花盛りの鎮守府へようこそ   作:ココアライオン

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前作の第8章の内容と、シリアス色が強い回となるかと思います。

苦手な方は飛ばして頂いても大丈夫かと思います。
御迷惑をおかけして、申し訳ありません……。


教外別伝 後編

 現在、艦娘囀線では、試作段階のVR機器を持ち出した野獣が何やらタイムラインを騒がしていた。何でも艦娘図鑑への応用も検討しているらしく、その虚像の中身まで作り込むか否かで、タイムラインは大荒れだ。勿論、駆逐艦娘達には見せられないような下ネタな流れなので、きっとフィルターも掛けられている事だろう。現実でも電子の世界でも、野獣は奔放だ。それに付き合わされる艦娘達もまた騒がしい。ここの皆は、いつも楽しそうねぇ~。胸中で呟きながら、龍田は艦娘囀線のタイムラインを追っていた携帯端末を懐に仕舞った。

 

 埠頭の端。此処は、普段もほとんど人の気配の無いところだ。龍田はひとり、蒼い海を眺めている。波が静かだ。空も青い。薄い雲が、太陽と共に此方を見下ろしている。波音と潮の香りを優しく運びながら、緩い風が吹いている。龍田は、抜けるような空を眺め遣り、軽く笑みを浮かべた。いや、浮かべようとしたが、失敗した。下唇を少しだけ噛む。また風が吹いた。

 

 

 

 

 艦娘は、人間を攻撃できない。

 艦娘は、人間に危害を加えることができない。

 

 

 その理由は、いまだに解明されていない。かつての艦船の現身である、艦娘という種が生まれ持った制限であり、ルールだった。育まれる筈であった人格を破壊され、自我を潰され、命令に従うだけの兵器として完成した艦娘であっても、この制限を超えることは出来なかった。人類はこのルールを破壊する為に、多くの艦娘達を用いて実験を繰り返した。艦娘は肉の躰を持っているが、其処に宿る精神と魂は、“提督”達にとって非実在の金属である。つまりは、物質として捉える。そういった領域に干渉する者を“提督”と呼ぶこの世界は、深い闇を抱えている。

 

 それを身を以て知っている龍田は、こういった施術実験の被験者であり、ルールを超えた艦娘の一人でもある。同時に、少年提督が召んだ艦娘ではない。命令の優先権は少年提督ではなく、オーナーである本営にある。龍田は本営からの命令さえあれば、艦娘としての超人的な力を振るい人間を傷つけることが出来る。いや、正確には、命令などなくとも良い。龍田は自らの意思で、人間を殺すことも出来る。命令とは、その意思に強制力と指向性を持たせる為のものだ。逆らえないが、絶対に必要というわけでは無い。そう造りかえられたのだ。龍田自身、其処に特別な意味を見出すことは無かった。それは多分、この鎮守府に居る野獣の存在が大きい。

 

 艦娘は、人間を攻撃できない。これは、確かに厳格なルールだ。しかし、加賀や摩耶は、以前から野獣を殴ったり蹴ったりしている。霞や曙なども、攻撃を仕掛けた時だってあった。これが意味していることは、至極単純な事だ。野獣は、普通の“人間”ではない。だから艦娘達は、物理的な攻撃を伴うスキンシップやコミュニケーションが可能なのだ。その理由や背景を詳しく知っている艦娘は限られているのだろうが、野獣が見た目通りの人間ではないことは、この鎮守府に居る艦娘達はとっくに察している。かつて、レ級達に鎮守府が強襲された時も。少女提督達と出会う切っ掛けとなった事件の時も。野獣は少年提督と共に、その超人的な力を以て解決へと導いている。そんな野獣は、普段はお茶らけていて、いい加減で、無茶苦茶で、バカバカしくて、お調子者で、艦娘達を振り回し、皆から脛を蹴られたり、艤装を向けられたりしている。

 

 そうだ。野獣が居ると、龍田は、己が忌むべき存在であるという事を忘れることが出来た。少年提督のもとで、この鎮守府での“普通の艦娘”であることが出来た。自分自身から目を逸らすこと出来ていた。つい最近になって、『“この鎮守府に所属している龍田”を、出撃させることを控えよ』との、本営からの指示が在るまでは。

 

 

 この時期を同じくして、龍田と同様の施術を受けた艦娘達に、人格と自我の崩壊という、深刻な“機能不全・停止・廃棄”が続き、それが顕在化しているという報告も、かつて少年提督は受けていた。おそらく、表に出ない部類の報告だった筈だが、無茶な精神改造を受けた艦娘達の人格に限界が訪れているのだろうと、辛そうな貌をした彼は龍田に教えてくれた。龍田は彼の下で、自我や精神への治癒・修繕施術を定期的に受けていたし、何らかの特別な調律を施してくれていた。御陰で精神的にも安定しており、人格や思考が崩壊するようなことも無かった。そうして現在。『艦娘は人間を攻撃できない』というルールの外に在った艦娘たち数人の内、健在であるのは龍田のみという状況らしい。これも後から知ったことだが、かつての精神改造施術の成功例はそう多くなく、龍田を含めて数例だったとの事だ。多くの艦娘は死人同様の機能不全となって、廃棄された。

 

 龍田の出撃を控えさせようという本営からの指示についても、その意図を読み取ることは容易かった。数少ない成功例であり、唯一生き残っている龍田を手元に残しておきたいのだ。出撃先の海域で、万が一という事もある。もうストックは無い。沈まれては困るのだ。では、龍田を残しておきたいのは、何の為に? その目的は? そんなものは決まっている。少年提督の理想とする、人類と艦娘の共存という未来を脅かすためだ。

 

 もしも。もしもである。深海棲艦達との戦いが終わった後。人類の社会の中に艦娘達が入り込むことになり、新たな法や秩序の中で共存を目指そうという時。だれか一人でも艦娘が、意味も無く、無差別に、容赦なく、周囲の人間を殺害する事件が起きれば、どうなるか。仮に。あくまで、仮に。余りに幼稚な、浅薄で浅慮な仮定だが。平和になった世界で。本営の手に戻り、人間を殺害せよと命を受けた龍田が。道行く子供達を次々に惨殺するような事があれば、どうなるか。龍田は其処まで考えて、漏れそうになった溜息を飲み込んだ。

 

 

 この深海棲艦達との戦いが終わった後、世間では人類の守護者として艦娘達が奮戦して、本当の平和が訪れたという事になるだろう。そうなった時、人類は艦娘達とどう生きていくかを選択することになる。共存の道を探る必要が出て来る。それを見越して、社会の中で艦娘達が生きていく為の法整備の準備も進んでいる。しかし、これは艦娘達が生きていく道をつくる為ではない。あくまで、ポーズに過ぎない。本営は、艦娘達と共存する気など無い。龍田を失いたくないという本営の意思に背後にあるのは、仕組まれた悲劇と、設計された支配であることは明らかだった。まだ龍田の他にも“ルールの外に居る艦娘”が残っていたとしても、状況はさほど変わらなかったように思う。

 

 

 龍田のような、艦娘達から“人間への攻撃不可”というルールの枷を外すには、膨大な人員と時間と費用が必要になってくる。加えて、深海棲艦との戦いで優位に立っている現状では、艦娘達の人権と社会への適応が議論されている段階だ。そんな中で、非人道的な人体実験の規模を拡大するのは、本営にとってもリスクを伴うことになる。世間の目や世論を敵に回すのは、出来るだけ避けたい筈だ。そうなれば、“ルールの外に居る艦娘”を新たに造るのではなく、ストックの保持に努めるほうが賢明であろう。

 

 要するに龍田は、少年提督の理想における、致命的な“綻び”である。人間を攻撃可能な艦娘の存在は、人類と艦娘との共存の未来を、簡単に破壊できる。極端に言えば、龍田が存在する限り、本営は艦娘達をいつでも追い詰めることが出来る。少年提督の理想も艦娘達の未来も脅かされ続ける。本営にとっての龍田は、手に負えなくなりつつある少年提督という存在へのある種の切り札であり、取引を有利に進める為の材料だった。

 

 

 いずれ、こういう事態を招くことは、龍田も薄々には予想はしていた。ただ、とうとうその時が近づいてきただけの事だ。なるようにしかならない事も、理解していた。これから、自分はどのように在るべきか。考える。考えるが、答えは出ない。当たり前だ。少年提督と本営の間に、どのような取引が行われ、少年提督が何を抱え込むことになるのかなど。龍田の意思や、決意の及ばない話だからだ。世界や日常と呼びうるこの景色は、意味や形を変えながら、勝手に進んでいく。龍田に出来ることは、ただ受け入れるだけだ。本当にそうか? 本当に? 何かあるのではないか。そう考えるものの、思考は同じところを廻るだけ。

 

 

 

 どうしようもないわよねぇ~……。そんな風に胸中で呟きながらも、波音に紛れ、背後から近づいてくる足音には気付いていた。遠慮のない近寄り方だった。龍田にこんな風に距離を詰めて来る艦娘は、一人しかいない。天龍だ。龍田の背後。少し離れた位置で立ち止まった天龍は、少しの間、黙ったままだった。龍田も、何も言わない。風の音。波の音。陽のぬくみ。青い空。普段と変わらない景色だ。この景色の中に居る自分もまた、今はまだ、普段通りに振る舞えば良い。それだけだ。

 

 そんな穏やかな景色も、今日はいやに暗く見える。最近は、この埠頭の端へと一人で訪れることが増えた。誰かと一緒に居ると、酷く息苦しく思うようになった。自身の存在を疑うようになった。何もかもに置き去りにされたような、虚しさにも似た諦観が心に渦を巻いていた。答えは出ない。ただ、取り乱して狼狽するほど、己自身に希望を持っている訳では無かった。一人でいれば、落ち着く。落ち着いていられる。

 

 

 

 「最近、よく此処に居るよな」

 

 先に口を開いたのは、天龍だった。背中で聞いたその声は、やけに落ち着いていた。

 

「ん~、そうかしらぁ?」

 

 肩越しに龍田は振り返って、とぼける様に笑みを浮かべた。上手く笑えた筈だが、天龍の方は少しだけ眉間に皺を寄せて、鼻から息を吐き出して見せた。

 

「なんか張りつめた貌してるぜ」

 

「えぇ~? 私はいつも通りよ、天龍ちゃん」

 

 海からの風に揺れる髪を手で抑えながら、龍田は微笑みを浮かべようとして、やめた。その時はもう、天龍は龍田のすぐ隣まで歩いて来ていた。肩を並べて、埠頭から海を眺める。また暫くの間、二人とも無言だった。ただ、波の音を聞き、緩い潮風と陽の光を浴びていた。

 

「……いや、違うな」

 

 先に口を開いたのは、やはり天龍だった。

 

「張りつめてるだけじゃねぇ。死ぬ事ばっか考えてるような眼だ」

 

 また、風が吹いた。天龍は龍田の方を見ない。静かな面差しで、水平線の向こうを見ている。此方を見ずとも、龍田の胸中を見抜いているかのような、落ち着いた声音だった。龍田は、そんな天龍の横顔を視線だけで見て、少しだけ眼を細めた。しかし、すぐに肩をすくめる。

 

「それも、いつも通りだと思うんだけどなぁ?」

 

 今度は、微笑んで見せた。いつも通りの微笑みだ。これでいい。何も知られたくない。聞かれたって教えない。そうだ。こんな事は、誰も知らなくたって良い。知ったところで、どうしようも無い。私達は、艦娘だ。今も、これからも、人類の管理下にある。どうしようも、ない。そんな諦観から来る、肩の力の抜けた龍田の微笑みも、声音も、きっといつも通りだった筈だ。其処に、天龍が何を思ったのかは分からない。

 

「そうかよ」、と。

 

 天龍も、いつも通りの嫌味の無い笑みを浮かべて見せた。

 

「相談くらいなら、いつでも乗るからな。遠慮すんなよ?」

 

 ニッと唇の端を持ち上げて、やんちゃそうで、その癖、面倒見の良さそうな笑みだった。龍田は動揺した。全てを見透かされているような気がした。気のせいだ。そう言い聞かせて、龍田は微笑みを貌に張り付ける。

 

「天龍ちゃんに相談したら、余計にややこしくなりそう」

 

「うるせー。悪かったな」

 

「あっ、そうだ。昨夜、冷蔵庫にあった間宮印のプリン食べちゃったんだけど」

 

「んんっ!? マジかよ!?」

 

「冗談よ~」

 

「だからよー……。そういうのやめろよ」

 

 眉尻を下げて肩を落とす天龍を横目で見て、龍田はクスクスと笑う。しかしすぐに視線を外して、海へと向けた。波音は穏やかなままだ。風が吹く。二人の髪を撫でていく。

 

「……そう言えば、提督は今日も施設に出向いているのよねぇ?」

 

「さっき出ていくのを見たが、そうみてぇだな」

 

 天龍が低い声で言う。

 

「アイツの意識を再現する、高度な人工知能を作ってるって話だが……」

 

「ちょっとキナ臭いわよねぇ~」

 

「あぁ。お偉いさん共の考えることは分かんねぇが、どうせ碌でもねぇことに使おうとしてんだろう」

 

 天龍は不機嫌そうに鼻を鳴らしてから、唇の端を持ち上げて見せた。一発ぶん殴ってやりてぇが、それも出来ねぇからな。そう言いながら、首を左右に曲げてゴキゴキと鳴らした。また龍田は、不機嫌そうに眼を細める天龍を横目で見た。そう。天龍は、人間を攻撃できない。艦娘という枠の中。ルールの中に居る。そんな風に思った時だ。不意に。天龍も、横目で此方に視線を向けてきた。目が合う。ギクリとしそうになる。龍田が目を逸らそうとするよりも先に、天龍がニッと笑った。

 

「俺の代わりに、ぶん殴ってきてくれよ」

 

 冗談めかして言う天龍のその言葉に、龍田は唾を飲み込んだ。やはり、天龍は勘づいているのか。龍田の胸中を見透かしているのだろうか。わからない。それでも、何かを察しているのは間違いない。そう思う。龍田はそっと視線を逸らして、緩く息を吐き出しながら微笑んだ。

 

「そうねぇ。出来るなら、首でも落として来ようかしら」

 

「いやいや、それはやり過ぎだろ」

 

 とんでもなく物騒なことを悪戯っぽく言う龍田に、天龍が緩く笑って見せた時だ。静かな波音に穴をあけるような、PiPiPiPiPiという高い電子音が響いた。天龍の懐からだった。携帯端末に着信があったようだ。天龍は懐から携帯端末を取り出して、ディスプレイを一瞥した。「さて、そろそろ行くか……」と呟いた天龍は、今日は確か遠征に出る予定だった筈だ。その前の僅かな時間を利用して、非番の龍田に会いに来てくれたという事か。

 

「気をつけてねぇ」

 

 龍田は笑みを崩さない。天龍も踵を返す。

 

「おう」

 

 今度は天龍が肩越しに、龍田へと振り返った。

 

「まぁ、相談に乗るってのはマジだ。気が向いたらで良い。いつでも言えよ」

 

 やはり天龍の声音はいつも通りだった。そう聞こえるように、天龍が龍田に気を遣ってくれているだけか。天龍は、何が在ったのかを龍田に訊かない。訊こうとしない。しかし、知ろうとしない訳ではない。ただ、待っている。龍田が納得のいく形で、己の事を打ち明けられる時を、待ってくれているのだ。じれったい筈だ。それでも天龍は、姉妹艦である龍田の言葉を辛抱強く待っている。

 

 その姉の優しさに、危うく微笑みが剥がれかけた。胸がギシギシと痛んだ。何かを口走りそうになって、すんでのところで踏みとどまる。頭の隅。冷静な部分が言う。此処で、龍田が天龍に何もかもを話して、何がどうなる。何をどう言えばいい。無駄だ。現実は何も変わらない。厳然として在り続ける。どうしようもない。もう、笑うしかない。だから、龍田はそうした。

 

「ふふふ……。有難う、天龍ちゃん」

 

 軽く笑いながら紡いだ龍田の声は、やはり普段通りだった。それが意味するのは、天龍への拒絶だろうか。それとも、私は大丈夫だから、という気遣いか。龍田は自分でも分からなかった。天龍は肩越しにまた笑みを浮かべて、ひらひらと手を振っていた。その背中が、やけに大きく見えた。波の音を聞きながら龍田も、その背中に手を振り返す。振り返しながら、唇をきゅっと噛んだ。そうして、天龍の背中が見えなくなり、埠頭に残された龍田は、一人で俯く。その目の前。足元の少し先には、ただ海が在るだけだった。

 

 

 

 

 

 

 天龍と別れてから少しして、穏やかな波音を背に聞きながら埠頭を離れた。今日の龍田は非番だ。時間を持て余している。あてどなく、鎮守府の中を彷徨う。此処は、『鎮守府』と呼ばれているが、これは便宜的なものだ。呉や大湊、佐世保などと言った鎮守府とは違う。かつてあった深海棲艦達との激戦期の中で、艦娘達を運用する為に各地に整備された軍属の基地のことを、『鎮守府』と呼んでいる。場所によっては、『泊地』、『基地』などとも呼ばれているが、此処の艦娘達は自分たちの居るこの場所を『鎮守府』と呼んでいる。他の『鎮守府』や『泊地』、『基地』の艦娘達にとっては、この世界はどう見えているのだろう。龍田は、目的地も無く一人で歩きながら考える。思う。しかし、すぐに止めた。無駄だ。そんなことを考えても、どうしようもない。龍田は意味も無く歩いた。じっとしていると、こういう事ばかり考えてしまう。だから、歩く。

 

 その途中で何人かの艦娘に出会う。龍田は、いつも通り、にこやかに挨拶をして、遣り過ごす。話掛けられても、愛想よく微笑みを浮かべながら応える。それは普段と変わらない。この“普段”や“いつも通り”という空気や雰囲気は、この鎮守府に居る艦娘達が皆で、少しずつ少しずつ、大切に育んできたものだ。これからも、大切にしていこうとしているものだ。少年提督や野獣提督、少女提督に召ばれ、還されたこの場所、この雰囲気、過ごす時間といったものに、皆は愛情を持っている。気付けば、掛け替えのないものになっている。それは、少年提督の配下となった深海棲艦達にとっても同じだ。望まずに辿り着いたこの場所に、人類の敵であった彼女達の居場所が出来た。名を呼び交わしあう仲になりつつある。“普段”や“いつも通り”という時間の中で、尊い変化の兆しを見せ始めている。しかし、その“普段”も、これから変わっていく事になるだろう。“いつも通り”という意味も、変わっていくだろう。

 

 本営によって設計された未来には、この鎮守府の“普段”も“いつも通り”という時間も存在する余白が無い。用意されていない。少年提督が目指す、艦娘だけでなく、深海棲艦とも共に生きていく未来など。存在の余地が無い。本営は、深海棲艦と共存するつもりなどない。戦いが終われば、艦娘達を奴隷として完全に支配する未来が仕組まれている。用意している。『人間を殺せる艦娘』である龍田は、この人類の恐ろしい不実に、正義と正当性を与えることが出来る。

 

 龍田は眩暈を覚えて、立ち止まった。もう、どれほど歩いたのか。夕暮れの廊下の壁に凭れ掛かる。体を預けて、項垂れる。足元に伸びる影は、いびつ歪んで床と壁に張り付いていた。この影から逃げ場はない。ずっと付いてくる。気付けば、この廊下は、少年提督の執務室の傍だった。無意識のうちに、彼に会いに来ていたのか。龍田はほんの少しだけ、自嘲気味に笑みを浮かべた。

 

 無駄だ。彼に会っても、何も解決しない。それは知っている。少年提督は確かに、優れた生命鍛冶と金属儀礼を扱うことが出来る。しかし、そんな彼であっても、精神改造施術による龍田の魂の在り方を、本質から徹底的に変えることは出来ないそうだ。龍田は以前、彼からそう言われた。その時の彼は、本当に申し訳なさそうだった。普段は落ち着き払って、異様なくらいに大人びている彼が、あんな泣きそうな貌をしたのも久しぶりだった。

 

 笑みを貌から消して、龍田はまた廊下を歩きだす。誰も居ない。空気が冷たい。寒い。静かだ。まるで、この世界に龍田だけが取り残されたようだ。それで良い。構わない。放っておいて。私は大丈夫。大丈夫だから。いざとなれば、死ねばいい。そんな風に思う時もある。でも龍田が死ねば、本営は世論を敵に回すリスクを冒してでも、龍田の代わりとなる“ルールの外に居る艦娘”を造りに掛かるだろう。上層部の人間の中には、どうしても少年提督よりも優位に立ちたい者も多い。多くの艦娘達が犠牲になるに違いない。もう、どうしようも、ない。窓の外を見た。さっきまでは嫌味なくらい晴れていたのに。空には、厚く昏い雲が広がっていた。滲む夕日も、何処か濁って見える。

 

 執務室の扉は、もう目の前だった。

 

「失礼するわねぇ~」

 

 少し掠れた声で言いながら、龍田は扉をノックした。返事が返ってこない事は知っている。少年提督は今、鎮守府には居ない。傍に設立された深海棲艦の研究施設に出向いていると、先ほど天龍も言っていた。廊下に静寂が残る。数秒してから、龍田は執務室の扉を開けて、中に入った。勝手に入るのも不味いかと思ったが、まぁ、悪さをする訳でもないから良いだろう。少年提督の執務室は、モデルルームの空間のようだ。清潔感をもって整頓されている。今日はウォースパイトが秘書艦であり、きっと休憩には紅茶を飲んだりした筈だ。だというのに、此処に人がいたという形跡や体温を感じさせない。何故かひどく無機質だ。窓は閉まっている。空気が停滞している中で、濁った夕日が差していた。

 

 暗がりに伸びる影を足元に引き連れて、龍田は執務室のソファに座る。体を投げ出すでも、凭れ掛かるでも無く、行儀よく座った。茜色に滲む曇り空を、ぼんやりと窓の外に見る。息が漏れた。答えの出ない思考が続いていて、疲れた。少しの間、龍田は何もせずに座っていた。そして、あるものに気づいた。龍田は立ち上がり、足音も鳴らさず少年提督の執務机に歩み寄る。其処に、何かが置かれている。

 

 重厚な執務机に置かれていたそれは、ヘルメットとゴーグル、そして、ヘッドセットのマイクを組み合わせたような形をしている。しかし、デザインには機械っぽい無骨さは無く、洗練された流線的なフォルムをしていた。さきほど艦娘囀線で野獣達が話をしていたVR機器だろう。機器の本体には電源が入っているようだ。かすかな駆動音が聞こえる。龍田は、そっとそのVR機器を持ち上げてみる。軽い。龍田は特に何も思わず、それを装着してみた。

 いや、装着と言うには、あまりに簡単だった。単純に被っただけ。

 

 VR機器を装着してから、龍田は自分の行動に少し笑った。いつもなら、誰も居ない執務室に足を運ぶことなんて無いし、こんな機器を何気なく手に取ることも無かっただろう。いつもと違うことをしているのは、今の龍田の精神状態が、いつもとは違うという事か。

 

 いつもの自分。

 

 そんな概念は、自我を破壊された艦娘には無い。兵器として完成してしまえば、悩むことも無い。プログラムされた人格だけが残り、この肉体は任務を遂行する。そっちの方が楽かもしれない。何も考えなくても良い。艦娘の中には、望んで己の“個”を捨てた者も居たという。今なら理解できる気がした。こんなに苦しいのなら、自我も感情も要らない。かつて、精神改造を受けてすぐの時には、何かに絶望することも無かった。最初から希望なんて無かったからだ。私は殺人マシーンだった。まだ、人を殺したことは無い。それでも、躊躇などしないだろう。私は殺せる。命令さえあれば、人を殺せる。誰でも殺せる。それがどうしたと言った感じだった。何らかの感情を抱くことなど無い筈だった。

 

 

 それで良かった。何も感じない、冷酷な殺人マシーン。

 表面上は朗らかであっても、心の奥底では徹底してそうあるべきだった。

 そのつもりだった。しかし、今はどうだろう? 

 

 

 大事な仲間が出来て、大切に想うひとが出来た。いろんなものと出会った。その喪失に、恐ろしさを予感するようになった。失う怖さを理解した。私は変わった。変わってしまった。皆が、幸せであって欲しいと思うようになった。感情を抱いた。この場所を、愛しいと思うようになった。そして、本営からの『“この鎮守府に所属している龍田”を、出撃させることを控えよ』という指示を受ける時も、自分は何も感じない筈だと思っていた。しかし、違った。激しく動揺している自分に気付いた。気付いてしまった。己と言う存在が、愛する皆が憩い休む場所を脅かしてしまう事を思い知った。

 

 奈落の底に落ちていくような感覚だった。

 これが、絶望か。

 

 あぁ。私は、人間らしくなった。

 

 笑える話だ。いや、笑えない。でも、笑うしかない。

 笑おうとしたら、肺が震えた。何かが、胸の奥からせり上がってくる。

 鼻の奥がツーンとしてきた。呼吸が揺れる。視界が滲みそうになる。

 不味いと思った。必死に蓋をする。夕暮れの執務室に立ち尽くす。

 俯いて、唇を噛んだ。『龍田さん、どうされました?』

 

 

 声がした。弾かれたように顔を上げる。目の前には、くすんだ茜に沈む執務室の暗がりが在る。其処に、少年提督が居た。心配そうな貌をして、此方を見詰めている。いつの間に。扉が開く音はしなかった筈だ。聞き逃す筈がない。いや。そうか。これは、彼ではない。VR機器が、この景色の中に象った映像だ。目の前にいる彼の声も、表情も、息遣いも、全ては虚像である。龍田が見る景色の中で、彼はその白髪と眼帯を飴色に濡らしながら、気遣わし気に此方の様子を伺っている。

 

『何か、思い詰めておられる様子ですが……』

 

 虚像の彼が歩み寄って来て、龍田を見上げて来る。その心配そうな表情の機微や、所作の一つ一つが、確かに少年提督だった。龍田の知っている、少年提督のものだった。これらを表現しているのが人工知能であるという事は、先ほどの艦娘囀線でのタイムラインで知っていたものの、実際に目の当たりにすると驚くものだ。少しの間。龍田は目の前に象られた少年提督の像を見詰めた。そして緩く首を振って、口元を緩める。

 

「……何でもないわぁ~」

 

 蚊の鳴くように紡がれた、そのか細い龍田の声と言葉を、装着しているVR機器のマイクが拾う。同時に、龍田の表情も読み取っているのだろう。少年提督の虚像は、心配そうな貌のままだ。何も言わない。眼帯をしていない彼の左眼は、蒼み掛かった昏い色をしているのに、酷く澄んでいた。あの眼で見詰められていると、適当なことが言えなくなる。そんな雰囲気まで、この虚像は少年提督そのものだった。虚像の彼は、ようやく微笑んだ。

 

『ご自身の事と、これからの事を悲観されているのでしたら、心配いりません』

 

 龍田は少しだけ眼を瞠り、虚像を見詰めた。彼は、此方の思考を読んでいる。それに、龍田の過去や、少年提督の過去も知っているからこその言葉だ。龍田は何かを言おうとしたが、言葉が詰まる。何も言えないまま、立ち尽くしている。その間にも、虚像の彼は、微笑みを浮かべたままで、ソファに座るように龍田に勧めてくれた。大人しく従う。虚像の彼は、何かを思案するように口元に手を触れたままで、ソファに腰掛けた龍田へと歩み寄る。だが、少し離れた位置で立ち止まった。

 

 夕暮れの闇が深まる。執務室の暗がりが、その濃さを増す。薄暮の影に立ち止まる虚像の彼が、何らかの決心がついたかのように一つ頷いた。『本来なら、これは僕から伝えるべきことでは無いかもしれませんが』と。虚像の彼は言いながら、またソファに腰掛けている龍田を真っ直ぐと見詰めて来る。

 

『龍田さんが受けた精神改造施術について、その効果を解除する方法が見つかりました』

 

 龍田は何も言えないままで、唾を飲み込んだ。

 

『“僕”も、近いうちに龍田さんにお伝えするつもりだった筈です。ただ、その為には“僕”なりの準備が必要だったのだと思います』

 

 微笑んだままの彼は。この虚像は。何を言っているのか。理解が追い付かない。頭を必死回転させる。

 

『機会を伺う為の時間も、まだまだ必要です。ですが、どうか心配なさらないで下さい』

 

「貴方は……」

 

 龍田は掠れるような声で、ようやくそれだけを言葉に出来た。『僕は、“僕”です』と、龍田の問いとも言えない問いに、虚像の彼は微笑みを深めて短く答えた。

 

『正確には、AIと言えば良いのでしょうか?』

 

 龍田の脳裏に。昼間に天龍と話をした、人工知能という単語が過る。この虚像は、金属儀礼や生命鍛冶と提携した情報工学によって造られた、“もう一人の少年提督”という事か。唾を飲み込んだ龍田の表情や様子から、その考えを読んだのだろう。

 

『僕は、“僕”の思考や意思の特徴と感情を生成し、それを自我や人格として発生させているに過ぎません。この姿も声も、予め用意されていたものです』

 

 虚像の彼は、小さく苦笑を浮かべた。造られた存在であることを、彼は否定しない。其処に善も悪も見出していないに違いない。声音には、特別な感情が籠っているようには聞こえない。それでも確かに、その眼や声には、生命の息吹とでも言うべき不思議な暖かみのようなものが宿っている。寒気がした。顎が震える。今。私は。もしかしたら。とんでもないものを目の当たりにしているのではないか。そんな風に、呆然とソファに座り込んでいる龍田へと、虚像は足音も影も無くゆっくりと歩み寄った。

 

『インターフェイスとしての肉体を持ちえない僕は、この仮想世界でしか意識を持ちえません。現実の世界にも、限定的にしか干渉することが出来ません。ですが……』

 

 虚像は龍田の頬へと、そっと右手を伸ばして、触れた。いや、実際には、触れていない。彼は、虚像だ。存在しない。その筈なのに、身近に感じる彼の存在感は、おそろしく現実的だった。

 

『こうしてVR機器を装着しているひとへの精神へは、干渉が可能です』

 

 虚像の彼は、左手で右目を覆う眼帯を外した。その右眼は、実在の少年提督と同じく、濁った暗紅の光を湛えている。其処にどんな感情が秘められているのかを伺わせない、深く、底知れない色をしていた。

 

「貴方は、何者なの……?」 龍田は、虚像の彼を見詰め返す。

 

『僕は、“僕”です』

 

「それを、貴方は証明出来るのかしらぁ?」

 

『“僕”の記憶や意思では不十分でしょうか?』

 

「そうねぇ……。私には都合の良い機能にしか見えないわぁ」

 

『確かに、その通りだと思います』

 

「素直なのねぇ」

 

『それでも、僕は“僕”なのです』

 

 虚像の彼は其処まで言うと、身を少しかがめて龍田の眼を覗き込んできた。同時に、読経のように何かの文言を朗々と唱えてから、また微笑む。龍田はその微笑みに対して、挑むような強い視線を返した。その時だった。夕焼けの光が差す執務室が、その暗がりに溶融し始める。VR機器越しに見る世界が、暈けて、霞んでいく。ソファに座ったままの龍田と、傍に佇む彼の虚像だけが、輪郭を保っている。周囲の景色が捻じれる。暗闇になる。染まる。これは、VR機器が見せる景色では無い。明らかに違う。違う。これは、龍田の視界と意識が、虚像の彼の術式の影響下にあるからだ。物質の世界と、非実在の世界の、その狭間だ。龍田は、ソファから立ちあがる。辺りを見回す。

 

 此処は。見覚えがある。冷たい空気。錆が浮く鉄の床。薄暗い部屋だ。広い。暗い部屋だ。覚えている。かつて、人体実験の検体とされ、廃人と化した艦娘達を金属へと返した場所。研究員達が“処理槽”などと呼んでいた、実験施設に設けられた場所だ。龍田は自分の体を抱く。唇を噛んだ。龍田が、少年提督と初めて出会った場所でもある。この光景を知っているのは、少年提督と龍田だけだ。息が詰まる。

 

『此処は、“僕”の深層意識の風景、或いは、思考の原形質と呼べる景色です』

 

 自分の体を抱くように立つ龍田の隣に、いつの間にか虚像の彼が居た。

 虚像の彼も、哀しげな貌で眼を細め、この世界を眺め遣る。

 

『“僕”が、龍田さんと出会った場所であり、“僕”が一度死んだ場所でもあります』

 

 記憶と感情の証明に、この精神世界へと龍田の意識を誘うという行為は、少年提督でなければ不可能だ。龍田は、認めざるを得ない。この彼の虚像は、“彼”そのものだ。そう思うと、何だか肩の力が抜けた。無駄に警戒している自分が馬鹿らしくなって、身構える気が失せてしまった。龍田は、一度深呼吸した。口元を緩めて、隣に立つ“彼”へと視線を移す。

 

「懐かしく思えるほどには、あれから色々あったわねぇ」

 

『そう、ですね……』

 

「前も泣かされちゃったし」

 

『……その事については、申し訳なく思っています』

 

「また泣かされちゃうのかしら?」

 

『そ、それは、僕に聞かれても……』 “彼”は困ったように言う。

 

「あらあら、だって貴方は提督なんでしょう?」

 

『うぅ、思考や記憶を同じくしていても、実在と非実在の違いはありますから……』

 

「都合の悪い時だけ、そうやって別人ぶるのぉ~?」

 

『あ、あぅ……、す、すみません……』

 

 すまなさそうに言いながら、“彼”は左手の人差し指で頬を掻いた。この癖も、やはり少年提督と同じだ。龍田は可笑しそうに小さく笑う。笑えるだけの余裕が、なんとか心に戻って来た。悲劇的とも言える出会いを果たした場所に意識を置いたまま、今のように軽口を言える自分に半ば呆れそうになる。もう半分は、安心だ。もともとの自身に在った筈の冷酷な部分が残っていることと、殺戮自体に感慨を持たない自分を実感する。

 

 私は、歪んでいる。各々の艦娘達のそういうところも含め、“個”としての人間らしさや尊さを少年提督は見出している。今の龍田に付き合う“彼”も、きっと同じなのだろう。“彼”を、もう一人の少年提督として受け入れることに抵抗が無いと言えば嘘になる。しかし、疑う意味や材料も、探すほどに無いとも思った。“彼”は少年提督だ。同時に、少年提督では無い。言葉遊びでしかないのかもしれないが、そういう表現が相応しいような気がする。だからだろう。

 

「……もっと違う形で、貴方に会いたかったわぁ」

 

 ほんの少しだけ本音が漏れた。龍田は、隣に居る“彼”から視線を外す。足元を見つめる。やはり影は其処にあり、暗がりに滲みとなって伸びている。同時に、気付いた。“彼”には影が無い。まるで、過去や未来といった言葉とは無縁であるかのようだ。実在と非実在の違い。先ほどの彼の言葉が持つ意味が、何となく理解出来た気がした。

 

 

『“僕”は、龍田さんと出会えた事を心から良かったと思っていますよ』

 

 俯く龍田を、『それが、どんな形であっても』と、“彼”が見上げてくる。

 

「そうかしらぁ? 出会った時は、随分痛めつけちゃったけどぉ……」

 

『そういえば、そうでしたね。痛かったのは覚えています』

 

「えぇ~、このタイミングで意地悪なこと言わないで欲しいなぁ~」

 

『ふふ、すみません。でも……、僕はこうして、また此処で龍田さんと出会えました』

 

 “彼”は、また優しげに微笑んだ。僕と“僕”という言葉に込められたニュアンス、そのほんの少しの違いに、龍田が言葉に詰まる。精神改造の施術式を解除することが出来れば、龍田は艦娘として、この場所よりも過去に戻ることが出来る。“ルールの外”から、“ルールの内”へと還ることが出来る。そうすれば、未来も変わる。しかし。少年提督は、もう戻れない。龍田は、思い切って訊いた。

 

「私の精神改造を解く為には、やっぱり貴方が必要だったの?」

 

『……はい。そうです』

 

 “彼”は、一瞬だけどう答えるかを悩んだようだが、すぐに答えてくれた。

 

 僅かな躊躇が意味するものは、やはり少年提督が龍田の為に危険を冒したという事だった。少年提督の人工知能の構築について本営は、≪その特殊な資質の理論化≫などと謳っているらしいが、恐らくはそれも建前に過ぎない。本営は、彼の持つ資質だけが欲しいのだ。そこに付随してくる彼と言う人間性や思想、意思や情熱、倫理観などは必要無い。

 

 彼自身からその能力だけを抽出して、その本質のみを外部に形成する試みは、少年提督の自我を、高い負荷と危機に晒す。抽出と保存の最中に失敗し、少年提督の自我や人格が崩壊すれば、本営が欲しがる彼の持つ資質はほぼ永久的に失われることになる。こういった事故や不慮の事態に備えて、人工知能の構築と銘打ったこのプロジェクトが立ち上がったのだという。つまり“彼”は、≪少年提督という人格のバックアップ≫である。

 

 だが、少年提督にとって重要なのは、此処からだった。

 

 龍田の精神改造を解除するには、非常に規模の大きな精密術式を用いる必要があり、いかに優れた金属儀礼や生命鍛冶術を扱えるとは言え、少年提督一人では不可能だったとの事だ。これは、深海棲艦としての特殊な術式に造詣が深いレ級や集積地棲姫、膨大な学習によって優秀な術学者となりつつある雷などを助手に、以前から何度も少年提督がシミュレートしての結論なのだと。しかしこの問題は、少年提督がもう一人いることによって可能であるという、強引な解決方法が残されていた。人手不足・人材不足を、強制的に補うという、単純だが出鱈目な方策である。自身の人工知能を造れという本営の邪悪な命令も、少年提督にとっては良い機会だったのだ。これで大手を振って、龍田を救う為の準備が進められる。

 

 そうして生まれたのが、先ほどまで龍田と共に居た“彼”なのだ。

 

 

 かつて、少年提督のもとに教えを請いに来た若い提督達も居た筈だ。だが彼なりの哲学や思想、彼が心の内に持つ術式の秘儀、奥儀などは、結局は誰にも理解できなかった。少年提督が、それを晒そうとしていないからか。或いは、少年提督が啓蒙する姿勢を持っていても、その技術や技巧に宿っているのであろう真意や細思を汲める者などいなかったのか。少年提督は、自らが愛する信条を誰かに押し付けることも無い。俗念も無い。徹底的に不請に生きている。そんな少年提督が少女提督の協力の下、己の自我を情報世界に彫りだしたのが“彼”である。

 

 

 “彼”は、少年提督の持つ全てを知っている。そう造られたからだ。

 “彼”は、黙って話を聞いていた龍田に微笑んで見せる。

 “彼”は、瑕疵も瑕瑾も無く、少年提督の阿頼耶識そのもの。

 

 

『僕はこれから、“僕”のプロトタイプとして多くの実験に晒される事になるでしょう。その後は、一度破棄されるか、凍結されるかのどちらかだと思います』

 

「それは……、余りにも貴方が完全過ぎるから?」

 

『恐らくですが』

 

 意思や自我も無く、術式を編むことなど不可能なのですがね……。

 

 そう零した“彼”が悲しげに微笑みを深めるのと同時に、この暗い鉄の部屋が滲み、霞んで、捻じれて、消えていく。蜃気楼のように溶けていく。龍田の意識が、“彼”の精神世界から現実へと還ろうとしているのだ。目の前が真っ暗になった。しかしすぐに、装着していたVR機器の感覚と、執務室の風景が視界に開ける。窓の外では、曇り空の向こうに朱が滲んでいた。暗い飴色に染まる執務室に、虚像としての“彼”が微笑んだままで佇んでいる。龍田は腕時計を確認した。時間は、先ほどから1分ほどしか経っていない。精神世界では、時間の流れがゆっくりなのか。顔を上げると、少し離れたところに居た“彼”と眼が合う。

 

 

 

『ですから、僕が“僕”と共に、龍田さんに施術解除を行うには、まだまだ時間が必要になることでしょう。ですが、先ほどもお伝えしたように、心配しないで下さい』

 

 微笑んだ彼の姿が、薄れ始めていた。“彼”が消えようとしている。待って。そう声を掛けようとしたのと同時だった。暗がりの夕陽が滲む執務室の扉が、そっと開いた。はっとして其方に向き直る。そして、慌てて装着していたVR機器を外した。

 

「……誰か居られるのですか?」

 

 扉を開けて入って来たのは、書類の束を小脇に抱えた少年提督だった。夕暮れの執務室に一人居る龍田を見て、彼は少しだけ眼を見開いた。その後、何度か瞬きをしてみせた。

 

「龍田さん? 如何しました、今日は非番では……」

 

 まるで意外な人物と出会ったような反応だった。いや、本来なら誰も居ないであろう留守の執務室に、VR機器を勝手に装着していたであろう部下がいれば、誰でもあんな貌になるだろうか。お疲れ様ぁ、と。取り敢えずと言った感じで彼に言いながら、龍田は少しだけバツが悪そうに視線を逸らしつつ、手に持っていたVR機器を執務机に直す。そんな龍田の様子に、「……あぁ」と、小さく頷いた少年提督も察したのだろう。

 

「もう、“彼”と会いましたか?」

 

 少年提督は扉を閉めてから、龍田に向き直った。その声音はいつも通り優しく、別に龍田を責めている風だとか、そんなことは全くなかった。彼は龍田を見詰めるでも無く、すぐに視線を外して執務机まで歩いて、抱えていた書類の束を丁寧に揃えて置いた。それから、また龍田に向き直る。

 

「……何か、暖かい飲み物でも用意しましょうか?」

 

「ううん、大丈夫。ありがとう」

 

 龍田は口元を緩めて、少年提督に応える。

 

「さっきまでねぇ、提督の人工知能と話をしていたの」

 

「……“彼”は何か言っていましたか?」

 

「えぇ。提督がまた無茶をしてるって」

 

「その様子では、もう“彼”から色々と話を聞いているのですね」

 

 冗談めかして言う龍田の言葉に、少年提督は困ったように微笑んで見せた。

 

「龍田さんの精神改造を解除・無効化する為には、どうしても“彼”が必要でした」

 

 少年提督は少しの憂いを帯びた声で言いながら、執務机に置いてある書類の束から、いくつかを手に取ってパラパラと捲る。書面には、多くの項目が並んでいるのが見えた。

 

「まだまだ、“彼”について検証や報告する事も在り、実用の許可を取り付ける目処がまだ立っていないのが現状です……」

 

「それは“彼”も言っていたわぁ。提督も色々と準備することが在って、忙しいって」

 

「……出来れば、すぐにでも龍田さんへの施術を行いたいのですが……」

 

 無念そうに言う彼は、難しい貌で書類の束を一瞥する。確かに、これだけの項目をすべて精査して、ようやく実用段階まで進めるのであれば、先ほど“彼”の言う通り、まだ時間が掛かりそうだ。それに、このプロジェクトには少女提督も大きく関わっている。そもそも、少年提督がしようとしている事は、“龍田を現状のままで保持しておきたい”という本営の意思に逆らうものだ。これに、少女提督を巻き込むのを、彼は良しとはしていない筈だ。彼女に累が及び、責任を問われる事になどならぬよう、形式的に必要な仕事は全て済ませ、あとは少年提督の独断で“彼”を運用するつもりなのだろう。

 

 彼はそうやって、リスクばかりを背負いこもうとする。

 誰の為に? 己の理想の為に? 龍田の為に? 

 艦娘達、皆の為に? それは、何故? 

 いや、理由なんてどうでも良い。

 私達艦娘が、どんなに明るい未来を迎えたとしても。

 其処に少年提督自身が居ないような未来は、嫌だ。

 こんな脆弱な願いも、人間らしさとでも言うのか。

 本当に笑えない。ままならない。

 

 

「……ねぇ、提督」

 

 龍田、一つ息を吐いてから、此方に背を向ける彼にそっと歩み寄った。そして少し屈んで、小柄な彼を後ろから抱きすくめる。彼の小さな体は、冷たかった。

 

「あ、あの、た、龍田さん……?」

 

 彼が、手にしていた書類を取り落とした。構わず、龍田はぎゅうぎゅうと彼を抱きしめる。少し苦しいのだろうか。彼が細い吐息を漏らすのを聞いた。龍田は背後から抱き着く姿勢のまま、彼の首筋に頬を寄せる。もう、いいでしょう? 掠れた小声で、そっと彼に言う。幼い子供に言い聞かせるように。

 

「私を解体・破棄してしまえば、提督は、本営と対立する必要は無くなるのよね?」

 

 何かを言おうとしたのだろう。少年提督は、また微かに息を漏らした。だが、何も言わなかった。代わりに、抱きすくめる龍田の腕に右手を添える。龍田の言葉を、最後まで聞こうとしているのだろう。こんな時でも、律儀なひとだ。龍田は少しだけ笑みを浮かべて、彼を抱きすくめる腕に、また力を込めた。

 

「私が今、貴方を本気で傷つけて殺そうとするのなら……、そんな私を潰してしまう貴方の処置も、それはきっと正当な防衛よねぇ?」

 

 龍田は微笑みながら言い、艦娘としての力を己の身に顕現させた。超常的な身体能力を発揮できる今の状態になることを、艦娘達は“抜錨”と呼んでいる。艤装を操り、深海棲艦達と戦うのもこの状態だ。今の龍田の腕力は正しく兵器であり、抱きすくめられる者にとっての純粋な脅威だった。少年提督は、もう龍田にがっちり抱きしめられている。逃げられない。龍田は、ゆっくりと腕に力を込めていく。それは万力の如き力で、少年提督の小さな体を締め上げる。ミシミシと、肉が軋む音がした。「……ぅ、あ」と、少年提督が呻いた。彼は、どうやら痛みという感覚に鈍いらしい。だが、流石に呼吸まで潰しにくる万力のような締め上げには、苦しさを覚えるようだ。彼の声に、龍田の背筋にゾクゾクとした甘い寒気が走った。同時に、涙が流れる。龍田は彼を締め上げながら、囁くように言葉を紡いでいく。

 

 

 ねぇ、提督。提督が私達に向けてくれる博愛も、理想に注ぐ情熱も、とても尊いと思うわぁ。でもね。だからこそ。だからこそね? それを打ち切るべき時も大事だと思うの。妥協すべき時を見極めて決断するのも、同じくらい尊いと思うわぁ。もう、私は大丈夫だから。私は、とっても幸せだったわぁ。もう十分。だからね? もう、私を破棄してくれないかなぁ? 昔みたいに。廃人同様の艦娘達を解体して、提督がその魂に鋳込んだ時みたいに。私も、提督の中に飲み込んでくれないかなぁ? それが一番良いと思うの。そう。これは事故。不幸な事故。精神を改造された≪龍田≫という艦娘が、錯乱して、暴走したの。貴方を殺そうとしているの。私は、貴方を殺す。貴方は、それを止めるために、私を潰す。解体して、破棄する。ただ、それだけ。貴方なら出来る筈。私の代わりを造る為に、また多くの艦娘達が実験場に送られるかもしれないけど……。正直に言っていいかしらぁ? 私はね? そんな事よりも、貴方の方が大事なの。身勝手で幼稚な願いだけど、譲れないの。だからね? ほら、早く……。早く私を止めて。もう、殺して。

 

 

 

 気付けば、少年提督を締め上げながら龍田は泣いていた。微笑みながら、涙を流していた。他者を傷つける行為には、何の感慨も抱かない筈なのに。そう造られた筈なのに。今は、胸が痛い。はやく殺して欲しい。さぁ、早く。そう願うものの、少年提督は黙したままだ。暗がりの執務室で、少年提督の肉体が軋む音と、龍田が洟を啜る音がむなしく重なる。

 

 提督ぅ? このままだと、本当に死んじゃいますよぉ?

 

 龍田は涙声で言う。更に腕へと力を籠める。メキメキと音がする。ゴキリ、と鈍い音がした。少年提督の肩が外れたか。あばらや、腕の骨に罅が入り始めたか。「か、はっ……」と。少年提督が口の端から血を流す。このままだと、本当に殺してしまう。殺す。殺す。殺す。殺す。愛しさを、殺意に変える。容赦も躊躇も、今は必要ない。少年提督の体を破壊する。その意思を通す。少年提督と初めて出会った時の事が、また脳裏に過った。あの時も、龍田は少年提督を痛めつけた。ああ。そういえばと。少年提督が、少しだけ笑った。初めて出会った時のことを思い出しますねと。少年提督は、ゲホッと血を吐いてから、可笑しそうに笑う。そして、「……どうぞ」と。己の体を締め上げてくる龍田の腕を、優しく擦った。

 

 

 元より、僕には死に方を選り好む資格などありません。

 そして、その必要も、……もうありません。

 僕が死んでも、“彼”がきっと、龍田さんを救ってくれるでしょう。

 先輩も、彼女も居ますから。きっと、大丈夫です。

 

 

 締め上げられて、血を喉に絡ませたような掠れた声で、彼は言う。

 彼は微笑んでいるのか。苦し気なのに、優しい声音だった。

 死ぬことを完全に受け入れているような、穏やかな声音だった。

 龍田は、悟った。理解した。もう駄目だ。何をやっても無駄だ。

 龍田の決意も、願いも、少年提督の信念を曲げることは出来ない。

 彼は、絶対に龍田を見捨てない。見捨てるという選択肢が存在しない。

 頑固で、意固地で、子供っぽくて、周到で、抜け目無い。

 

 

 龍田は、彼を締め上げていた腕を解き、“抜錨”状態を解いた。

 力が抜けた。少年提督の背後にへたり込む。

 堰を切ったように涙があふれた。こちらが暴力で彼を破壊しようとしたのに。

 都合が良くて、勝手で、意味不明な涙だった。

 

 腕を解かれた少年提督は、ゲホゲホッ!!と、血の咳をしてそれを腕で拭い、すぐに龍田に振り返った。彼の表情は、夕暮れの執務室の暗がりに隠れて、ちゃんと見えなかった。半ば放心状態で座り込む龍田は、彼を見上げるような恰好だった。龍田の位置からは、彼の背後に窓が在る。その窓の向こう。遥か先で、分厚く鈍い色の雲が割れ始めた。執務室にも、昏くも灼然と照る、濁り燻る赤橙の陽が差してくる。それを浴びている彼の背後には、まるで光背が象られているかのようだった。

 

「僕の力が及ばず、申し訳ありません……」

 

 呆然として彼を見上げる龍田を、今度は彼が抱きしめてくれた。残照に背を焼かれている彼の小柄な躰は、冷たいままだった。それでも、その掠れた声には温みが在った。

 

「どうか、諦めないで下さい。僕も、もっと頑張りますから」

 

 彼の声の御陰で、龍田の中の何かが切れた。

「ぁ、ぁ、う、う、う」 みっともなく震えた声が漏れる。

 それが自身の嗚咽であることに気付くのに、龍田はほんの少しだけ時間が掛かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 龍驤は、執務室の扉の横で、壁に背を預けて腕を組んでいた。漏れそうになる溜息を飲み込んでから、天井を見上げる。昼間の人工知能の件で少し話したい事が在り、少年提督の執務室を訪れたのだが、中々大変な状況に出くわしてしまったものだ。中の様子を伺っていたが、ホッとした。流石に、龍田が彼を両腕で締め上げ始めた時には飛び出す寸前だったが。

 

 溜息をもう一度飲み込んでから、龍驤はそっと執務室の扉から離れた。今の二人の間に入っていくのは憚られる。あの二人にどんな因縁が在るのかは、龍驤は詳しくは知らない。ただ最近、龍田の様子が妙であったことには気付いていた。天龍も気にしていたようだし、何か原因に心当たりがないかを聞かれたりもした。龍驤にも心当たりなど無かったから、わからないとしか答えられなかった。

 

 扉越しに龍田の泣く声を背中に聞きながら、音も無く廊下を歩いていく。廊下には誰も居ない。龍驤は視線を落とした。今日の昼間も、少年提督は野獣の執務室に向かう前に、自分の執務室にVR機器を置きに戻っていたのだろう。それも、野獣が龍驤達に装着させたものではなく、件のAIを搭載したVR機器を。その後、龍驤達と合流すべく、野獣の執務室に来たに違いない。龍驤は、執務室での遣り取りの一部始終を立ち聞きしていた。その内容から察することが出来るのも、人工知能の構築という計画の裏には、多くの思惑が絡んでいる事くらいか。

 

 大したことは分からない。ただ、気になる言葉があった。龍田も、少年提督も口にしていた≪“彼”≫という存在だ。人工知能という単語と結びつければ、それがある種の人造人格であろうことは予想することが出来た。そしてそれが、少年提督をベースにしたものであろう事も。

 

 龍驤は、視線を上げて立ち止まる。

 

 少年提督の資質は、物質と精神への干渉である。しかし、少年提督が自分自身への肉体や精神への干渉を行うには制限があるらしい事は、聞いたことがある。以前、龍驤が秘書艦であった時だった筈だ。どれだけ優れた金属儀礼や生命鍛冶術を以てしても、肉体や精神の活性や成長、自身の深海棲艦化の制御などが限界なのだと。仮に青年の姿へと成長し、肉体を最適化したとしても、徹底して己自身を変質させてしまう事は不可能だと。しかし。少年提督が、もう一人存在すれば。どうなる。もう一人の少年提督が、元の少年提督の肉体と精神を調律し、彫金し、象り、変貌させることが出来るのではないか。

 

 

 其処まで考えて、龍驤は意味も無く廊下を振り返った。

 やはり誰も居ない。考え過ぎだ。頭を振って、不吉な思い付きを追い払う。

 同時に、そんな事態を否定しきれない自分に気付く。

 少年提督の理想や目的はともかく、その真意を龍驤が図りきれていないからだ。

 彼の心の内は、誰にも知り得ない。いや。違う。恐らくだが。

 

≪“彼”≫と呼ばれる存在は、知っているのだろう。

 技術。経験。苦悩。慙愧。後悔。主観。自我。心の傷も。

 少年提督が少年提督として在る為の全てを持っているのであれば。

 言葉や行動からですら読み取ることが出来ない、少年提督の真意を。

 龍驤は、今度は溜息を堪えなかった。息を吐くと、白く煙る。

 

 そんな龍驤を。窓の外に見える木立の枝から。

 夕暮れに溶けるようにして、黒い小鳥がじっと見ていた。

 

 

 

 

 

 

 













勝手な解釈と設定を上手く纏められないまま、
前作からの憂いの芽を何とか摘もうとした、見苦しい回となってしまいました……。
回収していない複線として、まだ御指摘いただいた部分も残っておりますが、
これから少しずつ描写出来ればと思います。

支離滅裂な内容になってしまいましたが、今回も最後まで読んで下さり、本当にありがとうございました!

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