花盛りの鎮守府へようこそ   作:ココアライオン

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更新が遅くなっており、申し訳ありませんです……。
読んで下さる皆様、また暖かい感想で支えて下さる皆様、いつも本当に有り難うございます。
また、親切に誤字報告まで頂き、感謝しております。いつも御迷惑をお掛けして申し訳ありませんです。
今回の更新内容では、前作の内容(短編3)に関わる要素が若干強めです。
不定期更新ではありますが、お暇潰し程度にでもお付き合い頂ければ幸いです。






境の外へ 境の内で

 この胸を締め付ける苦しさや切なさは何なのだろう。それは、初恋と呼べる感情なのか。或いは、一目惚れというものなのか。未だに自分の心に答えは出ていない。経験したことが無いからだ。把握できていない。あの青年の声を思い出すと、心が乱れる。頭がぼぅっとする時もある。感情と言うものは、本当にままならない。しかし、失いたくは無い。戦うために不要だが、これは私だけのものだ。私が、私であることを主張する為に必要なものだ。あぁ。いつかまた、彼に出会うことが出来るだろうか。溜息を堪える私の脳裏に、自我の誕生の時を思い出す。それは、記憶の中に在る。いや、私という“個”を認識していない時の記憶は、感情を伴わない記録とでも呼ぶべきだろうか。もしくは、経験か、経過か。なんにせよ、それは思い出すことが出来る。

 

 

 呼び出される為の召喚では無く、呼び返される召還の時。大きな戦果を持つ艦船の魂、その分霊としての艦娘を現世に招き入れることが出来るかどうかは、各々の“提督”達の資質に左右された。“提督”としての適性が低い者では、召還できない艦船の魂もある。それを無理に召還することも出来なくはないが、召び出された艦娘の肉体や精神に、大きな負荷を与えることになる。大抵の場合、艦娘が召びだされても直ぐに肉体が霊子となって還り散ってしまう。或いは、フォーマットされた人格すら崩壊し、生きながらに死んでいく場合も多い。艦娘としての“私”の魂は、こうした不完全な召還によって現世に招き入れられた。いや、この場合は、無理矢理に引きずり込まれたと言った方が正しい。御陰で、私は召還されてからすぐに昏睡状態に陥った。

 

 何度か意識の覚醒は在った。己が誰なのか。何者なのかという事は理解していたが、自我というものを持っていなかった。私は自我を持つよりも先に、肉体の感覚の方が先に在った。プログラムとして構築されている筈の人格や思考も在ったはずだが、その殆どが機能不全だった。艤装を召び、纏うことすら出来ない。戦うことが出来ない。覚醒の度に、それを自覚した。事実として認識した。自我が無かった故に、悲しさも悔しさも感じなかった。そんな感情を覚える機会もなかった。覚醒と昏睡を繰り返す中で、私は己の存在に価値を見出せなかった。私は、私という存在になり損ねたのだ。不全な私はすぐに、検体としてシリンダーに漬け込まれ、軍施設の中で生きたまま見本として飼われることになる。

 

 栄養液に包まれた私は、ぶつ切りになる意識の中で、己が誰なのか、何の為に此処にいるのかという、長い長い自問自答を繰り返すことになる。やはり、其処には悲しみも虚しさも無い。思考や感情を伴わない、事実の確認という作業でしか無かった。それを無為だと思うような意識も自我も無かった。空虚な時間が過ぎるようになって、どれくらい経ったころだろうか。ある時だ。培養液の中で私が眼を覚ますと、シリンダーの外に、誰かが居た。

 

「初めまして」

 

 此方に語り掛けてくる声音は若い。青年のものであり、言葉は日本語だった。私は、その声に答えることが出来なかった。私の肉体は、言葉を発する機能も死んでいた。私は薄緑色の栄養液と、シリンダーの強化ガラスの向こうへと、眼を凝らそうとした。しかし、私の視力も不全だった。私の視界は白く煤けて滲んでいた。青年の顔が見えない。恰好も、詳細には分からない。だが、どうでも良い。私はそれ以上に、青年の事を知ろうとは思わなかった。しかし彼は、優しげに私に語り掛けて来る。

 

「少し時間は掛かるかもしれませんが、貴女の肉体と精神を調律させて貰います」

 

 彼は、シリンダーに歩み寄って来た。保管室には、彼しか居ない。その程度のことは分かった。だからだろうか。私はその時、初めて他者と自己の境界を認識した。このシリンダーが隔てる世界。私がその内側に居ることを認識した。ただ、その時の私には、それが限界だった。すぐに意識を暗闇に侵食され、昏睡の闇の中へと思考を手放してしまった。やはり不安定な私は、覚醒と昏睡を繰り返していたから、時間の感覚というものが非常に希薄だった。自我すら芽生えていない私には、苦痛や退屈といった概念も無かった。ただ覚醒した時には、いつも彼が居た。それは、数日か。数週間の間であったか。確かな日数は分からない。それでも彼は、このシリンダーの外に、そして傍に居てくれた。

 

 私が意識を覚醒させる時はいつも、彼は何かを唱えていた。それは聞いた事の無い言語だった。朗々とした彼の声は、心の内に沁み込んで来るかのようだった。今にして思えば、彼は、不安定な私の精神を再構築する為の、非常に複雑で精密な施術式を編んでいたに違いない。想像を絶するような大規模な施術だった筈だ。彼は私の為に、非常に長い時間を掛けて精神治癒を行ってくれたようだ。

 

 御陰で私の心は、覚醒と昏睡の狭間で、次第に感情や感覚を覚えていった。ゆっくりとではあったが、私の意識は、彼の唱える声に手を引かれ、心の動きを感じることが出来るようになった。生まれきっていなかった視界と声が、少しずつ形を持ち始めていた。全てが覚束ない足取りだったが、私はある時、“艦娘としての私”と、“個としての私”の境界を認識した。それが、人格や自我と呼べうるものだという事も、ある時に唐突に理解出来た。あの瞬間、私は生まれたのだ。確信している。私は、私自身の状況を正しく認識した。何も出来ない自己の弱さを知り、泣いた。艦娘としての価値を持ちえない己に、悲しさを覚えた。理不尽に与えられたこの生と境遇に、憎しみに近い感情を抱いた。同時に、大きな恐怖に支配されていた。私を知っている者が、私しか居ないのだ。私は。このままで。何者でも在ることなく消えていくのか。

 

 気付けば。私は声にならぬ声で叫び、シリンダーを内側から叩いていた。泣き響む私の声は、私にしか聞こえない。それでも、何度も何度も。力の籠らぬ手を握り込んで、何をどうしたいのか。それすら理解していなかった筈だが、私は、そのシリンダーの外の世界を求めていた。私の内に芽生えた未熟なままの自我は、己の価値を強く求めていた。あの衝動と胸に渦巻く激情は、艦船であった自分の魂が、それだけ誇り高く、栄光に満ちたものであったからかもしれない。“個としての私”の自我は、“艦娘としての私”の魂に突き動かされていた。私は叫んでいた。それは間違いなく、私の産声だった。青年は、私の声に滲んでいた飢餓感にも似た願いを聞き届けてくれた。

 

 青年が何かを唱えると、私と世界を隔てる、冷たくて硬いシリンダーの強化ガラスが容易く砕かれた。私の躰が宙に浮く。薄緑色の栄養液も、無重力空間に漂うように地面に流れず、その場にとどまっていた。何らかの超常的な効果を齎す術式だったのだろう。力の籠らない私の体だけが、そっとシリンダーの外へと零れ出た。重力を無視するように、私はゆっくりと落ちていく。その私の体を、彼がそっと抱き留めて、また何かを唱える。すると、私の体が熱を帯び始めた。何か。生きていく為に大切なものが。抜け落ちていたものが。膨れ上がる活力と共に、肉体に宿っていくような感覚だった。視力が。声が。完成していくのを感じた。思考が一気にクリアになって、今までに無い程に意識にも深さが生まれた。私の再誕が完了し、個としての人格の構築が達成された。

 

 青年による施術式のシーケンスの終了と共に、私は、確立した自我を得ていた。そしてすぐに、裸のままで青年の腕に抱かれていることに思い至った。羞恥心を感じたのも、この時が初めてだった。慌てて彼の腕を振り解こうとしたが、出来なかった。生まれたての私は、泣き疲れた幼子のように消耗していたのだろう。強烈な眠気と脱力感が、心地よさを感じるほどに私の意識を蝕んだ。緊張が切れた所為もあったのかもしれない。まるでスイッチが切れるかのように、彼の腕の中で、私は深い眠りに落ちた。その間際に、一瞬だけ彼の顔を見た。いや、ちゃんと見れたのは、優しく微笑んでいる彼の顔の下半分だけだ。私を抱き支える彼の右手には、幾何学的で複雑な文様が描かれていた。「今は、ゆっくりと休んで下さい」と。頭の中に沁み込んでくるような。優しい声を最後に聞いた。はっきりと覚えているのは、そこまでだ。礼も言えなかった。

 

 次に目を覚ました私は、本国の施設から、とある日本の鎮守府に配属される事になった。鎮守府とは言っても、横須賀や舞鶴、大湊、佐世保、呉といった鎮守府では無い。それは、艦娘達を運用するために各地に拵えられた軍事施設を、便宜上そう呼んでいるだけだった。規模もまちまちだが、その新天地で私は、戦艦の艦娘として生きていくことになる。私の新たなAdmiralは、少年だった。少年提督は、つい最近まで機能不全でシリンダーの中に居た私を、快く迎えてくれた。私は彼の下で、蒼く広い海原を駆け抜けて、大きく活躍した。私は、Queen Elizabeth級2番艦。Warspite。その栄光に恥じぬ強さを発揮し、深海棲艦達を打ち倒して来た。私は、私を研究施設のシリンダーに入れた、“かつてのAdmiral”については、深く詮索しようとは思わなかった。しかし、あの青年が誰であるのかは、どうしても知りたかった。

 

 本国から日本に移る前に、「右手に幾何学文様を持った青年を知らないか」と、警備員を含む研究施設の職員達に聞いた事がある。しかし、帰ってくる答えは皆同じだった。「そんな人物は見掛けていないし、この研究施設に入った形跡も無い」と。そもそも軍部の施設であるし、誰でも出入りできるという訳でも無い。施設の監視カメラにもそれらしい人物は映っていなかった。ただ、シリンダーに保管されていた私の元を足繁く訪れていたのは、少年提督だけだという。機能不全であった私を引き受けるよう本営から彼に通達があり、私の容体の程度を詳しく確認しに来ていたのだという。さらに聞けば、シリンダーも割れていなかったそうだ。そんな馬鹿なと思った。私はそれを確認すべく、再び私が保管されていたフロアに赴いたが、そんな痕跡は無かった。私の記憶と違う。では一体、あの青年は誰であったのか。

 

 少年提督にも聞いた事がある。貴方以外には、誰も居なかったのかと。「いえ、見掛けませんでしたよ」と、少年提督も不思議そうな顔をしていた。私は、夢でも見ていたのだろうかとも思うようになった。思い出すことが出来るのに、それが事実と反する部分が多くて戸惑う。あの経験と記憶は、艦娘としての復活と自我の回復に伴う、意識の混濁が見せた幻だったのか。幻覚だったのか。この胸の内に燻る気持ちは確かに在るものの、私はこの疑問を、今は胸の内にそっと仕舞い込んでいる。

 

 

 

 

 

「ねぇ、貴女はどう思う?」

 

 緊張感の無い、気安い声を掛けられた。ウォースパイトの正面からだ。目の前に座っている彼女は、肘杖をついて眉をハの字にしている。ついでに口を3の形にして、困ったような表情を浮かべていた。洗練された美貌の中に、少女のような可憐さを兼ね備えた彼女は、どうもお悩みの様子である。その内容は、“如何すれば、少年提督とより親密になれるか”ということであった。

 

 現在。ウォースパイトは、ビスマルクとグラーフ、そしてプリンツ達と共に食堂のテーブル席について、遅めの昼食をとっていた。昼食時間を過ぎてなお、食堂はそれなりに艦娘達で賑わっている。この活気のある喧噪も、艦娘達が皆、活き活きとしている証拠であろう。周りの騒がしさを心地よく思う。ビスマルク達の前には、人気メニューのカレーが置かれていて、食欲をそそる良い香りがしている。ビスマルクの隣に座るグラーフやプリンツも、深呼吸しながらカレーを味わい、幸せそうな貌でスプーンを動かしている。彼女達の親しみやすそうな雰囲気に、ウォースパイトは思わず頬が緩んだ。

 

 この鎮守府に配属されて最初の頃は、ウォースパイトは目の前のドイツ艦娘達に対して敵意に近いものを抱いていた。もしもウォースパイトが、兵器として人格が破壊されていれば、そんな感情を持つことも無かっただろう。艦娘達の魂に刻まれた、戦史と記憶から来る感情だった。自我を持っている以上、この魂の部分には逆らえなかった。それはもしかしたら、ドイツ艦娘達も同じであったのではないかと思う。ウォースパイトは、彼女達を警戒した。しかし、彼女達の方は違った。呆気ないほどに、距離を詰めてきた。「よろしく頼むわね」と。初めて言葉を交わした時。凛然と握手を求めて来たビスマルクの表情と澄んだ蒼い眼は、とても印象に残っている。戦場で背中と命を預けあう仲間に向けられる、曇りのない眼差しだった。あの真っ直ぐで力強い眼に見詰められると、警戒心など持とうとは思わなかった。ビスマルクという艦娘が秘めた強さを、それだけで敬意と共に感じたウォースパイトは自然と笑みを返し、力を込めた握手を返したのを覚えている。

 

 他の艦娘達とも良好な関係を築きながら、数えきれない程の演習にも参加しているうちに、ウォースパイトが少年提督の指揮下に加わって暫く経った。練度を大きく上げたウォースパイトは、前の大きな作戦でも十分な活躍と戦果を持ち帰ることにも成功している。この鎮守府の艦隊の一員として、そして重要な戦力として存在していた。無論、それが己の力だけで成し得た結果ではないことも良く理解している。ウォースパイトが此処に配属されたのと、ほぼ同時期に彼の指揮下に加わったアイオワも、同じく練度を大きく上げており、この鎮守府の戦果に貢献していた。この二人の目覚ましい成長は、少年提督の艦隊運用や采配によるところも大きかったのも間違いない。とにかく彼は、ウォースパイトやアイオワの力を、いや、艦娘たちの持つ潜在的な力を引き出すことがとても上手かった。それは無論、無理な肉体強化施術や、精神拘束による催眠や暗示などを艦娘達に施したわけでは無い。この鎮守府に居る艦娘たちの強さの本質は、其々の思考や絆の中に根付いた自我、あるいは、アイデンティティーと呼べうるものだろうと、ウォースパイトは考えている。

 

 艦娘達にとって、肉体さえあれば艤装はついてくる。自我が無くとも、フォーマットされた人格はプログラムとして、“提督”達の命令には従ってくれる。ウォースパイトの艦娘としての最低限の存在価値は、この肉体が保証している。ウォースパイトを艦娘たらしめているのも、この強靭な肉体だ。強さも誇りも、そこに帰属する。艦娘達にとっての人格や精神などは弱点であり、完成された兵器としての機能美を揺るがす脆弱性でしかない。今もなお、そんな風に考える提督達も少なくない。ただこの鎮守府の提督たちは、艦娘達の誰一人として人格を破壊さず、各々に人格と個を獲得させていた。そのおかげで、彼女達は己というものを深く理解し、他者の個性や人格に対する尊重を共有している。艦娘達は家族や仲間と呼べる間柄であり、互いの信頼も厚く、支えあっている。彼女たちは、だから強いのだ。かつて、シリンダーの中で自己も他者も認識できなかった自分だから、余計にそう思えた。

 

 

 さて。ビスマルクが懸想する少年提督は、そんな強者揃いの艦娘達を束ねて大きな戦果を重ねてきた人物だ。ウォースパイトにとっても敬服すべき上司であり、居場所をくれた恩人でもある。目の前のビスマルクの視線を受け止めつつ、ウォースパイトは少年提督を思い浮かべてみる。すると、想像の中に出来上がった彼は、やはり落ち着き払った大人びた微笑を浮かべていた。頭の中に彼を思い浮かべると、だいたい笑っている。ウォースパイト自身が、彼の微笑み以外の表情を余り知らないからだろうか。そんな風に思えてきて、ビスマルクへの答えに窮する。どうすれば、もっと仲良くなれるか。これは、割と難題だと思う。同時に、既に解決している問題のような気もしていた。「飽くまで、私の感想になるけれど……」と、短く断りの言葉を述べてから、ウォースパイトは軽く息をついた。

 

「前に、貴女は言っていたわね。“Admiral”は、誰も特別扱いしないって。でも、それは少し違うように思うわ」

 

 ウォースパイトは軽く笑みを浮かべて、ビスマルクに視線を返す。

 

「彼は、誰も彼も特別扱いしないのではなくて、もう既に一人ひとりを特別扱いしてくれているのではないかしら」

 

 ビスマルク達と比べて、ウォースパイトは少年提督との付き合いも短い。故に、ビスマルク達ほど、ウォースパイトは彼のことをまだ知らない。ただ、付き合いが短いなりに、ウォースパイトは自身の提督である少年提督のことを良く見ていたつもりだ。そんな中で、ふと思ったことがある。彼は、皆を特別扱いしないのでは無い。皆を特別扱いしているから、逆に特別扱いしていないように見えるのではないかと。

 

「……ふぅん」

 

 ビスマルクは意外なことに気付いたように、少しだけ目を丸くした。そのまま何度か瞬きをしてから、ウォースパイトから視線を外す。口に手を当てて、何かを思案する貌だった。グラーフとプリンツも、カレーを食べる手を止め、興味深そうな貌でウォースパイトの言葉を聞いている。少しの沈黙。周りの喧噪を聞きながら、ウォースパイトもカレーを一口、口に運ぶ。ため息が出るほどに美味だった。幸福な味わいの余韻に浸りつつ、ビスマルクを一瞥する。むむむ……、と。彼女は腕を組んで、何だか難しい貌をしていた。ウォースパイトは小さく笑って、ビスマルクに向き直る。

 

「そんなに思い悩むことでは無いでしょう。彼はきっと、貴女を特別な存在として認めているはず。私にもそう話していたわ」

 

「んぅえっ!? ほんとぉ!?」 

 

 ビスマルクが眼を輝かせて、テーブルに身を乗り出してきた。グラーフとプリンツも、ウォースパイトを凝視してくる。ビスマルクとは対照的に、二人の眼はえらくマジだった。怯みそうになったウォースパイトは、軽く咳払いをして居住まいを正してから、「えぇ」と、ビスマルクに頷きを返す。

 

「貴女は、とても魅力的だと」

 

「ファッ!?」 過剰に反応したビスマルクが、勢いよく立ち上がって身を引いた。嬉しいのか。あるいは、驚いているのか。多分その両方なのだろう。グラーフとプリンツは険しい面持ちのまま俯く。そして無言のままでカレーをもぐもぐと食べ始めた。二人は何とか平静を保とうとしているようだ。ウォースパイトはそんな二人には気付かない振りをしつつ、ビスマルクに肩を竦めて見せた。

 

「手袋がいつも無くなるけれど、貴女と過ごす時間は、とても楽しいとも」

 

 ウォースパイトが告げると、ビスマルクは満ち足りたような表情で、大きく息を吸って吐き出した。まるで豊かな大自然の中、体全体で生命の恵みを感じているかのような、深い深い呼吸だった。微笑みを湛えたビスマルクは、それから遠くを見るような眼差しになり、陶然と眼を細めつつ再び席に着いた。スプーンを握りしめたグラーフとプリンツは、羨ましさか悔しさ故か、かなり渋い貌だ。彼女達の反応が何だか可笑しくて、ウォースパイトもまた少しだけ笑みを漏らした。そして心の片隅で、私も、あの青年にまた出会うことが出来ればと思う。彼女達のように、彼の仕種や言葉の一つ一つに、一喜一憂してみたい。あの青年に会いたい。混濁した私の意識が作り出した幻覚ならば、夢の中だけでも良い。せめて、もう一度。もう一度だけ。彼に会いたい。僅かに眼を伏せたウォースパイトが、切ない溜息を漏らしたのと同時だったか、少し早かった。

 

「その……、すまない。ウォースパイト。Admiralは、私の事については、何か言っていただろうか?」

 

 そわそわした様子のグラーフが、期待と不安を綯い交ぜにしたような貌で、チラリと視線を寄越して来た。続いて、似たような貌をしたプリンツも、ウォースパイトを見つめて来る。この二人の反応は予想できていた。ウォースパイトは二人にも順に頷いて見せる。

 

「勿論、グラーフにもプリンツにも、いつも支えて貰って大きく感謝していると言っていたわ。三人とも、彼からの信頼が厚いのね」

 

 言いながら微笑んだウォースパイトの脳裏に、また少年提督の落ち着き払った笑みが浮かんだ。彼は、皆を特別扱いしている。彼との付き合いもまだ短いなりに、ウォースパイトは個人的にそう感じた。ただ、“艦娘達全員が彼にとっての特別”であるならば、それは結局、“誰も特別ではない”のと同義ではないのかと思った時もある。だが、それも言葉遊びに過ぎないことも理解している。真実は、彼と艦娘達の関係の中にしかないのだ。眼に見えず、形も無い。確証も反証も出来ない。実態を伴わないものだ。考えても、答えは出ない。だから、良い方に考えた方が得だと思うことにしている。楽観主義と言えばそれまでだが、グラーフとプリンツも嬉しそうに笑みを零すのを見ると、やはりそれで正解なのだろうとも思う。思考の端でそんなことを考えるウォースパイトの目の前では、ビスマルクが得意げな貌で腕を組み、「うんうん」と頷いていた。

 

「そうねぇ……、私達とAdmiralは、硬い絆で結ばれているの。何て言うのかしら。家族や仲間と言うか、こう……、より親密な? パートナー? みたいなものだし、多少はね?」

 

「おっ、そうだな(熱い同意)」と、ビスマルクへと向き直ったグラーフも、んふ^ーと鼻から息を吐き出して、力強く頷いた。

 

「あの、流石にちょっと誇張入ってませんか……?(警鐘と分析)」

 

 控えめに言いながらビスマルクとグラーフを見比べるプリンツの方は、二人に比べると冷静な様子だった。

 

「He~y, he~~^y, もう一つおまけにheeeeeeeeeeeyyyyy^~!!」

 

 そこへ、思わぬ乱入者が現れた。

 

「何だか、とても興味深いことを話していたのが聞こえた気がシマ~ス!!」

 

 ずんずんと近づいて来るのは、ほっぺを膨らませた金剛だった。

 

 その金剛の少し後ろを歩いているのは、苦笑を浮かべるアイオワだ。この二人の組み合わせは、最近になって多くなっている。以前は金剛の妹である霧島が、露骨にアイオワのことを警戒していた事もあった。だが、それも今では解消している。前作戦での帰投時。戦場海域から離脱する際、舞風達が敵の残党に襲撃を受けた。その時に、不意を突かれた舞風を敵の魚雷や砲撃から庇ったのが、アイオワだった。付近海域から駆けつけてくれた香取と鹿島に両脇から支えられて曳航してもらい、何とか母港へと帰ってきたアイオワは、右半身が吹っ飛ばされていた。体には無数の風穴。その美しい顔も、右側はひどい損傷だった。眼球も潰れ皮膚が焼け、頬の肉が無く、歯や筋肉が露出していた。意識を保っているのが不思議な状態だった。しかし、そんな自身の負傷を、“仲間の為に身を張った誇り”だと。血塗れの貌で、彼女は歯を見せて笑って語っていたのは、ウォースパイトも知っている。流石に、頬や筋肉の欠損の所為で、少々笑い難そうだったが。

 

 あの一件以来、舞風とも仲良くなったアイオワはそれを機に、ほかの駆逐艦達とも非常に仲良くなり、人気者のお姉さんポジションに収まりつつある。それに、香取ともよくつるむようになり、共に鳳翔の店で飲みあう仲であるという。そんなアイオワに対する警戒心を解いた霧島も、アイオワと互いに酒を飲み交わし、硬い友情を結んだ。この時、二人の仲を取り持つ形で間に入ったのが、イタリア戦艦のローマとポーラだったらしい。聞けば、ローマが召ばれてすぐの頃は、霧島がローマを支えた時期もあるようで、その後も二人は昵懇であったようだ。ローマとしても、恩ある戦友が、新たな友情を結ぶ力になりたいと思ったのだろう。ポーラの方は、単純に酒を飲みたかったからか。或いは、空気を和ませる為のムードメーカーとして参加したのか。そのあたりの真相は、当人たちだけが知ることだろう。首を突っ込むのも野暮に思えて、ウォースパイトも深く詮索はしていない。ただ間違いないのは、“艦娘としてのアイオワ”では無い、“個としてのアイオワ”が勇敢な仲間であることが証明されたという事だ。として。

 

 

 そんなアイオワは、「Lunch timeのところ、お邪魔するわね」と、ウォースパイト達を順に見てから、魅力たっぷりにウィンクしてみせる。一方で金剛は、傍にあったテーブル席をずりずりと寄せて来て、そこに座った。ちょうど、ビスマルクの隣に座る位置だ。そして、フンス!と鼻息を吐きだしてから真剣な表情になった。

 

「隣、良いデスか?」

 

「いや、もう座ってるじゃない……」

 

 若干身を引いたビスマルクが、隣に腰かけた金剛へと困惑したような表情で言う。とはいえ、別に断る理由もない。グラーフとプリンツ、それからウォースパイトは快く頷いた。続いて、アイオワは金剛の正面に腰かける。位置的には、ウォースパイトの隣だ。

 

「Meもカレーにしようかしら」と。ウォースパイトへと、アイオワは人懐っこい笑みを浮かべて見せる。長身でグラマラス、豪奢で美しい金髪を揺らす彼女は、しかし、今のような快活な少女にも似た表情が良く似合う。隣に居て眩しいくらいだ。「えぇ、良い判断だと思うわ」。ウォースパイトも冗談めかして笑みを返した。さて、この面子で相席をするのは珍しいのだが、まぁ、少年提督に関する話題であるのですぐに話は盛り上がることになるのだが、すぐにまた別の乱入者が現れた。

 

「お、何か海外艦娘が集まってんじゃ~^ん!! 俺も隣、良いっすか^~?」

 

 海パンとTシャツ姿の野獣だった。タブレットと書類の束、そして分厚いファイルを右手に抱えている。左手には、ラーメンの載った盆を持っていた。この男も昼食を摂りに食堂に訪れたのだろう。野獣はビスマルク達の返事も聞かず、金剛の隣の席にドカッと腰かける。普段から野獣に弄られまくっているビスマルクは少々ひるんだようだが、グラーフやプリンツ、それから、金剛やアイオワ達は、特に嫌な貌も見せなかった。“まぁ、コイツなら良いか”みたいな、苦笑にも似た表情だった。

 

「……そういえば今日は一人なの? ちょっと珍しいわね」

 

 ビスマルクは野獣に言いながら、食堂を見渡すように視線を巡らせた。おそらく、野獣の秘書艦を探しているんだろう。野獣は、長門や陸奥、それから加賀や赤城、もしくは、鈴谷か時雨を秘書艦にしていることが多い。いつものこの時間なら、野獣は秘書艦と共に行動しているのだが、今日はどうも違うようだ。野獣は余裕ぶった笑みを浮かべて、肩を竦める。

 

「今日は長門と陸奥が秘書艦なんだけど、もう腹が減っちゃってさぁ! こっそり抜け出して、昼飯を食いに来たんだよね(屑)」

 

「それは不味いですよ!!?」 焦った貌になったプリンツが言う。

 

「堂々とサボるのは流石に感心しないな……」 グラーフも難しい貌をして野獣を見遣った。

 

「お腹が膨れたんなら、早く執務に戻るべきね」 やれやれと言った感じで、ビスマルクも続く。

 

 ただ、野獣の方は「ヘーキヘーキ!(曇りの無い笑顔)」と、何が平気なのか謎だが、とにかく強気だった。ウォースパイトは召ばれてすぐの頃は、野獣のこういう不誠実な態度は好きになれなかった。だが、野獣のこういった気儘な振る舞いは何時もの事であり、やるべき事はいつの間にかこなしている様な男であることも分かって来た。飄々として掴みどころの無い男だ。馬鹿な事を言いながら周りを混ぜ返す野獣を迎え、より一層、この面子の騒がしさが増してから暫くして。金剛やアイオワも昼食にカレーを摂って、野獣もラーメンを食べ終える頃だった。

 

「あっ、そうだ!(いつもの)」と。野獣が何かを思い出したかのように言って、テーブルの端に置いてあった分厚いファイルから何かを取り出して、テーブルの上に置いて見せた。ウォースパイト達も、置かれたものに視線を向ける。それは、一冊の本だった。

 

「えっ、何これは……(警戒態勢)」

 

 急な野獣の行動に、ビスマルクとプリンツの表情が強張った。グラーフが、その本を手に取る。金剛とアイオワが、興味深そうにその手元を覗き込んだ。ウォースパイトも金剛達に倣う。怪訝そうな貌をしたグラーフが持っている本の表紙には、題名が無かった。代わりに、イラストが載っている。柔らかなタッチの絵だった。見れば、大和、金剛、アイオワ、ウォースパイト、ビスマルク、ほかにも、リットリオやローマが描かれている。ただ、普通に描かれているのではない。若々しくというか、少々幼く描かれている。中学生の年齢くらいだろうか。さらに背景には、学校のような建物が描かれている。ウォースパイトは渋い表情になった。と言うか、ウォースパイトを含め、顔を見合わせた全員がそうだった。

 

「これって、……Textbook?」

 

 皆を代表して、アイオワが、おずおずと野獣に訊いてくれた。これは教科書か何かなのかと。すると野獣は、「そうだよ(得意げ先輩)。うちも、お前らみたいな海外艦が増えてきたしなぁ」と頷いて見せた。

 

「俺達も力を合わせて、グローバル化に対応する為の教育改革に名乗りをあげなきゃ(使命感)って……、そう思ったんだよね」

 

「要するに貴方が勝手に盛り上がってるだけじゃないか……(辟易)」

 

 グラーフが憮然として言うが、金剛とアイオワの二人はちょっと興味があるのか。「Hmm……」と、二人して何かを思案しながら、グラーフがペラペラと捲る教科書のページを注視している。プリンツとビスマルクも、微妙な貌をしながらだが、グラーフの手元を覗き込む。

 

「取り合えずは、海外艦娘であるお前らの意見を聞いて、子供達の感性や視野を広げられるような、素晴らしい教科書を作りたいんだよね(自分の仕事はそっちのけ)」

 

 急に胡散臭くて真面目な貌になった野獣を、ウォースパイトは不審者を見る眼で一瞥してから、グラーフが捲るページへ視線を戻した。教科書のページは、まだ外国語の文章しか載っていなかった。挿絵を載せる大きめのスペースはあるものの、今はまだそういった類は無いようだ。見たところ、英語、ドイツ語、それからイタリア語の三種類。文章の内容はよく読んでいないから分からないが、こうも文字だけだとやはり味気が無い。ふとウォースパイトが思った時だ。

 

「あっ、サンプル間違えたなぁ……(ケアレス)。こっちを見て、どうぞ」

 

 野獣は、テーブルの上に置いてあったファイルから、さらにもう一冊の教科書を取り出した。そして、「中身については、日常でよく使うフレーズを中心に、暮らしの中にある外国語に触れて貰おうって感じでぇ」 などと、誰も聞いていないのに言いながら、それをグラーフへと手渡す。

 

「なんだ、挿絵がついたものがあるんじゃないか」

 

 言いながら、グラーフは先ほど持っていた教科書を野獣に返し、新しいものを受け取った。そしてその表紙を目の当たりにして吹き出した。ウォースパイトも赤面する。新しい方の教科書の表紙は、さきほどの教科書の表紙を飾っていた艦娘達が、大人の姿に戻っていた。先ほどの表紙は、まだ教科書っぽさとでも言うか、かなり大人しい表紙だったのだが、今度のは全然違う。艦娘達が、際どい水着姿でデカデカと悩殺ポーズを取っているものだった。その表紙の上部には、『IKISUGI☆HORIZON』の文字。これを教科書と言い張るのは、ちょっと無理があると思う。

 

 

「うわぁ、まるでポルノ雑誌みたぁい……(直喩)」

 

 ドン引き状態のプリンツが、声を震わせて呻くように言葉を零した。

 

「ちょっとぉ!! 何よこの表紙ィ!?」

 

 流石にビスマルクも、立ち上がりながら叫んだ。無理もない。表紙のビスマルクはクールな表情のままで、V字の水着を着こんでM字開脚をキメているのだ。抗議の一つもしたくなるだろう。ちなみに表紙の金剛とアイオワは、下は紐ビキニだが上は裸だ。二人で抱き合って胸を押し付けあう形で上半身を隠し、此方に流し目を送っている。ひどく煽情的な構図だ。金剛とアイオワは互いに顔を見合わせてから、憮然とした表情で野獣に視線を送っている。ウォースパイトも何か言おうとしたが、何だが恥ずかしくて言葉が出てこない。結局何も言わず、野獣の言葉を待つことにした。椅子に座ったままで足を組みかえた野獣は、全員の冷たい視線を浴びつつも、何かを成し遂げたような清々しい表情だった。

 

「会心の出来だろ?(自画自賛)。夜なべしてコラ画像作ったんだぜぇ^~。もう疲れましたよ^~」

 

「作らなくて良いから!!(良心)。こんな卑猥な教科書あるわけ無いでしょ!?」

 

 噴火寸前のビスマルクはテーブルを叩きながら言う。しかし野獣は、落ち着いた様子で微笑んだ。

 

「大丈夫だって。この教科書はさぁ、外国語と一緒に、雄しべと雌しべのシステム(意味深)も学べるっていうコンセプトだから(ハイブリット化)」

 

「あの、見たところ雌しべ(意味深)しか映っていないんですがそれは……」

 

 ドン引き貌のプリンツの指摘に、野獣は頷く。

 

「創刊号だからね。しょうがないね(妥協)。まずは月刊で行こうと思うんだけど、どう?」

 

「こんなものが毎月出るのか……(困惑)」グラーフが慄いたような声でつぶやく。「やっぱりポルノ雑誌じゃない!(憤怒)」ビスマルクが続いた。野獣は肩を竦めて、緩く首を振って見せた。

 

「あのさぁ、重要なのは中身なんだよね? それ一番言われてるから」

 

「この表紙だともう、中身がどうこうのLevelじゃないと思うんデスけど(名推理)」

 

 顔を顰めて言う金剛に、「そうだヨ(尤もな同意)」と、表情を曇らせているアイオワも続く。

 

「俺は、常に新しいことにチャレンジしていたいんだよね?(パイオニア先輩)」

 

「その精神自体はなぁ……、立派なんだがなぁ……(届かぬ思い)」

 

 そこに私達を巻き込まないでくれと言わんばかりに、疲れたように眼を伏せるグラーフ。だが、生真面目な彼女は重い溜息を吐き出しつつも、手にした『IKISUGI☆HORIZON』のページを、中ほどからそっと捲った。ウォースパイトも軽く息を呑んで、その様子を見守る。立ち上がっていたビスマルクも、取り合えずと言った感じで再び席につき、グラーフの手元へと視線を戻す。プリンツ、金剛、アイオワもそれに続いた。

 

 開かれたページでは、ちゃんとイラストが書き加えられている。登場人物は、ジャージを着ている三人。彼女達は和室の中で、そのジャージを脱ごうとしている瞬間だ。かなりセクシーに描かれている。気の毒そうな貌になったビスマルクとグラーフ、それからプリンツが此方をチラリと見てきた。ウォースパイトが顔を上げると、彼女達はさっと視線を逸らす。眼を合わせようとしない。悲劇の予感。其処に描かれている三人は、ウォースパイトと金剛、そしてアイオワだった。

 

「Oh,no ……」

 

 アイオワは掠れた声を漏らしながら、衝撃的な事実を目の当たりしたような貌で、野獣と教科書を見比べる。ウォースパイトは絶句。金剛の方は、『あ~、そっかぁ~……、そう来たかぁ~……』みたいな感じで、顔を右手でおさえて俯いている。アイオワとウォースパイトに比べると冷静だが、「しゅぅううう~……」と、息を吐き出したりしているあたり沈着とは言い難い。暖かな喧噪が弾ける食堂の中で、ウォースパイト達の周囲だけが冬の静謐さを湛えていた。「ウォースパイトも、なかなかジャージが似合うよなぁ!(魅力の発掘)」と。そんな中でも野獣は暢気に言いながら、タブレットを手早く操作して何かのアプリを立ち上げ始めていた。もう止めてくれと言おうとしたが、間に合わなかった。

 

 タブレットからは、『Nuwaaaaaaaaaan!!』という奇声が再生される。全員が吹き出した。その声は、加工こそされているものの、間違いなく金剛のものだった。グラーフ達が視線を落としているページの文章の始まりも、「Nuwaaaaaaaaaan!!」である。どうやら、既にリスニング用の音声も完成しているらしい。最悪だ。金剛が野獣に何か言おうとしたが、タブレットから流れる音声がそれを遮った。

 

『Tukaretamooooooon!!』(金剛の元気ボイス)

 

『Tikareta……』(アイオワのお疲れボイス)

 

『Hontoni……』(ウォースパイトのアンニュイボイス)

 

『Hurohaitte,sapparisimasyouyo!』(金剛のry)

 

「ゴメンちょっと待って、私の耳がおかしいのかしら……。日本語に聞こえるんだけど」

 

 ビスマルクが低い声で言うと、グラーフとプリンツも頷いた。ただ、テキストの本文は、最初の『Nuwaaaaaaaaaan!!』以外は普通に英文である。リスニング用の音声が戯けた事になっているようだ。野獣は「え、そんなことないですよ……(確認)」と、言いながらタブレットを再び操作した。今度は、単語の発音用のモードなのか。『Repeat After me.』と、また別の音声が再生される。

 

『Otiro!!』

 

「ねぇチョット! 今、“落ちろ”って言ったわヨ!?」

 

 すかさず突っ込んだのはアイオワだ。ウォースパイトにもそう聞こえたし、何とも言えない貌でタブレットを凝視している金剛にだってそう聞こえたに違いない。念のためか。野獣がもう一度タブレットを操作する。

 

『Otitana……』

 

「確認してマース! これ、“落ちたな”って言ってますヨ!!?」

 

 今度は金剛が指摘する。ウォースパイトも無言で頷く。「英語に変換しきれてない部分があるなぁ(分析)」野獣が似合わない深刻な貌になって、またタブレットを操作しはじめた。

 

「日常で使うフレーズって仰ってましたけど、こんな力強く『落ちろ!』とか言う状況って無いと思うんですけど……(名推理)」

 

 プリンツが恐る恐ると言った感じで、野獣に訊く。野獣は笑った。

 

「洗濯物でも洗って、汚れを落としてるんでしょ?(適当)」

 

「なるほどぉー(思考放棄)」 プリンツは、何かを諦めるように上を向いた。

 

「いや、……これは流石に、教科書の内容も含めて全体的に作り直した方がいいのでは?(冷静な指摘)」

 

 いい加減、ウォースパイトが提言する。おそらく、此処に居る全員の心の声を代弁したであろうこの発言に、異を唱える者は一人もいなかった。野獣も、「あっ、そっかぁ……(苦悩顔)」と、割と素直にウォースパイトの言葉に理解を示してくれた。

 

「他にも、グラーフとプリンツがくノ一になって大活躍するエピソードとか、ビスマルクが裸でドジョウ掬いするエピソードとか、色々あったんだけどなぁ……(無念)」

 

 残念そうに言う野獣に、「私だけ扱いが違い過ぎィ!!!!」と、半泣きになったビスマルクが抗議の声を上げる。

 

「私を露骨な“汚れキャラ”みたいにするのはNGよ!!? ホントにもぅ!!」

 

「でもさぁ、もうエピソード用の動画も作っちゃったんだよなぁ。じゃ、供養代わりに、無料配信っすね!(屈託のない笑顔)」

 

「えーん!!(´;Д;`)やめてやめてーー!!」

 

 ビスマルクは半泣きのまま、笑顔でタブレットを操作している野獣の肩を掴んで揺する。それを見ていたグラーフも、「なにもかもガバガバじゃないか……」と、呆れた様子で漏らしつつ、手にしていたポルノ雑誌まがいの教科書をテーブルに置いた。アイオワも腕を組んで、やれやれと首を緩く振っている。金剛の方は、まぁいつもの事か、みたいな感じで肩をすくめているし、プリンツだってノーコメントで苦笑を浮かべている。笑うしかないという感じだった。そろそろ場が白けて来そうになったが、そうはならなかった。

 

 

「おい貴様、仕事を放り出して何をしている」

 

 彼女の声は、怒号であったり怒声でもなく、えらく落ち着いた声音だった。だからこそ余計に有無を言わさぬ迫力がある。長門だ。食堂の入り口の方から、ゆっくりと此方に歩いて来ていた。不機嫌そうな貌をした陸奥も一緒である。今日の秘書艦である二人が野獣を探しに、と言うか、連れ戻しに来たのだろう。長門と陸奥の二人は、ウォースパイト達に目礼してから野獣に向き直った。長門は息を吐いて腕を組んで、陸奥は腰に手を当てる姿勢だ。

 

「さっさと戻るわよ。やることが山ほど在るんだから」

 

 静かに言う陸奥に、長門が頷いた。野獣は肩を竦める。

 

「あのさぁ、今はちょっと大事な会議中なんだよね?」

 

「……何だと?」

 

 長門は真面目な貌で、野獣と周りに面子を順番に見てから、「そうなのか?」と、最後に眼が合ったプリンツに聞いた。災難なことだ。「いや、そのぉ……、会議って言うか……」プリンツの方は視線を泳がせまくり、かなり困った顔になって答えに窮した。そのプリンツの様子を見ていた陸奥は、腰に手を当てたままで半目になって野獣を睨む。テーブルの上に置いてあった書物を、ファイルへと片付けようとする野獣の動きを見逃さなかったのだ。

 

「ねぇ野獣、……それ何?」

 

「ん? 議題の資料だけど?(大嘘)」

 

 息を吐くように虚言を弄する野獣だが、そんなことは陸奥も百も承知のようだ。突っ込むこともせずに、「ちょっと見せて」と、手を差し出した。まるで敏腕捜査官だ。野獣の方は、肩を一度竦めてから、ファイルから本を取り出して陸奥に渡した。あんなポルノ雑誌みたいな本が出てきたら、長門だって噴火するだろう。ウォースパイトは苦笑を浮かべつつ、ビスマルク達と顔を見合わせた。さぁ、これで野獣も仕事に戻ることになるだろうし、食事を済ませた自分たちも食堂を後にしよう。そんな空気が広がり始めていた筈なのに、流れが変わった。

 

 ウォースパイトは気付いた。陸奥が手に持っている本が、先ほどとは違う。『IKISUGI☆HORIZON』では無い。表紙には、可愛らしい男の子が何人か描かれている。それも、何とも生々しいタッチだった。タイトルには、『よいこの保健体育 おとこのこ』という題が付けられていた。野獣の仕業だ。あのファイルから取り出す一瞬の間に、仕込んでいた別の本を取り出したに違い無い。まるでマジシャンのような手際と早業だ。傍にいたビスマルクやグラーフ、金剛やアイオワも気付かなかったようだ。ウォースパイトも驚く。しかし、もっとも驚いていたのは長門と陸奥だ。「お前……、これは、お前……」と、長門は衝撃を受けたような貌で、本の表紙と野獣を何度も見比べている。陸奥は艶美に眼を細めつつ、ゆっくりと唇を舐めてから、その本をペラペラと捲りだした。野獣が真面目な貌になる。

 

「アイツも、これから多感な時期に入っていくんだからさぁ。やっぱり、正しい知識って言うの? 自分の体の変化に戸惑ったり、怖がったりしないように、そういう教育が必要になるかもなっていう話をしてたんだよなぁ……(オールフィクション)」

 

 長門と陸奥は、まるで野獣を見直したかのような貌になる。一方で、ウォースパイトは、少々混乱する。そんな話だっただろうか。いや絶対に違う。野獣の傍に居たビスマルク達も何かを言おうとしていたが、陸奥がペラペラと捲る『よいこの保健体育』が気になるのか。金剛は長門達の隣に回り込んで、「ほほ^~」とページを覗き込んでいるし、アイオワは何だか恥ずかしそうな赤い貌で、俯きがちにチラチラとその表紙を見ている。他所の鎮守府のアイオワがどうなのかは知らないが、少年提督の下に居る彼女は、長門達に引けをとらないショタコンのようで、少年提督にもかなりお熱である。その割に変に初心と言うか、普通のエロい話は別に平気な癖に、ショタ要素が絡んだ猥談に極端に弱かったりする。今も悶々とした様子で、唇をぎゅぎゅっと噛んでいる姿は、まぁ、可愛らしいと言えるのだが、ビスマルクやグラーフに関しては、もう開き直っているような所が在るし、二人にストップを掛けてくれるプリンツにしたって似たようなものだ。

 

 妙な熱気に支配されつつこの一角で、ウォースパイトは少しの居づらさを感じながらも、野獣のいう事にも一理あるとも考えていた。野獣は真剣な貌のままで軽く息を吐いて、ウォースパイト達を見まわす。

 

「それに思春期の男子が性に興味を持ち始める時に、お前らみたいなのに襲われたりしたら、アイツが性に対して臆病になっちゃうからね。何とかしなきゃって……(暴言)」

 

「ちょっと待てオイ! なぜ私達が彼を襲うこと前提になっているんだ!」

 

 至極まっとうな抗議の声を上げた長門だが、「じゃあ訊くけど……」と、野獣が肩を竦めてから、長門と陸奥を見た。

 

「気分転換にィ、ジャングルの動物たちとショタが出て来る映画、前に執務室で俺と見たじゃないっすか? お前らは何処に意識を割いて見てた?(鋭い指摘)」

 

「そ、それは……、アレだ、ぐ、グラフィックが、その……(しどろもどろ)」

 

 長門が視線を泳がせまくりながら答える隣で、陸奥は「男の子の乳首しか見てなかったわよ(威風堂々)」と、胸を張って言い放った。長門が吹き出したところを見るに、きっと長門も同じなのだろう。ビスマルクと金剛が、何かを湛えるように拍手を送る。ウォースパイトも釣られて拍手をしそうになったが、すんでのところで手を止めた。プリンツが困惑顔で立ち尽くし、俯いて唇を噛んでいるアイオワのムッツリ赤面が最高潮に達した。「申し訳ないが、開き直り紛いのノーガード戦法はNG」と、今度は野獣が、はぁぁぁ^~~……と、クソデカ溜息を吐きだす。

 

「まぁ、こんな状況だからね。備えあれば憂いなしって言うの? だから此処で会議をしてた訳。つまりここは、対策本部なんだよね」

 

 野獣は言いながら、再び手元のタブレットを操作する。

 

「何か間違いが起こって、この鎮守府の空気がギクシャクしたら嫌だルルォ?」

 

「大丈夫よそんなの。私達に任せておけば、アレよ、もうバッチリ(?)だから。ちゃんと一番搾り(ド下ネタ)まで持っていくわよ」

 

 今日の陸奥は、憲兵が駆けつけてきそうな程に強気だった。と言うか、もうレッドカードだ。そんな陸奥の情熱溢れると言うか、もう身も蓋も無い言葉から、間違った勇気でも貰ったのか。グラーフが優しい笑顔で、「あぁ、任せて貰って……良いぞ(慈母の眼差し)」と、野獣に頷いた。

 

「ほんとぉ???(懐疑の眼差し)」 

 

 野獣はグラーフを一瞥してから、操作していたタブレットのディスプレイに何らかのアプリを立ち上げた。すると、ディスプレイの上に立体映像が浮き上がった。それは、精緻な少年提督の像だ。いつもの黒い提督服に、右目には黒い眼帯をしていた。この場に居たウォースパイト以外の全員が、テーブルに突進するみたいに詰め寄って身を乗り出し、その立体映像を間近で見ようとした。押し合いへし合う彼女達の貌は、真顔だ。怖いくらいに真剣だった。ウォースパイトも流石に怯む。立体映像の少年提督は、無数の血走った視線にさらされながらも、「お姉ちゃん、大好き」と、照れ笑うみたいに可愛らしくはにかんで見せた。ウォースパイトも思わずドキッとしてしまうような、とんでもない愛らしさがあった。

 

 その仕種に、アイオワが鼻を抑えて蹲る。鼻血でも出たのか。熱い溜息を吐きだしたグラーフが苦しそうな貌をして、胸のあたりを両手でおさえて席に座り込んだ。体が暖まってきて、その熱をどうにかして逃がそうとしているのだろう。ビスマルクがシャドーボクシングを始めて、金剛が太極拳の流麗な動きを始めた。プリンツも頭を抱えてしゃがみ込み、激しく悶えている。陸奥は舌なめずりをしながら頬杖をつき、妖しい火を灯した瞳で少年提督の立体映像を舐めまわすように見ていた。長門は険しい貌で「すぅぅぅぅぅうぅぅぅぅうううううう~~^^^、ほほぉおおおおおおおおおおお~~^……」と、何かを産み出すかのような、余りにも深すぎる溜息を繰り返している。大丈夫なんだろうか、この鎮守府の戦艦達は。食堂に居た他の艦娘達も、『なにやってんだあいつら……(戦慄)』みたいな、怯えた貌で此方の様子を伺っている。ウォースパイトが圧倒されている間にも、野獣は冷静な貌で長門達を見ていた。

 

「お前らがそんなんじゃ、とてもじゃないけど任せられないんだよなぁ……(賢明な判断)」

 

 野獣は言いながら、タブレットを手早く操作して立体映像を無情にも消した。長門達は一斉に、消え行く少年提督の立体映像に追い縋ろうと手を伸ばす。「待ってくれ……! 行かないでくれ!」「テイトクぅー……!! 眼を離さないでって、言ったのに……!!」「Admiral……! 私を置いていかないで欲しいヨ!!」「ふぇえん!! 提督さぁぁぁん!!」と、全員が泣き出す勢いだった。えぇ……と。まるで砂漠の果てに見たオアシスの蜃気楼に縋るが如き皆の反応に、ウォースパイトは困惑する。ただ野獣の方はもう慣れたもので、今度は少年提督の立体映像を、高速で点けたり消したりし始めた。長門達は泣いたり叫んだりしながら、もの凄い速度で笑顔を浮かべては悲しさに表情を曇らせた。それが1分ほど続いたあと、「おい止めろ!!」と、肩で息をする長門がテーブルをぶっ叩く。

 

「取り合えず、お前らの理性がガバガバっていう事も良く分かったから、この辺にしといてやるよ(半笑い)」

 

 野獣がまた肩を竦めつつ、タブレットを操作する。

 

「立体データさえ入力しておけば、色々とコスチュームとか体型とか弄ったり出来るからさ。今度はこれを、艦娘図鑑にも採用しようかと思ってるんだよね(約束された悲劇)」

 

「嫌な予感しかせんぞ……」

 

 長門が苦い貌で言う。その時だ。今度は、立体映像の少年提督が姿を変える。これが今しがた野獣が言っていた体型の変化か。立体映像の少年提督の背が伸びて、体格が変わっていく。青年の姿へと成長した。落ち着いた風貌の青年の彼は、黒い提督服がとても良く似合っている。しかし。ウォースパイトは、急激に高鳴ってくる胸の鼓動に戸惑う。デジャブ。この青年は。前に。何処かで。いや。そんな。右手は。青年の彼は。右手。手袋をしている。今の彼も。右手に手袋している。完全に意識の外だった。彼が異種移植を受けた経緯や過去については知っている。しかし。しかしだ。あの青年の正体は。まさか。そんな馬鹿な。違う。違う筈だ。でも。では……。立ち尽くすウォースパイトの頭の中を、色々な要素と可能性と否定が、グルグルと廻り始めた時だ。

 

「良くできてるだろ? これをボイスアプリと組み合わせると、お休み前にコイツが労ってくれるんだぜ?」

 

 野獣が得意気に言いながら、タブレットを操作した。青年の彼の声が再生される。

 

『今日もお疲れ様でした。ゆっくりと休んで下さいね』

 

 それは。普段よりも少し低い声だ。その優しげな声は。聞いた事がある。やはり。でも。しかし。ウォースパイトは、自分の視界がぐらぐらと揺れるのを感じた。思考が纏まらない。汗が出て来る。呼吸が早くなる。そんな、少々様子のおかしいウォースパイトに気付いた野獣が、此方に視線を寄越して来た。

 

「何だよウォースパイト? 腹でも痛いのか?(デリカシー0)」

 

 思慮もへったくれも無い野獣の言葉に、流石にビスマルクやグラーフ、金剛やアイオワが非難の視線を野獣に浴びせる。「もっと在るでしょ?」と、陸奥も呆れた様子だし、長門も『コイツはなぁ……』みたいな苦い貌をしている。もう大顰蹙だが、ウォースパイトにとってはそれどころでは無かった。今までの少年提督と自分の遣り取りを必死に思い出す。一つ一つを、具に思い出そうとする。何かを見落としているような。決定的な勘違いとは違う。完全に思考の外に置いていた可能性。それが。現実感を伴い始める。馬鹿なと笑い飛ばせない自分が居た。あの青年は。少年提督。Admiralなのか。ウォースパイトは其処まで考えて、ハッとする。顔を上げると、周りの面子が此方を見ていた。皆、心配そうな貌だった。混乱気味な思考では、咄嗟に何をいうべきか分からなかった。しかし、気を遣わせてしまうのは申し訳ない。ウォースパイトは、「い、いえ……、何でも無いわ」と、少々ぎこちない笑みを浮かべつ、緩く首を振った。周りの面子も安心してくれたようで、皆で軽く息を吐いた時だ。

 

「あ! テイトクゥー!!」

 

 花が咲くような笑顔を浮かべた金剛が、ウォースパイトの少し背後に手を振った。テイトク。そうか。Admiralも食堂に来たのか。何てタイミングだ。何も今でなくても良いのに。気持ちや思考の整理が出来ていないのに。いや、大丈夫だ。落ち着け。落ち着くのだ。Warspite。そう。まだ慌てるような状況じゃない。飽くまで可能性の段階だ。あの小柄な少年提督が、ウォースパイトを軽々と抱きかかえてくれた青年であるという、可能性があるだけだ。ウォースパイトは気付かれないように薄く呼吸をしてから、少年提督に振り返った。呼吸が止まった。

 

 其処に居たのは。一人の青年だった。清潔感のある白いシャツに、黒色のパンツを着ている。肌の白い青年だ。一見すると華奢にも見えたが、違う。身体が引き締まっているのだ。シャツの胸元のボタンを開けており、そこから覗く胸元には筋肉もついている。これも男性特有の色気と言うのか。ドキリとしてしまう。それに、蒼み掛かった昏い瞳の左眼と、濃く濁った緋色の右眼が印象的だ。人形のように整った顔立ちをしている。湛えられた微笑みは、気の優しいおじいさんみたいで、若々しい青年の相にちぐはぐだ。だが、不思議と違和感が無い。それは多分、青年が異様なほどに落ち着き払っているからだろう。

 

 青年は、静かな足取りで此方の席に歩み寄ってくると、皆に軽く頭を下げて見せてから、やわらかな眼差しで皆を順番に見遣った。金剛やビスマルク、それにアイオワやグラーフ、プリンツ達は、ごく自然な感じで青年と軽い挨拶を交わしあっている。

 

「あっ、そっかぁ(弟を見守る兄の眼光)、今日は生体データ採取だったか?」 

 

 野獣が訊くと、青年は右手の人差し指で頬を書いた。

 

「はい。この体の調整と制御が何処まで可能なのか、それを精査して、戻ってきた所です」

 

 柔らかな声で言う青年は、少しだけ野獣に目許を緩めて見せる。彼が頬を掻いている右手の甲に、ウォースパイトは釘づけになる。見覚えの在る、いや、在り過ぎる黒い幾何学文様が、其処には刻まれていた。あぁぁぁ……。ウォースパイトは顔を両手で抑えて、その場にしゃがみ込んでしまいそうになる。もう間違い無い。そうだ。よく考えれば。気付く機会は在った筈だ。少年提督も言っていた。“ウォースパイトが居た保管室には、自分しか居なかった”と。なのに。最初に思考から除いていたのだ。少年提督は、あの青年では無いと。そう見た目だけで判断していた。痛恨の判断ミスだ。恐る恐る、そっと視線を上げる。此方を見ていた青年と目が合った。慌てて眼を逸らす。視線が泳いでいるのが自分でも分かる。「何キョドってんだよウォースパイトぉ~?(相撲部)」と、野獣が絡んできた。

 

「何いきなりトゥーシャイシャイガールになってんだよ~? お前、実はそういう……キャラだったのか……?(今明かされる衝撃の真実)」

 

 ウォースパイトの心には全く余裕が無いと言うのに。野獣はすっとぼけた様な、芝居がかった深刻な貌で絡んでくる。殴ってやろうかと思ったが、出来なかった。青年が微笑みかけて来たからだ。全く心の準備が出来ていなかったから、心臓が止まるかと思った。思わず見蕩れる。涙が出そうだ。頬が熱い。火が出そう。きっと自分の顔は真っ赤なのだろう。急にもじもじとし始めたウォースパイトに、金剛達も少々怪訝な表情を浮かべている。

 

 野獣が何かに気付いたかのように、一つ頷いた。

 

「そういや、その姿でウォースパイトに会うのは初めてか?(冴え渡る勘)」

 

「いえ、初めてお会いした時は、この姿でした」

 

 彼は野獣に応えたあとで、また右手の人さし指で頬を掻いた。

 

「施設の方々に別人と間違えられそうでしたので、ウォースパイトさんと出会う少し前に、こっそりと姿を変えていたんです」

 

 青年は、ウォースパイトが聞いた事のある声で、少しだけ可笑しそうに言う。確かに、軍属施設の厳重な警戒態勢の中では、訪れる筈の人物の姿が全く違えば、余計な混乱を招くだろう。それが任務の為の来訪ならば猶更だ。つまり彼は、本来の少年の姿でウォースパイトの元を訪れ、接触する寸前に青年の姿へと変わっていたのか。しかし。しかし。なぜ。何故だろう。青年の姿である意味は何なのか。ウォースパイトは、湯だったような頭を回転させようとするが、上手くはたらく訳もない。だが、勇気を振り絞る。ウォースパイトは顔を上げて、ぐっと青年を睨むみたいに見据えた。何か。何か言わないと。ウォースパイトは、そっと挙手する。そして少年提督が、青年の姿をとる事が出来る事実を、知らなかったことを正直に白状する。今のウォースパイトの混乱と状況を、皆に共有して貰うことを選んだ。

 

 

 

「そ、そうだったんですね……。てっきり、ウォースパイトさんは知っているものだとばかり……」

 

 ウォースパイトの話を聞いた彼が、何だか申し訳なさそうな貌になった。聞けば、深海棲艦の右腕と右眼の移植を受けた彼の躰は、深海棲艦化の深度と、それに伴う肉体活性によって、一時的に急激な成長を与えることが可能なのだという。それは、彼自身が扱う金属儀礼・生命鍛冶術の、自己への応用と適応であり、高度な改修施術による、肉体と精神の最適化でもあるらしい。故に、普段の少年の姿では編むこと出来ないような施術式も、青年の姿でならば扱うことが可能になるのだと言う。今の彼が眼帯も手袋もしていないのは、異種移植された腕や眼を完全にコントロール出来る状態らしい。彼が自身の人間ではない部分を隠さないのは、皆への信頼があるからだろう。そんな彼の説明から、以前の状況が見えて来る。青年の姿をとり、自身の能力を増幅・拡張を行わなければならない程、かつてのウォースパイトの状態は絶望的で、治癒するのは困難であったという事だ。再び、彼への強い感謝の念を抱く。

 

 あぁ、そうだ。礼を。あの時に言いそびれた礼を言わねば。

 

 彼からの話を聞き終えたウォースパイトは、神妙な表情になって深呼吸をした。その余りに真剣な様子に、周りの面子も『何だなんだ?』みたいな様子だが、今は気にならない。心を落ち着かせる。そう。私は、Queen Elizabeth級2番艦。Warspite。優雅に。典雅に。高貴さを持って、この感謝の気持ちを伝えねば。ウォースパイトは、なけなしの力を振り絞って、何とか普段通りの微笑みを浮かべて、言葉を紡いだ。

 

「Arigatonasu(気品溢れる笑みと共に)」

 

 彼が「えっ(素)」と声を漏らし、長門達がずっこけて、野獣が喉をならして低く笑った。

 

 

 











最後まで読んで下さり、有り難うございました!

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