「もう、まどかさんはまた無茶して…。ちゃんと休んでなきゃ駄目じゃないですか!また倒れちゃうんじゃないか、って心配したんですよ?…だから、これ以上無茶はしないでください。私に、心配を掛けさせないでください…」
「大丈夫なの大丈夫かな大丈夫よね大丈夫かしら…。ねえ幻香、何処か痛い箇所はない?辛いことはない?嫌なやつはいない?痛かったら治してあげるから辛かったら慰めてあげるから嫌だったら殺してあげるから」
滅茶苦茶怒られていると思う。一気に高次元に叩き上げて急遽元に戻した頭は、切り替えがまだ完全に出来ておらずかなりしっちゃかめっちゃかだ。だから、今のわたしは二人同時に言われても正直よく分からない。まだちょっと声が遠い感じがするし、目の前にいるはたてさんが立体的な線かつ平面的な点に見えてしょうがない。
それよりも、わたしは僅かな間だけとはいえ、おそらく十五次元の世界を目に収めた。理解したとは言い難いかもしれないが、確かに脳裏に焼き付いている。見回したわけではないけれど、その十五次元内に他の世界と思われるものは見えなかったと思う。ここ以外誰もいなかったし。…もういっそ、別次元軸移動を習得して誰もいない次元軸で一人になろうか。…うん、候補に挙げておこう。
「まどかさん、聞いていますか?」
「え、ごめん。よく聞こえないからもう一度言ってくれませんか?」
「聴覚不良!?聾!?そう、耳ね!耳が悪くなったのね!えぇと、どうすれば治せるかしら…!」
「み、耳ですか?…えっと、ど、どうですか?」
二人の声は未だに遠く、よく聞き取れなかった。ただ、何故かわたしの両耳に手を添えられてジンワリと活力を与えてくれているのを感じる。これ、大ちゃんだよね?どうしてわたしの両耳を治癒しようとしているの?…あぁ、わたしがあんなこと言ったからか。
「あの、ちょっと耳が遠くなるのはいつもの事なので、気にしないでいいですよ?」
「あぁもう…!腑抜けた爺の鼓膜縫ってるところなんてどうでもいいのよッ!」
「い、いつもの事だったんですか?それはそれでどうかと…」
…なんかはたてさんが苛ついているような気がする。どうしたんだろうか?…まぁ、いいや。何言ってるかよく分からないし、伝えたいことだけ伝えておこう。
「放っておけば治りますから。…まぁ、一時間もあれば大丈夫かな?」
「そ、そうだったんですか…?」
「胡麻、黒豆、大豆、落花生、胡桃、栗…?」
そう伝えたけれど、大ちゃんはなおも両耳に淡い黄緑色の光を当て続けてくれている。過剰に受け取って損をするものではなさそうなので、好意は受け取っておこう。
ひとまず目を瞑り、あの十五次元の世界を思い返す。頭は軋むように痛かったけれど、見える世界は素晴らしく広がった。だけど、別の世界がある可能性が僅かずつだが削られていくのを感じる。そもそも、この世界とは何次元まである?無限に存在しているのだろうか?それとも限界があるのだろうか?…まぁ、百や二百じゃないだろうから、そこまで考えなくていいや。
深呼吸を繰り返し、ひとまず元の三次元空間を思う。頭にこびり付いた齟齬を少しずつ削ぎ落とし、違和感を消していく。暫くの間続け、刻一刻と時間が過ぎていく。どのくらい続けていただろうか、齟齬をほぼ全て削ぎ落としたところでゆっくりと目を開くと、目の前で心配そうな顔を浮かべている大ちゃんと目が合った。その顔は普通だ。そんな当たり前のことをホッとする。
「ありがとうございます、大ちゃん。もう平気ですよ」
「本当ですか…?」
「ええ、大丈夫です。…だから、もう手を離してくれていですよ」
「あ、はい。そうでしたね」
そう言って安堵した大ちゃんは、わたしの両耳から淡い黄緑色の光を放つ手を離した。これのおかげで両耳が治ったとかそういうことはないのだけど、その代わりに疲労感は一切ない。妖力量だって少しくらい回復してるかも。
「はたてさん。何を撮っているかは知りませんが、わたしのためだったらもう大丈夫ですから」
「何処の誰よこの人間…!というか何時の時代――え、幻香…?もう平気なの?」
「ええ、無駄な心配をかけてしまいましたね。すみません」
「無駄なんかじゃないッ!…無駄なんかじゃないわ。貴女のことに、無駄なことなんてないわよ」
「…そうですか」
いや、結構無駄なこといっぱいしてるんですが…。けど、それをわざわざ否定するのもどうかと思うし、放っておいていいや。
ベッドから跳び上がり、蹴破られた扉の前に降り立つ。頭の中で地霊殿にある扉の形を思い浮かべ、施錠するための機構を入れ込む。えぇと、反撃する場合の威力はこの位で、妖力弾は一発の砲撃。鍵穴に入れた物質から情報を読み取り、一致した場合のみ開錠可能とする。…こんな感じでいいかな。
新しく扉を創り直し、部屋中に撒き散らされた木片を拾い回収していく。途中から大ちゃんとはたてさんも手伝ってくれたので、思っていたよりも早く粗方回収し終えることが出来た。
「さて、はたてさん。一つ訊いておきたいことがあるんですが」
「何かしら、幻香。何でも言ってちょうだい。私に出来ることなら何でもしてあげるわ」
「地上には迷い家と呼ばれる場所があるんですが、知っていますか?そこには元わたしの家があるんです。今ではフランが住んでいて、わたしの友達がよく集まるそうですが、貴女は興味がありますか?」
「…興味?その迷い家に?」
「ええ。貴女は妖怪の山に、天狗の縦社会に嫌気が差しているようですし。…まぁ、逃げ場や息抜きの場所の一つと捉えてくれれば結構ですよ」
そう問うと、はたてさんは少し考え込んだ。どちらにせよ、てっきり即答されると思っていたのだが、ちょっとだけ意外。
「一人でいて、辛くないですか?力不足かもしれませんが、出来ることなら私ははたてさんと一緒にいたいと思っているんです」
「…そうね、一人は辛いわ。気付けばあってもないようなものだった立場も落ちるところまで落ちてるし、周りの連中もわざわざ私に悪態吐いてケラケラ嘲笑するし、ゴミみたいに扱う癖に決して捨てやしない」
何となく想像はしていたけれど、はたてさんがここに来ているのはわたしに会いたいだけではなかったのかもしれない。ただ純粋に、悪意から一時的でもいいから逃れたいと思っていたのかもしれない。わたしと同じように。
「ごめんね、幻香。その好意はとっても嬉しいけれど、お断りさせてもらうわ」
「そうですか。いいんですね、はたてさん?」
「ええ、構わないわよ」
「あの、理由を教えてくれませんか…?私達の事なら、気にしなくても…」
「だって、今の幻香はここに隠れているんでしょう?そのくらい分かってるわ。だから、私はそれを受け取れない。幻香に迷惑がかかっちゃうもの。それに、妖怪の山に帰ったらどうせ当分外に出ることも許されないだろうし、下手に何かを持ち帰るのは出来ないの」
「そう、ですか…」
大ちゃんは少し寂しそうに俯いてしまったけれど、わたしは正直これでよかったと思っている。はたてさんが突然迷い家に訪れることは、はたてさんにとっての利点は多くとも、わたしにとっては欠点のほうが勝るのだから。そして、はたてさんはそこのことを察して、わたしの迷惑になってしまうから、断ってくれたのだろう。
「ありがとうございます、はたてさん」
「気にしないでよ、幻香。それに、お礼を言うのは私。私は貴女がいるから生きているのよ」
その返事に思わず頬が引きつりそうになったけれど、頬に力を込めてどうにか抑える。ありがたいけれど、想いが重いんだよなぁ…。