パタリ、と音を立てて書籍を閉じ、本棚の端の空いた場所に読み終えた書籍を仕舞う。長く息を吐きつつ、わたしは書斎をボンヤリと眺めた。わたしは、この書斎の書籍全てを読み尽くしたのだ。ようやく終わった。…終わってしまったなぁ。
「お疲れ、幻香」
「こいしも遊びに来てくれてありがとうございます」
「いーよ、気にしないでって」
ふと、こいしのことを思い出した頃には隣に座っていることが多かった。そして、旧都であった面白いことや稀に地上のことなんかを喋り、それから他愛のない話題がいくつか続き、時折こいしが持ってきたもので軽く遊び、最後にわたしが創っていた金剛石をわたしの部屋に持ち帰ってくれた。仮にいくつか盗られたとしても、わたしは気にしていない。このことに関して、わたしはこいしを信用したのだ。
今はまだ夏であろうと思い、頬を流れる汗に気付く。親指で軽く拭い、軽く息を吹きかけてやるとヒヤリとした。…あれ、服が碌に濡れてないや。何でだろう、と思ったところで全身からジワリと汗が滲む。どうやら、極度の集中で汗が止まっていたらしい。
「どのくらい読んでましたっけ?」
「一ヶ月とちょっとくらいかな。で、どうだった?」
「…まぁ、零ではなかったですね」
私は魔族を撃退したという武勇伝とか、フラッと彷徨っていたら裂け目を見つけて入ってみれば魔界にいて即行帰されたとか、魔族を名乗る者と友人になったという者の日記みたいなのとか…。そんな感じの話はチラホラ見つかった。けれど、魔界へどうやって行くのか、何ていう決定的なものは一切書かれていなかった。
まぁ、強いて言えば裂け目に入ったら、というところだろうか。空間の裂け目、もしくは次元の裂け目。八雲紫なら難なくスキマを開いて行けてしまうのだろうか、何てことを考えてしまう。もしそうならば、羨ましい話だ。
ゆっくりと立ち上がって大きく伸びをしながら、一年以内と言ってからかなり時間が経ってしまったなぁ、と考えた。いや、経ったではなく使った、か。消費、浪費とも言い換えてもいい。結果だけ見れば、無駄足を踏んだと言えるのだから。
「何処行くの?」
「庭。ちょっと身体を動かしたいから」
身体少し鈍ってるかもしれないなぁ、と思いながら書斎の扉へ歩く。こいしがわたしに付いてくるのを感じながら、書斎を出る。…うん、こうして見ると廊下も久し振りな気がしてきた。外に関してはもっとだろう。
廊下に出て左右を見渡すと、さとりさんのペットと目が合った。その手には片手で食べれる簡素な料理が乗せられており、きっと仕事中のさとりさんへの差し入れなのだろうと察する。…ただ、茹でた根菜を棒状に切っただけのものを料理と呼んでいいならばだが。あれでいいのか、さとりさん…。
そのペットと軽く挨拶だけ躱し、わたしは廊下の窓を開けて跳び下りる。着地の衝撃を両膝を柔らかく曲げることで殺し、立ち上がってから軽く右手を握る。気分的には悪くない。
軽く右拳を打ち出し、続けざまに左拳を深く突き出す。拳から風を切る音が聞こえ、何だか今までより調子がよさそうな気がしてくる。そのまま回し蹴りを振るうと、庭に伸びていた草が放射状に広がった。
「ぶわー、って感じだね」
「ですねぇ。どういうことやら」
何となく、足元に落ちていた木の葉を拾って人差し指を突き刺してみる。ピッと木の葉が突き破られ、人差し指が綺麗に突き刺さった。そのまま螺指と呟けば、急速回転する人差し指によって木の葉が千切れて宙を舞い散っていく。
「こいし、危ないですからちょっと離れててください」
「はーい」
目の前に鉄塊を創造し、手を当てて殴りやすそうな位置を探る。…ふむ、このあたりかなぁ。痛覚遮断。腰を捻り右腕を引き絞ってから、強く握った右拳で殴り付ける。グワァン、と鈍い音を響かせながら罅が走り、鉄塊が吹き飛び転がっていく。あれ、と思いながらも駆けだし、跳躍して鉄塊の真上を取り、前方三回転の加速と全体重を踵に乗せた踵落としを叩き込む。
「…あっれぇ?」
鉄塊が六つに割れ、細かい破片が飛び散る。鉄塊を壊せた。壊れてしまった。おっかしいなぁ…。わたし、こんな力出せたっけ?『紅』使ってないよ?
「わはー!凄いじゃん、幻香!」
「え、あ、うん。ありがとうございます…?」
いや、威力が落ちているならまだしも、逆に上がってないですか?…どうなってるんだよ、この身体。
そんなことを思いながら鉄塊を回収し、数十発の拳と脚を空振りし続ける。染み付いている体術の動きが今更鈍っている様子はなかったが、いつもより早く疲れてきている気がする。そっか、鈍っていたのは持久力のほうか…。それでも威力が向上していたことは疑問だが、高くて損はないので放っておく。
少し乱れた心臓を深呼吸して落ち着けつつ、パッと人型の
「ふッ…!――あ」
何度も何度も繰り返し、少しずつ修正を重ねていくと、ようやくそれらしいものにまで昇華させることが出来た。相手は複製で直立しているだけの存在なのだが、確かに出来た気がする。あとは実戦で使えるかどうかだが、至極当然のことだが今回と違って相手が動いていることになる。上手く出来るかなぁ…?
そんなことを考えながら両手を握っては開くを繰り返していると、隣からカランという音が響く。
「お疲れ様、幻香。ちょっと休む?」
「えぇ、そうしましょうか」
こいしがお盆に二つの飲み物を乗せて来ていたのを見て、わたしは複製を回収する。反復練習で若干疲れてきていたし、休むにはちょうどいいだろう。
「はい、どうぞ」
ペタンと座ったこいしの隣に腰を下ろし、手渡された飲み物を受け取る。透き通った黄橙色の液体の中には氷が入っていて、かなり冷えているようだ。そのまま口に含むと、思わず吹き出しそうになるのをどうにか堪える。柑橘系の果汁と酢が混ぜられた舌に突き刺さるような強烈な酸味を喉に流し込み、隣に座るこいしに目を遣った。…ニヤニヤ笑ってやがったよ。
「…こいしぃ」
「あっはっは!ごめんごめん。ほら、口直し」
無邪気に笑うこいしは、もう片方の飲み物を手渡してくれた。前科があるので中身を慎重に覗くと、氷が入った透明な液体のようだ。鼻を近付けて匂いを嗅いでみると、特にこれといった匂いはしない。ほんの少し舌に付けると、何の味もしない。どうやらただの冷やした水らしく、本当に口直しのようであった。とりあえず一口飲んで酸味でピリピリする舌を和らげてから、あの強烈な酸味がする飲み物に水を流して薄める。
「もーぅ、疑り深いんだからぁ」
「さっき自分がやったことを思い出してから言ってください」
「疲れたときは甘いものか酸っぱいものでしょ!」
「限度を考えて、限度を」
半分くらいに薄めたけれど、それでも酢の味が激しく自己主張する。中身が零れないように揺らして氷が溶けるのを促しつつ、まだ見ぬ魔界に思いを馳せる。存在は確かなんだ。けれど、わたしを受け入れてくれるのだろうか?書斎で読んだ魔族の話を見ていると、かなり不安になってくる。
ある程度氷が溶けた飲み物を口に流し込む。…まだ酸っぱいなぁ、これ。それと、ほんの少しだけ柑橘類の皮の苦味を感じた。