」

 

 

 その言葉は、いつも通り(・・・・・)スルリと出てきた。声のトーンもいつも通り、多分表情もいつも通りだ。その証拠に、ゴーヤの顔が困惑からいつもの表情に戻った。

 

 

「……何でって、お前のせいでち」

 

「そう、確かに私のせいよ。でも、高速修復材の使用を申請すればよかった。仮に降りなくても私たち潜水艦は入渠時間が短い、もしかしたら次の出撃までに間に合ったかもしれないわ。だけど、それを考慮せずに司令官に取り止めを言いに行った。どういうこと?」

 

 

 あぁ、私は何を言っているのだ。そんなこと今更言うなよ、お前もあの時了承したじゃないか、そう自分に向けて非難の言葉を浴びせる。多分、同じことを思い浮かべているであろう、ゴーヤの顔つきがますます険しくなった。

 

 

「     」

 

「いや分かってる、分かってるわ。どうせ、『役立たず』だって言ったんでしょ」

 

 

 何か言って血相を変えて詰め寄ろうとしてくるゴーヤを手で遮り、いつも通りの言葉を吐く。そう、これで良い、今はこれで良いのだ。これ以上ここで議論をしても無意味だし、私にはまた次の機会がある、逃げ込む場所もある。だから、今日はもうこれで良い。いつも通り、今まで通り、同じことをすればいい。そうして、此処から逃げればいい

 

 

「      」

 

 

 視界の中で、何かを叫んだゴーヤの顔つきが変わるのが見えた。それはあの時と、ドック前で詰め寄った時と同じだった。鬼のような顔、怒りや憎しみを抱えた顔。でも次の瞬間、それが驚愕の表情に変わる。その視線の先は私ではなく、その手前だった。

 

 

 

 だけど、その視線の先に目を向けることが出来なかった。

 

 

 

 感じたのは強い衝撃、衝撃によって振り回される視界、耳を指す乾いた音、頬にじんわり広がる熱と痛み。

 

 そこで、時が止まった。いや、熱と痛みは今もなお広がり続けているから止まったわけではない。ただ、私が感じていた筈の時間が、状況が意識の外に行ってしまったのだ。

 

 

 

 

「ちゃんと『言って』」

 

 

 不意に聞こえたその言葉。それは、私の前方から聞こえた。それは私のよく知っている声。だけど、それは今の私を混乱の渦中に突き落とすだけだった。

 

 その言葉に私はゆっくりと視界を、真横に向けていた顔を正面に、その言葉を発したであろう人物に向ける。何故、ゆっくりだったのか。何故、正面に顔を向けた、いや向けられたのか。恐怖に駆られていた私が真正面を、逃げ続けていた彼女たちを見ることが出来たのだろうか。

 

 

 それは一重に混乱していたから。それは想定外のことが起きたから、その声の主が、私の頬に痛みと衝撃を与えたことが、信じられなかったから。

 

 

 

「ハ、ハチ?」

 

 

 その声の主の名を溢す。同時に、私の視界の中に彼女が現れた。私の手を拭っていた筈の両手、その片方を自らの顔の横に、まるで真横に振り回したように構えている。鬼の形相を浮かべながら、その目に今まで見たことのない怒りを、同時に大粒の涙を浮かべたハチの姿を。

 

 

「ハ―――」

 

「お願い、ちゃんと言ってよ。そんな『分かってる(決まり文句)』じゃなくて、ちゃんとイムヤの口から、私たち全員に聞こえるように……もう――――」

 

 

 もう一度、彼女の名を溢した私の声を掻き消す様に彼女は言葉を発し、その言葉は途中で途切れた。それ以外は何も変わらない、構えた手も、表情も、目も、何も変わらない。その言葉を発しただけだ。

 

 

 だけど、それも次の瞬間には変わっていた。

 

 

「『これ』に頼らないで」

 

 

 そう言ったハチは構えていた手とは別の、私の手を今も握っている手を持ち上げた。同時に、彼女に握られた私の手も引っ張り上げられる。だけど、それは間違いであった。

 

 

 彼女は私の手を握ってはいなかった。逆に、私が彼女の手を握っていたのだ。それも、自分の手が白くなるほど強く、片時も離さまいと。

 

 口ではあんなことを言っておきながら、差し出された彼女の手に縋る。『言葉』をないがしろにしたくせに、『行動』だけで伝えようとする。そんな、醜い(汚れ)がそこにあった。

 

 

 

『ごめん』

 

 

 私はそう声を漏らし、すぐさま手を離そうとした。彼女は示した、私の汚さを。それが不快だったから、私の頬を張ったのだ。『触るな』と、言ったのだ。

 

 だけど、そのどれもこれもが叶わなかった。離れた私の手を、今度はハチの手が握りしめたからだ。逃がすまいと、離れまいと、『汚れ』に躊躇なく触れたのだ。

 

 

「逃げないで」

 

 

 再び聞こえた彼女の言葉。同時に、握りしめられる手に力が籠る。これで、私はここから逃げる術を失った。

 

 

「顔を上げて」

 

 

 再び聞こえた言葉。同時に、肩を掴まれ、大きく揺さぶられる。その反動で、私の顔は前を、正面に立つハチを向いた。これで、私は嫌でも彼女の顔を見なければならなくなった。

 

 

「私たちを見て」

 

 

 再び聞こえた彼女の言葉。そして、同時に彼女の目が私の目を見据える。片時も離すことなく、逆に離すことを許さないとでも言いたげな目。これで、私は嫌でも彼女と目を合わせるしかなくなった。

 

 

「私たちの声を聞いて」

 

 

 何度も耳にした言葉。これで―――いやもう既に、元々、昔から、彼女の言葉は私の耳に嫌でも聞こえてくる。私が彼女の言葉を都合よく解釈することが出来なくなっただけだ。

 

 

 

待ってる(・・・・)から、ちゃんと言って」

 

 

 その言葉、それは初めて聞いた言葉だ。いや、初めてではない。ハチの言葉で聞いたのは初めてだ。でも、その言葉を最初に向けてくれたのは司令官だ。いや、それだけじゃない。ハチが今まで言った言葉、『逃げないで』、『顔を上げて』、『私を見て』、『私の声を聞いて』―――全部、最初に向けてくれたのは司令官だ、司令官が教えてくれたことだ。

 

 

『いっておいで』

 

 

 その瞬間、その言葉が聞こえた。それは先ほど、彼に送り出された時に言われた言葉。その時は皆の所に行く、『行っておいで』と言う言葉だっただろう。だけど、今この瞬間、この時聞こえたそれを、私は勝手に都合よく解釈した。

 

 

 

『言っておいで』

 

 

 

 

「恨ん、で、る?」

 

 

 その言葉に押され、私の口から漏れたのはそれだった。それも、今までの抑揚のない、淡々とした口調から程遠い、弱弱しい涙声だ。それは自らに何の価値も無いと断じた汚れが発した、初めての『言葉』だった。

 

 

「私のせいで、皆、に身代わり、を、させちゃった、こと……恨んでる?」

 

 

 私は皆を身代わりにした、身代わりにしたことを詫びなかった、身代わりにすることをやめなかった。そんな私を皆は恨んでいるだろう、憎くて憎くてたまらないだろう、自分だけ苦しみを味わうことなくのうのうと過ごしている汚れ()を、心の底から恨んでいるだろう。

 

 

「旗艦、の、立場を使っ、て……偉そうに、勝手にやったこと、怒ってる?」

 

 

 旗艦の立場に縋り、その権力を笠に着て無理やり近づいて、触れて、そのくせ彼女たちから浴びせられる言葉を拒絶し、勝手に解釈し、勝手に実行した。そんなことをした私に怒りを抱いているだろう、理不尽に、不快に、汚れ()なんかに触れたくないと思っているだろう。

 

 

「そう、勝手に……元から何もないのに……秀でている事なんか、何もないくせに、旗艦だからって、空手形を振りかざして……そ、そのくせ勝手に一人になって、勝手に閉じこもって、勝手に責めて、それを周りに強いて……」

 

 

 ―――――――違う、違うんだ。これじゃない、言わなきゃいけないのは、最初(・・)に言わなきゃいけないのはこれじゃないんだ。これは後でも言える、何時でも言える。でも、それは『言わなきゃいけないこと』を言った後じゃないと駄目だ、駄目なのだ。

 

 

「ひ、一人になると何も出来ない、動けない、誰かに手を引かれることを、誰かに縋ることしか出来ない……そんな、そんな汚い……汚い私に、私の傍に……わ、わたしがぁ――――」

 

 

 だけど、『想い』は溢れてしまう。『言わなきゃいけないこと』を押し退けて、『言いたいこと』が溢れてしまう。これも汚い私だからか、多分そうなんだろう。そう自覚してなお、私は『想い』を止められなかった。

 

 

 

 

「傍に居て……良いのぉ?」

 

 

 

 その『想い』――――――『皆の傍に居たい』、それを漏らした。漏らした瞬間、両頬を何かが伝う感覚、そしてぼやけていた視界がほんの少しだけクリアになった。クリアになった先で、ハチの顔を見た。先ほどの鬼の形相はなく、待ち望んだモノを前にした子供のような表情だった。

 

 

 

 

「ふざけるなでち」

 

 

 だけど、次に聞こえた言葉はその表情とはかけ離れていた。勿論、それを発したのはハチではない。声の方を向く、そこには先ほどのハチと同じように鬼の形相を浮かべるゴーヤが立っていた。

 

 

「やっと、やっと言わせた(・・・・)と思ったら何……言ってるでち? そんな、そんな今更……ゴーヤがずっと言い続けてきた(・・・・・・・)ことを今更聞くなんて……ふざけるな……ふざけるなでち。あんなこと(・・・・・)言っておいて……結局、お前もそうじゃないでちか……」

 

 

 そこで言葉を切るとゴーヤはその形相のまま近づき、私の襟をつかんだ。そのまま私を引き寄せ、同時に彼女の顔も近づいてくる。そして、私の視界は彼女の顔で一杯になる。その鬼の形相に似つかわしくない、真っ赤に腫れた目を携えて。

 

 

「恨んでる? あぁ、恨んでるでち。ゴーヤたちに身代わりをさせて、それを顧みず、ゴーヤたちに一度も声を、話を、相談も助けも求めず(・・・・・・)、たった一人で突っ走ったこと……心の底から、恨んでるでち」

 

 

 ゴーヤは恨んでいた。私が身代わりを強いて、それを顧みなかったことを。だけど、私の言葉(それ)とはちょっと違う。彼女は私が身代わりを強いたこと、それを顧みなかったこと、そしてそれを自分たちに相談すること、助けを求めなかったことを恨んでいた。

 

 

「怒ってる? あぁ、怒ってるでち。ゴーヤの言葉を聞かず、言ったことをでっちあげて、それで自分を追い込んで、傷付けて、閉じ籠って……ようやく言わせたと思ったら今更同じことを、言っても聞かなかったこと(・・・・・・・・・・・・)を改めて聞いたこと……怒ってるでち」

 

 

 ゴーヤは怒っていた。彼女の言葉を聞き入れず、勝手に自爆していったことを。だけど、私の言葉(それ)とはだいぶ違う。彼女は私がその言葉を聞き入れず、あまつさえでっち上げたことを、それによって自分を追い込んで、傷付けて、閉じ籠ったことを、そして何よりも言っても聞かなかったことを今更聞いたことに怒っていた。

 

 

「そして……最後のは……――――――」

 

 

 そこで彼女の言葉が途切れた。それは私のようにハチが遮ったわけではない、ハチの代わりにイクが、ましてや私が遮ったわけでもない。私に詰め寄っていたゴーヤが、自身でその言葉を遮ったのだ。

 

 いや、本当に遮ったのだろうか。少なくとも私には、遮ったと言うよりもどちらかと言えば他の何か(・・・・)を溢すまいと必死に取り繕っているように見えた。

 

 

 だけど、その何かは出た。それも私の予想とかけ離れた、私とは全く違うものが。

 

 

 

 

 

「ごめんでち」

 

 

 

 ゴーヤの口からその言葉が出た。同時に、彼女の瞳から大粒の涙が零れる。そして、あれ程力強く握りしめていた彼女の手は私の襟を離し、そのまま体ごと私の胸の伝い、ゆっくりと下がっていく。それの様子はまるで、縋りつける場所を探しているようだった。

 

 

「ごめん、でち。あんなことやって、あんなこと言って……本当にごめんでち。あれはイムヤのためだって、イムヤを助けるためだって、助けるために、言葉を引き出すために必要だって……そんな言い訳を並べたけど、ゴーヤがやったことは決して許されることじゃないでち。イムヤを怒らせて、恨ませて、避けさせて、当然でち――――――でも、他に何も思い浮かばなかった、ゴーヤにはこれしか(・・・・)なかったんでち!!」

 

 

 突如、そう叫んで今まで下げていた顔を上げ、ゴーヤは先ほどよりも涙で濡れた顔を見せつけてきた。同時に水着の胸を掴み、グイっと下を向かせた。その様子は、今から発する言葉を一言も聞き漏らすな、目を逸らすな、勝手に解釈するな、と釘を刺す様に。

 

 

「あの時、イムヤは『何も知らないくせに分かったような口を聞くな』って言った。今のゴーヤみたいに詰め寄って、怒りと憎悪で染まった目を向けてきたでち!! だからゴーヤは聞いた、『何があった』、『何を言われた』、『ゴーヤたちに何が出来る』って。だけど、イムヤは何も教えてくれなかった。教えもせず、顔も見ず、道端に捨てるようにこう言った――――『あんたに言っても意味が無い』って!! 言ってもくれない、教えてもくれない、ゴーヤの言葉を聞きも、ゴーヤの顔を見も、ゴーヤの傍にもいてくれない!! そんな状況だったでち!!」

 

 

 それは糾弾だった。先ほどとは違う、彼女の口から漏れる言葉の全てが私に向けられた、これでもかと叩きのめす言葉だ。だけど、その言葉は私以外にも向けられていると感じた。何故なら、私も以前――――――司令官に言い寄った時に、同じような感情を抱いていたから。

 

 

「そんな中で、ゴーヤは何が出来た? そう、何も無かった(・・・・・・)でち!! ゴーヤから出来ることは何も無かった、だからイムヤから来てくれるようにするしかなかった。イムヤから助けを求めてくれることを待つしか、そこまでイムヤを追い詰めることしか出来なかった!! だから、だからぁ!!」

 

 

 そこで、ゴーヤの言葉が途切れた。いや、途切れざるを得なかったのだろう。彼女の顔は既に涙で滅茶苦茶で、同時にその心も滅茶苦茶だろう。だって、私も同じだったから。

 

 ゴーヤも私と同じように、何をすればいいのか分からなかった。だから私の言葉を鵜呑みして、必死に噛み砕いて、咀嚼して、最善策を生み出した。それが、傍から見れば見当違いも甚だしい、明らかに下策であると言われるモノに、それしかないと縋ってしまったのだ。

 

だけど、彼女は違っていた。それは、私が苦しむことを分かっていたことだ。悪い言い方をすれば、彼女は私が音を上げるまで負担を強い続けるつもりだった。だけど目的は私を助けるため、そしてその手段は私を苦しませる、そんな自己矛盾をしていた。それを承知で、今の今までやっていたのだ。

 

 

『皆の傍に居るため』だけに旗艦の権力に縋った私と、その点は全くの大違いだ。

 

 

「だからごめんなさいでち。今まで酷いことを、辛い思いをさせて本当に……本当にごめんなさい!!」

 

 

 吠えるように、胸の内に溜め込んだものを吐き出すようにゴーヤは謝罪の言葉を紡ぐ。そこに先ほどの覇気も怒気もない、ただただ今までやってきたことを悔いて、必死に許しを乞う弱弱しい少女だった。

 

 それに比べて、私は何をやっている。彼女は自らの保身を無視して私の為と、飲む義務も必要もない煮え湯を率先して飲み続けてきたんだぞ。それに彼女は言ったじゃないか、私が言うべきことを、私が『言わなきゃいけないこと』を。

 

 

 

 

 

「『ごめん』、ゴーヤ」

 

 

 『言わなきゃいけないこと』が、ようやっと私の口から漏れた。やっと言えた、最初に言わなきゃいけないことを。そしてこれは私が『想い』を繋ぎ止めていた歯止めが、完全に消失したことを示していた。

 

 

「ごめん、ゴーヤ。ごめん、ごめん……私が勝手に、私から拒絶したのに、そんな辛いことをさせちゃって……皆も、あんなに言葉をかけてくれたのに、行動で伝えてくれたのに、ずっと傍に居てくれたのに……ごめんなさい……ちゃんと見なくて、ちゃんと聞かなくて、閉じこもって……ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

「何、言ってる、でち。ゴーヤの方こそ、ごめんなさい……指示も聞かず、話もせず、あの朝だって黙って置いていって、ろくに謝りもしなくて……さっきも掴みかかって、吐き捨てて、突き放して、追い込んで、散々苦しめて……ごめんなさい、ごめんなさい、謝って終われる筈がないのに、こうやって謝ることしか出来なくて……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいでちぃ……」

 

「違う、違うよゴーヤ。ゴーヤは……皆は悪くない。全部、全部私が悪いの、私がもっとしっかりしていれば、私が逃げ出さなければ、私が皆と向き合っていれば……ごめんなさい、ごめんなさい、本当に、ごめん、な、さい……」

 

 

 私が『ごめんなさい』と言うと、ゴーヤはそれ以上に『ごめんなさい』を言う。

 

 ゴーヤが何度も頭を下げると、私は下げた数以上に頭を下げ、彼女よりも低く低く頭を下げる。

 

 『自分が悪い』とゴーヤは自分を陥れ、私はそれ以上に自分を陥れる。

 

 『自分がこうしていれば』とゴーヤは自分を非難し、そもそもの原因は自分だと私は言い張る。

 

 互いが互いを糾弾するのではなく、互いが互いを『自分が悪い』と言い張って、一歩も譲らず、どんぐりの背比べのように堂々巡りに陥る。だけど、私たちの身体はとうにその答えを出していた。

 

 

 棒立ちの私に泣きながらゴーヤが縋り付いていた、そんな姿。だけど今は、いつの間にか棒立ちから床にへたり込む私に向き合ってへたり込み、両腕で私を抱き締めて上を向いているゴーヤ、その肩に顎を乗せ、ゴーヤの背中に両腕を回してぎゅっと抱き締め、彼女と同じように上を向いている私。

 

 口では自らに非があると、全ての責任を背負い込もうとしている癖に、互いの身体に身を寄せて、互いの存在を確認し、もうこれ以上離れまいとしている―――――そんな『行動』を互いにしていたのだ。

 

 そして、そんな口から漏れる言葉はいつしか声に変わり、やがて声にもならない泣き声(・・・)へと変わっていた。抱き締め合い、大声を上げて、先ほど吐露した『想い』と共に今まで散々溜め込んできた涙を吐き出す。涙に紛れた『本当の私』を、『見てほしかった私』を、『傍に居て欲しい私』を。

 

 

 

「イムヤ」

 

 

 そんな中、二つの泣き声に紛れた一つの声が聞こえた。その声に、今もなお吐き出そうとする泣き声を抑え込み、ゴーヤの肩から顔を上げて涙で霞む視界をその方に向ける。そこには青紫の髪を揺らした人影が―――――イクがいつの間にか私の傍に立っていた。

 

 

 一瞬、その青紫が目の前に迫ったかと思ったら、顔一面に何か柔らかいものが押し付けられる。その柔らかなモノがとても暖かく、その奥から鼓動を感じ、やがて頭を撫でられるのを感じた。

 

 

 そう、イクが私の顔を抱き締めたのだ。

 

 

 

「良く、言えたのね」

 

 

 そんな言葉が聞こえる、同時に頭を撫でられ、更に強く抱きしめられる。まるで自分の体温を感じさせようと、試食会の時みたいに『此処にいるよ』と言い聞かせるような。そこに込められた力は強く、そして暖かかった。

 

 

 

 そして、彼女はその言葉を、それを受け取る資格なんかない私に向けて、その言葉を贈ってくれた。

 

 

 

 

「『ありがとう』」

 

 

 

「いや――――」

 

「ありがとぉ……イムヤぁ……」

 

 

 その言葉を否定しようとしたら、今度はイクではない弱弱しい声、ハチだろう。同時に真横から強い衝撃を受け、同時にイクと別方向から押し付けられる柔らかな感触、そしてハチの鼓動。

 

 イクのゆっくりと大きな鼓動と違い、小さくてより小刻みに感じる。イクが傍に居るよ、と伝えているとすれば、ハチは不安と緊張に駆られ、張り続けた虚勢に耐えきれなくなり安心できる場所に飛びついたような、そんな印象を抱いた。

 

 そう抱いた瞬間、視界の中にその顔が現れた。それは試食会の朝、二手に分けられた時に見た、ハチの心の底から楽しそうな顔、そしてそれを聞いた際に向けられた本当の笑顔。そして、同時にこう悟った。

 

 

 

 私は何も出来ないんじゃない。こうやって、誰かに『安心』を与えることが出来る。それだけの『価値』が、私にはあったのだと。

 

 

 ようやく気づいた、気付かされた、気付かせてくれた。私にそれが出来ると、その『価値』を見出してくれた。それを気付かせてくれたハチに、いや『安心』を与えてくれるイク、私のことを思って行動してくれたゴーヤ。彼女たちに『言わなければいけない』ことがあるじゃないか。

 

 

 今までの『ごめんなさい(それ)』とは違う、たった今、たった今変わった、今の私が――――綺麗になれる(・・・・・・)私が皆に『言いたいこと』。

 

 

 

「あ、あり――」

 

 

 だけど、それは最後まで言えなかった。それは唐突に現れた音、それも私も含める部屋に皆ではない、扉の向こう、廊下から聞こえた何かを重いモノを置く音。

 

 

「誰?」

 

 

 その音にいち早く反応したのはイクだった。鋭い言葉と視線を扉に、その向こうに居る誰かに投げかける。すると、今度はドアの向こうから小さな声を、軽く床を踏みしめる音が聞こえ、やがてそれはひときわ大きな音からだんだん小さく、そして遠くなっていく――――走っていく音に変わった。

 

 誰かがそこに居た、その事実に頭の中が真っ白になる私たち。だけど、何故かイクだけは特に動じずに抱きしめていた私の頭を離して扉に近付き、少しだけ開けて顔を出した。

 

 その後ろ姿を、残された三人は黙って見つめる。その間も、私たちの身体が離れることは無かった。

 

 

 

「これは……?」

 

 

 そんな微妙な空気を破ったのは、扉から突き出した頭を戻そうとしたイクだ。彼女は何かを見つけたのか、閉めようとした扉の隙間から廊下へと出ていった。ほんの一瞬、部屋は静寂に包まれるも、すぐに開いた扉の隙間からイクの足が現れ、扉をゆっくりと開ける。

 

 

 その後、イクは首を傾げながら部屋に入ってきた。その際、彼女が手にしていたのはその上半身がスッポリ入りそうな程大きな額縁の絵であった。絵が描かれているであろう正面はイクに向けられているので、その絵を私たちは見ることができない。

 

 

「誰か、いた?」

 

「いや、誰もいなかったのね。代わりにこれが壁に立て掛けてあったの」

 

 

 そんなイクにハチが震える声で問いかけるも、イクは至って冷静に言葉を返した。いや、どちらかと言えばハチの問いよりも、自分が抱えている絵に対して頭を捻っているようにも見える。

 

 

「何が描いてあるでち?」

 

 

 いつの間にか落ち着いたのか、鼻声のゴーヤがイクに問いかける。すると、イクは絵に注いでいた視線を私たちに向け、もう一度絵に向けて何故か溜め息を吐き、ようやくその絵を見せてくれた。

 

 

 そこにあったのは、虹色の大きなバラが活けられた花瓶であった。淡い色使いの水彩画が花弁一つ一つを少しずる変化させることで虹色のバラを見事に表現し、反対にズッシリと重さを感じるクレヨンで描かれた花瓶が絵全体の雰囲気を引き締める。絵の心得が無い私が見ても、とても素敵な絵だ。

 

 だけど、よく見るとそれは一本の大きなバラではない。少し色の違うバラを何本も描き、あたかも虹色の大きなバラが咲いているように見えるよう描かれていた。その数を数えてみると十三本である。

 

 そして、数えている間に気付いたが、よくよく見ると原色と言える色は虹の七色ではなく、たった四色だった。それも赤、青、黄色、そして、赤系と言えるピンクの四色。それだけの色なのにはた目から見れば虹色に見えるのは、その色遣いが絶妙であるからだろう。

 

 そこまで、分かった。だけど、それだけだ。何故こんな絵が私たちの部屋の前に置かれたのか、それは分からなかった。いや、分かれなかった(・・・・・・・)

 

 

 

「あ、あ、あぁ……」

 

 

 その絵を見たハチが何かに気付き、次にそんな声を上げてその場に崩れ落ちたからだ。突然のことに、私たちはハチを見るも、彼女は床にへたり込んで両手で顔を覆い、肩を震わせながら声を――――嗚咽を溢していた。

 

 

「ハチ?」

 

「あぁ……ずるい、ずるいよぉ、こんな時にぃ……」

 

 

 何が起こったから分からない私はハチの名を呼ぶも、彼女は独り言のようにそう呟いて嗚咽を漏らし、すぐに床に伏せて大声で泣き出してしまった。その姿に目を丸くする私の耳に、今度は息を呑む声が聞こえた。

 

 声の方を見ると、片手で絵を持ってもう片方の手で口を抑えるイク。その視線は絵ではなく、その裏側に注がれている。そして何故か、その目には今にも零れそうな程大粒の涙が浮かんでいた。

 

 

「イク?」

 

 

 イクの名を呼ぶと、彼女は涙を浮かべる目を私に向け、そしてもう一度絵の裏側、色鮮やかな絵とは対照的にシンプルな木の板を見せてきた。そこに、私とハチは同時に目を向け、そして気付いた。

 

 それは裏面の中心、木の板に記された言葉。それは絵具の筆を使ったようで、どうも使い慣れていないのか少し波打っている。少し波打っていて、明らかに絵を描いた人ではない誰かであろうその言葉はこうだ。

 

 

 

 

『永遠の友情』、『無限の可能性』

 

 

 その言葉が一体何なのか、何の意味があってそこにあるのか、それを考えることは多分野暮なのだろう。そして、この言葉を書いたのは、そしてこれを持ってきてくれたのは、それを今ここで考えることは、やっぱり野暮だろう。

 

 それに、それを聞きに行く前に私には先にやることがある。それは『やらなきゃいけないこと』じゃなくて、『やりたいこと』、『言いたいこと』、『伝えたいこと』、そんな『想い』に突き動かされたことだ。

 

 

 だから、もうちょっと待って。いつか必ず、ちゃんと見せに行くから、まだまだ綺麗になるから、一番綺麗な私を見せたいから。

 

 『待ってる』って言ったもん。あれ、言ったっけ。いや、多分言ってない。これは私の『勝手』だ。でも、それでも待ってくれるよね? だって、『帰ってこい』って言ってくれたもん。多分、いつまでも(・・・・・)待ってくれるってことだ。

 

 だから、先ずは―――――

 

 

 

「みんな」

 

 

 そう、私は声を上げた。それに、三人の顔が私の視界に現れる。誰もが、キョトンとした顔をしている。さっき、部屋に入ってきた時と同じ顔だ。それを見て、何故か浮かんだ笑みを隠すことなく、私は『言いたいこと』を言葉にした。

 

 

 

「『ありがとう』」

 

 

 そう溢した瞬間、私の視界は大きく揺れる。その中で慌てて近づいてくるゴーヤの焦った顔を見て、私の意識は真っ暗闇に消えていった。

 


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