死体探偵   作:チャーシューメン

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 つらい話です。
 注意して下さい。
 今回、結構長いです。

 そそわはこちら→http://coolier.dip.jp/sosowa/ssw_l/213/1474814077
 ※置いてあるのは同じです。



サウンド・オブ・ヘイナウ

 

 運命とは自分で切り拓くもの。

 人間の可能性を信じてやまない人々が口にするその言葉、耳に聞こえはいい。

 だが、微睡みの中で見る夢を、人が自分で選ぶ事は出来ないように。往々にして、運命というものは他の誰かから理不尽に押し付けられるものだ。始まりはいつだってそう、我々の与り知らぬ領域で因果は始まり、知らぬ間に忍び寄ったそれは、ある日突然、私達に牙を剥く。運命とは非情である。それは私達の意思など一顧だにすることは無い。全てを潰し、壊し、押し流してゆく。苦しみも痛みも、愛も未来も一緒くたにして。私達は断頭台に立たされる時を待つだけの囚人に等しい。

 運命の刃が首筋に迫ったその時。人に残された選択肢は、余りにも少ない。その時人は何を見るのか。泥を見るのか、星を見るのか、あるいは別の何かを見るのか。そこに人間の本当の価値があるのかもしれない。

 あの音色。きっと私は、一生忘れないだろう。

 それは、勇気の歌だ。

 

 

 先日訪れた時は、古びていながらも小綺麗な印象が強かったのだが、今。霧の中に佇むその洋館の窓ガラスはあちこち割れ、壁の塗装は剥げ落ち、周囲の草花は萎れて茶色く変色している。雲間より微かに差す陽射しは眩しいのに、それを遮る様にどんよりと空気が淀み、瘴気すら出始めていた。まるでただの妖怪屋敷である。

 プリズムリバー邸は、外観からも分かるほどに荒廃していた。

 しかし、無理も無かった。

 あんな事件があった後なのだから。

「よく来てくれたわね……上がって頂戴」

 ノッカーを鳴らすと出てきた女は、陰鬱と言うよりかは何処か熱を帯びた声でそう言った。あれから着替える間も無かったのか、いつもの黒いステージ衣装のままである。

 強いな、そう思う。

 人の本当の強さは追い詰められた時に発揮されると言うが、まさに今、彼女の強さが必要な時なのだろう。その為に彼女は普段から強くあろうとしていたに違いない。困難にぶち当たったその時、長女として妹達を導くその為に。

「響子ちゃんは、大丈夫かしら」

 こんな時にも、他者を思いやる心を忘れない。ルナサ・プリズムリバーは敬意を表するに値する女性だ。

「……ずっと泣いていたよ。今はミスティアが付いてくれている」

「そう……夜雀も、強いわね」

「あのおちゃらけた九十九姉妹と能天気なドラマーも、見る影が無いほどに落ち込んでいた。気に病むな、その慰めを気安く吐くには、今回の事件は余りにも大きすぎる」

 ルナサは私へ応接室のソファを示すと、自らも向かいの席に座った。……座った、と言うより、沈んだと言った方が正しいか。黒い革張りのソファに全体重を預け、深く深く溜め息を吐いた。天井を見つめるその眼は虚無である。

 しばしの沈黙の後。

 弦を引き絞るように、ルナサが問うた。

「何人、死んだの」

 キリキリと空気が乾いた。

 その数字を口にするには、多少の勇気が必要だった。

「……回収した遺体は、現時点で既にニ百を超えている。当時の状況から鑑みるに、その倍は下らないと思う」

 ルナサは目を伏せた。呼吸を止めて、微動だにしない。彼女の周りだけ時間が止まったかのように。胸中に去来する痛み、哀しみ、後悔。それら全てを受け入れるつもりなのだ。

 だが……女一人で抱え込むには、それは余りにも大きすぎる。

 ルナサが小さく震えた。その耐え難い苦痛が、私にまで伝わるようだった。その痛みを癒す事も和らげる事も、今の私には出来ない。無性に星の顔が見たくなった。

「……そう」静かに開いた瞳は、鈍い光を放っていた。「出来うる限りの捜索をお願いします。資金の心配は要らないわ。これでも私達、結構稼いでいたから」

 そう言って、ガラス製の水差しから注いだ水を飲み干した。だが本当に飲み下そうとしたのは弱い言葉の方だったのだろう。苦い顔をしている。

「リリカとメルランはどうしている」

「リリカは、土砂に飲まれてね。幸い、自力で這い出して来てくれたけれど、今は永遠亭に入院している。メルランは……」

 ちら、と窓に向けた視線が物語る。

 メルランが手当たり次第に物を投げつけたのだろう、窓ガラスには幾つも穴が空いている。調度品も薙ぎ倒され、応接室の内装は嵐の後の河川敷のようだ。

 どうやらメルランは、かなり精神に失調をきたしているらしい。

「あの時……あの場所を選ばなければ……」

 ルナサの口から、溜め息と一緒に、痛みが零れた。

 昨夜。

 その日はプリズムリバー三姉妹の演奏会の日だ。リリカの尽力により鳥獣伎楽や九十九姉妹といったメンバーを迎え、妖怪の山にてかつてない規模の演奏会が開かれた。私もささやかながらその準備を手伝い、妖夢や小傘といった優秀な人材をリリカ達に紹介した事は記憶に新しい。

 その演奏会の会場を、土砂崩れが直撃した。

 演奏会には多数の人妖が集まっていた。その半数以上が、為す術なく土砂の激流に飲まれたのである。

 身体的に頑強である妖怪にもかなりの被害が出たのだ。土砂に飲み込まれた人間達の生存は、絶望的である……いやはっきり言おう。全滅、そう言う他無かった。

 まさに、悪夢である。

 これ程の規模の死者が出たのは初めてだと慧音が言っていた。あの時の慧音の顔が脳裏にちらつく。呆然として、起こった事が信じられない、そういう顔をしていた。

 誰もがそうだった。

 星も聖も絶句していた。

 八雲紫も頭を抱えていた。

 能天気の代名詞たるあの博麗霊夢すらも、事故現場を見てさめざめと涙を流していたのだ。

 私は事故当時、別件に当たっており、会場に居る事が出来なかった。私も当事者の一人とは言え、冷静に行動出来ているのはその為だろう。心の何処かで私は、この事件を他人事だと捉えているのだ。

 ……何が毘沙門天の使者だ。何が正義の味方だ。自らの醜悪な性質に、怒りも哀しみも通り越して、ただただ呆れ返るばかりである。いつまで経っても、何処まで行っても、私はあの時のまま……邪悪で矮小なる小鼠のままだ。身の丈に合わぬ天道に憧れ、その身を焦がしている。

 だが今は、その醜さに感謝する事にする。

 絶望と狂気に身を沈めて、時を費やしている場合ではない。

 私は死体探偵だ。

 今こそ私は、その役目を果たさなければならない。

「あの時、何が起こったのか。それが知りたい。ルナサ、話を聞かせてくれ」

 生存者達に話を聞いても、なぜか皆、一様に要領を得ない言葉を吐くだけで、あの時、あの瞬間に何が起こったのか、私はそれを把握出来ずにいたのだ。

 ルナサは激しい痛みを堪えるように自分の身体を抱き、歪めた顔でぽつりと言った。

「ごめん……今はまだ、そっとしておいて欲しい」

 そう言って顔を背ける。

 仕方の無い事だった。ルナサ達自身、まだ気持ちを整理する事が出来ていないのだろう。同じ様に、私は鳥獣伎楽のメンバーや九十九姉妹達からも話を聞き出せずにいた。

「分かった。その件についてはもう聞かない」無理に聞き出そうとしても結果が変わる訳ではないから。「折角だ、メルランの様子を見せてもらっていいか」

 ルナサは少し迷う素振りを見せたが、やがて頷き、二階にあるメルランの私室まで私を案内してくれた。

 嵐が吹き荒れた館内とは打って変わって、メルランの私室付近は不気味なほど整えられ、静寂に包まれていた。

 ノックをする前、ルナサは少し息を吐く。今のメルランに話し掛ける事は、覚悟が必要なようだ。

 コン、コン。

 響き渡るその音。ぞくり、背筋に寒さを覚える。

「メルラン。ナズーリンが来てくれたわ。……入るわよ」

 静寂。

 暫く待っても返事が無かったので、ルナサはノブを回し、ゆっくりとドアを開いた。

 メルランの部屋は、色鮮やかだった。趣味なのだろうか、犬や猫などの動物を象ったビビッドカラーの縫いぐるみが山ほどもベッドの上に積まれている。壁一面に様々な金管楽器が飾られており、差し込む陽光を反射して金銀に煌めいていた。焦げ茶色の大きな書棚は楽譜で一杯だ。大きく壁を切り取る窓は空の蒼を映し、その窓際には小さなポートレートが立てかけられていた。セピア色のプリズムリバー三姉妹と、あと一人、友人だろうか。壁際に置かれた机の上には灰色の新聞が無造作に捨て置かれている。『花果子念報』である。

 その先で、視線が止まる。

 私は、息を呑んだ。

 極彩色の部屋の隅に、色を失くしたメルランが膝を抱えて座っていた。

 驚くほどに気配が無い。放っておけば、そのまま霞になって消えてしまいそうな程に。メルランの姿形を知らなければ、ただの不気味なオブジェだと勘違いしていただろう。その顔は伏せられ、表情を伺い知る事は出来ない。

「メルラン」重苦しい空気を掻き分けて、私は喘ぐように言った。「差し入れを持って来た。食欲なんて無いだろうが、無理矢理にでも何か口にしておいたほうがいい。妖とはいえ、食わなければ心も身体も保たんだろう」

 持ってきた包み紙を取り出しつつ。

 静寂。

 沈黙に引き伸ばされた時の中で、私の動きも緩慢になったように思えた。水梨の入った包み紙をテーブルの上に置く、ただそれだけの動作をするのに、永遠とも思える主観時間を費やした。

 メルランは微動だにしない。

 危惧していた通りである。メルランには精神的に脆い部分があった。演奏会の重圧に負けて自らのトランペットを破壊した事もある。この事件で大量の人死が出たという事実に、メルランの精神は崩壊一歩手前まで追い詰められているのだろう。このままでは廃人になるか、下手すれば消滅してしまうかもしれない。

「メルラン、君のトランペットを見つけて来たよ。一緒に置いておく」粘りつく時間を振り切り、私は出来るだけ溌剌とした声で語りかけた。「何も心配する必要は無い。後は全て、私に任せておけ」

 私は古びた三姉妹のマスコットが付いた金色のトランペットをメルランの目の前に掲げて見せてから、机の上に置いた。メルランは自分のトランペットにすら興味を示さず、ただ壁の一部になっていた。

「ではメルラン、また来るよ」

 ルナサが私の袖を引っ張るので、私達はメルランの部屋から退散した。

「相当重症だな」

 声を落とした私の言葉に、ルナサは暗い顔で頷いた。

「あの子は、自分を責めてるのよ」

「土砂崩れが起こったのは、君達の責任ではない」

 唇を噛むルナサ。苦痛に悶えるように身体を震わせる。

 何故だか、ルナサ達は必要以上に責任を感じているようだった。

「……ナズーリン。音を、探して」

「音、だと?」

「最後の瞬間、鳴り響いた音を……」

 小鳥の鳴くような声でそう言って、ルナサはそれきり口を閉じた。

 私はルナサに礼を言い、プリズムリバー邸を後にした。

 音。

 ルナサの謎掛けのような言葉が頭の中を泳ぐ。無意識に早足になった。

 土砂崩れが起こった瞬間は、演奏会の真っ最中だったはずだ。曲に何かあったと言うのだろうか。

 灰色の空の下、川を遡る。霧の湖に注ぐこの川は、土砂崩れの影響で土気色に濁っている。

 川の中では河童達が土砂を取り除く作業をしていた。川縁に盛られた幾つもの土の山は既に小高いが、それでも川の濁りは消えない。相当量の土砂が流出したのだろう。普段は好き勝手に振舞って統率の欠片も無い河童達だったが、今は無言で粛々と作業をこなしている。そう、河童達にも犠牲者が出たのだ。

 体が震える。寒さを覚えた。秋の空気はこんなにも冷たいものだっただろうか。

 川縁に盛られた土に混じって、幾つもの筵が地面に敷かれているのが見えた。漂う腐臭。その下から、はみ出た腕や足が覗いていた。膨らみの薄い筵ばかりだ。この手の事故で五体満足のまま見つかる遺体は少ない。

 筵の前には水圧銃で武装した河童達が立って、周囲に睨みを利かせている。鳥や獣、そして醜悪なる有象無象共から遺体を守っているのだ。彼女達は人間を盟友と呼ぶ。同胞の遺体だけでなく、人間の遺体も守ってくれているのだ。

 既に河城にとりと話はついている、ここは河童達に任せていいだろう。私は川をさらに遡り、そこから妖怪の山に分け入った。

 聖徳王が整備したという立派な街道はただの泥の道と化していた。深く刻まれた土砂崩れの爪痕の脇を歩く。緑の残る木々も、天を衝く大岩も、山に暮らす小さな生命の営みも、一切合切を飲み込んだ黄土色の濁流は今、その時を凍らせている。土の中から突き出た紫色の腕が、天に向かって叫んでいた。俺はここだ、助けてくれ、暗い、狭い、苦しい、痛い。私はその叫びをはっきりと目にしていながら、無情に通り過ぎるしか無かった。迂闊に掘り返せば二次災害の危険性がある。すまん、そう心の中でつぶやく事すらもせず、心を殺して足を早めた。

「……ナズーリン。ご苦労様です」

 法衣に身を包んだ星の穏やかな顔が目に入る。ああ、と小さく返した。死んでいた心が蘇るのを感じる。

「プリズムリバー三姉妹の様子はどうでしたか」

 汗ばんだ顔で微笑む星。私は首を振った。

「良くない。かなり精神的に追い詰められていた。彼女達は何故か、過剰に責任を感じている」

「無理も有りません」

「ああ。解決出来るのは時間だけだろう。定期的に様子を見に行こうと思う」

「それが良いでしょう」

 土砂を登って、私は彼女の隣まで行った。事故現場となった演奏会会場が見渡せる。その裏手にそびえる崖と、広がる森も。

 元々は妖夢の見事な技によって整えられていたのだが、今はもう見る影も無い。見渡す限りの敷地は全て土砂で埋まっており、演奏会会場だった事実をにおわせるのは、土の中からはみ出ているステージの残骸くらいだ。妖夢が一生懸命刈り込んだ植木も、小傘が徹夜で作った巨大なホルンのオブジェも、最早何処にも見当たらない。全てが土の下となっている。それを掘り返そうと、幾つもの人影が捜索にあたっていた。

 作業員として捜索に従事しているのは、なにも河童や命蓮寺だけではない。白狼天狗達や永遠亭の兎妖怪、神霊廟の道士達やいつぞやの六尾狐の眷属など、多岐に渡る。紅魔館の妖精メイド達はまあ、邪魔しかしていないが。人間からも志願はあったのだが、場所が場所だけに断った。

 また、作業従事者は他にもいる。私の掘っ立て小屋では青娥が出来得る限りのエンバーミングを行ってくれているし、永遠亭では怪我人の治療も行ってくれているのだ。

 作業場の隅では、霊夢が火を焚いて祈祷をしている。地鎮の祈祷だろうか、いつになく暗い顔で。その隣には早苗が座って、ぼうっと火を眺めていた。まだ若い少女達には凄惨すぎる現場である、衝撃で正体を失くしているのだろう

 星は手にしたショベルを大地に突き刺し、掘り起こした土を傍に盛った。

 毘沙門天代理自ら、遺体の捜索を買って出ている。

「すまんな。任せてしまって」

「いいえ。私には私の責務があるように、貴女には貴女の果たすべき役割があるのです。ただそれだけの事」

 語りながら、彼女は衣が汚れるのにも構わず、土を掘った。慣れた手付きだった。当然だ、何千何万と繰り返した動作だ。彼女がゆったりと大地を抉る様は、ティツィアーノの宗教画のように美しく荘厳で、しかし何処か陰がある。私はその姿を見るのが好きで、そして嫌いだった。

「思い出しますね、ナズーリン。あの頃を。よく二人で土を掘り返したものです」

「ああ……」

 今ほど防災技術が発達していなかった頃、大風が吹く度に川が溢れ、多くの死者を出した。飢饉もあった。疫病も流行った。不毛な戦争もあった。命蓮寺に残った私と星は、数え切れない程の死者を二人で葬ってきた。土を掘り返し、遺体を焼き、骨を埋め、墓を建てる。遺体を狙う獣を追い払い、盗掘を企む人間達を防ぎ、人々に仇なす妖共を退治してまわったあの頃。たった二人の戦い、遠い思い出。

「悲劇は絶えませんが、今は仲間達がいます。心強い事です」

 事故現場では、命蓮寺の面々がショベル片手に土を掘り返している。聖、村紗、一輪、ぬえにこころまでいる。あの時とは違う。

「私は私の役割を果たさなければならん。星、ここを頼むよ」

「ええ。任せて下さい」

 穏やかな星の視線を背にして、私は事故現場となった会場の中央へと歩みを進めた。

 ふと、上の方から下卑た眩い光が連続する。

 見上げると、烏天狗達がベルベットの空を大きく旋回していた。恐らく新聞記者達なのだろう、カメラを地上に向けて飛翔しながら撮影をしている。その様は、死骸に群がる腐肉喰いの烏そのもの。人妖への情報の拡散、彼女達がそれに一役買っている事を理性では理解しているのだが……青い価値観から来るこの嫌悪感が、私の胸の内から沸々とこみ上げてくる。自然と足が早まった。

「ヤマメ」

 仮設テントの下で地図と睨めっこしていた土蜘蛛の黒谷ヤマメは、私を見つけると朗らかに笑った。

「おお、ナズーリン。ご苦労様」

 事故発生の連絡があった後、私はすぐさまヤマメを地上へと召喚した。土木建築に優れた彼女の力が必要だったからだ。ヤマメには現在、遺体捜索の総指揮を執ってもらっている。

 ヤマメの服は泥だらけで、顔には汗が噴き出していた。疲れているのか、簡素な椅子への腰掛け方が深い。現場主義のヤマメの事だ、きっと今の今まで作業をしていたのだろう。

「どうした、地図に何かあるのか」

 私が問いかけると、ヤマメは団扇で顔を仰ぎながら浮かない顔をした。

「ん。地盤の緩そうな部分がないか探していたんだよ。二次災害は怖いからね。しかし……」

「歯切れが悪いな」

「歯切れ悪いのも当然ですよ」

 振り返った私は、眉をひそめた。

 いつの間にか、背後に射命丸文が立っていた。古風な頭襟とハイカラなミニスカート、いつもの天狗装束である。が、顔色はいつものにやけ面ではない。暗い瞳が深く光る、ツンドラみたいな顔をしている。

 そうか。天狗にも被害者が出たのだ。流石の射命丸も、その事実を前にしてにやけている訳にはいかないらしい。

「何故、当然なんだ?」

 私の問いに、射命丸はやれやれと首を振った。

「知らないのですか? このライブ会場は我々天狗によって警備されていたのです。妖怪の山で行われるイベントで人間に怪我をさせたとあっては、天狗の名折れですからね」

「だが、被害は出てしまった」

「なぜ事故が起こったのか、分からないんだ」ヤマメが口を挟む。「この地図、そして実際に測量した情報から判断するに、この辺りの地盤はかなり強固なはず。事件当夜には雨も降っていなかった。そうそう土砂崩れが起きるなんて考えられない」

「当然、我々天狗も調査していました」射命丸はヤマメの言葉を継ぐ。「でなければ、こんな場所に会場を造ったりしませんからね」

「本当に何も兆候は無かったのか?」

「一つ」文花帖をめくりながら射命丸は言う。「土砂崩れが発生したのは、此処よりも標高の高い、丁度一本杉のある場所です。土砂はそこから山を下り、あのステージ裏あたりにある崖を下って会場に直撃したようなのですが……」

 つまり、土砂崩れは結構な距離を移動したわけである。音や振動も小さくなかっただろうが、演奏会の人間は気づかなかったようだ。演奏会の騒音がかき消してしまったのだろうか。

「白狼天狗からの報告によると、その一本杉のあたりで事故発生の時間帯に局所的なごく小規模の地震が観測されたようです。土砂崩れとの関連は不明ですが」

「地震……」

 それが直接の原因なのだろうか。

「私は今、土砂崩れが起こった原因を調査しています。ナズーリンさん、何か分かったら、そちらにも情報をお伝えしましょう。その代わり、貴女からもこちらへ情報を流して欲しい。ギブアンドテイクという奴です」

 あの射命丸が始めから下手に出るとは、天狗達の方もかなり混乱しているようだ。

 少しでも情報が欲しいのはこちらも同じである。私は頷いた。

「いいだろう。こちらも二次災害を防ぐ為に情報が欲しい。定期的に連絡を取り合おう」

 射命丸は頷くと、また上空に消えていった。いつもより事務的で簡素なやり取り。相当、参っているようだ。あの射命丸にも人並みの感情があったのかなどと、なぜか妙に感心してしまった。

「それよりも、ナズーリン。次のダウジングを頼む」

「ああ。そのために来たんだ」

 ヤマメから差し出された地図の上でペンデュラム・エンシェントエディションをかざして集中する。反応があった場所に印をつけてゆくと、五分ほどで地図は一杯になってしまった。

「ご苦労さん」ヤマメは印だらけの地図を見て顔をしかめた。「こりゃ、駄目だな。もう何回かダウジングしてもらわないとならないかもしれないね」

「あと、燐を呼んである」私はペンデュラムを服の中にしまった。「そろそろ着くはずだ。彼女は死体と話せる。燐の助言も参考にしてくれ」

「あのさとりのとこの地獄猫か。なるほどね」

「すまんが、私は調査したいことがある。手が空き次第、手伝いに来る」

「ああ。こっちは任せときな」

 口を開けてヤマメは笑う。顔は明るいが、いつもより口数が少ないのは仕方がなかった。

 テントの外に出ると、ステージの残骸の前に見覚えのある赤い服が立ち尽くしているのが見えた。

「リリカ!」

 慌てて駆け寄る。

 振り向いたリリカの悲壮な瞳が私を射抜いた。リリカは右目に白い包帯を巻き、左腕を吊っていた。話には聞いていたが、実際に傷跡の残るその姿を目の当たりにすると、胸が痛んだ。

「永遠亭に入院していたんじゃないのか、土砂に巻き込まれたと聞いたぞ」

 まさか、抜け出して来たのだろうか。

「ナズーリン……」

 私を見るなり、リリカは目に涙を溜めた。

 リリカもまた、心に大きな傷を負っていたのである。

「今は事故の事は考えるな。永遠亭でゆっくり休んでいるんだ」

「いないのよ……」

 私の胸に縋りついて、リリカは泣いた。

「あいつがいないの!」

「あいつ? ……まさか」

 あのメルランファンの少年の事か?

「いつもの時間に行ったのに、あいつ、来てないのよ。まさか、この事故に巻き込まれたんじゃあ……」

 混乱しているのか、リリカは私にしがみついて体を震わせている。

 私はリリカの頭をそっと撫ぜた。

「大丈夫だ。きっとこの事件があったから、親から出歩くのを禁止されただけだろう」

「本当に?」

「あまり悪い方向に考えては駄目だ、リリカ。今は傷を癒すことだけを……」

 その瞬間、視界の端から何かが飛来するのが見えた。

 私はリリカを抱いたまま、横っ飛びに逃れた。私たちがいたその場所に、赤い札が突き刺さるのが見える。

 その札に描かれた紋章には見覚えがあった。

「駄目ですよ!」

 鬼気迫る霊圧の向こう側から走ってくるのは、早苗である。

 早苗はそのまま、退魔の札を放った存在、即ち博麗霊夢を後ろから羽交い絞めにした。

「霊夢さん、それは駄目です、いけません!」

「放しなさい!」

 霊夢は簡単にそれを振りほどくと、私のほうを睨んだ。

 私はリリカを体の後ろに隠して、霊夢に相対した。

「なんのつもりだ、霊夢」

「なんのつもりですって? 決まってるでしょう……」

 涙の跡が残る目尻を吊り上げるその表情。普段のだらけた姿からは想像もできないほど、刃金のように鋭い顔つきをしている。

 霊夢は御幣を私の胸元へと突き付けた。

「この異変の元凶を退治しに来たのよ。さあ、その騒霊をこっちへ渡しなさい」

「異変だと? それは違う、霊夢。これは事故だ」

「違わないわ。人が死んだ。たくさん、人が死んだわ。これが異変でなくて、何が異変だと言うの!」

「リリカを殺した所で何も変わらん」

「変わるわ。それでこの異変は終わる」

「馬鹿を言うな。君にとっての異変解決は妖怪に八つ当たりをすることなのか。見ろ! この事故現場を。君のちっぽけな復讐心を満足させた所で、死んだ人間は生き返らない。君の言う『異変』は終わらないんだ」

 私の言葉に、霊夢は唇を噛んだ。

 その隙を突いて、早苗が霊夢の手から御幣を叩き落とした。

「そうですよ、霊夢さん! そんなの誰も望んでません。これは事故なんです。天狗にも河童にも被害が出たんです。被害者の捜索に当ってくれているのは妖怪達なんです。今ここで仲違いしたって、何も良い事無いんです!」

「なら、どうしろって言うのよ! こんなに人が死んで……、私は博麗の巫女なのに……!」

 その両目から涙が零れた。

「う、うう……」

 霊夢が声を殺して泣いている。

 普段のおちゃらけた姿しか知らない私にとっては意外だが、霊夢は博麗の巫女としての責任を感じていたようだ。それだけに、この事件が重圧としてのしかかっているのだろう。若い霊夢の心はそれに耐えきれず、悲鳴を上げているのだ。

「顔を上げろ。今、この時こそ君が必要とされる時だろう。君は博麗の巫女だ。事故が起こって人間たちは不安になっている。君が勇気づけてやらなければ」

 私の言葉に、霊夢は膝を突いて泣き崩れた。霊夢自身も自分の行為を不毛だと感じていたに違いない。ただ、行き場の無い感情が拳を振り上げさせただけなのだ。

 うずくまる霊夢に早苗が駆け寄り、そっと肩を抱いている。あの台風娘も存外芯は強いらしい。

「リリカ、怪我はないか?」

 私は振り返って、リリカが居なくなっていることに気付いた。

「何処へ……」

 もしや、少年を探しに人里へ降りたのだろうか。

 

 

 すでに陽が傾き始めている。

 秋の日は釣瓶落としと言うけれど、今はこの日の短さが恨めしい。ルナサは夜が来ることを恐れていた。暗闇の中に一人でいれば、どうしたって昨日の出来事を思い出してしまうから。

 恐ろしい土砂の激流が猛烈な勢いで迫ったあの時、あの瞬間。瞼の裏に焼き付いて離れない。耳の奥には全てを飲み込む土砂の轟音がいまだ渦巻いている。あの時鳴り響いたあの音も、それが途切れゆく様も。

 午後になってから、空を覆っていた雲は少しずつ晴れ始めていた。窓辺で沈みゆく太陽を見つめていたルナサは、メルランの世話をする時間だと思い立った。メルランは事故のショックで廃人同様になってしまっている。ルナサが面倒を見てやらなければならない。正直に言えば、独りでいるのが辛いというのもあった。

 ナズーリンが差し入れてくれた水梨をキッチンで剥いて皿に盛り、永遠亭にて処方された抗鬱薬と水差しとをトレイに載せて、二階に上がった。

 相変わらず返事の無いノックの後、ルナサはメルランの部屋のドアを開いた。

 メルランは、自室に居なかった。

 見慣れた妹の部屋の中で、メルランの姿だけがぽっかりと消えている。

 動揺したルナサは、自らの顔を撫ぜた。あの状態で、メルランは何処へ行ったのだろうか。

 慌ててルナサは屋敷中を探し回ったが、メルランの姿は無かった。

 ふと思い出す。そういえば、ナズーリンが探し出してくれたメルランのトランペット、机の上に置いたはずのそれが消えていた。付いていたマスコットも。

 ルナサは知っていた。メルランが精神的な弱さを抱えている事を。演奏会の度にプレッシャーに悩まされている事も、メルランがリリカの才能に嫉妬していた事も。そしてそれを、あの少年が支えてくれた事も。メルランのトランペットに付いている、プリズムリバー三姉妹の姿を模したマスコットは、あの少年が作ってメルランに贈ったもの。メルランのファンだというあの少年は、悩むメルランを励まし続けてくれたのだ。

 もしかして、メルランはあの少年に会いに行ったのではないか。

 そう考えたルナサは、急いで支度をして屋敷を飛び出した。

 霧の湖から伸びる川を下り、里へと向かう。ぐずぐずしていると陽が落ちてしまう。ルナサは早足でメルランの姿を探した。

 埃っぽい風が舞う。

 里は不気味なほど静まり返っていた。人通りはほとんど無く、たまに見かける人影もそそくさと早足で過ぎ去ってしまう。日暮れが近いとは言え、普段の活気を考えれば異常である。

 人間達は怯えているのだ。頻発する謎の神隠しに加え、今回の事故である。当然と言えば当然だった。

「教えてよ! 減るもんじゃないでしょ!」

 ふと、通りの向こうから聞き覚えのある声が響いてきた。

「い、いや、だから。私は知らないしぃ」

「ケチな奴ね! このケチばんき!」

「変なアダ名付けないでよぉ」

 リリカである。

 リリカは赤髪マントの少女を掴みかからんばかりの勢いで問い詰めていた。

 土砂に巻き込まれ永遠亭に入院していたはずだが、どうやら抜け出して来たようだ。顔に巻かれた包帯と吊るした腕が痛々しい。その割に元気いっぱい、赤マントの少女に食って掛かっている。

「ナズーリンから聞いたわよ! 人里の噂話に詳しいんでしょ、教えなさいよ!」

「いた、いたた! 髪引っ張らないでよぉ」

 とうとう本当に掴み掛かり始めたので、ルナサは慌てて止めに入った。

「ちょ、ちょっとリリカ、やめなさいよ! そこの人、ごめんなさい、妹が失礼しました」

 力ずくで引っぺがすと、赤マントの少女は尻もちをついて小さく悲鳴を上げた。

「ルナサ姉さん……!」

 リリカはルナサを見ると泣き出してしまった。

「どうしたの、リリカ」

「姉さん、あいつがいないの、いないのよ!」

「あいつ? もしかして、あのトランペットの少年のこと?」

 リリカは最近、件の少年にトランペットの吹き方を教えてやっていたのだった。

 どうやらリリカはあの少年が事故に巻き込まれたのだと心配しているらしい。

「リリカ、冷静になって。あの子が昨日のライブに来ているわけないわ。いつも無料のライブのときにしか来なかったじゃない」

「そ、そうなの? ……よかった」

 リリカは安堵して胸を撫で下ろした。

「そうよ。安心なさい。それより、メルランが居ないのよ。人里に来ていると思ったんだけど……」

 件の少年に会いに来ていると思ったのだが、考えてみれば、ルナサも少年の家を知らない。

「そこの貴女、私の妹を見かけませんでしたか? メルラン・プリズムリバーです。白い服を来て、金色のトランペットを持っているんだけれど」

「いや。見てないしぃ。それより謝ってほしいしぃ」

 赤マントの少女は涙目で首を振った。

「なら、銀色のトランペットを持った少年は」

「トランペット? そんなハイカラな楽器持ってるの、あんた達くらいだしぃ」

「んもう、使えない奴ね!」リリカが暴れるので、ルナサは羽交い締めにして止めた。「何が人里の情報通よ!」

「な、なんでそんなこと言われなきゃいけないのよぉ…‥」

 どうやら、赤マントの少女も知らないようだ。

 探すしかない。

 と言っても、里全てを当たっていたら時間がいくらあっても足りない。

「ナズーリンに頼むしかないわね。リリカ、ナズーリンは何処にいるか、知ってる?」

「少し前、山で会ったわ」

「山、ね……」

 もう一度事故現場に行く事、ルナサは気乗りしなかったが、行くしかなかった。

 

 

「赤蛮奇じゃないか」

「げぇッ、小鼠!」

 里に下りると、街道で赤蛮奇を見かけた。赤蛮奇は私と目が合うと眉をひそめた。なんだか良い印象を持たれていないようだな。

「丁度良かった。赤蛮奇、リリカ・プリズムリバーを見かけなかったか? 君なら知っているだろう、プリズムリバー音楽団の末っ子で、赤いドレスと流星のシンボルがトレードマークの」

「知ってるわよ! もうっ」

「……なんで怒ってるんだ?」

 赤蛮奇は腕を延ばすと、妖怪の山を指差した。

「妖怪の山に行くってさ。黒い方のお姉さんと一緒に、あんたを探してたみたい」

「私を?」

 参ったな。どうやら入れ違いになったらしい。

「早く行ったほうがいいんじゃない? なんか、もう一人のお姉さんがいなくなったって言ってたし」

「メルランが?」

 廃人寸前だったメルランが何処かへ行ってしまったのか。彼女を見つける為に、ルナサは私を探していたのだろう。

 陽も傾いて来た。そうとなったら、急いで山に戻らなければ。

「私はそれ以上何も知らないから。それじゃ」

 赤蛮奇は私に背を向けて歩いて行こうとしたが、私はその手を掴んだ。

「な、なによぉ」

「赤蛮奇、どうしたんだ。足に包帯を巻いて」

 赤蛮奇は左足に包帯を巻いていた。よく見ると、少し足を引きずっている。

「怪我したのよ、その……」言い難そうに口ごもっていたが、私が促すとしぶしぶ言葉を発した。「昨日、さ」

「まさか、演奏会に行ったのか?」

「うん……」

 私は言葉に詰まってしまった。

「よく、無事だったな」

「私は運良く土砂崩れのコースから逸れていたから。でも、逃げる途中で飛んできた岩にぶつかっちゃってね」語る赤蛮奇の表情は、暗い。「本当、運が良かったんだ。後ろの方にいたから、なんとか正気にも戻れたし……あはは、安い席しか取れなかったのが、逆に幸運だったってワケ」

 そう言って、乾いた笑い声を上げる。

 ……今、彼女はなんと言った?

 嫌な予感が頭を過る。

「……赤蛮奇。正気とはなんだ? 演奏会の最中に、何かあったのか?」

 震える声を抑えて、私は問うた。本当は答えを聞きたくなかったが、問わずにいられなかった。

 赤蛮奇はしまったという顔をして私から視線を外すと、体を揺らした。しかし、私の視線から逃れられないと感じたのか、しばらく躊躇った後、ゆっくりと話し始めた。いつになく重い声色だった。

「……あんた、どうせ今回の事件も調べてるんでしょ。きっと、あのプリズムリバー三姉妹の依頼でさ」

「そうだ」

「私は彼女達を恨んでないし。土砂崩れが起きたのは彼女たちのせいじゃないと思うし、これはある意味、演奏会の定番だったんだし。みんな知ってたし、それを楽しんでもいたし。本当はこんな事言いたくないし」

「だから、なんだ」

「不可抗力なんだし。仕方なかったんだし。全部、運が悪かっただけだし。誰も悪くないのは分かってるし……」

「何があったんだ!」

 赤蛮奇の胸ぐらを掴むと、彼女はぎこちなく唇を動かした。

「土砂崩れが襲った瞬間の曲目は、メルラン・プリズムリバーの独奏パートだったのよ。知ってるでしょ? 彼女の音色は。みんなハイになっちゃって……土砂崩れが迫っても避難出来なかったんだよ」

 な、なんて事だ……。

「それが……あの被害規模の理由か!」

 だから生存者達の証言が、一様に要領を得なかったのか。

 だからプリズムリバー三姉妹は、過剰なまでに責任を感じていたのか。

 土砂崩れが起こったのは事故に違いないが……それを人災が拡大していたとは。

「私は本当に運が良かったの。土砂が迫った時、音が聞こえて……それが雑音になって、躁のメロディが少し弱まったの。だから、後ろのほうに居た私は、逃げることが出来たのよ」

「音が聞こえただって?」

「うん。ステージの裏手の崖の方から……誰か、あそこに居たんだ」

 それが、ルナサの言っていた「最後の瞬間の音」の正体……。

 空は既に茜色に染まっている。

 私は走っていた。

 ペンデュラム・ダウジングが示したメルランの居場所、すなわち、事故現場である演奏会会場、その裏手にそびえる崖の上へと。

『まだ耳に残ってる、あの音が途切れる瞬間』

 赤蛮奇の言葉が、耳の中で反響を繰り返している。

『きっと、土砂に呑まれるその瞬間まで演奏していたんだ』

 メルラン。

『あの曲……私も知っている曲。「二度目の風葬」』

 まさか、気づいていたのか。

『ぎこちない音だったけど、あの音は、そう……トランペットの音色だった』

 崖の上で演奏していたのは……。

「メルラン!」

 崖上、土砂崩れの傷跡が刻まれたこの地。夕日に赤く染まる。

 大きな岩の前に、メルランは跪いていた。

 その両手の爪は剥がれ、指先の皮膚は破れ、流れ出した血で赤く染まっている。手で土を掻き分けたのだろう。岩の前には大きな穴が出来ている。まるで墓穴のように。

 動悸が早まるのを感じる。

「ナズーリン……」

 メルランの平坦な声が響く。彼女は振り返らなかった。じっと何かを見つめている。何かを。彼女は何かを手にしていた。

 途切れた風の残響だけが、耳鳴りのように木霊している。気が狂いそうな程の静寂。

 意を決し、私は彼女へ近づいた。

 メルランは泥だらけで、トランペットを手にしていた。

 そのトランペットには、もう一本の手が添えられていた。メルランと二人、支え合うようにして。

 視線がたどる、もう一本の腕の先。

 それは、大地だった。

 腕は地面から伸びていたのだ。土と汚水と血と肉と脳漿が混じり合った地面の中から。

 それを見慣れた私でさえも、思わず口元に手をやり、一歩後ずさりした。

 一見しただけでは、それが元々人間であったのだと認識する事は出来なかった。砕けた白い骨と赤紫色の肉片が土と混ざり合い、気味の悪い色をした土塊となっている。血で湿り気を帯びたそれは鼻の曲がるような悪臭を放ち、暮れなずむ空から差し込む赤光で紅く紅く彩られていた。

 絶望色をした墓穴の中で、トランペットだけが奇跡のように銀色に輝いている。

「ナズーリン! それに姉さんも」

 静寂を破るそ声に私の心臓は数秒鼓動を止めた。

 それは今、最も聞きたくない声だった。

「リ、リリカ……」

 響いたリリカの声、まさに悪夢と言う他無い。

 リリカとルナサが、手を振りながらこちらへ向かって来た。

「リリカ、駄目だ、来るな!」

 私は必死に声を絞り出して止めようとしたが、その行為をあざ笑うかのように、メルランが振り返ってしまった。

「リリカ……ごめんね……」

「姉さん、ど、どうしたの……?」

 最初、リリカとルナサはメルランのただならぬ様子に驚いたようだが、メルランの持つ銀色のトランペットに千切れた人間の腕がぶら下がっていることに気付いて、息を飲んだ。

「誰か、死んでるの……?」

 風が吹いた。

 トランペットに付いていた三姉妹のマスコットが揺れて、ちぎれて、地面に落ちた。

「あ、ああ……」

 気付いたのだろう。

 リリカは両手で頭を抱え、絹を裂く悲鳴を上げた。

 ルナサは顔面を蒼白にして、体を小刻みに震わせた。

 駆け寄ろうとしたのか、リリカは転んだ。土の中をもがいて、もがいて、泥だらけになりながら、涙を流して叫んだ。

「なんでよ! なんで! なんであいつがここにいるのよ!」

「リリカ……」

「ルナサ姉さんの嘘つき! あいつは絶対来てないって、そう言ってたじゃない! なのに……なんで、なんでなのよ!」

「リリカ、リリカ……」

 ルナサは顔を背け、暴れるリリカを必死で押さえていた。

 阿鼻叫喚の地獄絵図の中。一人、メルランだけは呆けたように表情を失くしていた。

「なんでよ! なんでメルラン姉さんはそんなに平気な顔してられるのよ!」

「リリカ、やめて……」

「あんなにメルラン姉さんのこと慕ってたじゃない! なのに……! なんでなのよーっ!」

 リリカの絶叫に、メルランは静かに口を開いた。

「なんでだろうね。私にも分からないの」

 悲しい顔で、にっこりと微笑んで。

 その瞬間、リリカはルナサをはねのけると、猛烈な勢いでメルランに駆け寄り、その頬をはたいた。

 パアン。

 大きな音が響いて、メルランの頬の上でリリカの涙が弾けた。

 私が止めに入る間もなかった。

「姉さんがあんな曲弾かなければ、こんな事にはならなかったのよ! たくさん人が死んで……あいつも死んで……みんなみんな、姉さんのせいよ!」

「やめろ、リリカ!」

 我に返った私がリリカを引き離すと、メルランがすっくと立ち上がった。

「リリカ。私、壊れちゃったのかな。全然涙が出ないの」メルランはへらへらと不気味な薄ら笑いを浮かべながら、至極楽しげに唇を動かしていた。「いや……もしかしたら私、最初から壊れてたのかもしれない。そうよ。最初から壊れちゃってれば、こんな思いをせずに済んだんだわ……」

 笑いながら、メルランは森の中へふらふらと消えて行ってしまった。

 残された銀色のトランペットを抱いて、リリカは泣きじゃくっていた。

「な、ナズーリン……何があったんだい、一体」

 悲鳴を聞いて駆けつけたのだろう、ヤマメが眉をひそめて立ち尽くしていた。泣きじゃくるリリカと、地面に座り込んで頭を抱えるルナサに、術無く立ち尽くす私。ヤマメがうろたえるのも当然の光景だった。

 私はヤマメの方に振り返って、出来るだけ平静な声を出した。

「ヤマメ。もうすぐ日が暮れる。今日はこれまでだろう。撤収にかかってくれ」

「あ、ああ……そうだね」

 作業現場にはまだたくさんの妖怪達が作業をしていた。彼らの働きは素晴らしく、私が今日ダウジングしたすべての遺体を回収してくれていた。

 私達はリリカを仮設テントまで運んだ。元々、怪我をしていたこともあり、リリカは備え付けられたベッドの上で昏倒してしまった。

 ヤマメは撤収指示を出すべく出ていったので、テントの中には私達三人が残されていた。

 比較的平静を保っていたルナサは、リリカの眠るベッドの端に腰掛け、私にぽつりと漏らした。

「メルランはね。弱い子なの。いつも力の使い道を誤っていた。重圧に負けそうになった時、自分自身にも躁の魔法を掛けていたのよ」

「自分、自身にも……」

「いつもの事なのよ。私達は知っていた。何度も止めたけど、メルランはやめることが出来なくて……」

 少年もそれを知っていたのだ。

 だからあれほど、メルランを心配していたのだろう。

 だから少年は、危険な妖怪の山まで一人でやって来たのだ。

「リリカ、頑張ってメルランを超えようとしていたでしょ。あれはいざという時、私達がメルランを止めなければならなかったからよ」

「あの演奏勝負には、そんな意味があったのか……」

 こくりとルナサは頷いた。

「でも、駄目だった。メルランは私達姉妹の中で最強の魔法力を持っているの。私とリリカが束になってかかっても敵わないくらいの。昨日、あの瞬間も……私もリリカも、もちろんメルラン自身も、メルランの魔法の暴走を止めようとして失敗した。あの子がトランペットを吹いて邪魔してくれなかったら、被害はもっともっと拡大していた……」

 ルナサは立ち上がった。

「ナズーリン。リリカをお願い」

「君は?」

「メルランを一人にしておくわけにはいかない。姉の私が迎えに行ってあげなきゃ……」

 強い意志に満ちた顔でそう言うと、ルナサはテントを後にした。ルナサは、強かった。

 少し、息を吐く。

 地図を見返してみると、どうやら天狗達の警備は会場周辺の狭い範囲に限られていたらしい。それをどうにかして知った少年は、会場を見渡せるあの崖の上から、演奏会を覗いていたのだろう。

 馬鹿な奴だ。そんな危険な事をして……。

 私は銀色のトランペットを手にとった。

 その表面には幾つもの細かな傷跡が付いていて、輝きは鈍い。

「出世払いしてくれるんじゃなかったのかよ、馬鹿野郎……」

 あの生意気な少年が死んだ事、未だ幻想のように思えた。

 溜め息を一つ吐いて、私は立ち上りテントを出た。気が滅入っていたので、体を動かしたかった。撤収作業を手伝おうと思ったのだ。

 命蓮寺の面々は、皆一様に疲れた顔をしていた。彼女達もこれだけ大きな災害に当たった事が無かったのだ。

「皆、ありがとう。現場の夜警は白狼天狗が買って出てくれた。今日は撤収しよう」

 声をかけても、うめき声にも似た声が上がるばかりだった。

 私は現場に置かれたショベルや鋤、スコップなどを拾い集め、テントに納めた。また明日も使う事になるのだろう。その明日も、そのまた明日も、その次の日にも。

 掘り出された遺体を筵で包んで、仮設テントの下に並べてゆく。明日には里の人間達に見せて、身元の特定を行わなければならない。今が秋だとは言え、遺体をそのままにしておけば病が流行るかもしれない。出来るだけ早い内に焼くか埋めるかしなければならないのだ。遺留品も重要なので、失くさぬように一緒に並べる。ぐちゃぐちゃになって原型を留めていない遺体も多い。身元の特定は遺留品に頼ることになるだろう。これからの作業を思うと、頭痛がしてくる。

「ナズーリン……」

「星か」

 もう日もすっかり暮れてしまった頃。篝火の下で少し休憩していた私の元へ、星がやって来た。

 星は泥だらけで汗塗れの酷い姿だが、その顔は穏やかで、清らかな光背を負っていた。星が居てくれてよかった、心からそう思う。

「プリズムリバー三姉妹の事、聞きました。大切な人が亡くなったと」

「うん……」

 星はそれ以上何も言わず、私の隣に座った。

 じっと篝火を見つめている。

 まるであの頃と同じだ。

「なあ、星」言葉が口を突いて出た。「人がさ、自分の死が迫ったその時に。自分以外の誰かの為に何かをするっていうのは、やっぱり尊い事なのかな」

「自己犠牲、ですか」

「うん……」

 あの少年は土砂に巻き込まれる直前、何故トランペットを吹いていたのか。

 きっと、メルランの躁のメロディを止める為だったのだ。

 自分の背後にも土砂が迫っているというのに、会場にいた人々を救うために。

 それはきっと、すごい事なのだと思う。

 だが一方で、こうも思うのだ。

 君を愛する人々の為に、せめて君だけでも逃げてくれていればよかったのに、と。

「私にはどうしても分からないんだ。どうして人間がそんなことをするのか」

 星はくすりと笑みを漏らした。

「何が可笑しいんだい?」

「ナズーリンは、おかしな人ですね。そんな事も分からないなんて」

「悪かったな」

「ねえ、ナズーリン。私達も過去に何度も死線の縁に立ったことがありましたね。聖が封印されたあの時はもちろん、野盗に襲われた時、戦に巻き込まれた時、凶悪な妖怪と戦った時」

 そんな事もあったな。

「その度に貴女は、その身を挺して戦ってくれました。時には私を庇って傷ついた事もありましたね」

「君だってそうだろ」

「でもそれって、同じ事じゃないですか」

「私は無我夢中だっただけさ。誰かを救おうだとか、自己犠牲だとか。そんな高尚な事、考えちゃいない。ただ、君を死なすわけにはいかない、そう思っただけさ」

 星は頷いた。

「私も同じです。ね? だからきっと、みんな同じなんですよ」

 ……そう、か。

 あの時、あの瞬間。少年も、きっと。

「ナズーリン、撤収準備が完了したよ」ヤマメがテントから出てきた。「みんなに解散を告げてきた。あんたも早く休みな」

「そうだな。ヤマメ、今日は命蓮寺に泊まるといい。いいだろう、星?」

「もちろんですよ」

「おっ、本当かい。助かったよ、テントのうっすい寝袋で寝ることになると思ってたからさあ」

 まあ、命蓮寺の布団も薄いのだがな。

「私はリリカが目覚めてから戻る。先に行ってくれ」

 命蓮寺勢とヤマメを送り出して、私はリリカの眠るテントに入った。

 リリカは既に目覚めていて、銀色のトランペットを食い入るように見つめていた。

「リリカ……」

「姉さん達は……?」

 問を発しても、リリカは視線を動かさない。私が首を振ったのも見ていないだろう。

「まだ連絡は無い。なに、心配は要らない。私も後で探す。リリカ、今日は命蓮寺に泊まっていけよ。響子も喜ぶ」

 リリカは無反応だった。

 仕方なくリリカを背負おうと手を差し伸べると、リリカはその手を力なく払いのけた。

「自分で歩けるから……」

 里へと続く山道をリリカと二人、歩く。押し黙って。

 天上には既に丸い月が黄金色に輝いている。

 暗くなっても、川縁には篝火が焚かれ、河童達が捜索作業を続けていた。河童達は一つの事に夢中になると見境がなくなってしまうのだ。だが、それだけではないのかもしれない。同胞を失った痛みを作業に熱中することで紛らわしているのだろうか。

「たくさん、死んだのね……」

 リリカが呟く。沈黙に耐えられなくなったのかもしれない。

「あいつがこれを吹かなきゃ、もっとたくさん死んでいた……」

 黄金の月を映すトランペットを見つめて。

「トランペットの音が途切れるの、私も聞いていた。あいつ、自分も危ないのに、みんなを助けるために……。あいつは英雄だわ。私にはとても、真似出来ない」

「そうかな」

「えっ……?」

 私の言葉に、リリカは眉をひそめた。

「私が知ってるあの子は、ただの馬鹿な少年だった。ぶっきらぼうで口が悪くて、女の子の扱いもなってない。女性の価値の判断基準がもっぱら胸囲ってところも馬鹿らしい。そして何より、馬鹿みたいにメルランを慕っていた。目の前に他にも魅力的な女の子がいるっていうのにさ」リリカの頭を小突いて。「英雄でもなんでもない。ただの普通の男の子だったんじゃないかな。あの子は馬鹿で、メルランが好きで、そして君たちプリズムリバー三姉妹が好きだった」

 私は立ち止まってリリカの手を取り、はずれてしまった三姉妹のマスコットをその手の中にそっと置いた。

「あの子の最後の願いは、きっと……」

 私の言葉は、驚きによって断ち切られた。

 里の入り口付近の街道から、ふらふらと宙を舞う丸い影があったのだ。

 丸い影は私達を認めると、こちらへ向かって飛んできたが、途中で地面に墜落してしまった。

「赤蛮奇か、どうした」

 慌てて駆け寄ると、首だけの赤蛮奇が大きく息をした。

「ナズーリン……」

「身体はどうしたんだ」

 赤蛮奇はかなり弱っているようだった。玉のような汗を額に浮かべている。

「里の人達が……」

「里?」

 言われて、里の方を見やる。

 夜の静寂に包まれた街並み。だが何故か、胸にちくちくと予感が走る。

 この感じ……まさか、妖気か。

「……何があった」

 持っていた水筒の水を飲ませると、赤蛮奇は少し咳き込みながら言った。

「連れ去られたのよ。みんな、あの音色に惹かれて…‥…」

「音色……」

「メルラン・プリズムリバーのトランペットよ!」

「ね、姉さんが?」

 リリカが驚愕の声を発したその時。

 山の方から、高らかなトランペットの音が響き渡った。

「な、なんだ?」

 刺すように激しく、舞うように軽やかに目まぐるしく変わるその音色。時に荒波のように掠れ、時に大きなうねりを伴い、瞬き、爆発する旋律。いや、それは旋律を超えて、何か禍々しい呪文のようにも聞こえた。その音を聞いているだけで心がかき乱され、脳細胞が死滅していくような気さえしてくる。

「こ、これは……この曲は、封印したはずの……!」

 リリカが戦慄に体を震わせた。

「メルラン、なのか……」

 赤蛮奇は頭が痛むのか、眉間に深い皺を寄せている。そういえば、私も頭痛を覚えている。この音には精神に干渉する魔法が掛けられているのだ。

「いきなり町中でトランペットを吹き始めて……そしたらみんな、操られたみたいにあいつの後についていっちゃったんだ。私は距離も遠かったし、なんとか首だけ飛ばして逃げて来られたけど……」

「ハーメルンの笛吹きか……!」

「ナズーリン、あいつ、普通じゃなかったし。目を血走らせて、髪を振り乱して……ホントの悪魔みたいな形相だった」

「メルラン姉さん……まさかまた、自分に魔法を……!」

 リリカが呟く。

 そうか。

 迂闊だった。

 演奏会の度に自分に魔法を掛けていたメルランならやりかねない。それが重圧から逃れる、彼女のお決まりの方法なのだ。

 私達はそれを予想すべきだった。

――最初から壊れちゃってれば……。

 メルランの言葉が蘇る。

 少年の死に衝撃を受けたメルランは、その心の傷から逃避するために、自分自身に魔法を掛けたのだ。自分の心を壊すために……!

 私は唇を噛んだ。

 里の人間が誘拐されたとあれば、最早、これは異変だ。

 メルランは人間を誘拐して、一体何をするつもりなのか。

「ナズーリン、早く行かないとヤバいよ、里の人達が……」

 赤蛮奇が辛そうな顔で言う。

 私は頷いた。賢将を放ち、命蓮寺へと連絡に向かわせる。

「リリカ。一緒に来てくれ。メルランを止められるのは君とルナサだけだ」

 私の言葉に、リリカは俯いた。

「無理よ……知ってるでしょ。私じゃメルラン姉さんに敵わない。たとえルナサ姉さんと力を合わせたって……」

「だが、メルランを救うにはそれしかない」

「行ったって、何も出来ないわ。メルラン姉さんの魔法力は本当に強いの。メルラン姉さんが本気になったら……逆に私達が取り込まれて、被害が拡大するだけなのよ」

 リリカの頬が打たれ、乾いた音を立てた。

 打ったのは、私だ。

「分からないのか。これは既に異変なんだ。博麗の巫女が出て来る。放っておけば、メルランは退治されるだろう。救えるのは君達だけだ」

 それでもなお、リリカは俯いたままだった。

 その手から、トランペットが滑り落ちる。

「……出来ない。私はあいつみたいにはなれないよ」

 私は滑り落ちたトランペットを拾って、土埃を払った。

「リリカ。あの子の死を無駄にしないでくれ。あの子の最期の願いを叶えてやってくれ」

「願い……?」

「確かに、君たち二人の音だけではメルランに敵わないのかもしれない。だが、三人の音ならきっと勝てる。このトランペットには、あの子の勇気と願いが詰まっているんだから」

 銀色に輝くトランペットを再びリリカの手に握らせて、私は背を向けた。

「先に行く。時間稼ぎは任せておけ」

 赤蛮奇の頭を抱え、飛翔術を使って夜空を駆けた。

 月下。

 有象無象がざわめく森の上を飛び抜ける。

 近づくにつれ凶悪さを増すメルランの音色。襲う頭痛も二次関数的に強くなってゆく。

 しかもそれだけではなかった。メルランの音色は物理的な現象となって私を阻んだ。即ち、音色に支配された妖精や有象無象共が空を飛び、襲いかかってきたのである。

 私は小傘のロッドでそれらを軽くいなした。所詮は有象無象、弾幕を張るまでもない。回転し、ジグザグの軌跡を描きながら、私達はメルランの元へと急いだ

「見えたよ、ナズーリン!」

 赤蛮奇が鋭く叫ぶ。

 予想通り、メルランは演奏会会場の中央に居た。

 ステージの残骸の上で、月に向かってトランペットを高らかに吹き鳴らしている。髪を激しく振り乱し、血走った目玉がぐるぐると回転していた。ボロボロの衣をまとったその姿は、悪鬼という他ない。半裸でくるくる踊り狂いながら一心不乱に禍々しい曲を演奏している。

 ステージの下では、目を疑う程の大群衆がメルランと同じ様に踊り狂っている。人間だけではない。事故現場を警備していた白狼天狗達も混じっていた。これほど多くの人妖を支配するなんて、メルランの魔法力の強さは誇張ではなかったようだ。老若男女問わず、そろって目は虚ろで、口からよだれを垂れ流し、地団駄を踏むように激しく踊っている。踏み鳴らされた大地が大きく揺れ、低い低い唸り声を上げた。

 この振動。まるで地震だ。

 時間を掛ければ、もう一度土砂崩れが起こるかもしれない。

「まさか、あの瞬間の再現をするつもりか」

 メルランの目的は、この群衆と一緒にもう一度土砂に呑まれる事なのか。

「無理心中なんて、悪趣味だし!」

 赤蛮奇も怒りを露わにしている。

「でもどうするの、ナズーリン。これ以上は私達も近づけないし」

 赤蛮奇がそう言った瞬間、夜空をもう一つの音が満たした。

 幽玄なるヴァイオリンの音曲。

 ルナサだ。

 破壊されたステージ上に現れたルナサは、メルランと対峙してそのヴァイオリンの音色をぶつけている。

 激しくテンポの変わるトランペット曲とは正反対に、一貫して落ち着いたテンポのヴァイオリンの音色。相反する音が混じり合い、魔法の効力が弱まったのか、頭痛が引いた。同時に、踊り狂っていた大観衆もその動きを鈍くする。

 だがメルランが不気味に微笑み腕を延ばすと、観衆がステージをよじ登り、演奏を続けるルナサに襲いかかり始めた。

「赤蛮奇、ルナサを援護してくれ! 時間を稼ぐんだ!」

 赤蛮奇の頭をルナサに向かって投げつけた。

「あんたはどうするのよぉ!」

 回転する赤蛮奇の頭を、飛び出した彼女の体がキャッチする。流石妖怪、メルランの呪縛が弱まった隙を突いて体を取り戻したようだ。

「私は……」

 夜空を切り裂く赤い光。

 大量に飛来した赤光を放つ札が、群衆達を押さえつける。

 私はメルランとの射線上に陣取ると、ロッドを回転させて札を叩き落とした。

「来たな」

 それは、異変の解決人。

 博麗霊夢である。

 その後ろには、大幣を握りしめた早苗も来ている。

「退きなさい、小鼠」

 凍れるような霊夢の声。

「悪いが、退くことは出来ない」

「これは異変よ。もう一度、あの事故を起こすわけにはいかない」私に御幣を突き付けて。「もう人が死ぬのはたくさんよ。騒霊は退治する。邪魔をするなら、あんたも退治するまで」

 相変わらず、抜き身の真剣みたいな壮絶な顔をして言う。

「君も同じ意見か、早苗」

 早苗は悲しげに首を振った。

「事ここに至っては仕方がありません。それに……」その瞳が妖しく光った。「やはり妖怪退治は、楽しいものですから」

 目が据わっている。

 早苗もやる気のようだ。覚悟を決めたのだろう。

「ニ対一、か」

「あんたごとき小鼠に、時間を掛けるつもりはない」

 霊夢は御幣を両手で構えて、全身に力を込めるように緊張させた。彼女の体が虹の帯に包まれ、光り輝くその帯はやがて体から離れ、幾つかの光球に収束を始める。ぐるぐると渦を巻く極光色の球体が、魔笛の鳴り響く夜空を傾く月よりも明るく照らした。

 博麗の巫女の奥義、夢想封印である。

 あれをまともに喰らった妖怪は骨も残らないともっぱらの噂だ。まして今のこの状況は、遊び半分の弾幕ごっこではない。霊夢はその威力に歯止めをかけていないだろう。

 早苗も黄緑色に輝く異常に密度の濃い風をその身に纏い始めている。

 こんなことなら、星から宝塔を借りておけばよかったのだが。今更後悔しても何も始まらない。

「……仕方ないな。私も奥の手を使うしかない」

「奥の手……? たかが鼠が、笑わせるわ」

 嘲笑う霊夢だが、私が懐から取り出したものを見やると、顔色が変わった。

「な、何よ、その光は」

 私が取り出したナズーリンペンデュラム・エンシェントエディションは、燃えるような赤い輝きを放っている。その光は禍々しくうねり、夜空に龍が如く浮かび上がった。禍々しき魔笛の音には、禍々しき赤き龍こそがよく似合う。

 異常を察知した霊夢は、迷うこと無く夢想封印の光球を私めがけて投げつけて来た。光球達はそれぞれ輝く光の尾を引き、複雑な軌道を描いて私へと殺到する。

 私は息を整えると、ペンデュラムに術力を送り込んだ。放たれる赤い光は、見る間に虹色の光へと変わる。

 空を撫ぜるように腕を動かせば、虹色の光の帯がはためき、夢想封印の光球に干渉して爆発した。

「それは、夢想封印! な、なぜあんたが……!」

「借り物だがね」

 どうやら、霊夢は自らの力の源を理解していないらしい。狼狽えている。

 その隙を逃す私ではない。

 急加速して霊夢の懐に飛び込んだ私は、小傘のロッドを突き出した。

 霊夢の胴を捉えたはずのロッドはしかし、不自然に空を切った。

 霊夢の体が半透明に透けている。ロッドは霊夢の体を貫通しているが、手応えが無い。

「これが夢想天生か」

 博麗の巫女のもう一つの奥義である。この時空とは別の時空に自らの体を移動して相手の攻撃を無効化する、反則に近い技だと言う。

 空振りした私の隙に、早苗が風の塊を投げつけて来るが、光の帯を翻して相殺する。

「ただの鼠じゃないと思ってはいましたけど……!」

 風の刃が連続して放たれる。

 回避運動を行うも、私の速度では早苗の本気の攻撃を全て避けきる事は難しい。光の帯で防御出来なければやられていたところだ。三つ、四つ、五つ……神気に満ち溢れた風と光の帯がせめぎあい、数え切れないほどの爆発が夜空を彩る。

 爆光の合間を縫って突撃してくる霊夢と早苗を光の帯で牽制しつつ、私は空の彼方に目をやった。

「慌てるな。パーティの主役は私達じゃあない。ホレ、主役が来たぞ」

 有象無象が飛び交う、恐るべき魔の森の上。

 一筋の流星が天駆ける。

 

 

 メルランは完全に狂っていた。

 その絶大な魔法力を己自身に向けたメルランは、完全に心を砕き、自我を捨て去っていたのだ。実の姉であるルナサに向かって、殺気の篭った弾幕を展開している。

 ルナサはヴァイオリンを奏でつつ、その弾幕を相殺することに努めていた。だが、生来の実力差に加え、今のメルランには容赦が無い。自らの使役する人間達が巻き込まれようとお構いなしの攻撃をしてくる。実は妖怪だったらしい赤マントの少女も加勢して、二人で防御をしているが、限界が近い。赤マントの少女は息切れし、ルナサも疲労を覚え始めていた。

 加えて、メルランの演奏は時間が経つ毎に強力になっていった。締め付けるような頭痛がルナサの動きを鈍くする。一瞬でも気を抜けば、ルナサも使役される側に回ってしまうだろう。

 上空のナズーリンも巫女二人の相手に手一杯で、こちらに加勢出来そうになかった。

「メルラン……! 冷静になって、正気に戻って!」

 いくら呼びかけても、メルランは反応すらしない。

 この状況。

 諦めが、ルナサの頭を過ぎった。

 これ以上、妹の為に人間を傷つけてはならない。この上は刺し違えてでもメルランを止めなければならない。

 ルナサが悲痛な覚悟を決めかけていたその時、空から一筋の流星が降り注ぎ、メルランとルナサの間に降り立った。

「リリカ!」

 リリカは隻眼でメルランを睨みつけると、手にした銀色のトランペットを掲げた。そのトランペットには、三姉妹のマスコットが再び結び付けられていた。

 それを見やったメルランは、ぴたりと動きを止めた。が、魔法力によって生み出されている魔曲は止まることはない。

「メルラン姉さん。あいつは死んだわ。もう二度と帰って来ない。姉さんを支えてくれたあの子はもういないの。こんな事したって、なんにもならないわ」

 今にも泣き出しそうな、しかし凛として強さを持った声で。

「私達は受け入れなきゃいけないんだわ。私達があいつを殺したんだ。私達が弱かったから……!」

 メルランは恐ろしい唸り声を上げると、リリカに向かってレーザーを放った。ぐにゃりと曲がるレーザーは、リリカに当たる直前で赤マントの少女に弾かれ、地を焦がす。

「姉さん、もうやめましょう。私達は変わらなきゃならないんだわ。もっと強く……あいつに笑われないように」

 メルランは構わず、レーザーを発し続けている。

 ルナサと赤マントの少女は必死で防いだが、赤マントの少女が足を撃ち抜かれて倒れ伏した。

「姉さん。なんであいつが、自分の命を賭してトランペットを吹いたか分かる? あいつは英雄なんかじゃない。ただの普通の男の子だ。みんなを助けたかったわけじゃない」リリカの瞳から、熱い涙が溢れ落ちた。「好きだったからでしょ、姉さんの事が! 好きだったからでしょ、姉さんの音が!」

 レーザーを避けそこねたルナサは、ヴァイオリンを取り落としてしまった。途端、ルナサに激しい頭痛が襲いかかる。

 リリカは眼帯を放り投げ、腕に巻いた包帯を破り捨てた。

「メルラン姉さん、私、演奏するよ。でも今日奏でるのは、幻想の音楽じゃない」

 霞みゆく景色の中。

 リリカがトランペットを構える姿だけが、やけにはっきりとルナサの目に映った。

「これは、勇気の歌よ。あいつはきっと、最期にこう願ったんだ。メルラン姉さん、自分に負けないで……!」

 リリカのトランペットが高らかに鳴り響く。

 その曲の名は、二度目の風葬。

 それは美しく、幻想的で、勇壮で、優雅で、高貴だった。その音の前に禍々しい音曲は自らを恥じ入ったのか、音色をひそめた。正気を失っていた人々も、その音に耳をすませるように、リリカを見つめた。

 不意に、リリカのトランペットは途切れた。

 まるであの時の再現だ、ルナサはそう思った。

 たった一つだけ違うとすれば。

 途切れたその音を継いで、トランペットが高らかに鳴り響いた事だろう。震える手で、震える瞳で。メルランはトランペットを吹き鳴らしていた。

 魔笛の音は虚空に解け消え、後に残るのは澄み渡るトランペットの音色。

 曲が終わりを告げたその時、優しい夜明けの光に包まれた演奏会会場は、大歓声に包まれたのだった。

 

 

「異変は解決した。メルランは自分自身に打ち勝ったんだ。最早、二度と同じ事は起こらないだろう」

 私がロッドを下ろすと、霊夢は不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「どうだか」一瞬で腑抜けた霊夢は、御幣で背中を掻きながら言う。「でも、もういいわ。眠いし、飽きたし、疲れたし」

 早苗は残念そうに言う。

「私、もう少しだけ、ナズーリンさんと本気で戦いたかったんですけど」

 なにこいつ、すごく怖い。やっぱり早苗は何処まで行っても早苗だな。

 二人の巫女は地上に降り立った。誘導して里へ帰すのだろう。後始末は彼女たちに任せて帰っちゃおうか、なんて悪どい考えが頭を過る。が、赤蛮奇を残しているのでそうもいかなかった。

 私はステージ上に降り立つと、怪我をした赤蛮奇に応急処置をして、肩を貸した。

「よくやってくれた。本当に助かったよ、ありがとう」

「うう……悲しい話だしぃ……」

 赤蛮奇はリリカ達にもらい泣きして、それどころではないようだ。

 私はメルランへ目を向けた。

 銀色のトランペットを抱きしめて、透明な涙を流している。

 その周りにはリリカとルナサが、メルランを支えるように彼女の肩に手を置いていた。

 この先もああやって、姉妹支え合って行くのだろう。

 きっとそれが、あの少年の最期の願いなのだ。

 

 

 それから。

 しばらくしてプリズムリバー三姉妹は復活し、復帰記念と事故追悼を兼ねた演奏会が太陽の畑にて行われる事になった。命蓮寺一同も招待されたので、もちろん私も出席した。あの事故があったにも関わらず、演奏会は超満員になっていた。

 演奏会のオープニングでは、メルラン・プリズムリバーによる独奏「二度目の風葬」が奏でられた。その音色は途中で途切れ、自らの命を投げうって危機を知らせた少年の勇気を讃えた。誰も正気を失うことはなく、メルランは真剣な顔で粛々と演奏していた。……まあ、厳粛だったのはその曲くらいで、あとはプリズムリバーお得意の楽しい演奏が待っていたのだが。鳥獣伎楽や九十九姉妹たちも加わってパワーアップした演奏は大変好評で、彼女たちは先の演奏会の雪辱を見事晴らしたのだった。

 その後、途中で途切れるあの演奏は、彼女たちの演奏会で定番になったという。

 あの音色。私達はいつまでも語り継いで行く。きっと私達は、永遠に忘れないだろう。

 それは、勇気の歌だ。

 

 

 




 ポーランドのトランペット曲、「ヘイナウ・マリャツキ」。
 途中で途切れる演奏が有名なこの曲には、一つの伝説があります。
 かつてモンゴル軍がクラクフに侵攻した際、見張りの兵がトランペットで敵の侵攻を伝えたのですが、その兵士はモンゴル兵に射殺されるその瞬間まで演奏を続け、街の人々はトランペットの音色が突然途切れるのを聞いたと言います。その警報のおかげで街は城門を閉じ、モンゴル軍の侵攻を防いだのだとか。
 その兵士の勇気を讃え、クラクフでは今も演奏され続けているそうです。

 過去の災害でも、自らの命を賭して他者を救った勇気ある方々がいらっしゃいます。
 自己犠牲を過剰に美化したくはありませんが、私達はそれを語り継いで行かなければならないのだと思います。

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