魂を創った、と紫に返した幻禍は颯爽と空へ逃げ、私はそれを追う。その間、私は早苗が思わずといった風に呟いた言葉を思い返していた。神様になった、と。…幻禍が?アイツが、神様?…ふざけるな。
奥歯を噛み締め、私を見下ろす幻禍を睨む。認めない。認めてなるものか。神はそんな軽いものじゃない。決してだ。
「ハァアッ!」
「随分とやる気のようで。よかったよかった」
急加速しながらの両脚を揃えた飛び蹴りを片手で受け止められ、右足首をガッシリと掴まれる。即座に浮くことですり抜けようとするが、それに合わせて幻禍も浮いてくる。そのせいで逃れることが出来ない。
「そぉぅらっ!」
それでも逃れようと何度も浮き沈みしている間に、幻禍が私を片腕で豪快に振り回し、遠くへと投げ飛ばされる。その勢いを自らの力で軽減させようにも殺し切ることが出来ず、そのまま地面に叩きつけられた。
「ぐはっ!」
そこは博麗神社から相当離れた位置にある、人気のない森の手前だった。叩きつけられた背中が痛むが、それもすぐに気にしていられなくなる。
「シッ!」
「ッ!」
真っ直ぐと飛んできた幻禍の伸ばした脚を横に飛んで躱し、それからすぐに空へ飛ぶ。幻禍の一撃によって陥没した地面を見遣り、近くに生っていた樹が巻き込まれて倒れていく。
空を飛んで距離を取りながら考え、そして少しだけ分かったことがあった。幻禍はどちらかと言うと地上を好む。空中でも戦えるようだが、地上戦と比べるとどうしても劣るように見える。ならば、私が得意とする空へ連れて戦った方がいい。
わざとらしく同じ速度で追ってくる幻禍を見遣り、そしてゆっくりと止まった。少し離れた場所に幻禍も止まる。
「いやぁ、随分と離れてしまいましたねぇ」
「…アンタがそれを言う?」
「それもそうだ」
そう言うと、幻禍はくつくつと嗤った。そして、私と目が合った。全く同じ顔のはずなのに、全てを飲み込む深淵を覗いているような気分にさせられる、冷たい漆黒の瞳。
「けれど、もうそろそろ十分かなぁ、って思うんだ」
「十分、ですって…?」
「うん。思い出には、もう十分だって」
次の瞬間、幻禍が掻き消えた。
「…そう思いませんか?」
そして、耳元で囁かれた。即座に声がした右側に裏拳を放ちながら振り返るが、そこにはすでに幻禍はおらず、元の位置でへらへらと嗤っていた。
「今日は、いい天気だ」
唐突に、幻禍は言った。
「太陽は昇り、空を照らす。微風は草を撫で、小鳥は歌う」
空を見上げながら呟く幻禍の手に新たな武器が創られる。これまで創っていた棍棒ではなく、長刀。振るえば、もちろん斬れる武器。その切っ先が私に真っ直ぐと向けられた。
「そんな日にこそ、赤い花がお似合いだ」
斬撃。その予感がし、私は横へ飛んだ。瞬間、先程まで私がいた場所に刀が振り下ろされていた。
一旦距離を取り、刀を持ち上げた幻禍を見遣る。あれは、確実に本気だった。当たり前だが、改めて思い知らされた。
「あらまぁ、躱されちゃった。ま、次斬ればいっか」
そう言って幻禍は嗤う。そして、幻禍は私の前に一瞬で近付き、横薙ぎに刀を振るった。首の高さに合わせられていたそれを、上半身を後ろに逸らして躱す。そんな私の真上に、いつの間にか幻禍が移動していた。
「ふッ!」
「ッ――ガッ!?」
回転しながら振り下ろされる脚を見てから僅かでもいいから浮くが、それにピタリと合わせられてもろに腹に蹴りを入れられた。捻じり込むように、埋め込むように入れられた脚は、私を下へ吹き飛ばすことすら許さない。
幻禍の脚が離れた瞬間、激痛が走る腹を想わず左手で押さえ込む。あまりの痛みに声が出ない。まともな言葉を発することが出来ない。
「オラァッ!」
そんな無防備な私の鳩尾に、再び幻禍の脚が突き刺さった。左手の上から無理矢理に蹴りを捻じ込まれ、今度は体をくの字に曲げられながら吹き飛ばされる。
「ソラッ!」
が、最後まで吹き飛ばされる前に背後から衝撃を受け、今度は上へと吹き飛ばされた。そして、その先には既に幻禍の姿があった。
「ハァ…ッ!」
その場で縦に回転し、ちょうどよく上へと吹き飛ばされて来た私の腹へ踵落としを叩き込んだ。グシャバキ、と硬いものがひしゃげて砕けて折れる嫌な音が私の身体から響く。口から吐き出た飛沫が赤く染まる。
「ぐは…ッ!げほっ、ごほっ!」
私は地面に叩きつけられ、その場で大きく咳き込む。痛い。痛い痛い痛い。思わず痛む胸を押さえ、さらなる激痛が身体中を駆け巡った。この痛み、確実に肋骨あたりが折られている。口元を流れる血が、体の傷の深さを物語っている。
だが、痛みに悶えている暇なんてない。私はその場から転がるように遠ざかった。すると、私がいた場所に刀が深々と突き刺さる。幻禍が私へ向けて投擲したのだろう。幻禍が直接来るだろうと考えて動いたが、これなら少し浮けばよかったかもしれない。
いや、やはり動いていて正解だった。私が転がりながら立ち上がっている間に、刀の元へ幻禍が落ちてきたのだから。あの場にいたら、きっと踏み潰されていた。
「…へぇ、まだ動けるんだ」
「当たり、前でしょ…ッ。私は、…博麗の巫女。敗北は、許され、ない…ッ!」
「ふぅん、それは悪いことをするねぇ」
そう言いながら、幻禍は刀を引き抜いた。そして、私に近づきながら無造作に振るう。それを私は後ろに跳んで躱し、それと同時に空へと浮かび上がる。それを追いながら、再び振り下ろされる斬撃を、加速することで回避する。
私は後退しながら幻禍の斬撃をどうにか回避し続ける。浮き沈みによる回避はもう危険だ。幻禍は既に私の進化した夢想天生に合わせることを可能としているのだから、その場に突っ立ったままでいたら案山子と大差ない。動くたびに激痛が走る。だが、動かなければ殺される。反撃しようにも、この身体では厳しい。それに、あんな無駄の多い動きで振るっているにもかかわらず、何故か幻禍から隙を感じることが出来なかった。
「きゃっ!」
「アリス!…くそっ!」
「もうお終いですか?…これはまた、随分呆気ないものですね」
後ろから魔理沙達の声が聞こえてくる。気付けば、博麗神社付近まで後退していたようだ。だが、僅かに聞こえてきた内容を察するに、圧倒的に香織とかいう奴のほうが優勢らしい。
しかし、悔しいことに私は今目の前にいる幻禍で手一杯。助太刀にでも行こうとすれば、その瞬間斬り伏せられてしまうだろう。
「ぇ…っ…?」
そんなことを考えていること自体が、致命的な隙だった。ピッと私の左側に刀が振り下ろされ、私は落ちていく何かを見遣る。左腕。私の左腕。違和感を一切感じさせず、私の左肩から先が斬り飛ばされた。不思議だ。痛みはない。
「――ァァァアアアアアッ!?」
だが、それは僅か一瞬のこと。すぐに焼けつくような激痛を感じ、思わず喉が張り裂けるほど叫ぶ。存在しない左腕を掴もうと右手が空を掴む。ない、ない、ない。私の左腕。今まで当たり前にあったはずの、私の一部。そして、右手が遂に左肩の切断部に接触した。ぬるり、と血が滑る。
「痛いよね。分かるよ」
「アアァアアァァッ!?」
「…聞いてないか」
私は飛んだ。左腕の元へ。それ以外のことが考えている余裕はなかった。そして、博麗神社の端に転がるそれを掴み取った。綺麗に切断された左腕。それを左肩に押し当てようとし、だがそんなことをくっ付くはずがない、と僅かに残された理性が私の右手の動きを止めた。
そんな私の背後に、誰かが近付いてくる。振り返るまでもない。…幻禍だ。
「これで詰みだ」
ゆっくりと振り返ると、幻禍が私に真っ直ぐと右腕を伸ばしていた。その手には私を殺すには十分過ぎるほど漆黒に染まった妖力が輝いている。私がこの場を離れようとしても、浮いても沈んでも、今の幻禍は正確に放ててしまう。
私は自身の死を悟り、だが目を見開いた。閉じてたまるか。最後の最期まで。
「さよなら、霊夢さん」
瞬間、視界は黒く染まった。
しかし、幻禍の攻撃は来なかった。
「主様っ!」
「…魔理、沙?」
魔理沙の背中。息も絶え絶え。既に血だらけ。満身創痍。そんな私の友達が、私の目の前で両腕を広げて立っていた。
「死にますよ」
「…知ってる」
「壁にすらなってない」
「…知ってる」
「死体が一つ増えるだけだ」
「…知ってる」
「無駄死に、って奴ですよ。魔理沙さん」
「んなこと知ってらぁ!」
魔理沙の声が響く。ボロボロのはずの身体で、幻禍を真っ直ぐと見ながら、魔理沙は叫んだ。
「ここで動かなかったら一生後悔する…。だからッ!」
「あっそ」
そう言うと、幻禍は何故か白けた顔をして右腕を下ろした。右腕に溜められた妖力が既に霧散していた。
「もういいや」
「…どういうことだよ」
「私の負けでいいよ、別に。どうせ、もう意味のない死合だったし」
そう言い放つと、幻禍は私達に背を向けた。その背は酷く寂しく、そして遠く感じられた。