新米提督苦労譚~艦娘たちに嫌われながらも元気に提督してます~   作:ぬえぬえ

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提督補佐の『表情』

「はぁ……」

 

 程よい温度の湯船に肩まで浸かる。それと同時に口から間抜けな声が漏れた。

 

 

 ここはお風呂場―――――艦娘からすればドックと言った方が正しい。戦闘による損傷を修復するため場所であるが、この鎮守府では日々の入浴と併用している。なので、ここには修復専用の浴槽と入浴用の大きな浴槽が併設されており、それ以外は身体を洗うスペースに占められてる。傍から見れば銭湯とも何ら変わらないだろう。

 

 そんなドックは今、真っ白な湯気で満たされている。その柔らかい湯気、そして身体中にじんわりと広がる暖かさに思わず頬が緩むも、次の瞬間それはツンと鼻を刺す酸っぱい臭いによって邪魔されてしまう。

 

 視界の端に見える毛先が湯船に浸かっている黒髪を手に取り、ゆっくりと鼻に近づける。すると、案の定酸っぱい臭いが鼻を刺した。

 

 

「もう一回、洗わなきゃ」

 

 

 そう零しながらも、私―――――大淀は浴槽に手足を目一杯広げ、ゆっくりと目を閉じた。

 

 

 今日の執務終了直後、いつもは私を放っておいてさっさと食堂へ行ってしまう提督からいきなり食事のお誘いを受けた。もちろんさっさと行ってしまうこと自体に不満はなく、むしろ一緒に行かないようにわざと時間を外しているぐらいだ。それなのに、いきなりそんなことを言われようものなら低い声と共に睨み付けてしまうと言うモノ。

 

 

 それに、『一休み』の件で気まずくなったのを知ってる上で誘ってきたこと、その神経に少し苛立っていた。

 

 

 そんな不快極まりないお誘いの答えはもちろん『NO』だ。誰が好き好んで嫌な思いをするだろうか。それに秘書艦であった榛名さんも来て欲しい感じには見えなかった。断る理由としてはこれ以上ないだろう。しかし、何故かその後、話の論点がズレてしまったために断る機会を見失い、そこに畳みかける様に榛名さんが腕を掴んで提督共々執務室から引きずり出された。

 

 

 尚も抵抗するもそのまま押し切られてしまい、なし崩しに提督と食事をとることとなる。そしてそれは、提督と榛名さんによる激しい攻防……もといイチャイチャを見せつけられると言う苦行にも等しい状況の始まりでもあった。

 

 確かに、榛名さんと提督が互いに『真名』を伝えたのは聞いている。聞いていると言うか聞かされたと言うか定かではないが、取り敢えず把握はしている。それは私だけではなく鎮守府にいる全艦娘の周知の事でもある。だから、二人が『そういう関係』であることも分かっている。だけど、いざ目の前にされたら堪ったものではない。

 

 何かにつけてベタベタする榛名さん、おどおどしながらそれを諫めようとしてさらに踏み込まれる提督。それが食堂に着くまで、そして食堂でも続けられるのだ。別に榛名さんが羨ましいとかそんなことはないが、それでも目の前で嫌と言うほど見せつけられればげんなりしてしまうだろう。

 

 

 そして曙ちゃんの言葉。この二人は『いつも』やっていると。それを聞いて、私は今まで一緒に食事をしなかった選択は間違ってはいないと自覚し、そしてこれっきりもうしないと決意した。

 

 

 そんな時、提督が夕食であるコロッケを黙って凝視し始める。そして声を掛けたら、榛名さんと二人で先に行くよう言われる。その言葉に思わず榛名さんと顔を見合わせるも、従わない理由もないので大人しく席を探しに行くことになり、空いた席を陣取り榛名さんの向かい側に座って一息ついた。

 

 

 そう言えば――――。

 

 

 

 

 

「大淀さん?」

 

 

 不意に聞こえた声。その方を見るも、眼鏡をかけていないのと真っ白な湯気で声の主は見えない。ただ、声からして榛名さんだと分かった。

 

 

「着替え、持ってきました。ただ、制服が見つからなくて代わりのモノになってしまいましたが……重ね重ねすみません」

 

「全然大丈夫ですから、そんなに気にしないで下さいよ。それにドックの独り占めなんて早々出来ませんからね? 存分に堪能出来て、むしろ得した気分です」

 

 

 沈んだ声色の榛名さんに冗談交じりで声をかける。大きな怪我もないし、服も間宮さんが綺麗にしてくれる。それで終わりだ。それに提督(あの人)から離れられたのだからある意味願ったり叶ったりと言える。だから、そんなに気に病まないで欲しい。

 

 

「……ありがとうございます。では、せっかくの時間を邪魔しても悪いですし、もう行きますね」

 

「あ、榛名さん」

 

「どうしました?」

 

 

 浴場から出て行こうとする彼女を呼び止めると、そんな言葉と共にドアが動く音が途中で止まる。よく見えないが、多分ドアに手をかけてこちらを見ているだろう。

 

 

「今日初めて見ましたけど、艦娘たち(みんな)の前であれだけベタベタして恥ずかしくないんですか?」

 

「これっぽっちも恥ずかしくありませんよ。それが『夫婦』と言うモノですから」

 

 

 私の言葉に、榛名さんの自信たっぷりと言いたげな声が返ってくる。恐らく、ドヤ顔で胸を張ってるのだろう。いや、『夫婦』と言うよりも『バカップル』と言った方が良い気がするのだが……口にするのはよそう。と言うか、それよりも気になることがある。

 

 

 

「『無理』してませんか?」

 

「そんなこと無いですよ? では、間宮さんが待っていますからもう行きますね」

 

 私の問いに、榛名さんはそれだけ答える。そして再びドアが動く音が聞こえ、今度は最後まで締め切った音がした。それは彼女が出て行ったことを示している。音によって彼女が出て行ったことを把握した私は、何となく口元まで湯船に浸かった。

 

 

 

 榛名さんに聞いた最後の問い。これにはちゃんとした理由がある。

 

 

 それは、提督に言われて席を取った時のこと。榛名さんは私の向かい側に腰を下ろした時、彼女は一つ溜め息を溢したのだ。特に深いわけでも、重々しいわけでもない。多分、今日の執務の疲れから出たモノだろう。特別気にするほどのモノでもない。

 

 

 私が気になったのはその『表情』。

 

 

 疲労の色を、疲労の他に何か別のモノを抱えているような、憂いているような、そんな表情だ。そして最も引っかかったのはそれから感じた『既視感』。その表情を、私は前に見ている。それも、一度ではなく何度も見ている。更に言えば、それを見た状況は決まって一緒だ。

 

 

 

 『榛名は大丈夫です』

 

 

 そんな決まり文句の時に浮かべる表情そのままだ。出撃で傷付いた時、入渠が後回しになった時、とにかく彼女が無理をする時に浮かべるモノ。その中で真っ先にとある状況を思い浮かべ、そして思い浮かべてしまった自分を張り倒したくなった。

 

 

 

 

 

 

 何せ、それが『初代提督との伽後』だから。

 

 

 

 

 

 

「あーーーッ!!」

 

 

 その時、私はそう叫んで湯船から勢いよく立ち上がる。湯船が激しく揺れて少なくはない量のお湯がこぼれるも気にしない、いや気にする余裕もない。何せ、とても深刻な問題に気付いてしまったのだから。

 

 

 

 

「この後、執務室に行くんだったぁ……」

 

 

 いつもなら、執務終了直後に明日に向けた準備を片付けるため、執務室に行く必要はない。だが、今日は提督に誘われて食堂に行ったため、その作業が残っている。更に言えば、少なからず提督も執務室にいる可能性もあり、運が悪ければ鉢合わせからの長時間同じ空間にいなくてはならないことになる。

 

 しかも悪いことに、先ほど榛名さんは制服の代わりを持ってきたと言った。それもその筈、明日用の制服は今日の朝に洗濯したばかりで着れるようになるのは明日の朝だから、今日中に用意するのは不可能だ。

 

 そして、私が持っている制服以外の服など、自室でしか着ない寝間着ぐらいだ。しかも、汚れた制服は榛名さんが持っていってしまったため、私に残された選択肢は榛名さんが持ってきた制服の代わり―――寝間着を着る以外に方法はない。

 

 

 つまり、制服ではない且人前に出たことのない寝間着姿で、あろうことかあの提督が居るであろう執務室に行き、長時間同じ空間にいなくてはならないのだ。

 

 

 いや待て、提督の準備が終わってからやると言うのはどうだ? いや、提督が作業に取りかかる時間も作業スピードも遅い。それを待っていたらこちらの睡眠時間が削られてしまうし、何より私にしわ寄せが来るのは納得できない。

 

 

 では、提督が来る前に終わらせるのは? 駄目だ、執務室で鉢合わせする光景しか浮かばない。入浴中にやろうにも時間があやふやでどのみち意味がない。

 

 

 と、なると、残された道は1つしか無いわけだ。

 

 

 

「なんで今日に限ってやるかなぁ……?」

 

 

 髪をクシャクシャしながら今日洗濯に出した自分を、そして元凶である提督に向けて愚痴を漏らす。しかし、愚痴も漏らした所で事態が好転する筈もない。あれこれ考えないでさっさと切り上げてしまおう。

 

 

 そう無理矢理納得し、湯船から上がってもう一度頭を洗う。腹いせとばかりにシャンプーを使いまくって少しスッキリした後、身体を手早く拭いて脱衣所へ。

 

 脱衣場に入り、真っ直ぐ脱いだ服を放り込んだ籠に近づくと、眼鏡の横に榛名さんが持ってきたらしき真新しいバスタオルと下着、そして件の薄い黄色の寝間着が丁寧に畳んで置いてあった。やはりか……と目の前にある現実に肩を落としたくなる。しばらく項垂れた後、タオルで身体や髪を拭いて寝間着に着替えた。

 

 寝間着に着替えた後、眼鏡をかけて近くの姿見の前に立つ。眼鏡をかけたお陰で、寝間着姿の私が嫌と言うほどハッキリ見えた。それを前に思わず深い溜め息を吐き、手早く髪を乾かして使ったタオル類を回収ボックスに入れ、項垂れながら脱衣場を出た。

 

 

 幸い、廊下に出た瞬間に誰かに出くわすと言う事はなかった。この姿はあまり晒したくない手前、安堵の息を漏らして執務室に向かう。因みに、食堂から直接ここに来たため、履物は革靴だ。寝間着に革靴と言うちぐはぐ感に部屋に戻ろうと考えたが、考えるのが嫌になったのでそのまま向かうことにした。

 

 

 革靴の音が廊下に響き渡る。急いで乾かしたために少し湿っぽい髪が頬に付くも、特に直すことはない。ただ、ひたすら、執務室に向けて歩き続けた。

 

 

 やがて、目的の場所が見えてきた。執務室は明かりが付いており、中に誰かが居るのは確実だろう。そう思って扉の前に立った瞬間、憂鬱な気分が込み上げてきた。先ほど覚悟はしたものの、やはり人様に、特に提督に寝間着姿を晒すのは抵抗がある。心の準備と理由を付け、扉を少し開けて中を覗き込んだ。

 

 

 見る限り、中には誰も居ない。この時間に執務室に来るのは提督ぐらいだし、トイレにでも行っているのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大淀さん?」

 

 

「ひゃい!?」

 

 

 突然、背後から声が聞こえた。それに思わず変な声を上げ、同時に心の中で不運を呪った。何せ、その声は提督であり、そして部屋を覗き込んでいるときに出くわすと言う、想定する中でも最悪なパターンだったのだから。

 

 

「あの……」

 

 

 沸き上がる羞恥心を、提督の困ったような声が逆なでしてくる。変な声を上げてしまった手前、顔を見られたくない。今すぐに、全力疾走で部屋に帰りたい。でもそんなことをすれば職務放棄だし、何より振り返らないと事は進まない。そう自分に言い聞かせ、渋々提督の方に振り返った。

 

 

 そして、思わず目が点になった。

 

 

 

 

「……何ですかその恰好」

 

 

「お前が言うなよ」

 

 

 ポロリと漏れた私の言葉に提督が素早く突っ込んでくる。しかし、その言葉よりも私は彼の立ち姿、格好に意識に向かっていた。

 

 

 

 

 何せ、その恰好はいつもの真っ白な軍服ではなく、若干色あせた水色のパジャマだったからだ。

 

 

 

 

 

 

「お風呂入ったんですか?」

 

 

「違う違う。さっきの騒ぎで上着とズボンにソースが付いちまって、それを見た間宮に脱がされたんだよ。明日のヤツを探すのもアレだし、どうせ準備して風呂入って寝るだけからパジャマ(こっち)の方が都合が良いって思ったわけだ。間宮に『脱げ』って真顔で言われた時はどうしようかと……っと、人のこと言えないか」

 

 

 私の疑問に提督はそう答え、苦笑いを浮かべる。彼はソースまみれの私に近付き、そして触っている。その時、また片付けの際にソースが付いたということか。確かにありえなくないか。と言うか、間宮さんも言ったのか。全く、この人と言い間宮さんと言い、何でこう公衆の面前で『脱げ』なんて言うのだろうか。

 

 

 

「とまぁ、そういうわけだ。しかし、こんなことになっちまって悪かったよ」

 

「あ、いえ、大丈――――」

 

 

「だから、お詫び(・・・)を持ってきた」 

 

 

 私の言葉を遮る様にそう言って、提督は自慢げな顔で何かを近づけてきた。思わず後退りするも、その瞬間フワリと鼻をくすぐる甘い香り(・・・・)。その香りはここ数年程は感じなかったものであり、誰もが良く知ってる馴染み深い香りでもあった。

 

 

 そして、私の目は提督に近づけられたモノ――――お盆に乗せられた二つのマグカップに注がれていた。

 

 

「中に入るか」

 

 

 そんな提督の言葉と共にお盆は離れ、代わりに提督の腕が伸びてきて私が寄り掛かる扉に触れる。キィッと軽い音と共に扉が開き、未だ突っ立っている私の横を通り過ぎて提督は中に入っていった。数秒遅れて、私も執務室へと入る。

 

 

 執務室に入ると提督は近くの棚にお盆を置き、執務机に散乱する書類の束を片付け始める。その姿を、私は鼻に残るあの香りと共に黙って見続けていた。やがて大方の書類を片付けた彼はお盆を執務机に移動させ、二つある内の一つを手に取り、私に差し出してきた。

 

 

 

「ほれ」

 

 

 提督に促され、カップを受け取った。カップに触れた瞬間、またあの香りが鼻をくすぐり、カップから少し熱い位の熱がじんわりと手に広がっていく。それと同時に、私の目はカップの中身に注がれた。

 

 

 

 カップはこげ茶色の液体で満たされており、そこからゆっくりと湯気が立ち昇っている。その淵には液体が固まって(・・・・)付いていた。それを目にして、私の口がゆっくりと開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「チョコレート?」

 

 

「正解」

 

 

 私の言葉に提督はそう言いながらカップを傾け、空いた手で私を指さしてくる。その姿に、そしてもう一度カップの中を満たすチョコレートを凝視する。あの香り、チョコレート独特のふんわりと甘い香りが、それが本物であることを示していた。

 

 

 しかし、私の知っているチョコレートは液体ではなく、四角く薄い板状のモノだ。それに、表面に薄い膜が張り、カップが揺れるごとにその表面がユラユラと揺れるその様は、まるで牛乳のようである。

 

 

 

 

「正確に言えば、溶かしたチョコと牛乳を混ぜ合わせた『ホットチョコレート』だけどな」

 

 

 その疑問を見透かしたのか、何処かホッと息を孕んだ声が聞こえてくる。『ホットチョコレート』と言う聞きなれない言葉に思わず提督の方を見ると、彼は先ほど指してきた手でカップを傾けるジャスチャーをしてくる。それを、そしてもう一度カップを見て、恐る恐る口を付けた。

 

 

 

 先ず感じたのは真っ白な湯気とチョコレートの香り、その中に隠れる温かい牛乳の乳臭さ。香りの形容としてふさわしくないかもしれないが、とにかく『柔らかい』のだ。次は唇に触れる暖かさ、それは小さく開いた口にトロリと流れ込む。それと同時に、チョコレートの強烈ながらも牛乳でまろやかになった甘さが舌に触れ、暖かさと同時に口いっぱいに広がった。

 

 口に含んだ感覚はココアに近い。だが甘みが強いためにある程度口に含み、舌で転がしながらじっくりと味わう。いや、正確にはその暖かさを堪能したかったから。そして、存分に堪能して少し冷えたチョコレートを一息に飲み込む。それは喉を通り下へ、暖かさは全身にゆっくりと広がっていく。

 

 

 チョコレートを飲み込むと、入れ替わる様に息が漏れる。口に残るチョコレートの甘い余韻、鼻に残る香り、なおも広がり続ける暖かさ、布団に包まれているような心地よさ。

 

 

 

 

「美味いか?」

 

 

「はい、とっても」

 

 

 ふと聞こえた問いに、何も考えずにありのまま応えた。しかし、すぐに我に返って声の方を見ると、カップを傾けながら小さく笑う提督が。それを見て、先ほど感じた暖かさとは別の()を感じた。

 

 

 

 

 

 

「ふ、普通ですよ、普通」

 

 

「そうかい」

 

 

 慌てて訂正するも、提督はそう言った後小さく吹き出した。明らかに小馬鹿にしたような対応に、更に顔に熱が集まる。しかし、ここで下手に騒げば墓穴を掘るだけだ。何か、話題をすり替えないと……。

 

 

「そ、それよりも、これどうしたんですか?」

 

 

「これか? 食堂から返ってきた時、間宮から言伝を預かっただろ? あれ『間宮アイスに変わる新しいメニューの試食』で、ホットチョコレート(こいつ)はその中にあったヤツだよ」

 

 そう言って、提督は再びカップを傾ける。その姿を見て、私もカップを傾けた。

 

 間宮さんが私に託した言伝はそれだったのか。確かに、提督は料理に関して一目置くところがある。それに最近ようやく食事を取り始めた艦娘(わたしたち)よりも彼の方が相談しやすかったのだろう。そして、準備があるから執務室に持ち込んだのも分かる。

 

 

 でも、何故私の分まで用意されているのだろうか。

 

 

「まぁ、俺の相談も叶えてくれたしな」

 

「相談……あぁ、そう言えば『奢る』約束でしたね」

 

 

 呟くようなその言葉に、私は少し前の記憶を掘り起こして納得した。榛名さんに引きずられていく中、抵抗する私に向けて、提督は条件として何かモノを奢ることを提案した。今になって考えると、奢ろうにも『奢るモノ』が無いと思うのだが、その結論に至った提督は間宮さんに相談し、そしてこの話を持ち掛けられて渡りに船とばかりに呑んだのだろう。

 

 今になればその約束は無理だし、私としても別に期待していたわけではない。或る意味、それでこれにありつけたのであれば儲けものだ。そう思って、私はカップを傾ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大淀に『ちょうどいい』って思ったからさ」

 

 

 先ほどの呟きよりも小さい声。普段なら聞き逃してしまいそうな声なのに、何故か私の耳にはしっかり聞こえた。そして、私が振り向いたのと、提督が呑み終えたカップを置くのが同時だった。

 

 

「だって、お前いつも眉間にしわ寄ってんだもん。朝から晩までずっと、俺が見た限りは四六時中だ。一瞬も気を緩めずに、ずっと難しい顔してんだぞ。いつもそんな顔をされたら、見ているこっちが気を遣っちまう。でも、俺の前では変わんないし、どうしたもんかって思ったわけよ」

 

 そう言いながら、提督は両目の目尻を上に押し上げながら目つきを鋭くさせる。一見すれば、変顔をしているようにも見えるが、その目からはいつになく真剣な雰囲気が伝わってきた。

 

 

「それが、今日ようやく見れたんだ。榛名に引きずられて、飯食ってた時にさ」

 

 

 提督はそう言い切ると彼は顔から手を離し、私に指を向けてくる。その表情は手が離れる前と後は全然違う。しかし、目から感じる真剣な眼差しは少しも変わらなかった。

 

 

「今は違うが、お前コロッケの味を聞いた時『普通』って言ったよな。『不味い』でも『嫌い』でもない、『普通』って。それ、少なくとも『不味く』もなくて『嫌い』でもないってことだろ? まぁそれだけじゃ『美味い』か『好き』かまでは分からんが、それはお前の顔や目が教えてくれた」

 

 

 そこで言葉を切ると、提督は表情を真剣なモノから柔らかい笑みへと変わった。口から微かに笑い声を漏らしている。その言葉に、そして表情に、私は顔に手を当ててその形を確認する。そしてそれが彼の言う表情(モノ)であると分かった瞬間、すぐさま眉間に皺を寄せた(・・・)

 

 

 

 

 

「そんな顔じゃ、『一休み』も出来ないな」

 

 

 その瞬間、再び聞こえた提督の言葉。声の方を振り向くと、そこには悪戯っぽい笑みを浮かべる提督の姿。彼は私から視線を外し、何処か遠くを見つめる様に目を細めた。

 

 

「そんな眉間に皺を寄せた、傍から見て分かるほど気を張った、無理してるのを悟らせないしかめっ面の鉄仮面で『一休みしよう』なんて言われても説得力(・・・)の欠片もないだろ。だから、それが一時でも、せめて一瞬でもいい。それが緩む、鉄仮面が崩れる時間を、『一休み』の時間を、ただ作りたかっただけだ」

 

 

 そう言うと、提督は外していた視線を再び私に向ける。そして、子供を見るような目をしながら口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

誰かさん(・・・・)の様に、な」

 

 

 

 『誰かさん』――――それが一体誰なのか、分からない。いや、心当たりが無いわけではない。幾人かの名前が浮かぶも、それを覆すほど心当たりがあり過ぎるのだ、自分に(・・・)

 

 

 

「さて、それじゃあ片付けますか。あ、片付けは全部やるし、後で持ってくから気にせずゆっくり飲めよ。それと、会った時でいいから間宮に感想を言ってくれ。俺からも言っておくが、やっぱり生の声がいいからな」

 

 

 空のカップとお盆を回収した提督はそう言いながら厳命とでもいうかのように私に指を向け、笑みを浮かべて執務室を出て行った。その姿、そしてその動きは今まで見たことがないほど早く、口を挟む暇も無かった。いや、挟ませなかったと言った方がいい。

 

 

 

「ただ……『作りたかった』、か」

 

 

 ふと、無意識の内に口から漏れた言葉。それと同時に胸の奥の方から熱を感じる。そしてそれは段々と大きくなり、いつしか胸一杯に広がった。それはホットチョコレートの暖かさも包み込む、心地よい、本当に心地よい暖かさ。そんなものがずっと自分の中にあったのかと驚いたほど、心地よい。それを感じながら、カップを傾けた。

 

 

 いつの間にか、私は欠伸を溢していた。提督が居なくなって、気が抜けたのだろうか。無意識の内に、視線が手元のカップに移る。ゆっくり視線を上げるも、いつの間にかまたカップに移っていた。気付く度に何度も繰り返すも、視線の景色は段々と固定化されていく。

 

 

 やがて、半分以下になった視界に空のカップが映ったところで、私の意識は途絶えた。

 

 

 

 

 

 

 パチッと目を開けた時、見えたのは大きな扉。一瞬、此処が何処か分からなくなるも、見えた扉が執務室と廊下を繋ぐモノであること、そして今自分がいるのが執務室の、それも金剛さんの部屋から移動させたソファーに寝転がっていることを把握した。

 

 

 

「……寝ちゃったんだぁ」

 

 

 そう言って上体を起こすと、何かが身体からずり落ちた。首だけを動かして落ちたモノを見ると、茶色い毛布だった。だが、執務室に毛布なんてあるわけがない。なら、此処は自室か? いや、さっきの扉からしてそれはない。だけど、何で毛布が―――。

 

 

「バケツ……」

 

 

 その時、私の耳に縋る様な提督の声が聞こえた。思わずその方を見ると、机に座って塞ぎ込んでいる提督。何事かと思うも、その背中がゆっくりと、規則正しいリズムで上下しており、そのリズムに合わせて彼が唸り声を上げている。それを見て、さきほどのが『寝言』であると分かった。

 

 

 身体を動かし、時計を見る。時間は午前1時を回ったところ。本来なら、執務室にいるような時間ではない。次に、寝息を立てる提督へと視線を向ける。先ほどと変わらず、規則正しい寝息を立てている。しかし、それよりも彼の顔の下にある紙に妙な違和感を感じる。

 

 

 ソファーから身を起こし、ゆっくりと提督に近付く。そして、起こさないようにその紙を引っ張り出した。

 

 

 そこには計算式がびっしりと書かれており、『=』の後には導き出した答えと補足説明が書かれている。そして何よりも、それらが導き出そうとしていたモノの全て、昨日の執務中では算出しきれなかった物資の数々、いわば、『私』がやり残したモノであった。

 

 

 その紙を、そして寝息を立てる提督の周辺にある書類――――――私が物資の算出を明日に(厳密に言えば今日)回しておいた書類。それらには先ほど算出した数、そしてご丁寧に提督の判子が押されている。あとは、私が記入漏れがないかをチェックするだけ(・・)だ。

 

 

 つまり、提督は私が明日に回そうとしていたことを『肩代わり』していた。しかも、ちゃっかり自分の仕事も行いながら。それも隣で眠りこける私を起こさず、むしろ毛布までかけて。こんな夜遅くまで執務を、途中で寝落ちする程無理をしていたのだ。

 

 

 

「貴方だって……人のこと言えませんよぉ」

 

 

 そう漏らし、眠りこける提督から書類に視線を移す。すると、申請している物資の数が異様に多いことに気付いた。先ほどの計算式と見比べてみると、途中で計算が間違っている箇所がある。それを皮切りに、計算式を洗い浚い目を通すと、その3割以上が計算ミスを起こしていたことが分かった。

 

 

 つまり、彼の周りにある書類の3割はやり直しだと言うことだ。

 

 

 

「慣れないくせにやるから……」

 

 

 そうため息交じりに漏らしながら、未だ寝息を立てている提督を見る。その時、その身体が動いて腕に隠れていた顔が露わになった。

 

 

 

 そこにあったのは、今まで見たことないほどだらしなく緩み切った彼の寝顔。口が若干開いており、下手すれば涎が垂れていたかもしれない、そんな子供のような寝顔だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もう……」

 

 

 

 それを見て、無意識の内にそう呟いていた。次の瞬間我に返り、顔に手を当てて表情を確認する。しばらく触り、どんな表情をしているのか把握した後、特に何もすることなく手を離した。そして、近くに落ちている毛布を手に取り、寝息を立てる提督の身体に掛けた。

 

 

 もし、今の姿を見たらどう思われるだろうか。いや、周りは気持ち良さそうに寝息を立てる提督だけ。時間的に起きている艦娘も少ないし、彼に関しては間違えて叩かない限りは起きそうもない。見られる心配はないから、特に気にする必要もないだろう。

 

 

 

 

 たとえ、目の前で眠りこける男を見つめる私が、彼が言っていた表情(モノ)を浮かべていたとしても。


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