死体探偵   作:チャーシューメン

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 ぐるぐる設定を使うことが出来なかった、残念。

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 ※置いてあるのは同じです。


ユー・メイク・ミー・ハッピー

「まったく、メルラン姉さんてば! なんとか言ってやってよ、ナズーリン!」

「そうよ、ナズーリン。あんたからもリリカに言ってやって!」

「勘弁してくれぇ……」

 耳を塞いで星鼠亭の売り台に突っ伏しても、鼠の耳って奴は中々高性能で、頼みもしないのに姉妹のやり取りを脳味噌へせっせとインプットしてくる。喧しいを通り越して、それはもはや暴力である。

 私の店の前でいきなり姉妹喧嘩を始めたリリカとメルラン。

 発端はもう、どうしようもなく下らない。

 どちらがうさぎ型の貯金箱を手にするか……それが争いの火種だ。太古の昔から連綿と続いて来た、人類がいまだ克服出来ていない問題の一つである。醜き金銭欲が、美しき姉妹愛を切り裂いたのだ。

 仲良く半分ずつにすりゃいいじゃないか。

 そもそも、それ君達のじゃないだろ、ルナサのだろ。

 大体君達、こんなことしてる場合なのか、週末は演奏会やるんじゃないのか。

 って言うかなんでここで喧嘩を始めるんだよ、他所でやってくれ!

 いくら言っても聞きやしない。なんだこれは、新手のイジメか。

「まったくあんたはいっつもいっつも、自分だけオイシイ思いをしようとしてさ。末っ子だからってなんでも許されるとは限らないわよ」

「姉だからって、妹を思い通りに出来るなんて思わないでよね!」

「あんたこの前、私のプリン勝手に食べたでしょ!」

「姉さんだって私のチョコレート食べたじゃない!」

「頼むから他所でやってくれ……」

 このめくるめくプリズムリバー・タイフーンの前に、私は座布団を被って固く目を閉じているしかなかった。こんなに厄介なのは早苗以来だ、まったく、今日は厄日である。嵐よ、早く過ぎてくれ。

「この貧乳ぺたんこちび娘!」

「ケツでか万年便秘女!」

 暫く低次元な言い争いが続いていたが、ふと静かになった。

 恐る恐る目を開けて見ると、リリカとメルランがただならぬ様子で対峙している。全身を緊張させ、微動だにせず互いを睨みつけているのだ。その佇まい、まるで西部劇のガンマン。

 ひゅう、と風が吹いて、鮮やかな色の木の葉が舞う。

 『抜きな。どっちが早いか勝負しようぜ』

 ……って奴か。

 私は慌てた。こんなところで弾幕勝負なんてされたら堪らない。里に被害が出るかもしれないし、あの鬼も裸足で逃げ出す博麗の巫女に退治されてしまう。

「おい待て、君たち……!」

 皮肉にも、私の静止の声が引き金となった。

 電光石火、二人の右手が腰元へ伸びる。私は急いでペンデュラムに防御法術を掛け、二人の間に放り込もうと、投擲姿勢をとった。

 だが、彼女たちが取り出したのは、――よく考えれば当然だが――拳銃などではなかった。

 メルランは金色のトランペット、リリカは羽の付いたキーボードを取り出し、鉛玉の代わりに音色をぶつけ合い始めたのだ。

 流石、演奏を生業にしているだけある。白黒の付け方は演奏勝負で、という事か。

 拍子抜けした私は、やり場のなくなった右手をくるっと一回転させて、ポケットに突っ込んだ。慌てて防御法術まで使ったのが、なんだか恥ずかしくなってしまって、一人顔を赤らめる私だった。

 向き合って演奏しあう姿、喧嘩としては滑稽な光景なのだが、当人たちは結構本気らしい。音色は目まぐるしく変化を繰り返し、ぶつかり合う音と音とが複雑な旋律を紡ぎだしている。メルランのトランペットが楽し気に鋭く鳴れば、リリカのキーボードがそれを包み込む霧のようにぼうとした低い音色を奏で、リリカが清らかなピアノソナタを演奏すれば、メルランは勇壮なマーチで返すといった具合だ。高い演奏技術を擁するプリズムリバー楽団ならではの喧嘩といったところだろうか。どのへんが勝負になっているのか、聞いてる私にはさっぱり分からないが……。

 しかしその音色は、七色に明滅する星の瞬きのように美しい。

 聞き惚れていた私は、プリズムリバーの音色の危険性を思い出して、仲裁すべく売り台を乗り越えた。

 だが、慌てることは無かったようだ。

 すぐにがっくりと膝を突いたリリカ。どうやら決着が着いたらしい、腹の立つメルランのドヤ顔がリリカの前で揺れている。

 側から見ていても、勝敗の基準は全く分からなかったが……。

「くっ……ファゴットの低音でも押し込めないなんて」

「うふふ。私の土俵で勝負しようとしたその度胸は認めてあげるけどねえ。姉より優れた妹なぞ存在しないのよッ! そんな音じゃあみんなをハッピーには出来ないわ」

 歯ぎしりリリカに高笑いメルラン。勝負の内容はよく分からないが、とりあえず、メルランの方が一枚上手であるらしいな。

「それじゃあこれは、私の物ね。さっそく次のライブ用の新しいドレスを買いに行こうっと」

 メルランはルナサのうさぎ型貯金箱を鷲掴みにすると、スキップしながら里の目抜き通りの方へ歩いて行った。……なんと言うか、ルナサが気の毒である。

 私は項垂れているリリカに声を掛けた。

「なんだかよく分からないが、まあ気を落とすな」

 我ながら投げやりな慰めである。まあ、馬鹿馬鹿しい理由で始めた喧嘩なんだからどうでもいいだろう。

「依頼のほうは諦めろ。そもそも受ける気は無い」

 貯金箱を握りしめてやってきたリリカの依頼は、『プリズムリバー三女、熱愛発覚!』なんて記事を書いた射命丸を懲らしめて欲しいというものだった。

 しかし、私は復讐屋じゃあない。探偵だ。そんな依頼は業務要件外である

 もめている間にメルランがやってきて、貯金箱を巡る争いになったというわけだ。

「何回やっても、姉さん達に勝てないなぁ……」深く溜め息を吐いて、リリカが言う。「私の音じゃ、姉さん達の音に一生勝てないのかな……」

 己を卑下するのはリリカの悪い癖である。

「勝てる勝てないじゃあないだろう。君はプリズムリバー楽団に必要な存在さ、それは変わらない」

 励ますつもりで言ったのだが、リリカは曖昧な顔をしただけだった。そういう事じゃない、言外にそう言っている。

「なんだリリカ、また負けたの?」

 いつの間にか、例のメルランファンの少年が後ろに立っていた。汗だくで、肩で大きく息をしている。握りしめた銀色のトランペットには三姉妹のマスコットが揺れていた。メルランの音が聞こえたので、急いで走ってきたようだ。

 リリカはばつが悪そうに俯いた。会いたくない時に会いたくない奴に出会ってしまった、リリカの顔に分かりやすく書いてある。

「うるさいわね、あんたには関係ないでしょ」

「ちんちくりんのリリカの音なんかじゃ、メルランちゃんの音に勝てるわけないだろ」

「私だって腕を上げてるのよ」

「努力は認めるけど。リリカがメルランちゃんに勝とうなんて、百年は早いよ」

 少年がそう吐き捨てると、リリカは涙目になって唇を噛んだ。

 少年はリリカを認めたとは言っても、やはりメルラン至上主義は変わらないようだ。

「あんたそれ、お師匠様に向かって言う事? あんたにトランペット教えてやってるの、誰だと思ってるのよ」

「メルランちゃんに教えてもらえたら、もっと良かったんだけど」

「何よ、その言い草!」

 リリカはキーボードを少年に投げつけて、走って行ってしまった。

 なんと言うか……青春してるなぁ。

 女の子の扱いはぞんざいでも楽器の扱いは慎重なのか、少年はキーボードをきちんとキャッチして落とすことはなかった。

「君ね」流石に目に余ったので、私は苦言を呈した。「ああいう事言うか、普通」

「嘘ついたら逆に失礼じゃないか」

 リリカを認めているが故に、思ったことをそのまま口にするという事か。……いや絶対、こいつの口が悪いだけだろ、これ。

「後でちゃんと謝りに行けよ」

 少年の頭を軽く小突きながら言うも、彼はまったく気にした風もない。

「そんなことより、メルランちゃんは何処行った?」

「里で買い物だとさ」

「え……」

 少年は眉をひそめた。

「ちょっとこれ持っててくれ」

 リリカのキーボードを私に押し付けて、少年は里のほうへ走って行ってしまった。

「あ、ちょっと君、待てよ!」

 このキーボード、私からリリカに返したんじゃ話がこじれてしまう。仕方無しに私は、少年の後を追った。

 メルランは里の目抜き通りにいた。

「……何してんだ、あれ」

 物陰に隠れて見ていた少年に私が尋ねると、少年は面倒くさそうに首を振った。

「お団子買ってるんだろ、そりゃ」

 両手に余るほどの団子を買い占めて、ルンルンと鼻唄交じりに歩いている。団子だけではない。通りにある煎餅屋、果物屋、鰻屋(よく見ると夜雀の移動屋台だ)でも同じ様に食べ物をわんさと買っているのである。にこやかな笑みを振りまきつつ。

「意外だな。食は細そうに見えるが」

「……違うって」

 メルランは目抜き通りで唸るほど買い込んだ後、そのまま通りを外れて歩いて行った。

 止まった場所は、自警団の屯所だった。買った食べ物を自警団の団員に分けている。差し入れ、という事か。

「メルランちゃんは時々、ファンのみんなの所を回って、差し入れしてくれるんだ。前もそうだった」

「へえ……ますます意外だな」

「メルランちゃんファンなら知ってて当然だろ、怠慢だな」

 ……私は別にファンじゃないのだが。

 しかしなるほど、三姉妹で一番人気がある秘密はこういう事か。普段のふわふわした言動とは裏腹に、メルランは結構マメらしい。リリカが情熱でファンを作るなら、メルランは親しみ易さでファンを作るといった所なのだろうか。

 メルランはその後も里の各所へ回って挨拶と差し入れを続けた。少年はその後も物陰からメルランの様子を伺い続けた。

「のぞき趣味とは感心しないな」

「じゃあついて来なければいいだろ」

 そうしたいのは山々だが、リリカのキーボードを押し付けられた事と、少年の様子が少し気になるので、そうもいかない。少年について、メルランを尾行した。

 メルランは最後に寺子屋を訪れると、昼休みで外に出ていた子供達にお菓子を配って回った。そうして、集まった子供達の前で簡単な曲を一曲だけ演奏した。子供達はもっともっととせがんだようだが、メルランは首を振り、すぐに立ち去ってしまった。

「あれ、服は買わないのか」

 私は首をひねった。先程はドレスがどうとか言っていた筈なのだが。

 メルランは里の外れまで行くと、そのまま里の外へ出て行ってしまった。屋敷に戻るつもりだろう。

 ついて行こうとした少年の腕を掴み、止めた。

「これ以上はいいだろう。メルランを好きなのは分かるが、里の外へ出るのは危険だ」

「あんたに関係ないだろ」

「関係ない事あるか、目の前で危険な事をしていたら止めるのは当然だろうが」

「……メルランちゃんが心配なんだ」

「心配?」メルランの様子に、特におかしい事は無かったが。「私は君のほうが心配だよ」

「あんた、死体探偵って奴だろ。里の外だって慣れてる」

「君の骨を拾うつもりは無い」

「なら、一緒に来ればいいじゃないか。それで解決だろ」

「それは依頼か? 子どもの君に、依頼料が払えるのか」

 少年はトランペットを握りしめ、押し黙った。

 少年の身なりは、裕福とは言えない。

「頼むよ」

 絞り出した声でそう言って、頭を下げる。

 私は溜め息を吐くしかない。なんとも断り難い空気を作り出されてしまった。

 男が頭を下げた、それを無下にする事は出来ない。ただ働き……嗚呼、なんて嫌な響きだ。

「……出世払いだぞ」

 メルランを追って、里の外の林へと出る。メルランの姿は既に見失ったが、少年には心当たりがあるのか、迷わず歩みを進めた。

「なあ、なんでそんなにメルランが好きなんだ?」

 下世話な話だと思いつつも、好奇心に負けてつい聞いてしまった。

 少年は気にした風もなく、ケロリとした顔で言った。

「だっておっぱい大きいじゃん」

 思わず転びそうになった。

「そんな下らない事かよ!」

「馬鹿野郎、男ならおっぱいに憧れを抱くのは当然じゃないか! あんたも男なら分かるだろ!」

 逆に少年に凄まれる始末である。

「言っておくけど私は女だからな」

「えっ……」

 少年は狼狽えて、私の胸の辺りを無遠慮にジロジロと眺めた。

「リリカより……」

 その先の台詞を口にする事は、私の鉄拳が許さない。

 閑話休題。

 少年は林の中で突然立ち止まると、キョロキョロと辺りを見回し始めた。

「たしか、この近くなんだ」

「メルランがいるのか? こんな所に?」

「メルランちゃんの秘密の練習場があるんだよ」

「しかし、音は聞こえない。今日はもう帰ったんじゃないのか」

 ぐるぐると周囲を回るように探索する。

 すると突然、トランペットの高らかな音が現れた。耳に届いたと表現しなかったのは、本当にいきなり、大音量のトランペット音が曲の途中から鼓膜に突き刺さって来たからである。

 どうやらメルランは音を閉じ込める結界を張っていたらしい。

 少年と私は、音のするほうへ慎重に近づいて行った。

 ふと、トランペットの音が止まる。

 続いて響き渡る鈍い金属音。連続する。

 メルランが、手にした金色のトランペットを切り株に叩きつけていた。

 力一杯、何度も何度も。

「やめてよ!」

 少年が叫んだ。

 メルランの動きがピタリと止まり、彼女の視線が私達を射抜いた。

 その瞳は、涙に濡れていた。

「メルラン……」突然の出来事に、私の声は震えた。「ど、どうしたんだ……」

 金色のトランペットはぐにゃりとひん曲がり、もはやまともな音を出せそうもない。

 メルランは涙を拭うと、顔を背けた。

「格好悪いところ、見られちゃったわね」

「そのトランペットは、君の大切な商売道具じゃないか」

「いいのよ……」

「良いわけあるか、次の演奏会はどうするんだ」

「リリカがなんとかしてくれるわ……」

 普段の陽気さとは打って変わって、沈鬱で絞り出すような声で言う。

「どうしたんだ、本当に。一体何があった」

「何も無いわ。私には最初から、何も無いのよ」

「やっぱり、リリカが原因なの?」

 少年が声を上げた。

「リリカが……?」

 悪いことをした子どものように。メルランは体を丸めて小さくなってしまった。

「……貴方達なら知ってるでしょ。リリカはどんな楽器でも演奏できる。それこそルナサ姉さんのヴァイオリンから私のトランペットまで」

「君だってトランぺッターとして一流じゃないか」

「じきにリリカに抜かれるわ。今までは必死に努力して、なんとか姉らしくしてたけれど……もう駄目よ。さっきも見てたでしょ、私とリリカの勝負。あの子の技量はもう私と大差無い。そうなった時、私はルナサ姉さんみたいに格好良くいられない」

 メルランは妹の、リリカの才能に嫉妬していたのか。

 確かにリリカの楽器を操る才能は驚異的だ。弾けない楽器なんてない、本人もそう豪語している。

 優秀な妹を持つと、姉は苦労するらしい。

「私はルナサ姉さんみたいに誰かを導くことは出来ない。リリカみたいな情熱も無ければ才能も無い。私は誰にも必要とされない。いつか、あそこに私の居場所は無くなる……」

「そんなことは……」

「怖いのよ、ステージに立つのが!」

 涙を弾けさせて、メルランが立ち上がった。

「怖くて怖くて死にそうなのよ! いつか大きなミスをするんじゃないか、みんなに嫌われちゃうんじゃないか、失望されるんじゃないかって思うと……。こんな気持ち、貴女には分からないでしょうね!」

 そう泣き叫ぶと、メルランは走って行ってしまった。

 少年は後を追おうとしたが、

「今は一人にさせておいてやれ」

 またもや私に止められる格好になった。

「メルランちゃんは普段は明るいけど、実はとっても繊細なんだ。いつもライブの重圧に悩んでるんだよ」

 少年はそう言う。

「しかも今度のライブは九十九姉妹や鳥獣伎楽達も来る。きっと千人は集まるよ」

「そ、そんなにか」

 幻想郷で千人と言えば……総人口の何パーセントだ? とにかく、かなりの人間が集まるということか。

「メルランちゃんはものすごい努力家なんだよ。いつもいつも、ここで一人で練習してた。雨の日も風の日も、演奏会が終わった後の深夜にだって。リリカに負けたくない思いもあったかもしれないけど……きっと、重圧に負けないように」

「意外、だな」

「俺、メルランちゃんが必死に努力してるところ見るのが好きだった。ひたむきにトランペットを吹き鳴らす姿がたまらなく格好良いって、そう思ったんだ。だから俺も必死に小遣いを貯めて、このトランペットを買ったんだ」

 少し悲し気な顔で。……さっきの胸囲云々の話が無ければ、もっと感動的だったんだがな。

 切り株の上には、うさぎ型の貯金箱が置いてあった。どうやら、メルランは貯金箱の中身に手を付けなかったらしい。ならあの喧嘩の意味はなんだったのだろう。

 私は打ち捨てられた金色のトランペットを拾い上げた。

 年季が入ったトランペットは、よく見ると何度も何度も修理された形跡がある。きっと壁にぶち当たる度、このトランペットを打ち付けていたのだろう。ぶち当たる壁は、メルランの才能の壁だったのだろうか。

 だが仮にメルランの才能がリリカのそれに劣っていたところで、彼女が貶される必要は無いのだ。彼女が一流のトランぺッターであることは、疑いようが無い事実なのだから。自分を過剰に卑下するのは、姉妹共通の悪癖なのかもしれない。

 メルランはリリカの事を愛しているのだろう。だからこそ、格好いい姉としてありたいと願っているのだ。この曲がったトランペットは姉妹愛の証だ。

 ふと気づく。トランペットには、三姉妹のマスコットが付いている。不細工な造りで古びているが、小奇麗である、大切にしていたのだろう。

「あ……」少年が声を上げた。「それ、俺が昔あげた……。まだ付けててくれたのか」

 自らのトランペットに付けた真新しいマスコット――メルランからの贈り物――を握りしめて、少年がつぶやいた。……リリカには悪いが、こりゃ割って入る余地はなさそうだな。

「あんたにお願いがあるんだけど」

「分かってる」

 みなまで言う必要は無い。私も同じ気持さ。乗りかかった船であるし。……しばらくチーズはおあずけになってしまうなあ。

「だが、出世払いだぞ。そしてちゃんとリリカにキーボードを返して、謝ること」

 少年が頷いたのを見て、私は思わず皮肉を言った。

「なんだよ、ちゃんと素直にできるんじゃないか」

 トランペットの修理はもちろん、小傘に頼んだ。

 リリカに発注された巨大楽器の納期に追われていた小傘は、泣きべそをかきながら依頼を快諾してくれた。

 「小傘は完璧なんだから出来るよな」便利な言葉である。しばらく使い倒してやろう。

 とは言っても流石に小傘が気の毒なので、その日の残りは小傘の助手を務め、材料の買い出しやら何やらに奔走した。

 翌朝、完璧に修理されたトランペットを持って、少年と私はメルランの秘密の練習場に赴いた。

 果たして、メルランは切り株に座り込んでいた。

「貴方達……そのトランペットは」

「小傘に修理してもらった。完璧だぞ」

「やめて」メルランは頭を抱えた。「私、もうステージには立てないわ……」

「なら、何故此処にいる。探していたんだろう、このトランペットを」

 メルランは狼狽えて、視線を外した。

 金色のトランペットを握りしめて、少年はメルランの前に進み出る。

「俺……メルランちゃんの演奏が好きなんだ。また聞きたいよ」

「でも、私は……」

「リリカだってきっとそう言うよ。みんな好きなんだ、メルランちゃんの事が。だから、自分に負けないで」

 少年の真摯な瞳と、差し出されたトランペット。

 それを交互に見つめて、メルランは微笑んだ。

 それは彼女のいつもの、真昼の陽光のような笑みだった。

「また、君に励まされちゃったね」

 少年をそっと抱きしめて、メルランは瞳を伏せた。

 金色に輝くトランペットを手にして。

「そうね。次のライブも、私の音色でみんなをハッピーにしてあげないとね!」

 ハッピーはメルランの合言葉である。

 メルランはこの先も何度も悩む事になるだろう。人生とは苦である。苦とは悩み苦しむ事に他ならない。だが、その度に乗り越えて行けばいい。彼女には多くの支えてくれる仲間がいるのだから。きっとこの先も、ずっと。

 それこそが、悟りへ至る一つの道なのだろう。

「リリカが星鼠亭で待ってるってさ。昨日のリベンジをしたいって」

 私が言うと、メルランはウインクした。

「そう。なら、魅せつけてやらないとね。姉の強さって奴をさ」

 うさぎ型の貯金箱をひょいと拾い上げて、メルランは里の方へと歩いて行った。

「一件落着、か」

 溜め息を吐くと、朝だというのに肩が重くなった。

 まったく、ひどいタダ働きをさせられたものだ。

 ふと見やると、少年がぼーっとして動かない。

「……どうした?」

 私が目の前でひらひらと手を振ると、少年はいきなりどばーっと鼻血を流した。

「メルランちゃんのおっぱい、めっちゃやらかい……」

 私は激しいめまいに襲われた。折角いい話で終わりそうだったのに、まったくこのガキは……。

 夢見心地で放心状態の少年を引きずって里へと戻る間、ふと、私は思い巡らせた。

 かつての私にも兄弟がいたのだろうか、と。

 その記憶は霧が掛かった海の向こうにあるのだろう、今の私ではもう、たどり着く事も、覗き見る事さえも出来なかった。

 


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