死体探偵   作:チャーシューメン

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 ※置いてあるのは同じです。



ブロウイング

 

 珍しく青娥が泣きべそをかいていた。

「ちょっとナズちゃぁん、あれなんとかしてよぉ」

 ああ、と私は生返事をした。見えている、聞こえている。だが私には、どうでもよかった。目をやる気力も湧かなかった。耳を塞ぐ気力すらも。

「まったくもう。なんなのよ、この神霊廟とかいうの。蕎麦屋もないなんて信じられない! 精進料理には蕎麦が欠かせないってのに!」

「ぐだぐだ言うな。しょーがねーだろ、神霊廟の気候じゃ蕎麦は育ちにくいんだ」

 さっきから、雲居一輪と蘇我屠自古が飽きもせずに言い争っている。その様は、端から見ても猿山の縄張り争いのようなもので、単純に喧しくそして無意味だ。青娥が泣きべそをかきたくなる気持ちも分かる。いまだ終わらぬエンバーミング作業に追われ続け、黄色い朝日を拝んだ後のわずかな休憩時間に、塵屑にも劣るような争いを眼前で繰り広げられたのではな。

「おまけに住民は平気で肉食してるし、城主は変態色情魔だし! 堕落の温床じゃないのよ!」

「ケッ、酒臭坊主のくせに堕落がどうとか、どの口が言ってやがんだ!」

「なによなによなによ、胡散臭い田舎宗教の、胡散臭い似非道士のくせに!」

「なんだぁ? 道教が田舎宗教だぁ? 仏教ってのは地理も歴史も学ばん無能無学の無知集団なのかぁ?」

「ハン、なぁにが道教よ! 知ってるわよ、あんたらの教義なんて、老荘思想も何もない、てんででたらめのパッパラパーじゃない! どうせ房中術しか教えてないんでしょ! この似非宗教家、破廉恥烏帽子、エロ大根!」

「最後のは関係ないだろ!」

 あの火事の後、一輪はそのまま神霊廟に居残った。青娥にとっては私の他にもう一つお荷物が増えたことになる。彼女にこんな災難がふりかかっているのも、私が彼女の好意に甘え続けているからだ。気の毒この上ないが、しかし、私にはどうすることも出来ない。もはや私には、何も無い。流れ行く先も、為すべきことさえも……。

 すがる青娥を捨て置いて、私は座を蹴った。ひどく頭痛がした。こんな禽獣の檻のそばに居ては頭が割れてしまう。割れたところで、誰も困りはしないが。

「ちょっと、ナズちゃん」

「ナズーリン! 待ちなさいよ! 私の話、聞いてる?」

「おい、小鼠、お前に用が……」

 無視して青娥の庵を出る。快晴の日差しまでもが私を責めた。

「待ちなさいったら!」

 追いかけてきた一輪が、私の左肩を強く掴んだ。走った痛みに、私は情けなく呻き声を上げ、座り込んだ。

 あの時の星の打ち下ろしは、私の左鎖骨を的確に粉砕していた。

「あ、ご、ごめん。そんなつもりじゃ……」

 一輪は手を引っ込めると、ばつが悪そうに俯いた。

「でも、ナズーリン、私……」

「おい。あたしが先だ」

「ちょっと!」

「こっちは仕事で来てんだ」

 一輪を押しのけて、蘇我屠自古の色の薄い瞳が私を見下ろした。

「小鼠。太子様がお呼びだ。一緒に来てもらおうか」

「お呼びって、まさか」一輪が声を震わせた。「処刑でもするつもり? あの火事をナズーリンのせいにして!」

「バカ言え。鼠一匹、殺したところでどうなる」

 屠自古はそれを鼻で笑うと、しゃがみ込む私へと手を差し伸べた。

「さ。一緒に来い。……早くしろ、太子様をお待たせするわけにはいかん」

 私はその手を払って立ち上がり、そして彼女に背を向けた。今更聖徳王と会ってなんとする? 全てが徒労に思えた。

 だが古き都の亡霊は、そんな私を逃さなかった。後ろから羽交い締めにして、そのまま宙へと飛び立った。

「面倒は嫌いなんだ。力づくで連れて行く」

 そういう彼女の横顔には、何の表情も浮かんでいなかった。ただ薄い色の瞳が太陽の色を照り返していた。工場の赤い回転灯の光を受けて淡々と蠢く、無機質な工作機械のように。

「神子の木偶人形、か」

「あぁん? なんか言ったか?」

「お前も私も、同じ穴の狢だな」

 毘沙門天の言いなりに動くだけの私も、同じ木偶だった。

 木偶がどうあがいたところで何にもならない。私は屠自古に担がれるまま、空を泳いだ。

 鼻を突く焦臭。眼下に広がるは黒く焼け焦げた街並み。炎の波に薙ぎ払われた人々の痕。しっぽの賢将は小さく鳴いて目を背けたが、私は不思議と、何の感慨も湧かなかった。死んだマミゾウの顔を思い浮かべても、あの男の影が脳裏に走っても、心に漣一つ起きない。なるほど、これが悟りの境地か。私の千年はとんだ無駄だったようだ。

 見上げた屠自古の顔にも、相変わらず表情は浮かんでいなかった。自らの民が焼き尽くされても動じぬとは冷血だな。いや、そのほうが木偶人形にはふさわしい、か。

 屠自古は私を抱えたまま、神霊廟中央に位置する霊堂の前にやってきた。そこで私を下ろすと、くるりと私へ向き直り、眉をひそめて言った。

「先に言っておく。お前が今何を考え、何を悩んでいるかは知らん。それはお前の勝手だからな。だが、太子様への無礼は許さんぞ。忘れるな、お前の背を雷で切り裂くなど造作も無いということを」

「……そうかい。興味無いね」

 馬鹿馬鹿しくなって、それだけ言った。

 屠自古は踵を返すと、霊堂の扉を押し開けた。中に入る気などしなかったが、屠自古が腕を引っ張るので、私の足は引力に導かれるままに動いた。長い廊下を、私の足音だけが響く。古の亡霊には足が無かった。

 静まり返った霊堂の中央には、豊聡耳神子が後ろを向いて立ち尽くしている。私達が入ってきたことにも気づかずに。何やら熱心に上方を見上げているようだ。

 釣られて阿呆面を上へ向けた私の目に、巨大な天井画が飛び込んできた。紫雲を侍らせ、翼を広げた木菟のような髪をなびかせる、妖しげな女の姿。豊郷耳神子の肖像画だ。手には笏、腰には七星の剣を佩き、菩薩を猿真似した半眼で地上を見下している。生意気にも、背には後光が差していた。その視線の先には、灼熱の業火に焼かれながら救いを求め神子へと殺到する、無数のおぞましき手が渦を巻いている。

 救世図か。なんとも悪趣味なことだ。

 だが、モチーフはともかく、絵そのものは見事の一言だ。細部への描き込み具合、半眼の神子の得も言われぬ表情、そしてその鮮やかな色使い。差し込む陽だけが光源の薄暗い霊堂内にあって、力強い輝きを放っていた。外界に出せば国宝級の一品となるだろう。

「太子様。ナズーリン女史をお連れしました」

 折角人が絵を楽しんでいたというのに、無粋な木偶人形がいかつい声を張り上げて、雰囲気を台無しにしてしまった。

「ああ。来たかね、女史よ。屠自古、ご苦労だったね」

「いえ」

 屠自古は一礼して、脇に退けた。

 振り返りこちらを見やった神子は、天井画の姿と同じく半眼で穏やかな表情を浮かべていたが、絵よりも数段精彩を欠いた。その目の周りにはうっすらと隈が浮かび、髪は艶を失い、その頬は少し痩けている。手にした笏で口元を隠してはいるが、衰えぶりを隠すにはその笏は小さすぎた。

「思ったよりも壮健そうで何よりだ。ナズーリン女史」神子は目尻を下げた。「心配していたよ。君の役目は辛いものだからな」

「心配? 君が? 私を?」

 何たる滑稽。これには失笑せざるを得ない。この私が、病人に心配されるとはな。

「火事の件は伝え聞いている。下手人を捕らえそこねたと」

「流石だな。出歯亀にかけては超一流か」

「……やはり、相当に心乱しているようだな。君の欲がほとんど聞こえぬ。君の心が均整を欠いている証拠だ。健全とは言い難いな」

「盗撮に盗聴。それが聖徳王の為す事か? まったく、有り難すぎて恐れ入る」

「おい」

 屠自古が睨みつけてきたが、神子はそれを手で制した。

「時には運命に打ちのめされ、下を向くこともあるだろう。それは誰にも逃れられぬことだ。聖者でさえも。心とは所詮、この脳髄に走る電気信号に過ぎぬ。己で制御することなど出来はしないのだからな。そんなものが我ではありえない、そうだろう? 君は、『ナズーリン』という存在は、心だけで成り立っているのではない。君の体、君の心、環境、気候、そして君を取り巻く人々がいて、初めて『ナズーリン』となりうる」

「アートマの講釈か? 悪いが私は飽いている」

「私は政治の話をしている。政治家も同じだ。私だけで『豊聡耳神子』という為政者なのではない。屠自古や布都、私に付き従う道士達、そして民。全てを含めて『豊聡耳神子』となるのだ」神子はその右手の人差し指でもって、私を射た。「その中にはもちろん、君も含まれている。ナズーリン女史よ」

「話が長いな。そして回りくどい。結局、何が言いたい」

「私は為政者だ。為政者は法を敷き、それを破るものを取り締まらねばならぬ。それは私の、『豊聡耳神子』の義務だ。そして君もすでに『豊聡耳神子』の一部なのだ。義務は果たさねばならない」

「あの男を捕らえろ、か」

 私は再び失笑してしまった。

「聖徳王も学習能力が低いな。私は既に失敗している。君の言を借りれば、これは私を囲った君の失敗でもある。同じ失敗を繰り返すつもりか? 他を当たるのが懸命だろうよ」

「女史」

「くどい。私が心乱しているだと? ああ、そうだろうよ。だが私から見れば、乱れているのは君も同じだ。我々は皆、同じ穴の狢だ。巣穴に火が回っていることにも気づかぬ、愚かな獣だ。遠からず、煙に巻かれて焼かれ死ぬ定めなのだ」

 まくし立てた私の言に、屠自古の雷が走った。ここで焼かれて死ぬのも悪くはない。どうせ人は死ぬ。それが早いか、遅いかの違いだけ。

 だが神子は錫杖を投げてその雷を遮った。雷が金属を走る音と鋭い光がほとばしり、その一瞬後、錫杖の転がるガラリとした音が静寂の霊堂に響き渡った。

「太子様、なぜ」

 屠自古は不満の声を漏らしたが、神子は屠自古を一瞥すると、穏やかな声で言った。

「屠自古よ。すまないが、席を外してくれないか」

「しかし!」

「屠自古よ。お願いだ。少しだけ、女史と二人で話がしたい」

 なんと神子が頭を下げたので、流石の短気亡霊も黙ってしまった。私を睨みつけてから、渋々といった表情で、扉を開けて霊堂の外へ出ていった。

 私もそれに続こうとしたが、

「待ち給え」

 神子の鋭い声が私を掴んだ。神子にしては珍しい声色、私も振り返らざるを得なかった。

「悪いが、私は君に用などない」

「だが私にはある」

「本当にくどいな君は。何度も同じことを言わせるな」

「君に探して欲しいものがある。屠自古達には秘密裏に」

 そういう神子の目は、いつになく険しい。

 探しもの、か。

「……なるほどな。義務など偽言で、それが私を呼び出した本当の目的か。最初からそれ目当てで私を神霊廟へ囲ったんだな」

「そうだ」

 神子は素直に肯定した。

 八雲紫と同じ、か。私を助けたのは打算だったというわけだ。無償の奉仕などはありえない、それは分かってはいたこと。最初から期待などしていない。

「これを」

 神子は懐から一枚の紙片を取り出すと、それを私へと示した。

「これはある人から渡されたものだ。この紙片の由来を探し出して、私に教えて欲しい」

 それには見覚えがあった。聖徳太子の肖像が描かれた、旧一万円札。昔は外の世界でもありふれていたが、今となっては非常に懐かしい。見たところ、特殊な加工などは施されていない、ごくごく一般的な紙幣のようだが。

「下らん。断る」

 一瞥して、私は言った。何の興味も惹かれなかった。

「いや。必ず頼む」

 神子は私の腕を掴むと、すがるように言った。

 だが、そんな情けない神子の瞳を見ても、私はまるで何も感じない。

「嫌だね」

 私がそう言い放つと、しっぽの賢将が抗議の声を上げ、私に噛み付いた。それでもなお、何も感じなかった。私の心は汚泥に変わり果てたらしい。いや、最初からそうだったのかもしれない。考えるだけ無駄なことだ。

 神子は首を振った。

「君は、この依頼を断ることは出来ない」

「脅しか? 下らないな。失う物などない者に、そんなものが効くか」

「違う。これは定めだ。君は困窮する者を捨て置けぬ。それこそが、君を君たらしめるものなのだから」

「戯言を」

 私がどうやっても受け取らないので、神子はしっぽの籠に旧一万円札を押し込めた。賢将がそれを受け取って、キィと鳴いた。振り払う気力も起きない。賢将が勝手にやればいい。私には関係の無いことだ。

「頼んだぞ。探索者よ」

 辟易して、挨拶もせずに私は霊堂を出た。

 廊下には屠自古が立っていた。非難がましい目を私へと向けると、彼女は静かに飛び立って行ってしまった。

 私は頭痛のままに、神霊廟の大路を歩いた。

 大路では人足達が忙しなく行き交っている。皆一様にねじり鉢巻をつけ、材木を抱えて。焼き払われた南の集落地を復興するために雇われた人夫達だろう。

 曲がり角で、布都とばったり出会った。布都は図面を片手に、大勢の道士に指示を出していた。道士達までも工事に駆り出すとは。死者の弔いは一体誰がやるのやら。

「おや。女史か」

「布都」

「すまんな。今、ちと忙しい。また後でにしてくれ」

 布都は私を汚いものでも扱うように軽くあしらうと、図面に視線を落とした。

 別に私も布都などに話など無い。私は布都を避け、道を変えた。

「ナズーリン」

 私は溜息を吐いた。煩い。とにかく頭が傷んだ。

「ルナサ。何の用だ」

 現れたルナサ・プリズムリバーの視線が、私の瞳を捕らえていた。

 一瞥して分かる。その瞳には、漆黒の炎が渦巻いている。神子のように欲が聞こえなくても分かる。冷静を装ってはいるが、ルナサは明らかに情緒不安定だった。心乱した、あの時のメルランのように。

「何の用って……。傷はもう大丈夫なの?」

「腐っても妖怪だからな。体だけは頑丈なようだ」

「それなら早く探索に戻りましょう。貴女の力が必要だわ。私だけでは奴を見つけられない」

 私の手を掴み、その言葉の端々に憎しみを迸らせながら言う。

「勝手にやってくれ」

 私がそういうと、ルナサは困惑し、眉をひそめた。

「ど、どうしたのナズーリン」

「もう、煩いのはごめんなんだ」

「だからって」

「黙ってくれ。頭痛がする」

 ルナサは少し口を噤んで俯いたが、すぐに顔を上げて言った。

「ナズーリン。火事の件、辛いのは分かるわ。私もあの場所に居たから。……でも、こうしている間にも、あの男は次の攻撃の機会を狙っているわ。一刻も早く見つけ出さないと、また犠牲者が」

「いいんだ。私にはもう、どうでも」

「な、ナズーリン……」

「私は役立たずの木偶の坊だ。もう私に構わないでくれ」

「そんなことは無いわ!」

「やかましいな、本当に。少しは黙れないのか」

「貴女がそんなで、どうするのよ。幻想郷の平和を守るためには」

「そんなことを言って、君が殺したいだけなんだろう? 憎しみが瞳から漏れているぞ、ルナサ。兄弟殺しが楽しいのか? 流石は妖怪だな」

 ルナサが私の頬を叩いた。大きな音がして、私は一歩下がった。

 ルナサは踵を返し、何も言わずに去って行った。憎しみの黒い炎がその背に纏わりついている。今のルナサは、ただの悪鬼だった。尤も、私には関係の無い事だが。賢将の不満気な唸り声が耳にこびりついて、私を不愉快にさせた。

 周囲の好奇の目にさらされながら、私は歩いた。石を投げたいのなら投げればいいのに、人間達は私に視線を向けながらも、一歩引いていた。聖徳王の命令か。為政者、法、役目、義務。何もかも煩わしい。風に当たりたい気分だった。

 私は城壁の上に登ると、街を見下ろした。

 美しく整えられた碁盤の目状の街並みの、その南側が黒く塗りつぶされている。それは、私の罪。私だけがあの男を止めることが出来たのに。私の教義が、千年の教えが、私の使命を阻んだ。殺すな、争うな、武器を取るな。言うことは容易い。だがそれで、害意ある敵を前にどうやって自分の身を守ればいい? どうやって人々を助ければいい? 仏道の教えなど矛盾だらけだ。何の意味も価値もない机上の空論、偽善と欺瞞の塊。そんなものに身を委ねていた私の千年は、全くもって無駄だったという他ない。

 突き抜ける空の、あの蒼さをすら疑う。射命丸に裏切られたはたても、きっと同じ気持ちだったのだろう。だが私には、怒りの感情すら湧かなかった。

 吹き付ける風に、木の葉舞い行く。城外の森からやって来たのだろうか。私もあの木の葉のように、風に流されて何処か遠くへ消えていってしまえたらいいのに……。

「ようやく見つけたわ、ナズーリン」

 私を追って来たのだろうか、しつこい一輪の声が背後からする。目を向けずに、私は言った。

「一輪。命蓮寺に帰れ」

「帰れないわ。今はまだ……」

「君には役目があるだろう。暴走する星を止め、聖を助けろ」

「それはあんたの役目でしょう! ねえ、ナズーリン。助けてよ。あんたが居なくなってから、星がおかしくなってる。きっと、星にはあんたが必要だったのよ。星を毘沙門天の代理にしていたのは、あんただったんだ」

 私はうんざりして溜息を吐いた。今日は似たような話を延々と聞かされる、厄日だな。

「星は言ったわ。自分は毘沙門天そのものだって。代理の身にあるまじき暴言を吐いて、思い上がってる。いつものあいつじゃないわ、もう私、何がなんだか……」

「そうか。星は、毘沙門天になったのか」

 私は、声を上げて笑った。一輪は息を飲み、うろたえていた。

「な、何がおかしいのよ」

「いや。この私、毘沙門天の使者ナズーリンが保証する。確かに今の星は、毘沙門天そのものだ」

 一輪の方に向き直り、私は言った。

「一輪。教えてやる。聖が魔界に封印され、君たちが地獄に落とされたあの日。なぜ私と星が君達とともに地獄に封印されなかったのかを」

「なぜって、それは、毘沙門天様の増援を待っていたから……」

「違う。毘沙門天はこう命じたんだ。君達を切り捨てろと。私と星はそれに従った。だから、私達だけが封印を免れたんだ。私も、星も、毘沙門天も。君達を裏切っていたんだ」

 一輪は臍を噛み、そして顔を背けた。

「……ナズーリン。私達だって馬鹿じゃない。薄々、感づいていたわ。毘沙門天様が私達を捨てたことくらい」心の痛みに声を歪めながら。「最初から分かってた。毘沙門天様にとっては、私達が極東の支持基盤を作るためのコマに過ぎないってことくらい」

「ハッ。君にしては明察だな」

「ナズーリン。実は私達も、とっくに見限っていたのよ。いつまでも応援を寄越さない、毘沙門天様を。だから私や村紗は、姐さんを連れ出して逃げたの。最後まで毘沙門天様を信じていたのは、あんた達二人だけだった」

「……そうか」

 甘ったれの星と、木偶人形の私だけ地上に取り残されたのは、必然だったのか。

「分かっているわ。あんた達が切り捨てられても、なお毘沙門天様に従った理由は。残った信徒達を守るためには仕方無いことだった。それは分かってるの」

「勝手に美化するな。私達は」

「あんたこそ、勝手に卑下するな。あんた達の千年の戦いを。真実を歴史に埋もれさせるな」

 私は、目を閉じた。

 私も焼きが回ったようだ。まさか、あの一輪に言い負かされる日が来るとは……。

「あんた達の千年の戦いは、私には分からない。千年という時間は、姐さんでさえも立ち入れない。だから。星を止められるのは、あんただけなんだ。これを見て、ナズーリン」

 再び目を開いた私の前に、一輪は一枚の書状を取り出した。『ナズーリンさん、いつもありがとう』と書かれた、いつかの星の手紙だった。

 この手紙の在り処は、私と賢将しか知らない。賢将が一輪に教えたのか。私は賢将を見やった。賢将は私をまっすぐに見つめ返して来た。その瞳の輝きは、今の私にはまばゆすぎる。

「今こそ、あんた達の千年の絆が必要な時でしょ、ナズーリン」

 そう言って、一輪は一歩、私へと近づいた。

「その手紙はもう不要なものだ。捨ててくれ」

 私が言い放つと、一輪はぴたりと歩みを止めた。

「ナズーリン……」

「絆など消えるのは一瞬だ。私の、毘沙門天への信頼のようにな」

「そんなこと……」

「きっと仏道を捨てるのも簡単だろう。今一度、ただの妖怪鼠に戻るのも悪くはない」

 私の強がりに、一輪は体を震わせた。

「ナズーリン! いい加減、迷妄から目を覚ましなさい!」

「君が捨てられないなら、私が捨てよう」

「あっ!」

 私は一輪から書状を引っ手繰ると、十重二十重に破り、吹き荒ぶ風に乗せてそれをばら撒いた。

「な、なんてことを!」

 書状の欠片を追って一輪が城壁の手すりから身を乗り出し、声を上げた。その叫びも虚しく。白い紙片は太陽の輝きの中に混じり、蒼空の向こうに千切れ飛んで見えなくなった。

 これでやっと自由になれる。

 そう思った。

 キィ!

 賢将が一際大きく鳴いた。

 しっぽの籠から飛び出して城壁の上に着地すると、賢将は私を咎めるように瞳を向けた。そうしてちょろりと走り出すと、城壁の上から飛び降りて、何処かへ行ってしまった。

 部下を失い、友を失い、寄る辺を失い、役目を失い。今の私には、本当に何も無くなってしまった。

 嗚呼、心が羽のように軽い。これが悟りの境地と言う奴か。今の私ならば、この風に乗って何処までも行ってしまえそうだ。

 だが現実の風は、私の体を打ち付けるだけで、いくら待とうと、私を何処へも連れて行ってはくれなかった。

 


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