『碑』。こいしを記憶に刻み込むために秘術を身勝手に改良改悪させた代物。一時的に完全記憶能力を得られ、その時記憶したことはいつでも思い出すことが出来る。普通に記憶することが白紙に内容を編集して書き込むことだとすれば、『碑』は白紙に直接写真や文章を貼り付けるようなものだ。
確かに便利だけど、このままだと不要な部分もまとめて覚えていることになる。だから、全て丸ごと覚えている記憶とは別に、必要なことだけを切り出して覚え直していく。思い出すことは出来ても、わざわざ思い返さなくていいのだから。阿求さんが改めて編纂している理由は、後世に伝えるためだけではなく自分自身のためでもあるかもしれない。
「…ふぅ。…よし」
そんなことを考えながら、穴に埋め込まれ刻まれた記憶を整理し終えたわたしは、重い腰を上げて部屋を出る。こうして生きることにした身だ。今でも消えても構わないとは思っても、先へと足を踏み出さないといけない。消えることを贖罪とせず、生きることを贖罪とするために。
廊下に出て少し歩き、こいしの部屋の扉を叩く。
「はーい」
「入りますよ」
そう言って扉を開けると、こいしは机に賽子を転がして遊んでいた。
「どうしたの?」
「こいしが何処に行ってたのか、って話ですよ。ほら、聞けたらにする、って言ったでしょう?」
「あー、そのことね。うん、いいよ!」
さとりさんは、こいしが何処に出掛けているのか教えてくれなかった。見た感じ知っているようだったけれど、鎌掛けて引っ張り出すことも記憶把握することもしなかった。話してくれないなら、それなりの理由があるだろうと思ったし、そのときは半分以上消えてしまうつもりだったから聞かなくてもいいやと思っていたから。
「わたしはね、地上に出てたの」
「…大丈夫ですか、それ?」
「お姉ちゃんも止めなかったし、大丈夫でしょ」
「止めないんだ…」
地上と地底の不可侵とか言っているけれど、こいしは割と頻繁に出入りしてたみたいだし、萃香は単身飛び出したみたいだし、わたしはコソコソと落ちてきた。もしかしたら、バレてないだけで他にもいたりするかもしれない。
「それで、何をしに地上へ?」
「幻香の知り合いに会いに行ってたの。ほら、あの時教えてくれた人達に」
「丁半したときですか?」
「そうそう」
「まさか全員に会いに行ったんじゃぁ…?」
「ううん、流石に全員には会ってないよ。面倒だし」
その後、こいしは会った順番に名前を言ってくれた。寺子屋で慧音、屋台で妹紅とミスティアさん、霧の湖でルーミアちゃんとリグルちゃん、紅魔館でレミリアさんとちょっとだけ咲夜さん、大図書館でパチュリー、霧の湖で大ちゃんとチルノちゃん、迷いの竹林でうどんげさんと因幡てゐ、そこら辺の小川の近くで萃香、白玉楼で妖夢さんと幽々子さん、彼女達の大樹の家でサニーちゃんとルナちゃんとスターちゃん、アリスさんの家で魔理沙さんとアリスさん、迷い家でフラン、博麗神社で霊夢さんだそうだ。うん、面倒臭がっていた割りには結構多いね。
「いくら多いからって、ちょっと長くないですか?」
「一度会った人にはもう一度会わないようにしてたからね。いやぁ、大変だったよ!後になればなるほど会った人と一緒にいることが多くてさぁ!そもそも何処にいるかも分からない人とか!いつも誰かと一緒にいる人とか!不特定多数の人がいる場所にいる人とか!」
冥界にある白玉楼なんて、よく見付けられたなぁ…。わたし、こいしに春幸異変の話をしたとき冥界への行き方なんてどうでもいいと思って話さなかったのに。
「大変だったんですねぇ。いくつか訊きたいことはまあ当然ありますが、まず訊きたいのはフランですね。どうして迷い家に?」
「んー、多分姉妹の縁を切ったんじゃないかなぁ?レミリアのほうは『私に妹なんていない』って言ってて、フランのほうは自分の名前をフランチェスカ・ガーネットに改名してたから」
「えぇ…。あのレミリアさんが?冗談でしょ?」
「フランのほうの不満が破裂したんじゃない?」
「…ま、そうでしょうね」
レミリアさんはフランのことを、何と言うか、的外れというか、過保護過ぎたというか…。とにかくフランのことを大切にしていたつもりだったようだから、姉妹の縁を切ろうとは思わないだろう。それに対して、フランはレミリアさんのことを好いていなかったみたいだし、わたしが地底に下りていた間に色々あったのだろう。
次に訊きたいことを言おうと口を開こうとする前に、こいしがわたしに言った。
「あ、そうだ。幻香に重大情報だよ」
「重大?」
「うん。幻香さ、地上じゃ死んだ身だ、って言ってたじゃん」
「言いましたね。彼女だって逝くつもりで行きましたし」
「それ、出来てなかったみたい。封印されてるってさ」
「はぁ?封印されてる?彼女が?おいおい、それこそ冗談でしょう。何最後の最後に甘い決断してるんですかあの蜂蜜漬けは!?」
その重大情報に、思わず頭を抱えてしまう。わたしが幻想郷からいなくなるという目的は達することが出来ても、彼女の決意が無駄になるじゃないか。本当に何てことしてくれてんだよ。あの博麗の巫女。
「なんかねぇ、人間も妖怪も関係なくて、手を伸ばせば繋がって、お互いに笑い合って、同じ酒を呑める。そんな世界を理想にしてるんだって」
「理想を抱くのは勝手だけど、それをわたしに押し付けないでほしいかな…。少なくとも、わたしはそこまで共感出来ないね。本当に関係ないなら、少なくとも『禍』は生まれなかった」
「そうだねぇ。お姉ちゃんが迫害されることもなかったよね」
それに地底に旧都が出来ることもなかったのだろうなぁ…。
まあ、理想だって一つの意見。同調してくれることがあれば、反抗されてしまうこともある。至極当たり前のことだ。霊夢さんの意見に、わたしとこいしは反抗した。それだけ。
霊夢さんが彼女を殺さずに封印した理由が、何となく想像がついた。そんな理想があれば、殺せるはずがない。何故なら、自らが相手に慈悲を与えられなくなれば、その理想は破綻するのだから。
「他に訊きたいことは?」
「そうですねぇ…。こいしの体験を聞いてからのほうがいい気がしますが…。けど、その前に一つあるかな」
「なになに?」
「わたしの友達と知り合いに会って、何を思いましたか?」
「そうだねぇ…。当たり前なことだけどさ、幻香は地上で生きてたんだなぁ、って思った」
こいしが言う『生きてた』という言葉。それは、生存という意味もあるだろうけれど、それ以外にもある気がする。どんなものか、と言われても曖昧で答えられないけど。
「…そうですね。わたしは、地上で生きてましたよ。いいことも悪いことも、楽しいことも辛いことも、嬉しいことも悲しいことも、当然のようにありました」
「地上に戻りたい?」
「いつかは。けど、それは今じゃないかな」
まだ今代の博麗の巫女である博麗霊夢に勝利する手段を見出していないし、人間共が丸ごと入れ替わって世代交代が済んだわけでもない。
それに、わたしはまだまだ未熟だ。この身体の使い方がようやく分かってきたんだ。他にもやりたいことはいくつもある。いつ使うかなんてどうでもいい。出来るようになることが需要なのだから。
「そっか。その時はさ、わたしも一緒に行けるかな?」
「その辺はさとりさんに訊いてくださいよ。わたしの一存で決めていいようなことじゃない。それに、こいしの新しい友達が出来るかどうか分かりませんよ?」
「そうだね。わたしがいないと忘れちゃうんだもんねぇ…。あーあ、わたしっていつか透明妖怪にでもなっちゃうんじゃないの?」
「…どうでしょうね」
なけなしの意識がさらに削れ、碌に記憶もしてくれなくなってしまったこいし。その意識がさらに削れて、もしも無くなってしまったら、その時こいしは遂に認識さえされなくなってしまうかもしれない。目の前にいても気付かれず、声をかけても答えてくれず、ぶつかっても気にされない。そんな存在まで落ち込んでしまっても、何らおかしくない。
「…さ、こいしの体験を聞かせてください。訊きたいことは、その後で」
「おっと、そうだったね。それじゃあ、タップリ語らせてもらいましょう。付いて来てね?」
わたしは無理矢理話を切り替え、こいしの体験を語るように促す。わたしは、久し振りに彼女達のことを聞けて少し嬉しかった。