深き溝にて 分かたれる相違なり。
それ即ち、どこまでも深き、「業」なり。
ボルテクス界のどこか。
現世と次元のあわいに、かの御方は、今は坐す。
天より堕とされし黒き翼持つ、絶対悪の御身は美しき闇。
吹雪く凍える氷の瞳が見つめるは、忌まわしき天の果て。
此度こそ、その御手に。光り無き世界を。
我らが主の、かの御方の為に、この身を捧げる。
....その為に、受け容れた「業」。
在りし日の罪の、連鎖の「罰」と共に。
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....「喪服の老婆」は、目の前に浮かぶそれを見ていた。
淡く仄かに光るそれは、何かを収めた曇り無き水晶玉であった。
黒いレースに隠す濁った眼が、妬み嫉みに歪んでいく。
皺だらけの手が、高まる感情に従い小刻みに震え始めた。
伸ばした指先をぎゅっと、握りこんで抑え込む。
....この感情は、あの御方には不要なもの。
これを見なければ、それで済む。それなのに。
忘れられぬ罪が、咎が、この身を焦がす。
思い出せばいつもいつも、彼の人の傍に在るは「あの女」。
寄り添い支え、時に死を以って、彼の人に留まる「あの女」。
許し難い、憎んで呪ってなお余りある、「連理の枝」。
....違う。そこは「私」の場所。
そこにいていいのは、「私」だけだ。
震える指先が、意志とは逆に動く。目の前の水晶玉に向かって。
引き寄せられるように、その手を伸ばし、取ろうと。
壊しても隠しても、この身を焼き続ける業火は消せない。
ならば、在りし日の罪と業に燃え尽きてしまいたい。
怒りに燃える、彼の人のその手で終わらせてもらえたら。
....あと少しで届く、その刹那。その耳元に。
永久凍土の地獄に吹き荒ぶ風よりも、冷たく凍える声がした。
「いけないよ。それは、ぼくのものだ」
耳元に届いた声で、全身が凍りついたかのように固まる。
「....くやしいかい?。じぶんじゃないことが」
このまま、凍りついた身を砕かれる気がした。....けれども。
握られた手は、まるで「ヒト」のように暖かくて。
「これは、もしものための、ぼくのきりふだ、だからね」
「こわしてはいけないよ」
ゆっくりと顔を下げれば。金の髪の、こどもがそこにいた。
にっこりと、この上もない、極上の微笑みを浮かべて。
幼い顔立ちに恐ろしいほど不似合いな、蟲惑的な声で。
....忘れてなどいない。彼の人と、永遠に分かたれた日から。
この命も、この身も、構築する細胞の一片、魂のひとかけらまで。
全ては、目の前にいる金の髪の、幼いこどもの モノ。
あまねく世界をその御手におさめ、いと高き天を大いなる力で穿ち。
色という色を全て真っ黒に塗りつぶし、何もかもをひとつに為される。
その手足となるが為に、ここにいるのだ。
「はい、ぼっちゃま」
「うん」
「喪服の老婆」は、老いた体の膝を曲げて、こどもの前に屈みこむ。
そして。恭しくその御手を取り、頭を垂れて赦しを乞うた。
「かれが、きおくにのこす、ひとなのだから」
「ああ、なまえは....たしか」
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アマラ深界、第一カルパ。
ボルテクス界では、未だ見た事のない悪魔たちが出現する。
マガタマの中にはアナライズ機能を持つものがある。けれども。
それは、一度闘わないと意味が無いという面倒なもので。
そういえば、と、現人(アラト)は思い出す。
級友に、やたらと天使とか悪魔とか系に詳しい女子がいた。
幼馴染の「橘 千晶」以外で親しい女子は、彼女だけだった。
オカルト好きを前面に出さなければ、気が合うのは。
もし「東京受胎」を生き延びて、共に歩けていたなら。
ビビりながらも「あ、知ってる!」と、教えてくれただろうか。
最初から、そんな道中を進めたら良かったのに。
『(....何考えてんだ、俺は)』
「あいつら」以外の「人間」など、とうに居ない。
思念体にさえなれなかった他の人間と共に、死んでいるのに。
こんな世界になっても、まだその名を覚えている。
『あいつの名は....「真幸 明夜」』
「かのじょのなは、「まさき めいや」」
神が定めし、拘束されたる運命の女。
如何なる時も、定めの男の傍にありて
汝が務めを、速やかに果たし、導け。
神が定めし、運命を棄てて、自由を得た女。
如何なる時も、定めの男より離れても尚、
汝が務めを、速やかに、果たせ。