花盛りの鎮守府へようこそ   作:ココアライオン

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落暉と濤の彼方より

 鎮守府の傍に設立された、深海棲艦の研究施設内。広く白い廊下を歩きながら、霞は鼻を鳴らした。相変わらず、胡散臭くて辛気臭いところだ。胸中でぼやきつつ、大型のケースを手に持った少年提督の後に続いている。この施設の地下に備えられた、深海棲艦用の特別捕虜房に用が在るらしい。なんでも、新しい深海棲艦が此処に収容されたらしく、その新入りに話があるとの事だ。そんな仕事がある日に秘書艦を務める事になったのは、単に自分がツイてなかった。この施設には何度か訪れてはいるものの、霞はこの場所をどうも好きになれない。正確には、体が慣れてこない。規模の大きい病院と言った風情の雰囲気だが、この傲慢とも言える白一色の内装は、何もかもを掌握されているかのような、凄まじい圧迫感と閉塞感を与えてくる。やたら息苦しくて居心地の悪い空間だ。とは言え、そんな文句を言ってもしょうがないから、黙って歩いている。

 

 白い廊下は広く、両側には研究室が並んでいた。大型の精密機器類が並ぶスペースや、大量に薬品が並んでいる。白衣の研究員達がコンソールを叩き、資料であろう紙の束を忙しなく捲り、あーだこーだと言い合う声も聞こえる。このフロア全体の雰囲気も実験室と言った感じだが、素人の霞には、傍目から見ても何をしているのかさっぱりだ。

 

 そんな実験室・研究室が並ぶフロアの一室に、少女提督の姿がチラリと見えた。年齢や背格好は少年提督と同じくらいだが、少々眼つきがするどくて、生意気っぽい貌をしている彼女も“元帥”の一人だ。少々変わった来歴と言うか、戦功を評価された提督では無く、その技術力を買われた提督の一人である。少女提督は、白衣の研究員達と顔を突き合せて、自分も分厚い資料集をバラバラと捲っていた。忙しそうな少女提督は此方に気付かない。前を歩く少年提督も、少女提督には気付いてはいたが、特に気付かせるような素振りは見せなかった。見たところ、少女提督は簡単な会議か何かでもしているのだろう。邪魔をしないようにという配慮に違い無い。

 

 少年提督は落ち着き払っていて、たまにすれ違う白衣の研究員達に丁寧に会釈したり目礼したりしている。白衣の研究員達はどいつもこいつも少年提督にビビッてるというか、明らかに身体や表情を強張らせて敬礼していた。まぁ、無理も無い。何せ少年提督の隣には、今日の秘書艦見習いとして、ヲ級が静々と控えているのだ。解体・弱化施術を受けて無害な存在であっても、彼女は間違いなく深海棲艦である。ただ、今はそれを象徴する艤装も顕現していない。ル級に良く似たボディスーツを着込んだ姿だ。もの静かなヲ級は、その神秘的な美貌も相まって、冷徹な才女のように見えなくも無い。しかしそれでも、明らかに雰囲気が異質で、人間では無いのだ。

 

 白衣の研究員達も、このヲ級が秘書艦見習いという特殊な状況下に在ることを知っているとは言え、そう簡単に慣れるものでは無いだろう。その辺は、霞が此処の空気に慣れないのと同じか。そんな事を思いながら少年提督の後に着いていると、白衣の研究員達は霞にも敬礼をしてくる。霞は背筋を伸ばし、彼と同じように目礼を返す。そうこうしている内に、地下へのエレベーター棟に到着。扉を厳重に守る二人の屈強な警備に敬礼をして、彼はエレベーターに乗り込む。警備の二人も、貌をビキビキと引き攣らせているのが印象的だった。霞は溜息を堪えてエレベーターに乗り込み、供に地下フロアへ向う。

 

 

 地下フロアには生活をする為の設備も揃えられており、人間らしい暮らしをするならば十分な条件がそろっている。他にも、深海棲艦の肉体や精神に干渉する為、ドーム状の施術用大霊堂がある。空調も効いているようで、空気も新鮮だ。ゴウンゴウンと低い音が聞こえるが、恐らくパイプか何かで海水を供給しているのだろう。あとは、大型のトラックが裕に通れるだけの広い廊下と、深海棲艦を積んだ運搬車両が乗れるだけの大型エレベーターと通路に繋がっている。霞は彼とヲ級の後に続き、白い廊下を歩いていく。霞達が向かっているのは、捕虜房兼生活フロアでも無く、大霊堂でも無い。いまだ解体施術が完全に済んでいない、鹵獲されたばかりの深海棲艦を拘束しておく為の場所だ。今日の未明にこの施設に運び込まれた深海棲艦が、この白い廊下の先に居る。

 

「……そのケースの中身って何なの?」

 

 霞は歩きながら、前を行く彼に聞いた。彼は肩越しに振り返ってから、左手に持った大型ケースを少しだけ持ち上げて見せる。

 

「治癒・再構成の施術で使用する、特殊鋼材です」

 

「あぁ、工廠で妖精達が用意してたアレね……」

 

「あとは、前の作戦海域で回収された品が入っています」

 

「へぇ……」

 

 何が送られて来たの、と。そう聞こうとしたら、彼が足を止めた。彼の隣に居るヲ級も足を止める。厳重なロックが施された扉の前だった。円筒形の金属杭が中央に嵌るような形で、重厚な金属板が何層に折り重なった扉を封じている。少年提督は、傍にある機器で指紋認証を行い、澱みなくパスコードを入力してそのロックを解除した。円筒の杭が回転し、扉が壁に沈むようにして開いていく。まるで、厳かな神殿に続く扉でも開いたような、重たい雰囲気が漂う。霞が微かに息を呑む間に、彼は悠然と歩み出し、ヲ級もそれに続く。霞も慌ててその後に続いた。霞達が扉を完全に通り過ぎると、背後で分厚い金属層の扉が重い音を響かせながら、自動で閉じ始めた。万が一何か在っても、解体施術が施されていない深海棲艦が外に出ないようにする為か。霞はその扉が閉まるのを視線だけで見遣り、軽く息を吐き出した。更に白い廊下を歩いていくと、獣の唸り声のようなものが聞こえて来た。歩く先には、幾つも扉が並んでいる。その内の一つのロックを解除し、彼が入ったその部屋に続く。霞は再び息を呑む。

 

 其処は、大掛かりな延命装置と精査機器類、そして、薄緑色の液体が満たされた巨大なシリンダーが備え付けられた部屋だった。低い駆動音が聞こえる。居た。シリンダーの中だ。ボロボロの白い服を着た、人型の深海棲艦。身体を儀礼済みの鉄鎖でぐるぐる巻きにされて、蹲るようにして不恰好に身をシリンダーに寄せている。その顔は拘束マスクで覆われており、表情は分からない。あれでは言葉を発することは出来ないだろう。唸り声だけが聞こえる。集積地棲姫だ。艤装としての力を持っていたのであろう、あの腕とも掌とも言えない巨大な金属塊は、鹵獲のさいに破壊されてそのままのようだ。彼女には両腕が無かった。それに、彼女の肌は傷だらけである。出血こそしていないものの、胴体や胸には大穴が空いているし、身体のあちこちに裂傷も見られる。

 

 シリンダーの中で呻くような苦しげな声を漏らす集積地棲姫の胸元には、複雑な術紋が刻印されており、鈍く濁った蒼い微光を漏らしている。肉体機能の衰弱・拘束の為の施術だろう。あんな傷だらけのままで肉体機能を低下させられて、苦しくない筈が無い。そんな集積地棲姫の姿をシリンダーの中に見たヲ級が、悲しげに貌を歪ませてシリンダーに駆け寄った。少年提督も左眼を細めた。

 

「……これは酷いですね。すみません、霞さん」

 

 彼に呼ばれて、霞はすぐに反応し、彼の傍に歩み寄った。

 

「何? とりあえず、荷物でも持ちましょうか?」

 

「えぇ、有り難う御座います。少し重いので、気をつけて下さい」

 

 彼は霞の言葉に少しだけ微笑んで、持っていたケースを手渡して来た。「そんなのどうって事ないわよ」と。霞が軽く笑ながらそう言って、受け取って握った瞬間だった。ズシッと来た。思わずふらつく。咄嗟に艤装を召還し、艦娘としての力を発揮していなければ盛大にコケていたかもしれない。何コレ、滅茶苦茶重いんだけど……。霞が不可解なものを見る目で手に持った大型ケースを見詰めている内に、彼はシリンダーの脇にある装置を操作し、薄緑色の液体の排出を始める。

 

 液体を全て排出し終えた後。シリンダーが開かれて、集積地棲姫が横たわるようにして外に倒れこんで来る。それを彼が横抱きに抱きとめつつ、短く文言を紡いだ。すると、拘束具めいた手袋を嵌めた彼の右手から墨色の微光が漏れて、集積地棲姫を縛る鉄鎖へと伝い始める。すると鉄鎖は解けるようにして、微光の粒子となって墨色の揺らぎに融けて行く。粒子となった鉄鎖は彼の右手へと流れて、彼と言う炉に焼べられる。集積地棲姫の顔に嵌められた拘束マスクを、彼がそっと外す。苦しげな集積地棲姫は酷く消耗した様子で眼を閉じていて、その下には濃い隈が出来ていた。

 

「場所を変えましょう」

 

 少年提督は、ぐったりとした様子の集積地棲姫を抱かかえて立ち上がり、傍に居る霞とヲ級を交互に見た。霞とヲ級は、彼に頷いた。彼も頷きを返して、すぐに隣の施術室へと集積地棲姫を運んだ。体格差は在る筈だが、集積地棲姫を抱える彼は、その重さを全く感じさせない程にしっかりとした足取りだった。小さな背中がやけに大きく見える。アタッシュケースを持った霞の隣では、ヲ級が心配そうな顔をして、彼の背中と、彼に抱えられている集積地棲姫を見ていた。霞は、ヲ級の背中を軽く叩いた。ヲ級が霞の方を見た。霞は頷いて見せる。

 

「大丈夫よ。アイツは治したりすんの得意だから」

 

 ちょっとぶっきらぼうに言って、霞はすぐにヲ級から視線を逸らした。ケースを持って、早足で彼に続く。隣に居たヲ級が此方に「ありがとう」と、流暢に言うのが聞こえたが、特に反応は返さなかった。隣の部屋も、大掛かりな精密機器類が設置された医務室といった感じだった。白色の照明が寒々しく、冷たい光を放っている。部屋の中央には、外科手術で使われるような無骨な施術ベッドが備えられており、彼は其処に集積地棲姫をそっと寝かせた。寝かされている集積地棲姫にヲ級が近付き、そっと彼女の頬を撫でた。彼女は苦しげに喘ぐだけで、反応を示さない。眼を開けない。ベッドの前に立った彼は、集積地棲姫へと施術を行うべく、朗々と文言を紡ぎながら両の掌に微光を灯した。左手には暗紅の光が揺れて、右手には墨色の微光がくゆる。淡い光の帯が力線を描き、複雑な術陣が施術ベッドを囲うようにして足元に刻まれていく。

 

「霞さん。すみません。ケースの中にある特殊鋼材を取っていただけませんか?」

 

「わかったわ」

 

 一旦、文言を唱えるのを止めた少年提督は、落ち着いた様子で霞に振り返った。霞はケースを床に置いて開ける。中には緩衝材と供に、大きめの白い箱が一つ、黒い金属の鋳塊が二つ入って居た。大きさも厚みも、ちょっとした辞書程もある。道理で重たいわけだ。生身でなら抱えることは難しいだろう。だが、艦娘としての力を発揮している今の霞は、先ほどとは違い軽々とその二つを一片に抱えて、彼の傍へと持って行く。

 

「有り難う御座います」

 

 霞に向き直った彼は、小さく微笑んで礼を述べた後、また何かを短く唱えた。同時だった。霞の持っていた鋳塊が、ふわっと浮き上がった。流石に多少は驚いたが、彼のやる事だ。イチイチ反応してたら疲れるだけであるだ。両腕を広げる彼の詠唱に応えて、先ほどの鉄鎖と同じ様に、黒い鋳塊も墨色と暗紅の粒子となって融けながら縺れて、彼の手の中に術陣を象る。足元の術紋が碧く明滅し始めた。これからオペが始まるのだ。

 

「……気が散るようなら、外に出てるわ。って言いたいところだけど、私はアンタの護衛も兼ねてる身だから。例え駄目って言われても傍にいさせてもらうわよ」

 

 霞はケースを閉じて、持ち直しながら彼に言う。秘書艦としての職務を全うすべく鋭い目つきで言う霞に、両手に微光を灯す彼は微笑んで見せた。

 

「はい。宜しくお願いします」

 

「ふん……。で、時間は掛かりそう?」

 

「思ったよりも彼女の衰弱と損傷が激しいので、少し長引くかもしれません」

 

「分かったわ」

 

 霞は短く応えて、集積地棲姫の傍に居るヲ級に歩み寄る。ヲ級も霞に気付き、施術ベッドから二歩程離れて、霞に頷いた。先程と同じ調子で、霞は「大丈夫よ」と頷きを返した。今度は眼を逸らさず、琥珀色をしたヲ級の瞳をじっと見詰める。ヲ級が少しだけ笑った。霞は鼻を鳴らし、ヲ級と並んで足元の術陣の外へと出る。右手にケースを持ち、左手には錨を召んで握りこんだ。もしも集積地棲姫が暴れ出して彼に襲い掛かっても、これで殴りつけて黙らせてやればいい。そんな事にならないのが一番良いのだが。

 

 

 霞が唇を舐めて湿らせながら手の中の錨の感触を確かめていると、施術が始まった。彼が唱える読経にも似た文言は、回復と再生、滋養と活力を呼ぶ。彼の掌に宿る術陣が明滅する。暗紅。紺碧。墨色。それぞれの色が混ざり合い、施術ベッドに横たわる集積地棲姫の身体を包んだ。まるで、彼女の体から痛みや疲れを潅ぐように、その白い肌に残る傷を塞ぎ、癒し、跡も残さずに修復していく。彼女を苦しめていた、胸元の術紋も解呪されて消えていた。集積地棲姫の苦しげな表情が緩んで、彼女は安らぐような深い吐息を吐き出した。

 

 彼の治癒施術を受けて、意識を取り戻したのだろう。彼女は横たわったままで、ゆっくりと瞼を上げた。まず天井を数秒程見上げて眼をすぼめ、辺りへと視線を廻らせようとした。同時に、彼と眼が合った。彼は、集積地棲姫に微笑んで見せた。いつもの笑顔だ。ヲ級は安堵の為か、集積地棲姫へと声を掛けるタイミングを失っている。集積地棲姫は横たわったままで、眼を見開いて彼を凝視している。その二人の様子を傍で見ていた霞は、すぐに飛び出せるように、すっと姿勢を落とす。施術室の冷たい空気の中、数秒の沈黙が続いた。

 

 さぁ、集積地棲姫はどう出る。暴れるか。彼に襲い掛かるか。そうなれば霞の出番だったが、その必要は無さそうだった。集積地棲姫は彼から視線を外し、横たわる自分の体を一瞥した。艤装としての腕が破壊されている事。そして、それらを召還する力を、解体施術で奪われている事を自覚したのだろう。集積地棲姫は、抵抗する姿勢を見せなかった。じっと彼を睨んでいたが、その内に何もかもを諦めるように息を吐き出して、静かに瞑目した。

 

 霞はそれでも油断無く錨を握っている。ホッとしたような貌をヲ級も見つめる中、彼の施術はまだ続く。再び、読経のように文言が紡がれる。砕かれて失われた集積地棲姫の上腕から先に、微光が回路図のように緻密に編みこまれていく。先程、彼が纏う微光に融かし込まれ、姿を失った特殊鋼材が、“集積地棲姫の腕”という、新たな造形へと鋳造されていく。金属儀礼と生命鍛冶の職工である彼は、力在る言葉によって非実在の金属を刻み象り、実体と機能を招き入れる。傍から見ていると、それはまるで魔法だ。腕に違和感を覚えたであろう集積地棲姫も、何事だと怪訝そうに眼を開けて、驚愕していた。唖然とした様子で、自分の両腕を見詰めている。

 

 微光と術紋で編まれた腕には、既に肉体としての瑞々しさと生気が宿っていた。彼は朗々と詠唱を続けながら、新たに造り上げられた集積地棲姫の腕を、丹念に適応させていく。肌の色。受肉する腕の太さ。長さ。神経の接合。彼は外科医の緻密さと優雅さ、そして工匠の技巧と精巧さを以って、集積地棲姫の腕の再構築を目指す。掛かった時間は如何ほどだったか。十数分か。一時間程か。もっと掛かっていたかもしれないが、生憎と正確には分からなかった。気付けば、霞もヲ級も、施術を行う彼の姿に眼を奪われていた。気付いた時には彼の読経は止んでおり、呆然とした集積地棲姫が、新たな自身の腕を震わせて眺めていた。彼女の新しい腕は、ゴツいガントレットのような腕ではない。女性らしい、繊細な腕だった。

 

 

 

 

「……違和感はありませんか?」

 

 軽く息を吐き出した彼は、額の汗を手の甲で拭いながら、集積地棲姫へと微笑みを向けた。大きな手術を終えた医師のような、満足の行く造形を生み出す事が出来た職人のような、それでいて、気負いも誇りも感じさせない、緩やかな笑みだった。施術ベッドの上に居た集積地棲姫は彼を見て、怯んだように僅かに身を引いた。そりゃあ、あんな得体の知れない施術を受けた後ならば、当然の反応と言えるだろう。ただ、集積地棲姫の蒼い輝きを宿した眼には警戒と敵意は窺えるが、攻撃の意思は感じられなかった。霞は軽く息を吐き出して、緊張を解いた。集積地棲姫は、じっと睨むように自分の腕を見詰めて、手を握ったり開いたりしている。

 

「痛みが残っているようでしたら、鎮痛施術も行いますよ」

 

「……痛ミハ、無イ。腕ニモ、身体ニモ……」

 

 集積地棲姫は、自身の腕と身体を見てから、施術ベッドに座ったままで彼に向き直った。いまだに強い警戒の色を浮かべた蒼い眼を細めて、彼を見詰める。

 

「何ガ目的ダ……?」

 

 集積地棲姫は、敵意を剥き出して襲い掛かって来るでもなく、暴れるでもない。落ち着いた低い声で言う。この状況では反抗的な行動が無駄である事を理解しているからだろうか。見タ所、裏切リ者モ居ル様ダガ……。そう言葉を続けた集積地棲姫は、ヲ級の方を見遣った。睨むと言うよりは、事実を事実として受け容れようとしているかのような、冷静な眼差しだ。ヲ級はその視線を受け止めて、「貴女から見れば、そうかもしれない」と、静々と言葉を返した。ヲ級は数歩、集積地棲姫に歩み寄る。

 

「目的は明確に在る。貴女を癒す為に、彼が貴女に治癒施術を施した」

 

 やはり、集積地棲姫と比べて流暢な言葉を話すヲ級は、秘書艦見習いなどを含め、多くの学習の機会に恵まれた故だろう。霞はヲ級と集積地棲姫を見比べてから、彼を一瞥した。彼は何も言わず、集積地棲姫とヲ級の遣り取りを見守っている。ヲ級の表情は穏やかだ。集積地棲姫の肉体治癒が無事に終わり、安堵している。集積地棲姫は、そんなヲ級の表情を暫く見詰めた後、ヲ級から彼と視線を移す。「デハ……何ノ為ニ、私ヲ生カシタ?」と。質問のニュアンスを微妙に変えてきた。彼は、沈着な集積地棲姫に向き直り、目許を緩めて見せる。

 

「僕達に、貴方の力を貸して頂きたいのです」

 

「……答エニナッテイナイ」

 

「結論を急ぎました。……すみません、霞さん」

 

 

 

 彼は霞の方を見た。霞も頷いて、ケースを彼の傍に持っていき、金属の床に置いて開けた。中に残っているのは白いプラスチックの箱のみ。霞はそれを取り出して、彼に手渡す。「有り難う御座います」と、彼は霞に礼を述べてから、プラスチック箱を開けた。その中に緩衝材と供に入って居たのは、黒いヘッドホンだった。

「貴女が居た海域で回収されたものだそうです」

 

 それを見た集積地棲姫の顔色が変わる。

 

「やはり貴女のものでしたか」

 

 少年提督は、少しだけ笑みを浮かべてみせて、そのヘッドホンを彼女に手渡す。集積地棲姫はそれを受け取って、大事そうに抱えた。集積地棲姫は彼に何かを言おうとしたが、唇を小さく噛んですぐに視線を逸らす。黙り込んだ集積地棲姫に代り、「もう一つお聞きしたい事があります」と、彼が問う。

 

「此方も、物資集積地の海域から回収されたものです。見覚えはありませんか?」

 

 言いながら彼は、懐ろからボロボロのカセットプレーヤーを取り出した。中にはテープも入っている。かなり古い型のものだ。海水に浸かっていた所為か。所々で色が剥げたり変色していたり、錆が浮いたりしている。スピーカー部分には泥や砂が詰っていたのか。完全に錆び付いて崩れ、穴が空いている。あれでは音は出ないだろう。集積地棲姫は、彼が手に持つカセットプレーヤーをチラリと見てから、緩く首を振った。

 

「私ハ“海”ニ召バレ、物資ヲ集メル事ヲ目的ニ存在シテイタ。ダガ、ソノ様ナ物ハ見タ事ガ無イ」

 

 冷静な貌のまま、彼の眼を見て答えた集積地棲姫には、シラを切っているような様子は無い。答える内容を取捨選択している風には見えない。あれが演技なのだとしたら大したものだと思うが、「疑ウノデアレバ、拷問デモ何デモ好キニスルト良イ」と言い放って見せる辺り、多分違うのだろう。

 

「その様な事はしません。……見覚えが無いのであれば仕方ありませんね。ヲ級さん」

 

 彼は緩く首を振って苦笑を浮かべた後、ヲ級へと向き直った。

 

「彼女を居住エリアまで案内してあげて下さい。彼女の生体データは事前に送られて来ていましたから、彼女のサイズのスーツも部屋に用意してあります」

 

「承知しました」

 

 恭しく頭を下げたヲ級は、施術ベッドに身を起こしている集積地棲姫へと歩み寄り、握手を求めるように手を差し出した。ヘッドホンを両手で持っている集積地棲姫は、ヲ級の穏やかな貌と、差し出された手を見比べて、口をへの字にひん曲げている。ここでゴチャゴチャと言うようなら、霞の出番だ。スポイルされた深海棲艦は、その上位体といえども人間の女性程度の力しかない。言う事を聞かないのであれば、艦娘としての力を発揮出来る霞が力づくで、文字通り強制的に捕虜房まで引き摺って行くつもりだった。霞は腕を組んで、集積地棲姫の行動に注視する。一方で、ヲ級の方は集積地棲姫に目許を緩めて見せた。女性である霞でもドキッとしてしまうような、可憐で儚い微笑みだった。

 

 ヲ級は、手を差し出したままだ。難しい貌をしている集積地棲姫は、何も言わずに施術ベッドから立ち上がった。ヲ級の手を取ろうとはしない。しかし、反抗するような態度でも無ければ、死や痛みを恐れる故の恭順でも無い。軽く息をついた彼女の眼にある感情は、空虚さか。集積地棲姫は、傍に居る彼へと視線を向ける。

 

「……私ノ存在意義ハ、物資ト共ニ尽キタ。シカシ、馴レ合ウ気モ無イ」

 

「構いません。ただ近いうちに、またお会いしたいと思います」

 

「好キニスルガ良イ。私ノ知ッテイル事ナド、多寡ガ知レテイル」

 

「いいえ。そんな事はありません。貴女が扱う、子鬼達に干渉する施術について窺いたいのです」

 

 その彼の言葉に、集積地棲姫が眼を窄めたときだった。音がした。キリキリキリ……。キチキチキチ……。軋む様な微かな音だ。それに、ザ……ザ……ザザ……ザ……、と。細切れになった砂嵐画面のような、ノイズ音。霞は心底ギョッとする。ヲ級も驚愕していた。

 

 彼が手に持っている、完全に壊れてボロボロのカセットプレーヤーが白濁の微光を放ち、電源も入れていない筈なのに作動し始めたのだ。それだけじゃない。くすんだオパール色の揺らぎがコードのように伸びて、集積地棲姫の手に持つヘッドホンへと繋がった。スピーカー部分が完全に壊れている為、カセットプレーヤーからは全く音が出ていない。代りに、ヘッドホンからそのノイズ音が漏れている。突然の事に、集積地棲姫もヘッドホンを持ったままで身体を強張らせている。流石に少年提督も多少は驚いたようだが、すぐに冷静な貌になって、カセットプレーヤーの音量調節のボタンをカチカチと押した。

 

「少しだけ、貸して頂けますか?」 

 

 少年提督は、集積地棲姫からヘッドホンを受け取った。手に持ったままで装着はせずに、彼は瞑目して耳を傾ける。ヘッドホンをつけていない霞にもこれだけノイズが聞こえてくるのだから、かなりの音量だ。あんなものを装着したところで、まともに聞き取る事は出来ないだろう。漏れて来るノイズの音は一定のままである。砂嵐に似たノイズは、次第に細かい波の音のようになった。次に、ゴポゴポ……コポコポ……、と。水の中で、泡が生るような音になった。環境音だろうか。割れて掠れた音だが、はっきりと聞こえる。霞も耳を澄ます。集積地棲姫も固唾を飲んでいる。ヲ級が彼の傍に近寄る。漏れて来る音が、更に大きくなった。

 

 その中に、声のようなものが混じった。何人分もの声だった。低い声。高い声。子供。大人。老人。呻くような苦しげな声。楽しげに笑う声。悲しげに泣く声。一定じゃない。輪郭が無い。言語も違う。音が割れていて、全然聞き取れない。英語やドイツ語のような発音をしている声もある。口々に何かを言っている。そして、また唐突に声が聞こえなくなった。消えたのでは無い。声の主達が黙ったのだ。そんな事は在り得ないのに、此方の様子を感じ取ったかのような間の取り方だった。無数の掠れた声の主達は、深く呼吸をしたようだった。声では無く、呼吸音のようなものが聞こえた。次の瞬間だった。

 

『……聞……こ、え……。て……。い、……る、か…………』と。

 

 はっきりとした言葉の形を持って、低い声が混じった。先程まで口々に喚きあっていた声が、一つになったような。深遠から届く様な、底知れない響きを持った声音だった。

 

『此、処……に、は。……何、も……無、い』

 

『海界……、眼下、は。……地の、獄、ゆえ……』

 

『お、前……の、求、め……る、も。……の、は』

 

『……何、も……無、い……』

 

『聞こ……え、て……い、る……か……』

 

 物凄い悪寒と鳥肌が立つのを感じた霞は、息を詰まらせた。集積地棲姫が身を引いて、ヲ級も唾を飲んで、彼の持つカセットプレーヤーを見詰めている。彼は瞑目したままだ。只管に、漏れて来る声を聞いている。声は、この白い金属の壁面や床に、不気味に木霊する。

 

『亡、魂と……、鉄、屑が。……縺、れ……』

 

『金……屑、と。怨……嗟が、……巣がく……』

 

『道、連……れに、綴る……、溺墓の、底……故、に』

 

『此、処……に、は。……何、も……無、い』

 

『此処、……は。……冥、い……』

 

『神仏が、違、えた……、人も、艦……も、化、生も』

 

『沈んで、尚……。朽ちて、尚……。散りて……尚……』

 

『生り……生り、生り……生りて、受戒せんと……廻り』

 

『死に、死に、死に、死んで……また、壊劫へ……還る』

 

『回向……と、苦輪を、……潮汐と、徒波に……、託す』

 

『此処に、踏み入り……此処に、触れ……るべ、からず』

 

 

 瞑目している少年提督は黙したままで、両の掌に墨色の微光を纏わせている。手にしたヘッドホンとカセットプレーヤーへと微光が伝い、白濁の揺らぎに滲みをつくっていた。低く掠れた声が紡ぐその支離滅裂な言葉は、明らかに此方に語りかけてきている。一体、この声の主は何者なのか。集積地棲姫やヲ級が身体を強張らせる中、唾を飲み込んだ霞の脳裏に、“海”という言葉が過ぎった時だ。『……同、志よ……』と。声の主が、笑った。

 

『拙き、哉…………同、志よ……』

 

『い、いか……?』

 

『白道は……、其処に、無い……』

 

『何れ、……お前、も……内に、巣くう……鬼を』

 

『世に、……背き、生り零す……時が、来るだろ、う』

 

『……拙き、哉……複、拙き哉、……』

 

『あぁ……、重ねて、拙き哉……』

 

 黙に冴えて墨に染む、重くて低い声だった。声は、低く喉を鳴らすように笑う。嘲笑うのでは無い。含みも無い。楽しげでも無い。可笑しそうでも無い。『呵呵……、呵、呵……』と、罅割れて掠れた声は笑う。自嘲にも似た響きが在るように聞こえる。彼はひとつ息を吐き出した。そして少しだけ、手にしたヘッドホンを強く握った。

 

「貴方は、やはり……」 

 

 

 彼は瞑目したままで、聞いた。カセットプレーヤーから流れる音声に声を掛けること自体、無意味なことだ。普通なら。しかし、今は違う。『……呵、呵』と、笑う声は、ぐぶぐぶ、ごぼ、がばごぼ、ぐぶごぼ……、と。水の中で泡を吐き出すような音を鳴らした。そしてすぐに、また声を返して来た。『そうだ。お前だ』と。今度は、はっきりと聞こえた。掠れてなどいない。ぶつ切れにもなっていない。瑞々しい声だ。子供の声の癖に、異様に澄んでいる。大人びた声音だ。間違いなく、少年提督と同じ声だった。

 

『ようこそ、少年。真如の際涯へ。絶景だろう』

 

 “声”は、“少年提督の声”で其処まで語ったところで唐突に途切れ、再びノイズへと輪郭を暈していく。後に残されたのは、驚愕と畏敬の念、そして、静寂だけだった。愕然として眼を見開いている霞の前で、彼は左眼を開けて細めていた。ヘッドホンとカセットプレーヤーを包んでいた、あの白濁の微光も薄れて消えていた。代りに、墨色の微光に包まれて、バキバキと変形し、次第に形を失っていく。あれは、大輪の花束だ。微光をくゆらせた、黒い蓮が咲いた。彼の手の中で、幾つも幾つも咲いて散っていく。彼は、崩れていくカセットプレーヤーの形を保とうとしたようだが、無駄だった。カセットプレーヤーが、墨色の花弁と微光の粒子となって融けて行く。声はもう、聞こえてこなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後。彼の手に残ったヘッドホンを受け取った集積地棲姫は、地下捕虜房の居住エリアへとヲ級の案内を大人しく受けて、研究室を後にした。流石に二人共、冷静という訳では無さそうだった。明らかに動揺した様子だったが、ずっとあのまま固まっている訳にもいかない。彼に促された集積地棲姫は何とも言えない表情だったが、ヲ級の方は多少は落ち着きを取り戻していた。秘書艦見習いの仕事として、集積地棲姫を連れて案内へと赴いてくれた。それが、今日のヲ級の最後の仕事だった。時刻はもう夕刻だった。

 

 研究施設を後にした霞達は、遠征から帰投して来た艦娘達を埠頭に迎えに行った。その途中で彼は、野獣と本営へと、先程の現象についての簡単な報告を兼ねた連絡を入れていた。野獣の方は執務室で、加賀と共に何やら騒いでいるようだった。端末越しに聞こえてくるあの騒がしさに、何となく気持ちが救われるような気がした。少年提督と野獣が、他所の鎮守府で少女提督を助けた際には、今日と似たような現象に遭遇したという事は、一応は霞も知っている。だから、深海と言うか、人智の及ばない場所と言うか。そういった超常の領域に、何らかの“意思”が存在している事は知っているつもりだった。しかし実際に目の当たりにすると、その異様さを肌で感じた。まだ畏怖の念と共に、脚に微かな震えが残っている。

 

 

 遠征から帰って来た皆には大きな怪我も無く、駆逐艦娘達から口頭での報告を受けている少年提督は、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべていた。優しい微笑みと共に、彼女達を労い感謝を伝えていた。本当にいつも通りだ。さっきの衝撃的な出来事など、まるで無かったかのようだ。平常心というレベルじゃない。感覚が狂いそうになる。前の事だ。酔っていた天龍が、慈しみを滲ませた笑みを浮かべて言っていた。「相変わらず、アイツは何を考えてるのか分からない」と。「だから、誰かが傍に居てやらねぇとなぁ」と。霞は、その言葉を改めて実感した。

 

 眉間にも深く皺を寄せていたからだろう。遠征から帰って来た長月達に、怪訝そうな貌で見られた。霞は視線を逸らすでもなく、睨み返すでも無く、受け止めて頷いた。お疲れ様。皆無事で良かったわ。そう本音を短く伝えた。長月は笑って頷いてくれた。うまく誤魔化せただろうか。駆逐艦娘達がドッグへと向うのを見送り、霞は埠頭で溜息を吐き出した。波音に塗された、茜色の斜陽の中。埠頭を渡る緩い潮風が、霞の髪を揺らし、その吐息を溶かしていく。「ねぇ……」と。霞は執務室へと戻ろうとする彼に、歩きながら声を掛けた。

 

 

 

「アレは一体、何だったの……?」

 

 霞に背を向けて居た彼は、歩きながら顔を此方に振り返らせた。霞は歩を速めて、彼の隣に並ぶ。

 

「……僕達が説得すべき相手、とでも言いましょうか」

 

 眼帯をした彼は穏やかな表情のままで、左の目許を緩めて見せた。

 

「深海棲艦の親玉みたいなものじゃないの。アンタの声まで真似て来て、気味が悪いったら無いわ」

 

 霞は歩きながら腕を組んで鼻を鳴らす。

 

「それに、予めカセットテープに録音されてるなんて……」

 

「海の神達の中には、多くのものに姿を変え、未来を視る力を持った神も居たそうです」

 

 落ち着いた様子の彼に、霞は表情を歪めた。

 

「じゃあ、あの“声の主”は、何れアンタが集積地棲姫と一緒に、あのプレーヤーを回収するって知ってたってワケ?」

 

「可能性は無いとは言えません」

 

「神様が相手だなんて笑えるわ。ワダツミ、って奴?」

 

「いえ、……外国の神様です」

 

「日本の神じゃないの? さっきの“声”、日本語だったけど」

 

「言葉の内容も、日本的な宗教観を持っていました」

 

「来るなって言ったり、ようこそって言ったり。支離滅裂で意味不明だったけど」

 

「そうですね。……ただ、話が出来るなら、説得も可能かもしれません」

 

「アンタは本営や世論だけじゃなくて、あんな得体の知れない存在にまで話し合いを持ち掛けたいっての?」

 

「端的に言えば、そうなります……。“彼”が終わったと言うまでは、この戦いは続くでしょう」

 

「理想を求めすぎよ。人間も艦娘も深海棲艦も、仲良しこよしになるなんて」

 

「……妥協も時間も必要な事は、理解はしているつもりです」

 

「いいえ、してないわ。アンタは未来ばっかり見てる」

 

 強い語気で言い放った霞は、彼を見詰める。彼は、ハッとしたような表情だった。何だかバツが悪くなって、霞はきゅっと下唇を噛んで眼を逸らす。立ち止まる。また緩く潮風が吹いて、穏やかな波音と沈黙を撫でていく。夕陽が翳り、空の暗がりが少しだけ濃く滲んでいる。霞は息を大きく吸い込んで、吐き出す。「……ごめん」と。少しだけ俯いた。霞に合わせて歩を止めていた彼は、やはり優しい貌のままで「いいえ……」と、首を横に振ってくれた。霞は胸が苦しくなった。

 

「私がアンタの為に出来ることなんて、それこそ多寡が知れているわ。でも、私はアンタの事をよく見てるつもりよ」

 

 霞は彼に向き直り、ぐっと睨むように見詰める。

 

「また一人で何処かに消えちゃおうなんてしたら、今度こそ許さないわよ」

 

「はい……、肝に銘じておきます」 目許を緩めた彼は、緩く頷いた。

 

「じゃあ……。黙って何処かに行こうとしないって、約束して」

 

「分かりました。約束します」

 

「……ふん」

 

 霞はそっぽを向いて鼻を鳴らし、歩き出した。彼の影を踏み、隣を通り過ぎる。「執務室に戻るわよ」と。早口でそう言おうとした時だった。一際強い潮風が吹いて、彼の前を行こうとした霞のスカートを盛大に巻き上げた。彼が「あっ」、と小さく声を上げるのを聞いた。霞はガバッとスカートを押さえて振り返る。彼が、すっと視線を斜め下へと流した。

 

 彼は伏し目がちに眼を合わせようとしない。霞は羞恥で上手く言葉が出てこなかった。そう言えば、今日どんなの穿いてたかな……。今日は秘書艦だったから、昨日の夜から気合が入りすぎていて眠れなかった。御蔭で寝坊し掛けて、早朝は大慌てで身支度をしたのでよく覚えていない。仕事に必要なものは予め用意してあったものの、下着にまでは気が回らなかった。霞は、勇気を振り絞って訊く。

 

「……見た?」

 

「ぃ、いえ、……僕は、何も……」

 

「眼を見なさいよ! ぁ、いや! や、やっぱり見なくて良いったら!」

 

「とったどぉぉぉぉおおおおおお!!!!!(戦果報告)」

 

 そこに最悪なタイミングと言うか、見計らっていたとした思えない間で、海から何かが現れた。いや、飛び出して来た。妖怪かと思った。霞達のすぐ傍からだ。霞と少年提督は、仲良くビクッと肩を跳ねさせる。海から飛び出して宙返りを決めたソイツは、ゴーグルを掛けて、右手に銛を持っている。左手には携帯端末だ。防水加工でもしてあるんだろう。シュタッ! と埠頭のコンクリの上に着地した。そして、似合わない爽やかな笑顔を浮かべて、ゴーグルを額へとずらして見せた。野獣だった。上半身裸で、海パン一丁である。「お疲れ様です」と、丁寧に挨拶をする少年提督の隣で、霞は苦虫を噛み潰したような顔になった。

 

「アンタはさぁ、何やってんのよ……。さっきまでの執務室に居たんでしょ!?」

 

「ちょっと休憩時間に、軽く身体を動かしてただけだから(ストレス管理)」

 

「どう見てもサボってるだけじゃないの!」

 

 眉間に皺を寄せて言う霞に、野獣がまぁまぁと宥めるように笑う。そして、手にした携帯端末のディスプレイを霞に見せた。「ほぉあっ!!?」と、霞が変な声を上げる。其処には、霞のスカートが捲れあがった決定的瞬間が映し出されていた。クマさんパンツのドアップ。凄い高精彩写真だった。コイツ、海の中からシャッターチャンスを窺っていたのか。最悪過ぎる。野獣は、穏やかな微笑みを浮かべて頷いてみせる。

 

「お前にもこんな可愛げがあったとはなぁ~……(しみじみ)」

 

「ちょっとぉ! 消しなさいよそれぇ!!」

 

「やだよぉ(駄々)。でも、クマさんパンツじゃ何か(色気が)足んねぇよなぁ?」

 

 野獣は真面目な表情を浮かべて見せて、少年提督に言う。少年提督は微苦笑を浮かべて、「可愛くて、霞さんに良く似合っていると思いますけど……」と、霞と野獣を見比べてのたまう。あれでフォローしているつもりなのか。霞が、はぁぁぁ~……と、顔を押さえて攻撃的な吐息を吐きだす。「そうなんだけどさぁ……(概ね賛成)」と、野獣も半笑いのままで一応頷いてみせる。

 

「あっ、そうだ!(天啓)パンツの変わりにぃ、絆創膏とか如何ッスか? Oh^~?」

 

 半笑いの野獣が霞の方を見た瞬間。霞は短く息を吐き出して踏み込み、野獣が持っている携帯端末を奪い取ろうとした。しかし、野獣はこれをすっと身を引いてかわす。携帯端末を奪うべく霞が伸ばした手は空を切るが、霞はそのままの勢いで更に踏み込む。「シュッ!」と鋭く息を吐いて、野獣の向う脛にローキックを叩き込もうとした。しかし、これも空ぶる。野獣がまた身を引いて、間合いを外したのだ。霞から距離を離しつつ音も無くコンクリに着地した野獣は、携帯端末を片手で操作しながら、優しげに頷いて見せた。それがまた腹立たしい。

 

「避けんじゃないわよぉ!!(憤怒)」 霞が叫ぶ。

 

「まま、そう怒んないでよ。じゃあ俺、この写真、ブログにアップして帰るから……(屑)」

 

「ヤメロォ!!(半泣き)」

 

「うそだよ(ジョーク先輩)」

 

「ほんとぉ!?(キレ気味)」

 

「うそだよ(半笑い先輩)」

 

「どっちよぉ!!?(艤装召還)」

 

 赤い顔をした霞が叫ぶものの、野獣は肩を竦めて見せるだけだ。霞もぐっと言葉を堪えて召還した艤装を解除して、歯軋りをしながら野獣を睨む。もう噛み付くのはやめよう。このままだと本当に泣かされそうだ。黙ってる方が良い。相手にするから調子に乗るのだ。「ふんっ……!」っと、腕を組んでそっぽを向く。そんな霞の『総スルーの構え』を見た野獣は、苦笑を漏らしてから少年提督に向き直った。

 

 

「あっ、そうだ(本日二回目)。……上層部に居る知り合いと連絡取ったけど、今回の件も保留になりそうだゾ」

 

 本題に入ったのだろう。野獣の纏う雰囲気が少しだけ変わった。

 

「お偉いさん達からすると、『眼の前の深海棲艦を根こそぎ撃滅さえすれば、そういう理解の及ばない部分も解決する』って考えてる節が在るんだよなぁ(危惧)」

 

 口調こそ軽いものの、ふざけているような様子では無い。

 

「そうですか……。作戦行動を控えている今の状況では、対策が後回しになるのも仕方の無いことだと思います」

 

 少年提督は少しだけ残念そうに言いながら、夕昏の海をチラリと一瞥して、眩しげに眼を細めた。また潮風が吹く。霞は、彼と野獣を見比べた。『今回の件も』というのは、少女提督を助けた時に続き、霞もつい先ほど体験した、あの超常現象についてのことだろう。霞の視線に気付いた野獣が、肩を竦める

 

「社会から見ればもっと分かり易い脅威として、深海棲艦が居るからね。実害や実体を持たない、ああいう現象への対処や研究が後回しになるのも、まぁ多少なりはね……(組織生命的欠点)」

 

 本営が社会から求められているものも、深海棲艦という脅威から人々を守り、脅威そのものを排除することでもある。そしてそれは、艦娘達の活躍によって大きく果たされている。社会は、一応の平和と呼べる時間を取り戻しつつある。人類は大きく優位に立っている。それでも、まだまだ戦いは終わっていない。

 

 新たな種類の深海棲艦が出現を続ける中で、霞に出来ることは何だ。決まっている。戦うことだ。今はまだ、戦うしか無い。彼の下で、海に向うしかない。彼の配下にある深海棲艦達を『特使艦隊』として運用する時が来れば、更に人類はこの優位を磐石にするだろう。いよいよとその時になって、鬼が出るか蛇が出るか。霞が口の中を噛んでいると、野獣が首を鳴らした。

 

「んにゃっぴ、出来ることを積み重ねていくしかないですよね、取りあえず……」

 

 言いながら野獣も、海の方へと視線を向けた。暮れなずむ水平線に、赤い陽が沈んでいく。少年提督も軽く笑みを浮かべて、野獣を見遣る。それから、すぐに霞にも微笑んで見せた。ドキッとした。それを誤魔化すべく、霞は腕を組んだままでまた鼻を鳴らす。奥歯をかみ合わせて、ゴリゴリと鳴らした。これからも、霞のやる事は変わらない。戦うだけだ。それで良い。艦娘としての領分を果たす。戦って、戦って、戦い抜く。殺戮では無く、受容の為に。戦いを終わらせる為に。だが、霞にだって譲れないものもある。それは、彼だ。彼の存在だ。霞は、彼をチラリと見遣る。先程、彼の手の中で咲いた蓮の花が脳裏に過ぎった。

 

 霞は、蓮の花言葉を知っている。前の事だ。彼は食堂で、暁達に『好きな花は何か』と聞かれていた。その時に彼は、“蓮”と答えていたのを聞いていた。だから、こっそりと調べてみたのだ。蓮の花言葉には、“離れ行く愛”や、“神聖さ”。“清らかな心”。そして“救いを求める心”。などがある。そして墨色の蓮は、この世には無い。自然の中に存在しない。酷く不吉だ。彼が造物に添えて咲かせる墨色の蓮には、どんな花言葉が宿るのか。分からない。

 

 霞は“海”を睨んだ。夕陽に輝く波音が迫ってくるような気がした。上等だ。深海棲艦との不可侵や和解の為に戦うぐらい、いくらでも身体を張る覚悟は出来ている。少年提督が誰とケッコンしようが、それは揺るがない。霞は霞として在り続けるだけだ。だが、“海”が彼を持ち去るなんて事は許すつもりは無い。霞は、野獣と共に海を眺める少年提督の横顔を、気取られないようにそっと見詰めた。胸が軋んだ。彼は司令官だ。霞の司令官だ。誰にもやるものか。“海”め。彼に手を伸ばしてきてみろ。ひっ捕まえて、その背骨をへし折ってやる。

 


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