ガチャリと扉を開け、おそらく久し振りに廊下に出た。まだちょっとだけ視界がおかしなことになっているけれど、これなら四次元空間や五次元空間くらいの齟齬。そのくらいなら許容範囲内だ。音に関しては若干遠いけれど、気を付ければ何かとぶつかる心配もないでしょう。
「…あ」
そう思った矢先、扉を開けてすぐ目の前にさとりさんのペットがいた。このまま歩いてたらぶつかってしまっていただろう。早く気付けてよかった。…けど、どうしてそんな風に驚いた顔を浮かべているの?さらには後退りまでし始めちゃうし。
「さとり様ー!こいし様ー!」
「え、ちょっと」
どう対応しようかと悩んでいる間に、さとりさんのペットはわたしに背を向けて慌てて走り出してしまった。すぐに追いかけようかと思ったけれど、今の距離感が曖昧なわたしが彼女を追いかけたら、接近していることに気付けずに思い切り衝突する未来しか見えないのですぐに諦めた。
まぁ、改めて考えてみればわざわざ追いかける理由がないな、と思いながらとりあえず、扉の鍵を閉めておく。そして、わたしは目的地である書斎へと向かう。まだ読み切っていない書籍から、もしかいたらあるかもしれない魔界についての情報を探すのだ。歩いている間に、この違和感だらけの意識も元に戻ってくれるだろう。…まぁ、戻らなかったら書斎でゆっくり待っていればいいや。意識的に戻してもいい。
少なくとも、わたしが見た限りでは魔界らしきものは見当たらなかった。ならば、わたしがまだ気付いていない軸が存在する、と推測しよう。世界の裏側、文章の余白、決して干渉し得ないはずの場所…。だが、あちらからはこちらに干渉してきた。ならば、こちらからあちらに干渉することだって可能なはずだ。一方通行ではないことは、既に証明されているのだから。
「…おっと、もう書斎か」
危うく通り過ぎてしまうところだった。うぅむ、まだちょっと視界がおかしいな…。この調子のまま書籍を読むのはちょっと厳しい。少し休んでから読み漁るとしますか。
書斎の中に入り、これから読むつもりの本棚の元に腰を下ろす。自然に任せるか意識的に戻すか考え、ゆっくりと目を閉じた。…うん、意識的でいいだろう。いかれている部分を意識的に少しずつ戻していく。齟齬を、違和感を、一ヶ所ずつ切り替えていく。…うん、もう大丈夫かな。目を開ければ、ほら元通り。
「…って、こいし?」
「やぁっと出て来たんだねぇ、幻香ぁ」
そう言って微笑むこいしが目と鼻の先にいた。というか、滅茶苦茶近い…。そんなことを考えていたら、プクーッとこいしの頬が膨れていく。何やらご立腹のご様子。
「いやぁね?わたしだって幻香が長いこと籠ることがあるのは分かってるけどさぁ、突然鍵掛けた密室に閉じ籠るんだもん。ちょっと心配しちゃった。もしかしたら死んじゃったんじゃないかなぁ、とか聞かされて嫌ぁな気分だったよっ。お姉ちゃんのペットが無理に抉じ開けようとしたらドカンと砲撃喰らって大怪我しちゃったし」
「…はぁ、それは色々と申し訳ないですが」
「けど、出て来てくれてよかったぁ。ホッとした。安心したよ」
そう言って、こいしはわたしの背中に腕を回して抱き締めてくる。…あの、思ったよりきついんですけど。ギリギリ、って感じにかなり締め付けられてるんですけどぉ…。けれど、振り解くわけにもいかず、息が詰まるほど強い抱擁を甘んじて享受する。
それにしても、扉の反撃を喰らったさとりさんのペットがいるのか…。大怪我させてしまったみたいだけど、どの程度の威力だったのだろうか?かなり強力にしたつもりだけど、実際に作動させていなかったので、少しだけ興味がある。…まぁ、今は止めておこう。妖力が少しもったいない。
これ以上はちょっときついので、解放の催促のつもりでこいしの背中を優しく叩くが、一向に手を離してくれそうにない。その代わりなのか、こいしは少し腕を緩めてくれた。そして、こいしの口がわたしの耳元に近付く。
「それでね、幻香の部屋の鍵が欲しいな、って。前々から思ってたんだけど、忘れちゃっててさぁ。今回の件で痛感した、みたいな?…駄目かなぁ」
「いいですよ。ほら、手を出して」
「うん」
そう言うと、抱き締めていた腕を解いてわたしに手を伸ばした。ようやく解いてくれたなぁ、と思いながら、鍵の形を思い浮かべ、その中に入れる暗号めいた情報を並べていく。そして創造。普段は色なんか気にせず創るから薄紫色なんだけど、今回はせっかくこいしにあげるものなので、緑色に着色した。
一応中に入れた情報が間違っていないか確認してからこいしに手渡した。ついでに紫色に着色した鍵をもう一本創り、それも一緒に。
「二本?」
「片方はさとりさんに渡してください。色以外はどちらも違いはありませんから、好きなほうを貰ってくださいな」
「ありがとっ!それじゃあ、わたしは緑色ー!」
嬉しそうで何よりだ。さて、わたしは読み始めるとしましょうか。最後に読み終えたものの隣の書籍を引き抜き、中身をパラパラと読み漁る。…ふむ、これは関係なさそうだなぁ。鉱物について列挙されているだけみたい。
パタリと書籍を閉じて横に積もうとしたところで、その書籍を積もうとした場所にこいしが座っていることに気が付いた。なので、積み上げることを諦めて元の本棚に戻すことにする。次の書斎を引き抜き、読み始めたらこいしが横から興味ありげに覗いてきた。
「何探してるの?」
「魔界について。世界の裏側にあるらしいんですが、こいしは知ってますか?」
「全然?わたし、魔界なんてなぁんにも知らなぁーい」
「そうですか。それはちょっと残念です」
「あらら、ごめんね」
そんなことを話しながら、書斎を読み終えた。これも駄目だ。呪術について書かれていたが、わたしは何かを捧げてまで呪い殺したい存在はいない。…まぁ、強いて挙げろと言われればこの世界を創造した者かなぁ。ふざけやがって。
そんなやり場のない怒りを鎮めつつ、次の書斎を手に取る。
「幻香はさぁ、ここの書斎を随分読み進めたねぇ」
「えぇ、そうみたいですね。おかげで色々と知れましたよ」
「もうすぐ読み切るんじゃない?」
「時間があればそうするつもりかな。…まぁ、読み切ったところで得られるか分かりませんが」
思わず、そんな悲観的な言葉が漏れ出る。魔界について載っている書籍なんて、もうないんじゃないかなぁ…、なんて思ってしまう。まだいくつか本棚は残っているけれど、これだけ読んでほとんど見つからないとなれば、そう思ってしまうのも無理はない。けれど、途中で諦めるのはよくない。例えなかったとしても、出来ることならば最後まで読み尽くそう。
「というわけで、特にわたしに用がなければ、わたしはここで読み耽ろうと思っています。何かあったら呼んでくださいな」
「むぅ…。分かった。けどさ、時々遊びに来ていい?」
「別に構いませんが、楽しいとは思えませんよ?」
「わたしは幻香の隣なら何だって楽しいよ?」
「…ふふ。そうですか」
思わず笑みが零れ落ちる。読み終えた書籍をパタリと閉じ、次の書籍を開く手が少しばかり軽い。
「それじゃあ、わたしはお姉ちゃんにこの鍵を渡してくるねー!」
「分かりました。それでは、また」
「じゃあねー、幻香ー!」
そう言って溌溂に腕を振るこいしに、わたしも手を振り返す。そのまま書斎から出て行くまで見送り、わたしは手に持っている書籍を目を向けた。
さて、と。少し気合い入れて読み進めるとしましょうか。