新米提督苦労譚~艦娘たちに嫌われながらも元気に提督してます~ 作:ぬえぬえ
「……何で」
司令官の言葉に、私はそう漏らした。同時に身を預けていた背もたれを離れ、立ち上がり、後ろの彼に突っかかろうとした。
でも、それは叶わなかった。
「いきなり立ち上がると危ないぞ」
その言葉と共に肩を掴まれ、強引に座らされたからだ。おかげで立ち上がることが出来ず、代わりに鏡越しに彼を睨み付けた。だけど、その顔は変わらない。ただただ真っ直ぐ、柔らかい表情で私を見つめ返してくるだけだ。
「……何で逸らした?」
不意に聞こえたその声。その時、私の視界に彼は居なかった。彼の言葉通り、私から視線を逸らしたのだ。彼の視線が鋭いわけでもなく、威圧感があったわけでもない。なのに、逸らしてしまった。その直後、噛み付こうと息巻いていた筈の喉も、突っかかろうと力を込めた腕も、脚も、それらを含めた全身が、まるで石化されてしまったかのように動かなくなってしまった。
「イムヤ?」
だけど、彼は更に問いかけてくる。それで、喉だけは動き出した。だから、何とか声を絞り出すことが出来た。
「……何でそんなこと言うの」
「お前に旗艦を任せるべきじゃない、そう判断したからだ」
私の言葉に、司令官ははっきりとそう言った。旗艦を任せるべきではない、と。私が旗艦を担い、すがり続ける理由を知っていながら、その言葉が私の全てを否定すると分かっていながら。彼は、そう言ったのだ。
「俺が旗艦に求めるのは、鎮守府及び近隣の住民を守るために深海棲艦を撃破すること、艦隊の被害を最小限に留めること、そして誰一人欠けることなく帰還すること、この3つだ」
彼が挙げた、旗艦に求めるもの。それは極々当然であり、真っ当であり、何より私の
「……その3つなんでしょ? 深海棲艦を撃破する戦果を上げて、僚艦の被害を最小限に抑えて、皆を帰還されることでしょ? どれもこれも今までやってきた、ちゃんとやってきた、
そう、私はやってきた。彼が掲げたことを、私が掲げたことを成すために、それだけを目標に。ずっとずっとやり続けてきた。出来る限り、出せる力を出し切って、やれるだけのことをやってきた、やり続けてきた。
なのに、なのに何でそんなこと言うの? 何でそれを認めてくれないの? 何で見てくれないの? 何で触れてくれないの? 何で傍に居てくれないの?
……あぁ、そうか。
「まだ、足りないんだ」
ふと、口からこぼれた言葉。それは呟きに近い。足りない、足りないのだ。彼は――――
だから何も変わらなかった。怒鳴られ、殴られ、蹴られ、誰かに『身代わり』をさせてしまう、あの頃から何も変わらなかったのだ、何もかもがそのままなのだ。あれから少しも、一ミリも状況は変わってないのだ。
「 」
何処からか、また
「 」
また幻聴が聞こえた。どうでもいい、放っておいてくれ、構うな、あっちに行け、
「『イムヤ』!!」
次の瞬間、私の思考を幻聴が、いや、
「何を考えていた?」
「……き、旗艦の役割について」
彼の問い。やはりその声色は少しだけ低く、僅かに怒気を孕んでいた。そのためか、私は素直に答えた。あの時と―――初代に報告する時と同じように。
「『足りない』、って言うのは?」
「……今までやってきたことじゃ足りないって……司令官が、満足しないって」
再び投げ掛けられた問いにも、私は答えた。答える中、思わず歯を食い縛りそうになりながらも、何とか答えた。これを言い終えてしまったら、次に来るのが拳か革靴か、その両方か、少なくともどれかは飛んでくると思ったからだ。
だけど、そのどれもが飛んでくることはなかった。
「そうだな。確かに『足りない』から、満足してないな」
その言葉と共に肩から手が離れる感覚、鏡に映る司令官が私の肩から私が腰かける椅子の背もたれを掴む姿、次に横に引っ張られる感覚、感覚と同じ方に動き出す視界、視界の外へと飛んでいく鏡、脱衣場の風景たち。
そして、背もたれを掴みながら何故か膝を折り、私に向かって頭を垂れている彼の姿。
いきなりのことに何がなんだか分からない。思考も感情も、感覚の全てが大混乱して、状況も把握できない。ただ、いきなり目の前に現れた頭を垂れる提督に丸くなった目を向けるだけだ。
やがて、背もたれを掴んでいたその手が離れ、垂れていた頭がゆっくりと上がる。その下から現れたのは、先ほどの真剣な表情であった。
その視線と目が合い、思わず視線を逸らしそうになる。だけど、それは次に飛び出した彼の言葉によって、その顔が消える寸でのところで繋ぎ止められた。
「何で、『イムヤ』が入ってないんだ?」
彼が私の名前を口にしたこと、そして何よりもその言葉の意味が分からなかったからだ。だから、逸らそうとした視線が止まり、そこから錆びたネジのようにぎこちない動きで彼の方を向き始める。その間、彼は何も言わなかったが、私の顔が真っ直ぐ自分の方を向いたとき、ようやく喋りだした。
「俺が旗艦に求めるのは、艦隊の被害を最小限に抑えること、そして誰一人欠けることなく帰還すること、そう言った。なのに、お前は『艦隊』を『僚艦』に、『誰一人』を『皆』に変えた。俺の求めるものから
そこで言葉を切り、代わりに私を見つめてくる司令官。それはまるで私からの返答を待っているかのよう……いや、待ってくれているのだ。私を見つめ、声をかけ、私の言葉を受け止めようとしてくれているのだ。そのせいか、私はまたもや素直に言葉を吐いた。
「そ、そんなの……私が帰ってくること前提で……」
「毎回、
私の言葉を遮るように始まった淡々とした彼の言葉は、後ろにいけば行くほど語気が荒くなり、次第に怒気を孕んでいく。それに比例するように、真剣な表情が何処か険しくなっていく。
だけど、ほんの僅か。ほんの僅かだが、その表情の中に『哀愁』のようなものを感じた。しかし、それを口にすることはできなかった。それよりも、私の頭は膨れ上がった疑問符で一杯だったからだ。
私が求められているのは戦果、それに加え自分が求めたのが旗艦であり続け、出来る限り僚艦に無理をさせないことだ。それ以外は求められて、求めておらず、逆に言えばそれを遂行するためなら何をしていいということ。だから。私は己に強いて、摩耗させて、すり減らして、出来うる限りを背負ってやってきたのだ。
それが、私の全てだ、私の
だけど、目の前の司令官は、『私』はどうなのだ、と言っている。そんなの、
なのに彼は旗艦をやめろと言う。
「沈んだ方がマシよ」
「ふざけるな」
ポツリと漏れた言葉。それは呟くような大きさだった。だから、彼の淡々とした言葉に易く掻き消された。いや、淡々としているがやはり言葉の節々からは怒気がにじみ出ている。まるで今にも噴き出しそうな怒鳴り声を無理やり押さえつけているように。そんな言葉に、私のそれが掻き消されるのも当然だろう、思わず顔を背けてしまうのも当然だろう。
「もう一度聞くぞ、お前が無理をして、傷付いて、最悪の場合沈んで、それで俺が満足すると思っているのか? むしろ、俺がそう言ったか? 無理をしろ、傷付け、沈んで来い、なんて一言でも、ほんの一瞬でもお前にそう言ったか? そんなこと、俺は言ってないぞ。戦果を上げろなんてのも、
視界の外から聞こえる彼の言葉は淡々としており、且つ怒気を孕んでいる。そんな声色で、そんなことを言ってきた。確かに言ってない、言ってないのだ。でも、口にしていないだけで本当は思っている、口にするのを躊躇しているだけ。誰もがそう思っている。そんな中で、唯一それを示してくれたのが、言ってくれたのが初代なのだ。
「だけど、
その言葉と共に視界の外から現れた二つの掌に顔を掴まれ、無理矢理前を、司令官の方を向けさせられた。拳でもなく、革靴でもない、初めてのこと。それに私は今までにない恐怖が襲ってきた。だから、思わず目を瞑った。視界を真っ暗にした。視覚を捨てたことで更なる恐怖を味わうと分かっていながら、私はそれをかなぐり捨てた。
そんな私の耳、視覚を失ったことで敏感になった私の耳は、彼の言葉を拾った。
「『初代がお前らに課したことは、絶対にしない』」
その言葉。それはあの時、初めて彼のと会った時、言われた言葉。私の目を真っ直ぐ見据えて、真剣な表情で、
それに、いつの間にか視界が開けていた。無意識の内に目が開いていた。そして、目の前にいる司令官を、あの時と同じく真っ直ぐ私を見据える、私を
「初代がお前らに課したのは多大な戦果を強いる、制裁を加える、伽を強いることだ。これを絶対にしないって言ったけど、正直絶対じゃない。大本営から戦果を求められればそれに従うし、明らかにそいつの失態であったら罰も加える。でも戦果は求められた必要最低限で良い、罰は暴力一辺倒じゃなくて別の方法を取る、伽なんて罰は絶対にしない。前言ったのが曖昧だったから改めて言うと、俺は初代がお前らに強いたものほどを強いる気はない。勿論、お前が自分に強いたこともだ」
彼は真剣な表情のまま、私を見据えながら話を続ける。それに、私は瞬きすらも忘れて聞き入った。いや、正確には瞬きをする必要が無かったからだ。
「それにさっき俺が言った旗艦に求めることも、ぶっちゃけ
そこで言葉を切った司令官は、私の顔から手を離した。だけど、それでも彼の視線は私を見据えていた。
「今までのことをまとめると、俺は初代やイムヤ程に強いるつもりはない。そして俺が強いることは旗艦じゃなくても出来るし、尚且つお前が旗艦だと余計なリスクを負いかねない。だから、旗艦から外そうと思った」
彼の言葉は非常に端的で、まさに正論だ。ぐうの音も出ないほどに。そこに浴びせる言葉の全てを言い訳に変えてしまうほどの正論だった。
だけど、それでも私は。
「じゃあ、どうすればいいのよぉ……」
そう、声を絞り出した。それは罵声でも、怒鳴り声でもなく、ただただ弱弱しい。正論を前にして言い訳も暴れもせず、ただ震える手を伸ばし助けを乞う、なんとも浅ましい姿だ。
それは同情を誘うため、私が縋り付いている理由を知っている彼に弱弱しい姿を見せれば救ってくれる、なんて汚い考えを持っているから。その証拠に、私は実際に手を伸ばしていない。それはあの時のように、差し出した手を握りしめられないと分かっていたからだ。
だからだろう。彼もまた、私の問い
「試食会の朝のこと、覚えているか?」
私の問いを無視して、彼はそんなことを問いかけてきた。突然の問いに、私は驚きつつもやっぱり救ってくれなかった、と内心肩を落とす。それ故、私はその返答を言葉ではなく頷くことで示した。
試食会の朝とは、私が遅刻してしまったことだろう。それもゴーヤがそうなるよう仕向けて、私を旗艦の座から引きずり降ろそうとした。
「あの時に約束通り来てくれたことを感謝しつつイムヤが居ないことを聞いたら、その時に初対面だったゴーヤが進み出たんだ」
ゴーヤが進み出た。恐らく、私に向けた嫌味を言ったのだろう。約束したくせにまだ寝ている、これが旗艦様か、と。そうのたまう姿が目に浮かぶ、声色の変化まで手に取る様に分かる。私を引きずり下ろす布石を打ったのだろう。それに乗せられた結果が今の司令官だ。
だと、思っていた。
「『イムヤを休ませてほしい』、そう言って
その言葉に、私の頭の中は真っ白になった。彼の言葉が予想外過ぎて、理解出来なくて、信じられなくて、ただ限界まで見開いた目を彼に向けた。
「その後は怒涛の言葉攻めだ。イムヤがこれまでにやってきたこと、頑張っていること、苦しんでいること、我慢していること、堪えていること、とにかくお前に関する色んなことを教えてくれた。そして、今日はイムヤが休める時間を少しでも確保するために
彼の口から語られる言葉。その全てが信じられなかった。ゴーヤがそんなことを言った? 有り得ない、あいつは私を旗艦の座から引きずり降ろそうとしているのだ。だから私に突っかかって、指示に従わず、真っ向から反抗している。そんなゴーヤが私のために頭を下げるなんて。
それにイクやハチも頭を下げた? なら何であの時黙っていたの、何でそうだと教えてくれなかったの、何でただ曖昧に笑うしかしなかったのだ。何でいつも二人は口を閉じるんだ、何でいつも視線を合わせてくれないんだ。
いや、分かってる。それは私のことを恨んでいるからだ。身代わりをさせ続けたことを恨んでいるからだ。それに対して私が何も言わず、同じことを繰り返したからだ。だから何も言わなかった、見もしなかった、触れもしなかった、傍にいてくれなかった。
「言ってくれな――――」
「
思わず漏れた言葉を、司令官が容赦なく切り捨てた。その声色は先ほどよりも低く、冷たく、感情の一切が籠っていない。そして私の目に映る彼の表情は、その声色通り一切の感情が感じられない真顔だった。
「その後、ゴーヤはこうも言った。
司令官の言葉、正確にはゴーヤの言葉に、私は今までされてきた彼女の行動を思い出していた。
彼女は私の指示を聞かず、勝手に前に出て、勝手に攻撃して、勝手に敵の攻撃を引き付け、勝手に傷付いて、勝手に伽をした。勝手に突っかかって、不利になれば黙りこんで、最後は逃げる。それ以外は口もききたくないとばかりに。
それを私がやっていると? 分からせるためだと? ふざけるな、有り得ない、思い違いも甚だしい。そう、言いたい。でも言えない、言えるはずがない。だってその通りだから。私が『旗艦』という権力を振り回してゴーヤたちに強いたのが、まさにそれだったからだ。
だけど、そこに一つだけ無いものがある。それは伽だ。私は伽をしていない、むしろ皆に身代わりを強いた。そこだけがゴーヤと、皆と違う。それが私と彼女たちを隔てる壁であり、初代に拒否され、今の司令官も強いないと言い切った現状では絶対に乗り越えられない壁なのだ。
だから、その穴を埋め合わせようとした。埋め合わせるために『旗艦』に縋ったのだ。『旗艦』という立場でしか私は彼女たちの隣に立てない、それ以外に方法が無い。だから縋った、だから権力を振り回した、今も昔も変わらず私はそれを求め続けた。
だってそうしないと、今の私では誰も見てくれず、声をかけてくれず、触れてくれず、傍に居てくれない。文字通り、本当に、今すぐに―――――。
「一人に……」
「誰かが
私の言葉を掻き消した司令官の問い。突然のこと、そしてあまりに突拍子もないことに、思わず彼を見つめた。そして、見た。
痛みに耐えているかのように顔をしかめながら、それでも無理矢理微笑んでいるその顔を。
「『旗艦になれ』って、そうゴーヤたちに言われたのか? でないと、誰も見て
立て続けに投げかけられた問い。その問いは単純明快、『イエス』と『ノー』だけで、首の振り方でさえも答えられるとてもシンプルな問いだ。でも、私はその二つの選択肢では答えなかった、いや答えられなかった。
だって、私はそれを『言葉』で言われてないからだ。『言葉』ではなく、『行動』で示された。『近寄るな』と言われたわけではなく、『差し出した手を握られなかった』から。
「言われたも……同然でしょ」
「いや、お前はちゃんと言われた、『言葉』で受け取った筈だ。何せついさっき
私の言葉に、司令官は肯定しつつも否定した。彼は何を言っているんだ。私はそんなこと言われた覚えも、況して言った覚えもない。
「『旗艦をやめろ』」
その『言葉』に、私が導き出した結論が覆ることは無かった。むしろ再び向けられた
「『無理をするな』」
だけど、次に聞こえた一言で私の身体は止まった。
「『危険なことをするな』、『前に出るな』、『休め』。
そう言って、再び司令官は私を見つめた。真っ直ぐ、私を見据えた。何故だろうか、その姿がほんの一瞬だけ、別の姿に見えた。
「そこに『旗艦になれ』、『旗艦じゃないと……』なんて言葉があるのか? ゴーヤだけじゃない。他の艦娘たちや俺が言ったことにも、そんな意味合いの言葉があったのか? 少なくとも、俺はそんなことを言った覚えは無い。ただお前がそうであると勝手に解釈してるだけだ、そうであると決めつけているだけだ、
『怖い』―――それは何度も何度も口にした言葉。非難されることが、手を握られないことが、傍に居られないことが、一人になることが。怖い、堪らなく怖い、身の毛もよだつ程に怖いのだ。
「だから自分を貶し、辱め、過小評価し、自分にとって『最悪』と言える環境を作り出した。そうすれば、誰も
『仕方がない』――――そうだ、『仕方がない』じゃないか。私に何が出来た? 私に何があった? 私に何の価値があった? ロクな戦果も挙げれず、伽も出来ず、傍に寄るなと言われたも同然な、汚い汚い私なんだぞ。何も出来なくて『仕方がない』じゃないか、何もなくて『仕方がない』じゃないか、何の価値もなくて『仕方がない』じゃないか。
だから、『旗艦』を言う価値を求めても『仕方がない』じゃないか、無理矢理傍に居ようとしても『仕方がない』じゃないか、無理矢理見させようとしても、声をかけさせようとしても、触れさせようとしても『仕方がない』じゃないか。
何の価値も無い
「『自分から非を認めることで、周りからの非難を防ぐ』なんて、灯台下暗しってところか。そうやって、『負』の感情だけで周りをガチガチに固め、それでもやってくる感情の全てを都合の悪いように――――自分にとって
そうだ、その通りだ。私は、汚れである私は自覚しているくせに逃げだのだ。向けられる言葉から、向けられる視線から、向けられた感情から、それらから逃げ続けた。それら全てを欲したくせに、『怖い』からと言うだけで逃げていたのだ。
だから、さっき司令官の言葉を『幻聴』と扱い、そこで『一人になる』ことを、『傍に寄るな』と望んだのだ。だからゴーヤの言葉を鵜呑みに出来ず、あまつさえ勝手に書き換えた言葉をぶつけてしまったのだ。八つ当たりのように、寄せ付けないように、今日も、この前も、あの時も。
だけど、それしか無かった。それ以外の選択肢が見当たらず、与えられず、価値が無い頭で絞り出したのが『逃げる』だったのだ。
だから言ったじゃないか。『仕方がない』って。
「あぁ……そうか」
ポツリと漏れた一言。その瞬間、私は再び
これから彼がなんと言おうと、全て私の都合の良いように書き換えられる。もしくは『幻聴』として扱おう、聞かないふりをしよう、書き換えた言葉を叩きつけてやろう。
そうすれば、彼は何も言わなくなる。そうすれば、これからもずっとこのままだ。逃げ続け、書き換えて、聞こえないふりをして、言葉を叩き付けるだけだ。この状況がずっと続くだけだ。
この『
「『逃げる』のは、悪いことじゃない」
だけど、その言葉を都合よく解釈することが出来なかった。何故なら、予想外だったからだ。何故なら、それを聞いた瞬間顔を上げ、司令官を見たからだ。何故なら、『負』の感情で――――『悲しみ』で既に酷く歪んでいたからだ。
その顔が今日、そして今まで見たゴーヤのそれと、寸分の狂いも無く重なったからだ。
「『逃げる』のは良いことじゃないけど、悪いことでもない。逃げるのは物事を滞りなく進めるため、軌道修正するため、被る被害を最小限に抑えるため、そんな時に必要だからだ。全体を見渡した中で小さな盲点や障害を、その時、その状況、その一瞬をやり過ごすために人は逃げる。それでうまくいくこともあるから、一概に逃げることが悪いなんて言えない。まぁ、お前の場合は『自分を守るため』って言う、どちらかと言えば悪い方だ。でも、それしか無かったんだろ? それしか分からなかったんだろ? だから、『仕方がない』ってことにしたんだろ?」
不意にそう話す彼の手が私に迫り、頬を優しく撫でる。頬を伝って耳、そして散らしている髪の一房に触れた。
「お前はそれを分かった上で逃げた。ずっとずっと、今も
彼の手は触れていた私の髪を離れて再び頬に触れ、そのまま止まった。だけど彼の瞳は私の目を、汚れている私の目を何処か眩しそうに見つめた。
「でも、ゴーヤはそんなこと言ってない。アイツが言ったのは、『無理をするな』、『前に出るな』、『危険なことをするな』、『休め』、そして『旗艦をやめろ』。それを、お前は『そんなことをやる価値が自分には無い』と捉えた。でも、ゴーヤは『そんなことをする必要は無い』って言いたかったんじゃないかな。そんなもの要らない、そんなことをしなくても良い、ってさ。それが聞き入れられなかったからゴーヤは『イムヤにしてほしくないこと』を、お前が『自分に課したこと』を敢えてやった。もし本当に『傍に居たくない』なら、今日みたいにお前をドッグに担ぎ込みも、意識が戻るまで傍にいることも、『今』も同じ部屋で過ごさないだろう。まぁ、その真意は分からない。ただ俺が知る限り、アイツが突っかかってくるのは
彼の言葉に、私は頭の中にその光景が浮かんだ。今日のこと、試食会のこと、それ以前のこと。確かに彼の言う通りだ。今思い出してみると、ゴーヤが突っかかってきたのは決まって私が自分を貶めた時だ。
だけど、それは
そうなると、ゴーヤが突っかかってくるのは自分の言葉を曲解されたのか、はたまた私が自分を貶したからなのかは分からない。それを、私が判断するのは不可能だ。
「ゴーヤだけじゃない。イクやハチだって、『行動』で示していたんじゃないか?」
だけど、そこに付け加えられた言葉。それは今まで浮かんでいた光景を消し去り、代わりに試食会の時に見た、聞いた、感じたことを呼び起こした。
果てしない恐怖に苛まれる私を
私の手を
そうだ、そうじゃないか。それだけのことを皆はやってくれた。こんな私に、汚い私に。貶されて、辱められて、恨まれて当然の、そんなことをされる価値が無い私に。『言葉』で伝えたところで何も変わらない私に、皆はこれほど『行動』で示して、伝えてくれていたじゃないか。
勝手に自己嫌悪に陥って、勝手に突き放して、勝手に閉じ籠った私。その周りに―――そのすぐ
「アイツらは待ってる。お前が自分を責めるのやめて、逃げるその足を止めて、俯いていた顔を上げて、見ないふりをしていた自分たちを
そこに畳みかけられた問い。その答えはすぐに出た。いや、
でも、汚い私は卑しくもそれを捨てきれなかった。汚いからこそ、不相応だからこそ、それを夢見て、心の底から願った。
「皆の傍にぃ……居たいよぉ……」
『皆の傍に居たい』―――――それが私の『答え』だ。しょうもない、ありきたりな、他の人からすればそんなに大事だろうかと首を傾げられるかも、それを手放したのはお前だと言われるかもしれない。だから不相応だと言った、それを持つ自分を汚いと言った、卑しいと言った。
「良いじゃん、それ」
だけど、司令官はそれを否定も非難もせず、認めてくれた。同時にその手が私の頬を離れ、私の腕を掴み、そして引っ張った。それに引かれた私の身体は座っていた椅子を離れ、前に倒れる途中で止まった。その時、私の視界に彼の顔は無い。代わりに自分のものではない鼓動、体温、そして頭を撫でられるのを感じた。
早い話、司令官に抱きしめられたのだ。
「なら、それをアイツらに話さないとな」
突然のことに思わず漏れそうになった言葉は、司令官のその一言で止まった。彼の言う『それ』とは私の答え、『アイツら』とは皆―――ゴーヤたちのことだと理解したからだ。
同時に、それが『無理』だと思ったからだ。
「……無理だよ、あれだけのことをやっておいて、今更……」
「確かにそうかもしれない。でも、アイツらはそんなこと言ってないし、何より
司令官の言っていることは分かる。今の私たちにそれが必要であると、本心を聞きたいのなら先ず自分から示すのが筋であると、筋を通す『行動』が必要であると、分かっている。だけど――――
「もし……駄目だったら―――」
「やり直せばいい」
私の言葉を掻き消す様に、彼はそう言った。その瞬間、ほんの少しだけ
「一回やって駄目なら、やり直せばいい。それで駄目でももう一回、駄目だった度にやり直せばいい。アイツらはずっと傍に居てくれる、お前が変わるのを待ってくれる。いや、
そう言って、彼は私を抱き締める腕に力を込める。それはあれに似ていた。そう、
でも、それは一時のことに過ぎない。私たちは何処へ行くのも一緒であったから、それはずっと行われた。だけど、彼はずっと一緒に居ることは出来ない。彼の言葉通りに皆の前に行く時、恐らく私は一人であろう。今この時は良いかもしれない、でも一番傍に居て欲しいときに彼は居ない。
それだけで、私は逃げたくなるのだ。
「だから、これは『お守り』だ」
しかし、彼はそんなことを漏らした。同時に私の身体を抱き締めていた腕が離れ、何故か私の髪に触れた。触れた際に痛みはなく、髪を乾かしていた時のように優しく髪を纏めていく。やがて、私の髪は紐のようなもので縛られた。
「『お守り』……?」
「俺が付けていたミサンガだよ。そして、今からこれは俺とお前のミサンガだ」
司令官の言っていることが分からない私を尻目に、彼は結び終えるとそのまま肩を掴み、私の身体を助け起こした。そのおかげで、私は彼の表情を見ることが出来た。彼の浮かべている、とても柔らかな笑みを。
「お前は『ゴーヤたちの傍に居たい』、俺は『お前らがずっと一緒に居て欲しい』。そんな
そう言って、司令官は何故か自分の手首にあるミサンガを見せつけてきた。それがどんな意味なのか、そのミサンガにどんな願いが込められているのか。それは分からない。だけど一つだけ、一つだけ分かった。
今この瞬間に、『逃げたい』と思っていた自分が消えたことが。
「あと、これも
そう言って、司令官は先ほどと打って変わって真剣な表情を向けてきた。その言葉、その表情、彼がそんなことをする意味を理解するよりも先に、私の思考は停止した。
「お前は『綺麗』だよ」
いきなり、面と向かって、真剣な表情で、声色で、片時も目を離さず、そう言われたからだ。
「お前は自分を『汚れ』だと言った。それは自分を貶めるための例えだろう。勿論、お前がそう言った理由に、アイツらの中で一番幼い体型だと言ったのも分かる。正直、アイツらに比べたら多少は見劣りするってのも思わなくはない。でもな――――」
そこで言葉を切った司令官は、私の頬に手を添えた。そして、真剣な表情であったその顔を崩し、苦笑いへと変えた。
「お前のその赤髪と、その緋色の瞳。俺は『綺麗』だと思うよ」
そこまで来て、ようやく思考が動き始めた。動き始めたから彼の言葉を飲み込み、咀嚼し、噛み砕き、その意味を理解した瞬間、私は真っ先に顔を背けた。
「な、何を……」
「さっき、思いついたことを言って良いか、って聞いただろ。まぁ一つって言ったけど、初めて会った時とさっき
『綺麗になれる』―――その言葉に私は背けていた顔を司令官に向けた。それと同時に彼の手が私の視界を覆い、そのまま頭を撫でられ、見えない彼の口からこんな『言葉』を贈られた。
「だから、『綺麗になってこい』」
その言葉を聞いた瞬間、私は目を見開いた。その目を、その手で遮られている司令官の顔へと向けた。
彼は言ってくれた、私が無理をすることを望んでいないと。
彼は教えてくれた、ゴーヤたちのことを、彼女たちが何を望んでいるのか。
彼は認めてくれた、私のことを、私の『答え』を。
彼は与えてくれた、二人の願いを、それが込められたミサンガを。
彼は否定してくれた、私は『汚くない』と。
彼はそれらを
何もないと嘆いていた私に、『綺麗』という価値をくれた。
「それが
その言葉と共に司令官は私の頭から手を離し、さっきの――――私はどうすればいいのか、という問いの答えをくれて、あまつさえ背中を押してくれた。背中を押された私は一度立ち止まるもすぐに歩き出し、廊下へと続く扉に近付く。その間、彼の方を振り返ることは無かった。いや、振り向こうと思わなかった。
だって、まだ私は『綺麗』に
「『行ってきます』、司令官」
そう言い残し、私はドックを後にした。