時間潰しのために頭の中で対八雲紫戦を想定して考えてきた手段をひたすら思い返していると、小さくくぐもった声をわたしの耳が捉えた。…お、やっと目覚めるかな?
眠っている霊烏路空に目を移すと、微かに身動ぎをし始めた。そして、一歩遅れて気付いたらしいお燐さんが慌ただしく床に膝をつき、顔の高さを霊烏路空の顔の上に合わせ固唾をのんで見守り始める。時折わたしに横目で睨みを利かせてくるけれど、特に何かするつもりはないから気にしないでほしい。少なくとも、今のところは。
「ん…っ」
どうやらわたしが見ること自体が嫌らしい、と感じたので軽く天井でも見上げて待っていると、霊烏路空が目覚めた確かな声が聞こえてきた。…もう少し見上げとくか。感動の瞬間を見てたら後で何か言われるかもしれないし。
「……お燐…?」
「お空…っ!そうだよ、お燐だよっ!」
「あれ、私、どうしてこんなところに…――ッ!?」
何時まで見上げてればいいかなぁ、と思っていると、突然ドカンバタンと長椅子が派手に倒れる音が響き、ゴロゴロと床を転がる音の後で壁にぶつかる音までした。…一体全体、どうしたんでしょうねぇ。
強烈な視線を感じる。首の横のあたりがチリチリとする感覚。しかし、その視線に内包された感情は悪意や殺意といった敵意ではなく、明らかに恐怖や畏怖に起因するものだと感じ取れた。
いい加減、もういいだろう。わたしは視線を前に戻し、右手で首を、左手で心臓を庇いながら壁を背にして震えている霊烏路空を見遣る。その横でわたしと霊烏路空を交互に見ているお燐さんは突然のことに頭が回っていなさそう。…あ、わたしを睨みますか、そうですか。ま、そうなりますよねぇ。さとりさんは頭に手を押し当てて重いため息を一つ吐いていた。
「やぁ、霊烏路空さん。お目覚めですか?」
「ひぃ…っ」
「ま、あれだ。ここは止まってよかった、と言っておきましょうか。貴女にとっては悪かったんでしょうが、ね」
わたしはそう言って微笑むが、対する霊烏路空は異常事態が収束してから大分時間が経ち、ようやく本来の寒さを戻り始めてきているにもかかわらず、血の気の失せた真っ青な顔から汗を吹き出していた。…もしかしなくても、
両手を広げてヒラヒラさせて見せるが、特に効果はなかった。その癖して、軽く手を握ればビクリと反応する始末。やだなぁ、今の貴女は攻撃する理由がないっていうのに。
「…幻香さん」
「何でしょう?」
「少し退室してくれませんか?」
「えぇ、いいですよ。必要があれば呼んでくださいね」
唐突にさとりさんにそう言われ、わたしはそれに従う。とてもではないがいいとは決して言えない顔色をしながらそう言われてしまっては、逆らおうとは思えない。…きっと、わたしに絶えず殴られ続けたところでも読んでしまったんだろうなぁ。
静かに席を立ち、即座に背を向けて部屋から立ち去る。…あ、そうだ。一つ言い忘れてた。思い出したことを伝えるべく、わたしは部屋を出る一歩手前で振り返った。
「もしも、もう一度やろうと考えているようだったら、その時はわたしが彼女を殺し尽くします。さとりさん、よろしくお願いしますね?」
「え、えぇ…、分かったわ…」
◆
「――以上で、報告を終わりにします。何か質問はありますか?」
「いえ、特には。わざわざありがとうございました。それじゃ、元の仕事に戻っていいよ」
「分かりました。最後にこれを渡してほしい、と。それでは、失礼します」
わたしに封筒を手渡してからペコリとお辞儀をしたさとりさんのペットは、わたしの部屋の扉を閉めて帰っていった。その扉に鍵をかけ、ベッドに背中から跳び込んでゴロンと転がる。…ようやく終わった。窓の外の積雪を見ながらふぅーっと長く息を吐いて緊張を解いた。
わたしの部屋で対八雲紫戦を想定して考えてきた手段を並べることを再開して待っていると、扉を叩く音がしたのですぐに開けると、先ほど去っていったさとりさんのペットが扉の前にいたのだ。呼び出しかなぁ、と思ったら事後報告でしたよ。別にいいけどさ。
結局、霊烏路空は許されたようだ。もう二度とこんな真似はしません、とのこと。彼女は元の仕事に戻り、今まで通り灼熱地獄跡地の管理を続けていくそうな。甘くないかなぁ、とは思うけれど、わたしの知らない強く深い繋がりがあるかもしれないし、わたしからとやかく言うつもりはない。
また、霊烏路空に究極の力を与えた者の正体は掴めなかったそうだ。いくら思い返そうとしても、もはや顔の印象すらも分からないほどぼやけていたらしい。確か鴉って頭よくなかったかなぁ?三歩歩いたら忘れる鳥頭じゃああるまいし、と思ったけれど、大分前に会った人の顔を思い出してください、と言われて正確に思い出すのは難しいかもしれないな、と思い直した。
「封筒の中身、何だろ…」
中を透かして上端に中の紙がないことを確認してから、一発の妖力弾で上端を吹き飛ばす。それから封筒を引っ繰り返して中身を取り出し、折り畳まれた紙を開いて読み始める。
「ふむ、後日かぁ…」
八雲紫が話し合いに合意したことが書かれていた。確かに何時呼ぶのか聞いてなかったけれど、これでは具体的に何時なのか分からないなぁ…。唐突にスキマを開いて現れるかもしれないから、さとりさんの部屋には当分近付かないほうがいいかもしれない。けれど、肝心の時に気付かないでは困る。どうしたものやら…。
クシャクシャと紙を丸め、部屋の隅に放り棄てる。別に読まれて困る内容ではないので焼却する必要はない。…まぁ、近々この部屋を掃除するつもりだし、その際にその他のごみと一緒にまとめて捨ててしまおう。
胸の上に手を当てると、心臓の鼓動が伝わってくる。僅かだが普段よりも早く、そして強い脈動。上手くいくかな?失敗しないかな?…いや、そんなこと考えても仕方ないか。やってみないと分からないし、やらなければならないのだ。
のっそりと体を起こし、ベッドから這い出て窓へと向かう。ガラスの向こう側に雪が降っていて、そのガラスには薄っすらとだがわたしの姿が映っていた。真っ白だ。雪に負けないほどに。唯一、二つの瞳だけは薄紫色に色づいている。
「…そろそろ、だなぁ」
別れは惜しいし、悲しいし、辛いし、苦しいし、そして何より痛い。けれど、しょうがないのだ。この世界にわたしの居場所はない。ほんの僅かにあっても、それはこのガラスなんかよりも脆弱な薄氷のように儚い。正常者には当たり前なものが、異常者のわたしにはない。
それでも、わたしは、欲しいのだ。わたしの存在を許してくれる、当たり前の居場所を。
「…そろそろ、か」
ふと目を閉じて、そう呟く。惜しむな。悲しみは捨てろ。辛さも捨てろ。苦しみも捨てろ。痛みも捨てろ。感じなければ、それは存在しないと同義なのだから。
目的は既に決まっている。決意は固めた。意志を貫け。やり通せ。やれ。手段を選ぶな。受け取るのではなく、もぎ取れ。勝ちに拘らず、負けに屈せず、ただひたすらに結果のみを追い求めればいい。決めたことは、決して曲げるな。不要なものは捨てろ。邪魔なものは排除しろ。目的の成就を確実のものとするまで足掻き続けろ。
来いよ、八雲紫。わたしの目的のために、わたしの全てを賭けよう。…あぁ、とても分の悪い賭けだ。まったくもって悪くない。
ゆっくりと目を開くと、何にも染まらぬ漆黒の意思がわたしの瞳を黒く灯していた。