花盛りの鎮守府へようこそ   作:ココアライオン

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少年提督とグラーフ・ツェッペリン

 執務室はとにかく静かだ。執務机に座る少年提督も、特に何も言わずに書類の束を整理し、捌いている。グラーフは少しだけ顔を上げて、チラリと視線だけで彼を見遣った。仕事をしている彼の横顔は、その外見には似つかわしくない程に大人びている。右眼を覆う、拘束具めいた黒い眼帯と、黒の提督服。右手にも、拘束具にも似た手袋をしている。それに色が抜け落ちた様な白髪も印象的だ。静謐な面差しや、やけに落ち着き払った仕種なども、不自然なほどに全く子供っぽさが無い。そんな彼の纏う独特の雰囲気は、この静かな執務室によく馴染んでいる。無駄話をしないグラーフと彼は、滞り無く仕事を進めていた。この調子なら、執務もじきに終わるだろう。時刻も、そろそろ夕方だ。執務室の窓から差す陽の光にも、微かに茜が滲んでいた。グラーフは落ち着いた表情のままで手元の書類をトントンと揃えつつも、内心は焦っていた。いや、割と結構、焦っていた。いやもう、焦ると言うか、凹んでいた。『せっかく秘書艦として此処に居るのに、ろくすっぽ会話が無いのは不味いのでは無いか……?』と。

 

 それはもちろん、余りに気安く接されて、無駄話ばかりで仕事が進まないのでは話にならないが、多少は在っても良い。軽い冗談を言い合うとか、間宮の料理や甘味について語ってみたりとか。そういう、互いの関係の潤滑油になるような雑談ぐらい、ちょっとは在っても良いでは無いか。それが無いのだ。いや、在るには在る。絶無という訳は勿論無い。時報を伝える際には、本当に短くだが軽く言葉を交わしたりはしている。ただ、極端に少ないのだ。何故か。決まってる。グラーフが必要最低限な事しか話を振らないからだ。彼もそんなグラーフに気を遣ってくれているのだろうから、余計に口数が少ない。彼はコーヒーが好きだと言う事も知っていたから、三時のオヤツの時間にはコーヒーを淹れあげようと思っていたが、それすら言い出せなかった。何て事だろう……。グラーフは視線を落とす。

 

 緊張している所為か。今日のグラーフは口を開けば、書類の内容や次の作戦、装備、演習、訓練のことなどしか言っていない。今だってそうだ。仕事を終わらせるには余裕のあるペースなのに、お互いに黙ったままでいる。彼の自然な様子を見るに、別に気まずそうとか言う事は全然無い。気まずさを感じているのは、きっとグラーフだけだ。出そうになる溜息を飲み込んで、またチラリと彼を見遣った時だ。グラーフの視線に気付いて居たのか。彼が静かに顔を上げた。眼が合う。咄嗟に、何か言わねばと思った。しかし、彼の蒼み掛かった昏い瞳で見詰められると、上手く声が出て来ない。そんなグラーフに代り、彼がふっと微笑んで見せた。執務室を優しく染める茜色が、その輝きを増した気がした。

 

「……そう言えば、今日は休憩を入れるのを忘れていましたね」

 

 やっぱり子供っぽくない、落ち着き払った優しい微笑みだった。その表情に、少しだけ胸が跳ねる。そんな自分の動揺を気取られないよう、グラーフは一瞬だけ視線を逸らしてから、肩を竦めるようにして小さく笑みを返した。

 

「その分、仕事が早く終わりそうだ。問題は無い」

 

「はい、助かりました」

 

 彼はまた少し笑みを深めて、手にしていた書類の束を揃えて机に置いた。どうやら、全て片付けてしまったらしい。グラーフが処理すべきものも、手元にあるもので最後だ。秘書艦としての仕事も終わりである。彼はグラーフの前に積まれた、処理済の書類の山を一瞥した。

 

「有り難う御座いました。……今日は、早めに戻って頂いても構いません。ゆっくりと身体を休めておいて下さい」

 

 いつもこうして執務を早く切り上げられるとは限らない。だからこそ、早く片付いたときには、彼は秘書艦の任を解いて、艦娘の時間を拘束しない。彼なりの気遣いである事は、グラーフも重々承知だ。しかし。しかし、だ。これでは、何だか寂しい。折角、秘書艦として此処に居るのに。本当に執務のサポートだけして終わりでは、何とも味気無いでは無いか。「あぁ。確かに、これで片付けるべきものは終わりだが……、」グラーフは言ってから、少しだけ唇を舐めて湿らせて、彼に向き直る。

 

「あ、admiral、その、何か……、して欲しい事は無いか?」

 

「えっ、して欲しい事ですか?」

 

「あぁ、夕食に行くにも、まだ時間が在るだろう?」

 

 正直、かなり勇気が要った。僅かに震える声で言ったグラーフに、彼は少し驚いたような、不思議そうな貌になった。何かを思案するように一度眼を伏せたが、すぐに「い、いえ。もう仕事を終えて頂いていますし……」と申し訳無さそうな微笑みを返してくれた。

 

「そ、そうか。それならば、良いんだが……」

 

 グラーフも、何だかぎこち無い笑みを何とか浮かべて見せて、そう応える。自分の接し方が下手なのもしれないが、やはり彼は甘えてくれないと言うか。気遣ってくれているのだろう。明らかに、ちょっと距離が在る。グラーフとしては、かなりに真剣にしょんぼりしそうになった。いや。いやいや。大丈夫だ。へっちゃらだもん。俯きがちに肩を落としたグラーフが、寂しそうな貌で席を立とうとした時だった。

 

「では……、御言葉に甘えさせて頂いても宜しいですか?」

 

 執務机に座ったままの彼が、グラーフに向き直った。その表情は、先程までのとは少し違う。仕事が終わったからだろう。控えめで腕白さこそないものの、子供っぽさの在る笑みだった。此方を信頼しきった、無防備な笑みだ。口調の丁寧さとチグハグだが、それがまた彼の魅力とでも言うか。アンバランスで蠱惑的だった。グラーフは軽く怯んだが、咳払いをして誤魔化す。

 

「あ、あぁ。何でも言ってくれ」

 

「少々お時間を頂くことになりますが……」

 

「無論、構わない。秘書艦として、ベストを尽くそう」

 

「い、いえ、そのように気張って頂かなくとも……」

 

彼は執務机に座ったままで、また少しだけ笑った。

 

 

 

 

 

 

 その数分後。グラーフと彼は場所を変え、執務室のソファに向かい合って腰掛けていた。彼が、「グラーフの淹れたコーヒーが飲んでみたい」と言ったからだ。高価そうなソファテーブルには、今しがたグラーフが淹れたドイツコーヒーが並んでいる。やはり此方も、高価そうなコーヒーカップである。趣味らしい趣味を持たず、娯楽に金を注ぐことが殆ど無い彼だが、こうしたカップを集めるのは割と好きらしい。金剛のティーカップコレクションに影響されての事だと、彼はまた小さく笑った。そんな他愛も無い話が続いている。グラーフも微笑んでから、自分の分のコーヒーを啜った。

 

 「……本当に美味しいですね」と。彼もカップを上品に傾けつつ、コーヒーの香りを楽しみ、ゆっくりと味わいながら飲んでくれている。ただそれだけの事が嬉しい。胸が躍るようだった。会話を続けながらも、グラーフは彼の仕種の一つ一つに眼を奪われ、何とも言えない気持ちになっていた。彼に気取られないように、少し深く呼吸をする。その時だ。彼の提督服から、pipipipipiと、軽い電子音が響いた。グラーフの艦娘装束のポケットからもだ。提督とグラーフは、互いに顔を見合わせてから携帯端末を取り出した。

 

 この鎮守府では、携帯端末に備わっている“艦娘囀線”という連絡機能が、ある時のイベントを境によく使われるようになったのだと言う。基本的には、LI●Eやtw●tterに似たツールであり、先程の電子音は、タイムラインに新しい書き込みが在ったことを知らせるものだ。書き込んだのは長門だった。IDには、≪長門@nagato1.●●●●●≫の表示が在る。●●●●●の部分はアルファベットの羅列で、個体識別の番号が表示されている。

 

 

 

 

≪長門@nagato1.●●●●●≫

誰か野獣の姿を見なかったか? 此方からの通話もメールも繋がらん。

恐らく着信拒否されているようだ。

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

本当ですね。私の携帯端末からも繋がりません。

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

今日は長門さんが秘書艦でしたよね。何かあったんですか? 

いや、まぁ、何となく察しはついてはいるんですけど……

 

 

≪長門@nagato1.●●●●●≫

あぁ。野獣の奴がトイレに行くと行ったきり、もう2時間も帰って来んのだ。

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

またサボりですか……。いい加減にして欲しいものね。

 

 

≪時雨@siratuyu2.●●●●●≫

そう言えば、さっき埠頭の方に向うのを見たよ。

釣竿とクーラーボックスを持っていたけど

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

もうサボる気満々じゃん……。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

あっ、おい、待てぃ! 別にサボってる訳じゃないゾ!

リフレッシュの為の、ちょっと長めの休憩みたいなモンやし。

 

 

≪長門@nagato1.●●●●●≫

書類が山積みなんだぞ! 魚など釣ってる場合か!!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

大丈夫だって、気持ちは執務してるからさ

ヘーキヘーキ、ヘーキだから

 

 

≪長門@nagato1.●●●●●≫

意味不明な戯言は良いからさっさと帰って来い! 

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

慌てない慌てない^^ 一休み一休み^^

 

 

≪長門@nagato1.●●●●●≫

貴様……。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

いやぁ、俺もさぁ、頑張ろうと思ってたんだけどね……。

廊下ですれ違った嵐に、『執務なんて、あのゴリラに任せとけば良いんスよ☆』

って、誘われちゃってさぁ。あっ、そっかぁ(納得)って感じでぇ……。

 

 

≪嵐@kegerou16.●●●●●≫

@Beast of Heartbeat  ぁちょっと勘弁してくださいよぉ!!?

そんなの一言も言ってないですよ!? やめて下さいよ本当に!!

って言うか、今日は野獣司令と顔合わして無いッスよ!!

 

 

≪長門@nagato1.●●●●●≫

それに何が『あっ、そっかぁ』だ!! もう許せるぞおい!!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

良いだろお前、今日は成人の日だぞお前!

 

 

≪時雨@siratuyu2.●●●●●≫

違うよ、野獣。全然違うよ。

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

馬鹿の相手をすると、疲労困憊するわね。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

あっ、お前さぁデデン岬さぁ、さっき青葉から写真買ってたよなぁ?

ショタ写真をチラチラ見ながらする演習は気持ち良いか^~? 

Oh^~~?

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

ぉぽ

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

買っていませせんせん

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

そんな操作ミスするほど動揺しなくて良いから(良心)。

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

それと、誰がデデン岬ですか。歌の名前は“加賀岬”です。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

おっ、そうだな。

取りあえず長門。食堂で、バナナ貰ってってやるからさ。

それで機嫌直してくんないかな?

 

 

≪長門@nagato1.●●●●●≫

貴様、あとで本当に覚えておけよ。

 

 

 

 相変わらず騒がしいというか、あの野獣と言う男は無茶苦茶だ。携帯端末に視線を落とし、タイムラインを追っていた彼も、可笑しそうに小さく笑った。その笑顔に、また胸が軋むように高鳴った。一体、これはどうした事か。グラーフは手に持っていた携帯端末をポケットにしまってから、ソファに深く身体を預けて、細い息を一つついた。

 

 

 グラーフにとって彼は、今まで人類に大きな戦果を与えてきた敬服すべき人物だった。暗い過去を持っていたとしても、自分を召んでくれた恩人でもある。グラーフは彼を信頼していたし、彼もまたグラーフを信頼してくれていた。仲間として、また家族として鎮守府に迎えられた。提督と艦娘という関係だった。その信頼に応え、訓練、演習を積んで、練度も上げて来た。作戦行動では、グラーフも大きな活躍を見せるようになった。グラーフは、彼の下で力を奮えることを誇りに思っていた。そこに、今のような浮ついた感情は無かった。グラーフは徹底して彼の武力であり、仲間であり、部下であり、艦娘だった。友愛では無く、戦果による奉仕に徹して来た。強く、恐れず、従順だった。だが。それが、今では大きく変わった。彼の仕種や表情、視線の先を意識するようになった。なってしまった。前の作戦が終わってからだ。

 

 グラーフは、前の作戦で大きな負傷を追った。轟沈寸前まで行ったところを、一緒に居たビスマルクに救われた。自力で航行することも出来なかったために、ビスマルクに曳航して貰い、何とか鎮守府に帰って来た。まだ意識が在ったから、曳航されている時の自身の状態が、相当に酷いものだった事も憶えている。左腕と右脚の欠損。胸や胴に開いた大穴。内臓へのダメージも深刻だった筈だ。大丈夫よ。しっかりしなさい。ビスマルクが大きな声で叱咤してくれていたのは分かったが、正直、もう助からないと思っていた。これだけの傷だ。母港に帰りつくまでに、この命は尽きるだろうと思っている内に、意識を失った。

 

 次に眼が醒めたのは、工廠にある艦娘用の特別施術室だった。眼を醒ました時のことは、憶えている。施術ベッドに寝かされたグラーフは裸体を晒し、蒼い微光に包まれていた。傷一つ無い状態だった。跡も残って居ない。あれだけ酷かった身体の損傷が、嘘のように修繕・治癒されていた。疲れも感じなかった。ただ、酷く眠かった。身体を動かせない。声も出ない。それだけ、自身の体の損傷状態が深刻だったという事だろう。まどろみの中。何とか視線だけを動かした。グラーフが寝かされている施術ベッド以外には、ほとんど物が無い部屋だった。天井や床や壁には、複雑な術式紋様が描かれていた。殺風景で無機的なのに、何処か神聖な雰囲気を持った広い空間には、一種の霊堂のような厳かさが在った。同時に、穏やかで暖かな空気の流れを感じた。それが、ベッドの隣に立って朗々と詠唱を紡ぎ、両の掌の上に、微光編みの術陣を象っている彼によるものだという事はすぐに分かった。彼も、眼を覚ましたグラーフの視線に気付いて、安堵したように微笑んでくれていた。其処で、また記憶は途切れている。

 

 

 あとで聞いた事だが、高速修復剤や妖精達の力を持ってしても、帰還して来たグラーフの肉体を治癒させることは不可能だったそうだ。損傷状態が激しすぎる上に、時間も経っていた。肉体細胞の壊死が始まり、手の施しようが無い状態だったらしい。しかし、彼は諦めなかった。一週間ほど施術室に篭って施術を続け、グラーフの肉体の回復に心血を注いでくれたのだ。いや、それは回復というよりも、肉体の再生や蘇生、復活や再構築の類いであろう。まさに魔法や奇跡と言ったものに近いが、これこそが、彼の力である。

 

 『優れた芸術家は、石柱の中に居る天使を、外の世界へと解放している』のだと。遥か昔の詩にて、そんな表現が残されている。故に、“造形”とは、その精密さを上げるにつれて、削られた石としての質量が減るのだと。艦娘も同じだ。かつての“艦”という造形から、“艦娘”としての造形を召ぶ“召還”の時、その質量は大きく減少する。生きていないものを生かす為だ。そして、艦娘には“死”という概念が生まれ、“魂”という概念が生まれる。肉体と共に、自我や感情、精神が発生する。無機の金属から、有機の肉体を象る。かつて沈んだ艦の誇りや魂の造形を鋳込み、この世界に招き入れる者達。こうした生命鍛冶と金属儀礼を司る者達を、この世界では“提督”と呼ぶ。そして彼は、特にその術式を扱う能力や資質に長けていた。彼の扱う施術式の精密さは、神懸かっている。襤褸雑巾のようになったグラーフの肉体を、ほぼ完全に近い形で修繕する程に。

 

 

 

「……ご気分でも優れませんか?」

 

 俯いて、彼に助けられた時の事を思い出していると、声を掛けられた。はっと顔を上げると、心配そうな貌をしていると彼と眼が合う。グラーフは咄嗟に首を振った。

 

「いや、そんな事は無い……。Admiralの御蔭で、私の肉体は健在だ」

 

 グラーフは彼の視線から逃れるように、心配は無用だと付け足してからコーヒーを啜った。それが不味かった。少々動揺していた事もあって、啜ったコーヒーが変なところに入った。軽く咳き込んでしまう。それを、グラーフの体調不良だと勘違いした彼が、ソファから立ち上がって、すぐ傍までやって来た。真剣な貌で見詰められて、グラーフは眼を逸らす。汗が出てくる。

 

「……顔が赤いですね。修繕施術の後に、特に身体に変調は在りませんか?」

 

「あ、あぁ。体調は、とても良い。とても良いのだが……」

 

 冷静さを取り繕うものの、グラーフは自分の唇と声が震えるのを感じた。近い。彼が、近い。グラーフの肉体に行った修繕施術は、並みの提督ならば到底扱いきれない規模の精密施術だ。その影響を心配してくれているのだろう。彼は、ソファテーブルを少し移動させて、ソファに腰掛けるグラーフの正面に立った。彼は小柄だが、さすがに今の状態では、グラーフが見下ろされている。彼が、目許を少しだけ緩めた。

 

「簡単にでは在りますが、精査施術を行わせて頂いても宜しいですか?」

 

 この至近距離から聞く彼の柔らかく温みのある声は、何と言うか、凶悪だ。鼓膜を通り越して、脳髄に沁み込んでいくような感覚に襲われた。ゾクゾクとした悪寒が背筋に走る。グラーフは顎を震わせて唾を飲み込み、彼に視線を返した。彼は、微笑んでいる。其処に、打算も悪意も下心も無い。自身の患者を心配する、年老いた医師の様な笑みだった。純粋な真心だけである。それなのに。何を自分は一人でときめいているのか。自己嫌悪に陥りそうになる。断るべきだ。大丈夫だと言うべきだ。しかし、抗えない。「あぁ、すまないな……。宜しく頼む」と。気付けば、グラーフは彼に言っていた。彼が微笑んだままで、頷いた。

 

「では、失礼しますね」

 

 そう短く断った彼は、座っているグラーフの上着に手を伸ばす。そして、そっと胸元を開けるようにして、緩めた。グラーフが首から下げているハート型ネックレスが、その胸元に顕わになる。少しの羞恥に、グラーフは軽く息を吐き出す。人格が破壊されていれば羞恥など感じないのだろうが、グラーフは違う。彼によって“ロック”され、その人格を育むべく丁重に扱われている。兵器では無く、道徳の主体として。個として。彼はグラーフを尊重してくれている。だからこそ、緊張する。緊張してしまう。心臓が暴れている。

 

「もしも何か問題が在ったら、私はどうなる? 破棄されるのだろうか?」

 

羞恥を誤魔化すように、そう聞いた。彼は、少年らしからぬ穏やかな貌のままだ。

 

「その時は、また僕が治癒・修繕を行わせて貰います」

 

「それは頼もしいな」

 

「はい。グラーフさんは僕にとって、大切なひとですから」

 

 思わず、グラーフは彼をまじまじと見詰めてしまった。彼は、さっきまでと変わらない表情だ。穏やかで、冷静で、涼しげな貌だ。歳の離れた姉に向けるような、恋愛とはベクトルの違う、家族への気遣いや優しさが滲んでいる。頭では理解しているつもりだ。しかし。こんなにも胸がざわめくのは何故だ。情けない程に胸が軋んだ。顔が熱い。涙が出そうだ。眼を合わせられなくなって、グラーフはすぐに眼を逸らそうとした。それよりも早かった。彼が、そっと左掌でグラーフの右頬に触れた。ひんやりとした掌だった。

 

 「んっ……!」と。グラーフは小さく肩を跳ねさせた。不意打ちだった。眼が回る。焦りまくる。はわわわわわ……! グラーフが軽いパニックなりそうになるが、その間にも彼は何かの文言を読経のように唱えていた。彼は、黒い手袋をしている右手を、グラーフの胸元に伸ばした。グラーフはきつく眼を瞑り、きゅっと唇を噛んだ。息を呑んで呼吸を止める。彼は、グラーフには触れなかった。その胸元にある“ロック”のハート型に、右手の人差し指と中指の先を、そっとあてがっている。彼が近い。吐息を感じるほどに。熱い。グラーフは呼吸が乱れてくるのを何とか整えようとした。無理だった。「じっとしていて下さいね? すぐに終わります」と。彼が、そっと額を預けて来た。グラーフの額に。

 

 同時だった。彼が右手で触れた、グラーフの胸元にある“ロック”のネックレスが微光を纏う。蒼い光だった。それは力線の術陣回路となってグラーフの胸元から広がり、身体全体に刻まれるようにして奔った。グラーフは吐息を漏らす。まるで、湯船に遣っているかのようだ。肉体が解けていくような感覚と暖かさを感じた。身体から力が抜けていく。彼の額と触れ合うグラーフの額にも、複雑精緻な術紋が浮かんだ。精査が始まったのだろう。グラーフは、彼に身体を預ける。緊張が解れて来る。右頬に感じる、彼の掌の感触が愛おしい。再び、彼が読経のように文言を唱えるのを聞きながら、グラーフは右手を持ち上げる。グラーフの右頬に添えられた彼の左手に、深く右手を重ねた。その感触に、とても安心している自分が居た。彼が精査施術を行う暫くの間、グラーフの意識は覚醒と催眠の最中に在った。

 

 どれほど時間が経ったのだろうか。数分か。数十分か。正確には分からない。微睡むような心地良さの中にあるグラーフに、「……終わりました。お疲れ様です」と。微笑んだ彼が声を掛けてくれた。彼は一歩身を引いて、グラーフからそっと額を離した。胸元にある“ロック”のネックレスに触れていた、彼の右手も離れる。グラーフの右頬に触れていた彼の左手も離れそうになった。グラーフは思わず、彼の左手を強く掴んでしまった。同時だった。執務室の扉がノックされて、すぐに開いた。

 

「失礼するわね、提督!」

 

勢い良く執務室に入って来たのは、にこにこ顔のビスマルクだった。

 

「今日の夕食なんだけど、グラーフ達と一緒に鳳翔のところに……」

 

 今日の秘書艦がグラーフである事も知っていたから、夕食に誘いに来たのだろうが、タイミングが最悪だった。ソファに腰掛けたグラーフが胸元を開けたままだ。おまけに、正面に立っている彼の左手を、自分の頬のあたりでしっかりと握っているという状況だ。

 

 執務室に入ったところで、此方を見詰めるビスマルクの表情が凍り付いていた。と言うかグラーフの方も、ついさっきまで被術状態にあったのだ。軽い微睡み状態だったし、正気では無かったと言うか、普通では無い状態だった。そう。これは、何と言うか。事故だ。グラーフは慌てて彼の手を放して、「これはっ、違うんだっ!」と。ソファからガバッと立ち上がる。

 

「いや、あの……、私は何も見てないって言うか……。その、ごゆっくりね?」

 

 一方で、ビスマルクはショックを受けたような、それでいて怯えたような半泣きの貌で踵を返した。ビスマルクが彼を慕っていることくらいは知っていたので、グラーフも焦る。

 

「話を聞いて欲しい、ビスマルク! 貴方は勘違いをしている!」

 

「やだ、ビス子やだ! 怖いから聞きたくない!」

 

 先程の衝撃的光景に錯乱しつつあるのか、半泣きのままでビスマルクは駄々をこねるみたいに言う。その後、彼が状況を説明してくれていなければ、もっと話はややこしくなっていただろう。ビスマルクもほっとした様だし、グラーフもどっと疲れたものの、誤解は解く事が出来た。仕事も終わっていたので、彼はビスマルクの誘いを快諾し、ビスマルク、プリンツ、グラーフ、それから、レーベやマックス、呂500達と共に、鳳翔のところで夕食を摂ることになった。

 

 執務室から鳳翔の店に向う事になり、ビスマルクが携帯端末でプリンツ達に連絡を取り合っている時だ。「コーヒー、ご馳走様でした。とても美味しかったです」と。廊下を並んで歩いていた彼が、グラーフに微笑み掛けてくれた。不覚にもドキッとしてしまう。

 

「そ、そうか。喜んでくれるのなら、また淹れさせて貰おう」

 

「はい。是非、お願いします」

 

 グラーフは彼へと笑みを返してから、またすぐに眼を逸らした。廊下を歩きつつ、右手を軽く握ってみる。右手には、まだ彼の左手の感触が残っている。甘美な感触だった。額や右の頬にも、彼の肌の感触を鮮明に思い出せる。至近距離で感じた、彼の体温や息遣い。石鹸の香りに混じった、微かな彼の匂い。無意識のうちに、鼻から深く息を吐き出していた。頭を冷やさねばならない。いけない事だとは頭で理解しているのだが、下腹部の辺りに、切ない熱さが篭ってくる。身体が何だか熱い。グラーフは彼に気付かれないように、チロリと唇の端を舐めた。今日は、眠れそうに無い。そんな気がした。

 


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