死体探偵   作:チャーシューメン

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  上中下で書き切れなかったのでナンバリングに変えました。見積が甘かったですね、すみません……。
 
 そそわはこちら→http://coolier.dip.jp/sosowa/ssw_l/226/1573916920
 ※置いてあるのは同じです。




ダムネイション ③

 沈黙は、時として暴力にも成り得る。

「ああ……困ったなあ……」

 誰も何も言わなかった。言えなかった。発するべき言葉を持たなかった。燐も、ヤマメも、ルナサ自身も、そしてあのナズーリンでさえも。

 夕日を浴びて赤銀に煌めく刃が、二ッ岩マミゾウを背後から貫いた。ゆっくりと崩れ落ちたマミゾウはその後、微動だにせず地を舐めたままだ。そう。刃はマミゾウの左胸を貫いていた。

「まさか、こんな所で出会っちゃうなんてなあ……」

 人ならざるもの、妖であっても。

 天下にその名を轟かす、大妖怪であっても。

 いかな強靭たる妖の肉体と言えども、そしてその姿が例えいっときの借り物であったとしても。

 人の形をした以上、その理からは決して逃れられない。そう、肉体が朽ち果てれば、その存在は滅びを迎える。

 まして、マミゾウはルナサのように霊体だけの存在が受肉した騒霊ではなく、元来狸という生身の肉体を持つ、妖獣なのだ。

 生命の中心たる心の臓を貫かれてしまっては、助かる術など、もはや……。

「なんてツイてないんだろう……」

 折れた扇子。

 広がる血染。

 光を失くして汚泥に沈む彼女の瞳がどんな言葉よりも雄弁に物語る、絶望の二文字を。

 沈黙は、時として暴力にも成り得る。

 その場にいる全員が、彼女の死を確信させられ、泣き叫ぶことすら出来なかった。息を飲む沈黙が、心だけでなく、この身体をすら打ちのめすかのよう。

 仲間の死。

 思い知らされたその事実は、言葉を奪われたことで、より強く強くルナサ達の心に刻みつけられた。その圧と暴威に、ルナサの心が軋んで悲鳴を上げた。

 また、誰かが死ぬなんて……私のせいで!

 ルナサがこの男を助けなければ、こんなことにはならなかった。あの時、この男を打ち殺しておけば。胸に穿たれた黒い楔に槌が打たれる、深く、深く。

 この男こそが、賢者達の手先だったのだ。

 この男こそが、あの土砂崩れを引き起こしたのだ!

「ああ、不安だなぁ……こんな事で、上手く行くのかなぁ、次のお役目……」

 最初に動いたのは、燐だった。

「何やってんだァーッ! お前ェーッ!」

 爆発する怒声。

 長く鋭く伸ばした爪を振りかざし、正に妖猫と呼ぶべき恐るべき俊敏さをもって、燐は男へと飛びかかった。その速度、さながら紅い弾丸。

 だが、岩をも切り裂くその爪の一撃は、派手に空を斬った。

 男の姿が一瞬ゆらめいたかと思うと、いきなり掻き消えたからだ。

 正真正銘の殺意を込めた全身全霊の一撃を避けられて、燐は動揺した。その動きが僅かに止まる。それはルナサも同じだった。妖の速度に人間が付いて来られるはずはない、なのに一体何故?

「夢想天生だ! 気を付けろ!」

 ナズーリンが叫んだ。

 夢想天生……あの博麗の巫女の究極奥義の?

 息を飲んだ次の瞬間、ルナサの目の前にいきなり男が現れた。その右腕に持つ鮮血したたる白刃を、大きく振り上げて。

 咄嗟に回避しようと身を捻るが、間に合わない。白刃の煌めきが、ルナサの瞳を焼いた。

「させるか!」

 男の腕に白い糸が巻き付いた。ヤマメの魔法糸だ。

「離れろ、ルナサ!」

 その隙にペンデュラムを構えたナズーリンが、虹色の光の波動を放った。夢想封印。八雲紫からナズーリンへと与えられた、賢者達と戦う為の力。

 だが、

 

 りぃん

 

 男は懐からナズーリンのものと似たペンデュラムを取り出すと、腕を大きく振るった。

 放たれた虹の光珠が光の波動にぶち当たり、それを貫通してナズーリン達へと襲いかかった。

「馬鹿な!」

 ナズーリンとヤマメは身体を地へ投げ出してそれを回避するも、至近距離で爆裂した夢想封印の衝撃波で吹き飛ばされ、大地に転がった。

 ルナサは指先から光の刃を発して、男へと切りかかった。この男、明らかに普通の人間ではない。妖怪の術力を上回るなど、通常では考えられないからだ。ここで殺さねば、妹達にも危害が及ぶ。あの土砂崩れの時のように。あの時の痛みと哀しみ、苦しみを乗せて、ルナサは刃を振るった。

 しかし、喉元を狙ったその刃は、男の腕から伸びた白い糸によって防がれてしまった。土蜘蛛の魔法糸の強度は並大抵の刃では切り裂けない。ヤマメの攻撃を逆に利用するとは。

「くっ……!」

 右腕を襲う鋭い痛み。男の持つ白刃が、尋常ではない輝きを放った。不可思議に揺らめくその刃の色、音に聞こえし天叢雲剣が如き。ルナサの刃ではびくともしなかったヤマメの魔法糸を、まるで素麺を断つが如く切り裂いた。身を躱して深手を避けるも、もはや右腕は戦の用に立ちそうもない。再び大きく振りかざされた白刃を前に、ルナサの額を冷や汗が伝う。ルナサは咄嗟に地へと伏せた。

 背後から飛びかかった燐の一撃が、男の頬の肉を削いだ。左頬を紅く染めた男は、一歩飛び退いて刃を構えた。

「逃すかよ!」

 逃げる男に追いすがった燐の爪が、器用に白刃を避けて男の肉をえぐっていく。瞳を開いた妖獣は、その身体能力を通常の何倍にも増すと言う。両腕を使って繰り出される疾風が如き連撃に、さしもの男も致命傷を避けるので精一杯のようだ。追い詰められた男が、再びペンデュラムを握りしめるのが見えた。

 だが、十分だ。その隙にルナサはヴァイオリンを取り出していた。

「離れて、燐!」

 再び夢想封印を使われる前に、ルナサは鬱の音を全開で弾いた。暴動を起こす民衆を鎮め、あの博麗霊夢すら動きを止めたこの音色。手加減無しで弾けば、人間を一瞬で昏倒させ、そのまま死に至らしめることすら可能だ。

「喰らいなさい!」

 男の鼓膜のみを直撃するように、ルナサは音撃を放った。

 ヴァイオリンの音色が響き渡ったその時、しかし男は笑った。

 

 りぃん

 

 ルナサの音色に、ペンデュラムの不愉快な音が干渉する。途端、男を狙ったはずの音魔法は拡散され、増幅され、反射されてルナサ達の鼓膜を打った。

「な……に……」

 そんな馬鹿な。

 一体何故。

 どうやって。

 湧き上がる疑念と確信とに反比例するが如く、身体から力が、気力が削ぎ落とされていく。ルナサは立っていられなくなり、地に這いつくばった。

 逸らされた音魔法は燐を直撃し、彼女は雷撃を受けたように痙攣すると、瞬時に昏倒してしまった。

 音撃の脅威は、比較的距離の開いていたはずのナズーリンとヤマメでさえも同じだった。夢想封印の衝撃から立ち直りかけたところを直撃され、ナズーリンは再び膝を突く。元々傷ついていたらしいヤマメに至っては、血反吐を吐いて倒れてしまった。

「こ、この術は……なんて、こと……」

 今、ようやくルナサは理解した。

 あの土砂崩れの時、何故あのトランペットの少年がメルランの躁の音を解除出来たのか。あの子は音魔法を使っていたのだ。音の波長に働きかけることでその魔法を拡散する、レイラが得意だったあの術。

 そうか。

 そうだったのか。

 目の前の、この男も。

「いやぁ、危なかった。実の所、それを待っていたんです」懐から取り出した粉薬をさらさらと口に運んだ後、男は先程の弱気とは打って変わって陽気に言う。「一人で五体の妖怪を、それも名だたる大妖怪の皆さんを相手にするなんて、私如きただの貧弱な人間には、とても出来ませんからね」

「あ、貴方は……」

「いやはや、プリズムリバーの貴女がこの場にいてくれて、本当に助かりました。地獄に仏とはこのことです。こんな所であの死体探偵と遭遇してしまって、本当、どうなってしまうかと思いましたよ」

 そしてあはは、と呑気に笑った。

 ルナサは唇を噛んだ。男が燐を置いてルナサを狙ったのは、その力を利用するためだったのだ。それに気付かず、みすみす相手の罠に嵌るなんて……! 悔しさで体が震える。だが、それだけだった。自らの音魔法の力で、指一本動かすことが出来ない。

「き、貴様……」

 ナズーリンが顔を上げて、男を睨んだ。そして、地に手を突きつつも、立ち上がろうと言うのか、その体を懸命に震わせている。ルナサの音魔法の直撃を受けて正気を保てるとは、なんて精神力だ。術者であるルナサ自身すらも身体を動かすことが出来ないというのに。

「おや? その機械は一体」

 男はナズーリンに近づくと、その左腕にある小さな機械をまじまじと見やった。光点を発するその機械を前に何事か考える素振りを見せると、手にしていた白刃を投げ捨てた。途端、光点の点滅が弱くなる。

「なるほど……あの刀のせいで。いや、やはり欲をかくと良くないことが起きるものですね。おかげで何人もの同志を失うことになってしまいましたよ」

「貴様が殺しておいて、よくも言……」

 その言葉を言い終わる前に、男の蹴りが彼女の顔面を捉えていた。ナズーリンは小さくうめき声を上げて吹っ飛ぶと、仰向けに倒れてしまった。その拍子に彼女の懐から陰陽玉が転がり出た。

「あっ、それは!」

 慌てて自分の懐をまさぐる男は、やがて顔を覆って天を仰いだ。

「ああ……。まったく、こんな大事なものを盗られて、それに気付かないなんて……なんて駄目な男なんだ、俺って奴は。不安だなぁ……この先、上手くやれるのかなぁ……」

 どうやらこの男、情緒が極めて不安定と見える。

 だが、その来歴を考えれば、それは不思議でもなんでもなかった。

「でもまあ」男は陰陽玉を拾い上げると、にこりと笑った。「どうせここで死んでもらうんだし、どうでもいいか」

 ゆらりと揺らめくように、ナズーリンへと近づく。彼女に止めを刺すつもりか。

 阻止しようにも、立ち上がることさえも出来ずに、体が震えるばかり。必死に身体に力を込めようとしても、力が大地に吸われるかのごとく抜け落ちてしまう。あれほど自分の弱さを呪い、力を願ったはずなのに、今度はその力が仇となるとは。自らの音魔法の強さを、生まれて始めて恨んだ。

 すがるように辺りを見渡しても。

 マミゾウも。

 燐も。

 ヤマメも。

 誰一人、身動きが取れそうにない。

 ここでナズーリンを失うわけにはいかない。彼女の疑いを晴らし、里の人々が失ってしまった妖怪への「信用」を回復しなければ、人間と妖怪の間に致命的な軋轢を残してしまう。それは遠からず、この幻想郷全体を巻き込んだ争乱につながるだろう。それだけは何としても防がなければならない。

 しかし、この状況……。

 絶望に、ルナサの視界が黒く染まり始める。

「……土砂崩れを起こしたのは、お前だな」

 だが、ナズーリンは鉄の精神力でもって顔を上げ、尚も男を睨みつけた。

「いいえ。貴女ですよ」

 男は、懐から取り出したなにか棒状の器具を構えた。するとその先端から光が伸び、炎の剣が出現した。なんだ、あれは。今まで見たことも聞いたこともない兵器に、ルナサは戦慄した。

「そういう筋書きですので」

「やはり、貴様か」

「話を聞かない小鼠だなあ」

「首を洗って待っていろ。必ず報いを受けさせてやる。必ず」

 その言に、男は苦笑してみせた。

「滑稽ですね。その報いは、今から貴女が受けるというのに」

 そうして男は、光の剣を大きく振りかぶった。

 ナズーリンが唇を噛んだその瞬間。

 急に男がしゃがみ込み、ひええと情けない声を上げた。

 そして響く、乾いた破裂音。外界の拳銃の発砲音に似たその音は、遠く街道の向こうから響いた。

 瞳だけを動かしてそちらを見やると、去ったはずの鈴仙・優曇華院・イナバが指鉄砲を構えながらこちらの方へ駆けて来ていた。

 異変を察知し、わざわざ引き返して来てくれたのか。

「うわわ、新手だなんてそんな……ひぃっ!」

 かすめた弾丸が男のざんばら髪を切り裂いた。

「な、なんてツイてないんだろう……こうなったら仕方ない」

 男は光線剣を放り出すと、陰陽玉を取り出した。そうして、その頬から流れる血を手で掬い、陰陽玉にべっとりと塗りたくった。

 その瞬間、陰陽玉から虹色の光が噴出した。

「貴女方の始末には、八雲紫様のお力をお借りするといたしましょう」

 ルナサ達は渦を巻く虹色の霧の中に、為す術無く取り込まれてしまった。唯一、茶屋近くに倒れ伏したままのマミゾウを残して。

 陰陽玉に付けた血を拭い取ると、男は輝くペンデュラムを光の膜へとかざした。するとその部分だけ膜が割れるようにして、夕暮れに染まる外界の景色が見えた。

「それでは、失礼しますよ。どうぞ、いい夢を」

 そう言い残して、男は光の膜の外へと逃れて行ってしまった。

 虹に飲まれるルナサ達の目の前に、やがて。

 巨大な血河が姿を現した。

 

 

 遠く。

 はるか遠く。

 何処かから子どもの泣き声が聞こえる。

 助けを求めるように、誰かに縋るように泣いている。

 これが八雲紫の罪であると言うのなら。博麗霊夢がその罪の結晶であるというのなら。

 その罰を受けるべきは、幻想郷に生きる全ての者達だ。

 博麗。

 そのシステムこそは、ただこの幻想郷を存続させる為だけに存在するものなのだから。

 博麗の根源とは、螺旋回廊で出会ったあの無貌の巫女だ。奴が使った完全なる夢想天生は、博麗霊夢や顔色の悪い男が使ったものとは全く比べ物にならぬ。己の存在をこの宇宙から完全に除外してのける。八雲紫はその力を利用して幻想郷を作り上げたのだ。そして代々その力を受け継ぐ博麗の巫女を作り、幻想郷の管理に当たらせた。

 博麗という巨大なシステムを維持すること、それは八雲紫一人だけでは到底不可能だ。だから八雲紫は博麗を神道の中に取り込んだ。当時、仏教の伝来とともにその立場を徐々に弱めていた神道勢力を取り込み、自分の支持者とするために。仏教という毒が回らない閉鎖空間は、奴らにとっても都合がよかったのだろう。幻想郷が外界から隔絶されているのは、八雲紫一人の意思ではないのだ。

 巫女が妖怪退治を行うという、宗教的に見ておかしな構図にもそれで説明がつく。元来、「博麗の巫女」とは巫女ではなかったのだ。「博麗の巫女」は博麗の力を、あの無貌の巫女の力を受け継ぐ器であり、有事の際はその力を利用して争乱を鎮める、幻想郷の安全装置に過ぎなかった。博麗を神格化し、「博麗の巫女」に宗教的な意味を持たせたのは、賢者達、即ち神道勢力の思惑だったのだ。幻想郷の中核たる博麗を自分達の神として戴く事で、奴らは自らの正当性を補強したのだろう。

 そしてだからこそ、賢者達は命蓮寺と神霊廟の出現に敵意を剥き出しにしたのだ。

 この千年間、私がずっと抱いていた疑問。

「何故、聖白蓮は封印されなければならなかったのか」

 聖白蓮が拠点とした命蓮寺、その場所こそが問の答えだったのではないか。命蓮寺は奴らが作り上げようとしていた閉鎖空間、いまだ博麗大結界の存在していなかった頃の幻想郷にあったのだ。つまり幻想郷は、千年以上前から存在していたことになる。その幻想郷にて、奴らにとって毒である仏道を人妖問わず広めていた聖白蓮は、奴らにしてみれば獅子身中の虫。どうしても排除しなければならない敵だったに違いない。そしてその聖白蓮が今になって復活を遂げたことで、奴らは千年前と同じ恐怖を抱くことになった。その狂騒が、あの土砂崩れを引き起こしたのだ。

 だが。

 私と星を幻想郷に引き込み、聖白蓮復活の手引をしたのは、他ならぬ紫だった。彼女は自分の目的のために聖白蓮復活を望んだのだ。つまり八雲紫個人の思惑は、賢者達のそれと一致していないことが分かる。

 ならば、八雲紫の本当の目的は何なのか。

 何のために幻想郷を作り上げ、それを維持しているのか。

 考えてみれば。夢想天生の力は、八雲紫自身が使う隙間の力にも似ている。紫が求めていた岡崎の可能性空間移動船、それもこの世界から消え去るという意味では隙間の力に、いや夢想天生の力に類似している。彼女の求める力は一貫しているのではないか。

 ……幻想郷は外界から隠蔽されている。博麗大結界が、幻想郷という土地を外界から隔絶している。

 幻想郷の常識として流布されるその言説は、果たして本当に正しいのだろうか?

 もしや、幻想郷とは、既に……。

「う……く……」

 苦悶の声を上げながら、ルナサが目を覚ました。

「ナズーリン、私達は……」

 立てた指を唇に当てて見せると、察したルナサは口をつぐんだ。彼女の目覚めは、いかにも間が悪かった。

 外には奴らの行進が列を成している。私達が身を隠した茶屋の壁は薄く、再びルナサに金切り声を上げられようものなら、一瞬で奴らに居所を察知されてしまう。そうなったら一巻の終わり、私達もあの行進を賑やかす無貌共の一員にされてしまうだろう。

 やかましいちんどん騒ぎが遠くへ行くまで、私はヤマメの止血作業を続けていた。あの男が使った夢想封印の衝撃で、ヤマメの腹の傷が開いてしまったのだ。

 幸い、螺旋通路で拾ったポシェットの中にはまだ薬品が残っている。再手術に困ることはなかった。彼女の穿たれた臓器は再び出血を起こしてはいたが、地獄の妖怪の恐るべき治癒力の為せる業なのか、あの地下で手術を行った時よりも確実に回復していた。ヤマメの意識はまだ戻らないが、これなら心配はないだろう。

 しばらくすると、奴らの行進の音も聞こえなくなった。小屋の窓から外を伺うと、相変わらず逢魔ヶ時のように世界は紅く染まっていたが、奴ら……顔を黒く塗りつぶされた、神輿を担いで練り歩く得体の知れない連中の姿は見えない。

「ごめんなさい。取り乱したりして……」

 ようやくルナサは体を起こしたが、その顔面は蒼白である。この永遠に続く黄昏の世界に飛ばされた途端、ルナサは叫び声を上げて倒れてしまったのだった。

「よほどここに嫌な思い出があるようだな」

「え、ええ……」

「やはりルナサ、君はここを知っているな」

 私の問いに、ルナサは俯いてしまった。

 ルナサは賢者達の一員だった。この不可思議な世界の事を知っていてもおかしくはない。そして彼女が口憚る事も分かる。この世界は罪と呪いと大きな後悔で出来ているのだから。

「レイラ・プリズムリバーは博麗の巫女だった。あんたはそう言ってたな、ルナサ」

「燐か」

 窓からするりと入ってきた燐は、両手に抱えていた物体を私へと放り投げてきた。「出来るだけ綺麗な奴を見繕ってきたんだけど」歯切れ悪く言う通り、渡された布切れは清潔とは言い難く、しかも端切ればかりでとても包帯代わりにはなりそうもない。こんな世界では無理もなかった。足りない分は自分たちの衣服を裂いて包帯代わりにするしかない。

「なるほど。やはりレイラは博麗の巫女だったのか」

 ヤマメの術後処置をしながら私が言うと、ルナサはその蒼白な顔を少しだけ驚きに歪めた。

「知っていたの、ナズーリン」

「外の世界の博麗神社に君達四姉妹の写真があったからな。予想はしていたさ」

「……そう」

「この世界、過去の幻想郷の再現なんだろ。博麗が何なのか、あたいにはよく分からんが、それがこの世界で重要だってことは分かる。博麗の紋章が刻みつけられてたからな。この茶屋にも、近くの納屋にも、あの得体の知れん奴らが担ぐ神輿にも」

 外の様子を伺いながら、燐が言う。流石に鋭い観察眼である。

「だとしたら、それがこの世界を脱出するための突破口になるはずだろ。過去に一体、何があったんだい。黙ってないで言っておくれよ」

 ルナサは、首を振った。

「ごめんなさい。過去に一体何があったのか。それは私にも分からない」

「今更」

「本当よ。信じて……」

「嘘を吐くな! あたいたちは一刻も早く、この場所から抜け出さなくちゃいけないんだ。あの男は狸の大将を殺した、他にも大勢! あの岩戸の中に閉じ込められてた子達だって! 絶対に許すわけにはいかない、このあたいが必ずあいつを八つ裂きにしてやる!」

 燐は激昂した。ルナサの胸倉を掴み、憎悪に顔を歪めて。

 胸が傷んだ。燐のそんな顔は見たくなかった。平和でやかましい日々は、もはや手の届かない光の向こうへ去ってしまったんだ。

「あの岩戸の中の子は、あんたの兄弟だったんだろ! 敵討ちをしたいって思わないのか!」

「やめろ、燐」

 見かねて燐の腕を掴んだが、燐はそれを打ち払った。

「大体、なんであの男は夢想封印を使えるんだい。あれは博麗の力のはずだよ、おかしいじゃないか! あんたも何か隠してるんだろう、ナズーリン!」

「いや、お燐。何も不思議じゃないよ」

「ヤマメ。気が付いたのか」

 腹を押さえながらも、ヤマメが上半身を起こした。

「あの土蜘蛛にされた女とおんなじさ。誰かが奴に力を与えたんだ」

「それが誰かを聞いてるんだろ!」

「あんただってその話はもう聞いてるはずさ、お燐」

「なんだって?」

「そうなんだろ、ルナサ」

 ヤマメが視線を向けると、ルナサは俯いた。

 血の気の引いた蒼白な顔を苦悶に歪め、唇を震わせながら。ルナサはつぶやくように言った。

「同じなのよ……」

「同じ? 一体、何がだい」

「ようやく分かったの……。あの常軌を逸した行動力と人間性の欠片も無い冷血な思考、異常な情緒不安定さ。人間離れした術力と、私の音すら跳ね返す強力な音魔法。それほどまでに心を壊すには、それほどまでに強大な力を得るには。余程特異で非道な環境が必要だわ。そしてあの男から受ける奇妙で不愉快な、でも懐かしいあの感覚」

「……まさか」

「あいつも同じなのよ、あの子達と。レイラの力を利用するために作られた、岩戸の中の名無しの子……。私の、兄弟……」

「そんな……」

 うろたえた燐は、ルナサから手を離し、私の方を見た。

「う、嘘だろ、ナズーリン。あたい達の敵が、あの子と同じ境遇だったなんて」

 私は首を振った。

「残念だが、そう考えるのが妥当だろう」

 奴らが普通の人間ではないことは分かっていた。姫海棠はたての新聞もそれを示唆していた。あの岩戸を見つけた段階で予想はしていたことだ。

 私の探索を逃れ続けたその力。ダウジングならまだしも、部下達による人海戦術を一体どうやって無効化しているのかと思っていたが、まさか音魔法だったとは。あの岩戸が賢者達による生体兵器生産の跡だったこと、レイラ・プリズムリバーの力が利用されていたこと、そしてレイラが博麗の巫女だったこと。その三つの事実を掌中に収めていながら、実際に音魔法を受けるまで真実に思い至らなかったことは、我が身の不覚と言う他無かった。

「それじゃあ……それじゃあ、あたいは……一体何の為に……」

 燐は混乱して、座り込んでしまった。

 燐はあの子達の為に戦おうとしていたのに。あの子達の成れの果てが、幻想郷に仇為す最悪のテロリストだった事は、燐には受け入れ難い事実に違いない。

 悲痛な沈黙の中、ヤマメはおもむろに窓際へにじり寄ると、外を伺った。

「……外を徘徊する奴らは、顔を黒く塗りつぶされた連中。地下で出会ったあの無貌の巫女とおんなじ類の連中かい」

「おそらくな」

「なら、ナズーリン。早くここを、この世界を出よう。一刻も早く」

 そう言いながら、ヤマメはよろよろと立ち上がった。

「無理をするな、ヤマメ。また傷が開いたらどうする。私とて脱出したいのは山々だが、どうやって脱出するか、まだ手立てが見えないんだ」

「それは歩きながら考えよう。とにかく前へ進まないと……」

「何を焦っている、ヤマメ」

 私の問に、ヤマメはその手を頭上へかざして見せた。

 私も燐もルナサも、その様に絶句した。

 その指先が、黒い染みに侵食されている。

「どうやら、弱ってる奴から順番のようだ。時間をかければ私らも取り込まれちまうだろう、この夢想に……」

 それから、私達は隠れていた小屋を離れ、鬱蒼と茂る森の中へと踏み出した。

 あの黒塗りの連中に見つかる恐れがある。空を飛ぶことは避けねばならなかった。だが森の中にもどんな得体の知れない有象無象がいるか分からない。常に気を張りながら進む必要があった。

 はっきり言って状況は最悪だった。傷ついたヤマメは杖突き、燐とルナサは力無く項垂れたまま。かく言う私も連戦に次ぐ連戦で体力の限界を迎えつつある。息は切れ、足は重く、言葉も少なく。

 それでも、歩みを止めるわけにはいかない。

 生き残るために。

 そして、あの男の凶行を止める為に。

「ここが過去の幻想郷だというのなら、地形も同じはずだ」

 私達は博麗神社近くの茶屋にて、この世界に飛ばされてきた。縦横無尽に血の河が走っているため位置を掴みづらいが、この世界でも博麗神社は近いはずなのだ。

 幸い、私にはダウジングと、何よりペンデュラム・エンシェントエディションがあった。方角を見失う事は無い。

 しばらく歩くと、私達の推論通り、博麗神社へと続く石段が見えた。かなり朽ちているようにも見えるが、石段の上には鳥居も見える。

 ふと、見上げた空に影が映った。

 無数の渡り鳥が群れを成している。あれは、ツバメだ。

 ツバメ。外の世界ではよく見かけたが、そう言えば幻想郷では見かけた記憶が無い。それが今、空を渡っている。以前、この世界を垣間見た時もそうだった。あの時も決まってツバメが渡りを行っていた。何か、この現象に意味があるのだろうか。どうにも、胸騒ぎがする。嫌な予感がするのだ。

 その予感は、石段を登りきった時、現実の光景となって私達を襲った。

「な、なんてこった……!」

 石段の上にたどり着いたヤマメは、力無くへたり込んだ。

「なんなんだい、この世界は……! 一体どうしてこんな事が起きてるんだい!」

 動揺した燐がおろおろと辺りを見回している。

「まさか……嘘よ、そんなはず……」

 ルナサはしきりに自分の顔を撫ぜていた。

 博麗神社の境内には、無数の人間が倒れている。その誰も彼もが顔を黒く塗りつぶされ、そして誰も彼も、その胸には短刀が突き立てられていた。どこかで見たような刀だが……しかしそんな虐殺の有様ですら、この光景の前では些事に過ぎなかった。

 博麗神社の向こう側。

 鬱蒼と茂る森があるはずの空間には、何も無い。

 ただただ広がるばかりだった。

 細波に揺らめく、紅き水面が。

「何故、海が……」

 水平線の向こうに沈む夕日を見つめながら、私は呆然とつぶやいた。

 幻想郷の博麗神社はもちろん、外の世界の博麗神社にも海など無かった。そもそも地形的に考えておかしい。日本の山間部に位置するはずの幻想郷に海などあろうはずもない。まず標高が間違っている。だが、血の臭いに混じって漂う潮の香りは、優しく響くこの細波の音は。紛れもなく海のものだ。

 そして私は気付いてしまった。この世界に迷い込んでからずっと感じていた違和感の、その正体に。

 永久に黄昏を続けるこの紅く染まった世界、その色を作り出す夕日の、その沈み行く水平線の先は、明らかに……明らかに、西ではない。

 日は東に落ちていっている。

 振り返った私は、見た。

 幻想の森を超えたその向こう側。

 もう一つの太陽が、西へと沈む光景を。

 二つの太陽。二つの夕陽。

 これが、この異常な赤の正体……。

「誰かいる!」

 ヤマメに引っ張られて、呆然としていた私は鳥居の陰に引き込まれた。ルナサと燐も一緒だった。

 陰から社殿を伺う。ヤマメの言う通り、博麗神社の境内に、三つの影が見えた。

 一人は、瀟洒なドレス姿の女。

 一人は、艶やかな和装を身に纏う妙に影の薄い女。

 一人は、白い傘を手にした女。

 ドレス姿の女は己が罪を懺悔するが如く顔を大地に擦り付け号泣し。影の薄い女はその傍らで静かに佇み。傘を手にした女は後ろを向き、ただ空を見上げている。

 あれは……八雲紫に西行寺幽々子、それにまさか、風見幽香か? 彼女達は賢者達の一員だ、過去に起きた事件を知っている……。

 これが、八雲紫の「罪」なのか。いったい何をすれば、こんな終末にも似た世界が訪れるというのか。

「誰か出て来たよ」

 陰から社殿を伺う。ヤマメの言う通り、社殿の中から一人の女が出てきた。そいつはやはり顔を黒く塗り潰されていたが、どこか見覚えのある装いをしていた。

 そう。似ているのだ。

 プリズムリバー三姉妹の装いに。

「レイラ!」

 ルナサが声を上げた。声と言うよりは、もはやそれは悲鳴だった。止める暇もなかった。

 途端、レイラの影は首を回し、こちらを睨んだ。三人の女の影は、時が凍てついたかのようにその動きを止めた。

 ――見つかった。

 私の背を冷や汗が伝ったその瞬間に、変化は訪れた。

 レイラの影は、ゆっくりと指を持ち上げると、私達の方を真っ直ぐに指差した。

 風が吹いた。

 地が震えた。

 海がざわめき、まるで生き物のように脈動を始める。

 木々の陰から。

 岩の隙間から。

 波の谷間から。

 顔を黒く塗り潰された得体の知れない連中が、ぞろぞろと這い出し現れ集いゆく。

 いつの間にか、奴らの中心には大きな神輿が戴かれている。その社の唐戸には博麗の紋章が燦然と輝いていた。奴らはそれを担ぎ上げると、ちんどんとやかましい音を立てて行進を始めた。ギラリ。光る白刃、それを揚々と振りかざしながら。

 境内に転がっていた死体達も立ち上がり、その楽団に加わってゆく。

「レイラ! レイラ、レイラ!」

 恐慌状態に陥ったルナサは、ただ妹の名を叫び続けていた。

「しっかりしなルナサ、あれはレイラじゃない!」ヤマメはルナサの頬をはたいて怒鳴った。「逃げるよ! 奴らに捕まったら、私達もカオナシにされちまう!」

 ルナサの腕をつかんで、石段を駆け下り始めた。

「だけど、逃げるって何処にさ!」

 燐もそれに従いながら、しかし怒声を上げた。

「分からん、けど今は逃げるしか……ナズーリン、何をしている!」

 亡者共が迫り来る中。

 私は石段の上で、レイラを見つめていた。

 彼女の指差す先。最初、私達を指し示し、奴等をけしかけているのかと思ったが、よく見れば微妙に方向がずれている。

 その方角に目をやった私は、ある一つの可能性に思い至った。

 もう一度、影の方に目を向ける。

 私が気づいたことを察したのか、彼女は指を下ろし背を向けた。

 ここは貴女達が居るべき場所ではない。

 そう告げるように。

「レイラ・プリズムリバー……」

 こんな世界にあっても、姉妹を助けようとしているのか。

「ナズーリン!」

 ヤマメが叫ぶまでもない。私は石段を一足飛びに飛び降りた。そしてペンデュラムに術力を送り込むと、頭上の鳥居に向かって夢想封印を放った。階上に顔を見せ始めていた亡者共は、虹色の衝撃波にぶつかり、その歩みをを一瞬だけ緩めた。

 その隙に、私達は走り出していた。

「一つだけ脱出の可能性がある!」

「なんだって?」

「無縁塚だ! あそこは結界の交差点だ、結界の綻びがある!」

 そうだ。無縁塚の掘っ立て小屋に八雲紫が現れた時、私はこの異界を垣間見ていた。無縁塚は異界へと続く通路だったのだ。だから八雲紫は私に、死体探偵にあの場所の捜索をさせていた。八雲紫の罪を雪ぐ何かを、この過去と後悔の世界から探し出すために。

「レイラが教えてくれたんだ。無縁塚に行けと」

「レイラが……?」

 私がそう言うと、ようやくルナサが顔を上げた。

「ああ。君の妹は、君を助けようとしてくれている」

「レイラ……」

 ルナサの瞳から一粒、涙が零れ落ちた。

 木々を突っ切り、血の河を飛び越え、私達は無縁塚へと向かった。

 どれだけ走っても、迫り来る奴らの行進音は小さくならなかった。

 見上げた空には黒い霞がかかっている、あの中に飛び込む事は奴らの胃袋の中に入り込むことに他ならない。つまり、空を飛んで逃げることすら出来ない。私達は完全に捕捉されてしまっていた。

 おまけに奴等は私達を取り込もうと、妨害を仕掛けてきた。その妨害は迅速で、しかも強力だった。影という影から亡者が現れ、私達の肢体を絡めとろうと触手を伸ばす。その数は異変時にはしゃぎまわる妖精共の比などではなかった。

 爪を振るい。糸を払い。鉄杖を打ち下ろし。

 それでも攻撃は怒涛の如く押し寄せる。

 無貌の亡者共の伸ばす手を薙ぎ払い、叩きのめし、切り結んで、私達は進んだ。

 ただ我武者羅に……生きる為に。

 元の世界へ戻るため……無縁塚へ!

 気付く。

 私は高揚していた。

 力を振るうことに、いつの間にか快楽を得ている自分がいる。この苦境に血が沸き立ち、弾む息が妖怪の本能を刺激する。

 思い出せ。己が本分を。

 遠い昔に捨て去ったはずの魔笛の音が、耳鳴りのように鳴り響いていた。

 思い出せ。己が本分を。

 そう私へと語りかけるその音色は蜜のように甘く、私の脳を蕩かす。

 私はその魔笛の音に従って、鉄杖を振るった。眼前の亡者を完膚無きまでに叩き潰す為に。

 だが。

 果たして、これは私の行くべき道だったのだろうか……?

 私の中の何かが、混濁する意識の奥で振動した。

「うっ……ぐ」

 気付けば私は、己の腕に退魔針を突き刺していた。

 その脳天を貫くような痛みに我に返った私は、自分の手足を見やって絶句した。黒い染みが、私の四肢を覆いつくしている。

 私は奴らに取り込まれかけていたようだ。私を押し留めたのは、捨てたはずの教義なのか、それとも……。

「ヤマメ……っ!」

 ヤマメを見やって、私はまたも言葉を失った。

 ヤマメは咲き誇る彼岸花の中に突っ伏してしまっていた。彼女の全身は黒い痣に覆われ、光を失くしたその顔は黒塗りに塗り潰されようとしている。

 首を回して当たりを見やる。

 燐も、ルナサも同じだった。彼女達も同じように黒い染みに覆われてしまっていた。

 間に合わなかったのだ。

 私が絶望に身を捩らせたその時、行進音が止まった。

 奴等が、来た……。

 しかし今、燐もルナサもヤマメも無貌に飲まれつつあり、唯一意識を保つ私でさえも、体の自由が利かぬ。

 私は首を回して、奴等を見やるしかなかった。

 神輿は私達の前で止まり、奴らの顔の無い瞳が私達を見下ろした。眼前で奴等をまじまじと見て、初めて気付いた。黒い靄に包まれて視認が難しいが、その身に纏う着物、白衣に袴のその装束。

 こいつらは、賢者達の一員だった。その成れの果てだった。

 迷妄の果てにこの夢想に囚われた、狂信者達なのだ。

 奴らは私の眼前で神輿を下ろし、見せびらかすように、誇るようにその唐戸を開いて見せた。

 神輿の中には、何も無かった。

 紅白の装束を身に纏い、胸に白刃を突きたてられた、無貌の女の死体以外には。

 体が震える。私は確信した。私の予想は間違っていた。私は奴らを、博麗の巫女を戴く賢者共を神道勢力だと考えていたが、そんなことは無かった。

 これは最早、宗教ですらない。

 幻想郷という揺り籠の中で際限なく肥大化された、狂気だ。

 私は、只の女のように無様な悲鳴を上げた。

 底なしの狂気を前に、私の中の千年の教義は呆気なく敗北したのだ。

「情けないわねぇ」

 その言葉とともに背後から現れた女。

 十二単を身に纏う蓬莱山輝夜は、私の眼前に伸びた闇の触手をヒヒイロカネの剣の一閃で薙ぎ払った。

「それでも私の生徒? そんなんじゃ単位はあげられないわよ」

 いきなり出現した場違いな台詞。今の状況との落差に、私は本気で眩暈を起こした。

「姫様、お早く!」

 背後の空間にぽっかりと開いた虹色の隙間から、鈴仏・優曇華院・イナバが輝夜を呼んでいる。その小脇には、燐とヤマメにルナサを担いで。

 あの虹色の隙間の向こう側は、現実世界か。

「分かってるって、イナバ」

 輝夜は私の襟首をひっつかみ、鈴仙の方に投げ飛ばした。私は鈴仏の背中辺りに思いきりぶつかり、彼女はぎゅうと声を上げた。

 隙間の向こう側に滑り込んだ私は、黄昏の世界に残った輝夜の方を振り返った。

 輝夜の肢体には既に黒い闇が纏わりつき始めていた。

「姫様! 早くこっちへ!」

 鈴仙が焦って手を伸ばしたが、一方輝夜は自分の身体が侵食されているというのに、落ち着き払っていた。

「永遠に続く後悔の世界、か……」

 そうして、長い長い溜息を吐いた。

「随分とぬるい永遠ね」

 彼女の手にしたヒヒイロカネの剣が、まばゆい輝きを放つ。いや、輝きではない。それは閃光が如き一閃だった。靄はその一振りで四散し、無貌共は恐れおののくように一歩下がった。

 ばらりと舞う輝夜の長い艶髪の隙間から放たれる、黒き眼光。その時に見せた輝夜の瞳には、私が未だかつて見たことも無いような深い闇が渦巻いていた。

「あと万年は永く彷徨ってから使いなさいな。永遠って言葉はね」

 輝夜はウインクすると、悠々と虹の隙間を通り、現実世界へと帰還した。輝夜が通り抜ると、隙間は跡形も無く消えてしまった。まるであの世界の方が輝夜を恐れ、拒絶したかのように。

 私の四肢からは、波が引くようにして黒い染みが消えた。未だ昏倒してはいるが、それはヤマメ達も同じだった。

 辺りを見回すと、あの黄昏の世界と同様に、彼岸花が私達を包んでいる。ここは無縁塚だ、予想の通りあちらの世界と幻想郷の座標は一致しているようだな。

 永遠亭から輝夜が連れてきたのだろうか、兎妖怪の看護師達がわらわらとヤマメ達を囲んでいる。

「イナバに呼ばれて来てみれば、面白いことになってたみたいね。まったくあんた達、ツイてるわねえ。イナバが余計なお節介焼いて戻らなかったら、そのまま死んでたわよ」

「輝夜。どうしてここが」

「そりゃ、一番戻りやすいのはここだしね。雑な結界とはいえ、力づくで破るなら綻びのあるところを狙うのは常道でしょ」

 そう言ってヒヒイロカネの剣をぶんぶんと振り回した。

 私達が命がけで彷徨った世界を『雑な結界』で片付けるとは。しかし、底知れぬ輝夜の力の前では、あの狂気の世界も児戯に等しいのかもしれない。

「まあ、今回の功労者はイナバね。よくやったわ、イナバ。あんたのお節介も割と役に立つもんねぇ」

 輝夜に褒められて、えへへと鈴仙が照れている。

 私も頭を下げた。

「ありがとう、鈴仙、それに輝夜。また君に助けられたな」

「いいのよぉ、私、通りすがりの正義の味方だから」

 ……なんだそりゃ?

「そんなことより、ナズーリンさん。マミゾウさんは永遠亭に運んでおきました。今、師匠が診てくれていますが……」

 鈴仙は鎮痛な面持ちでそう言う。

 マミゾウ……。

 昏倒している燐達の様子を見やると、鈴仙は言葉を続けた。

「ルナサさん達も永遠亭に運びましょう。衰弱がひどいです。特にヤマメさんは、このままでは」

「ああ。彼女は腹に穴が開いている。私が応急処置したが、永遠亭で診てやってほしい。ルナサ達も、あの世界で奴らに取り込まれかけている」

「あら。プリズムリバーの子に死なれたら困るわ。私、ファンだもん。んじゃ、さっさと連れ帰って永琳に見せるとしましょ」

 そう言って、輝夜は踵を返した。

 私はその袖を引いて彼女を引き止めた。

「次の凶行が起ころうとしている。私は奴らを止めねばならない。輝夜。もう一度、君の力を貸してくれ。敵の力は強大だ。私一人では」

「駄目よ」

 輝夜は即答した。

「私は姫よ。その私が演じるのなら、主演以外にはありえない。だけど、舞台はとっくに整い尽くしている。もう私の入る余地はないわ。私は観客としてお芝居を楽しむだけ」

「輝夜、これは演劇じゃない。現実なんだ」

「私にとっては同じことよ。私、道化役は似合わないの」

「滑稽でも構わんだろう、人の命が救えるのなら」

「合わない役を無理にやることは無いわ。人には人の天分がある。そのために使うべきものだわ、己の命というものは」

 そう言った輝夜の瞳には、あの世界で垣間見た、底知れぬ闇が渦巻いていた。

 私は唇を噛んだ。

「……分かった。すまない、私は君に頼りすぎていたようだ」

 私の言葉では、この人を動かせない。

 輝夜は微笑むと、

「これ、持ってきなさい」

 そう言って、輝夜は私にヒヒイロカネ製の短刀を手渡して来た。

 私は困惑した。

 刀は人を殺しかねない武器だ。仏道では殺生は禁じられている。教義を捨てたとはいえ、私は……。

「殺生は、したくない。これは、私には不要な力だ」

 輝夜へ刀を突き返そうとすると、彼女は首を振った。

「それは力じゃないわ、ナズーリン。それはあんたにとってのけじめなのよ。使うべき時が来たなら、それを使いなさいな。必ず」

 鈴仙と兎妖怪の看護師達は、昏倒したルナサ達を担架に乗せると、永遠亭へと去っていった。輝夜もそれに続いた。最後に一言、彼岸花の上に言葉を残して。

「どう使うのかは、あんたの自由だけれど」

 ルナサ達を彼女達に預けて、私は背を向けた。

 あの顔色の悪い男は、すぐにでも行動を開始するだろう。あの地下洞窟で見つけた次のターゲット、すなわち神霊廟への攻撃を。

 神霊廟に向かわなくては。

 輝夜から託された短刀を見やる。

 私にとってのけじめ、か。

 既に奴は千人近くの人間を、そしてマミゾウをも殺している。

 奴を止めるためなら、私は……。

 


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