足元に感覚がないのにもかかわらず立っているという不思議な状況。周りは真っ白で柔らかな光に包まれていて、このまま黙っていれば耳鳴りがするほど静かな空間。そう思っていると、咲夜の隣に直立不動でいる彼女が静寂を破った。
「地上に送り返すわけだけど、どこに降ろせばいいかしら?」
「それでは、紅魔館の庭にでも降ろしていただければ」
「…悪いが、地名を言われても私には分からない。具体的な特徴を言ってほしい」
「目が痛くなるほど真っ紅な館だ。近くには森と湖があるぜ」
「ふむ…、ああ、そこか。分かった」
そう呟いてから一、二分。私達を包んでいた光が薄れ、見慣れた庭があった。そして、その正面には見慣れた紅い館。約十二日振りに見る紅魔館。行きはあれだけかかったというのに、帰りは僅か数分。ここでも私達と彼女に大きな差があることを見せつけられた気になってくる。
「それでは、二度と会わないことを願う」
急に後ろにいた彼女がそう言ったので振り返るが、そのときには既に彼女は光に包まれていて、音もなく満月へ帰って行った。まるで流れ星が逆走しているかのようにも見えるそれを、私はしばし眺めていた。さっきまでいた月のことを考え、そして、新たな興味が疼く。それは煙のように急速に膨らんでいくが、それとは決して違い、存分に味わうまで薄まることを知らない。
そうと決まれば、早速やらなければ。そう考え、近くにいる咲夜のほうを向いた。
「ふっ…、咲夜」
「お嬢様?」
「おっと、面倒なことになりそうだな。私はここで帰らせてもらうぜ。じゃあな!」
魔理沙が箒に跨って逃げるようにここから飛んで行くが、そんなことは知ったことではない。今の私の頭の中は、月で見た遠くに見えた僅かに丸みを帯びた水平線、砂浜に音を立てて流れて白い泡と共に消える波、海でいっぱいよ。
「海よ!今度は海を楽しみましょう!」
「はぁ…、海、ですか…。分かりました。それでは、早速メイド達に――」
そう言って後ろにいる妖精メイドを見た咲夜は、一瞬にして不自然な姿勢のまま固まった。
「ねえ、貴女達」
「んー?どうしたのメイド長ー?」
「何?」
「あと一人は何処にいるの?」
そして言った言葉は、不可解なものだった。
「咲夜、貴女は何を言ってるのかしら?メイドは最初からそこにいる青と紫だけじゃない」
「…!お、お嬢様…?いきなり何を仰って…」
私の言葉に驚愕で塗り固められた表情を見せた咲夜に、私自身も少しばかり驚いた。まさかそんな顔をするとは思っていなかったから。そんな咲夜は全身が錆び付いたかのような動きで二人の妖精メイドのほうを向き、僅かに震える両手を紫色の妖精メイドの肩に乗せ、震えるような声で訊ねた。
「ねぇ、黒色の妖精メイドは、何処にいるか、知らないかしら?」
「知らなーい」
「知らない」
「…冗談はよして。貴女の友達でしょう?」
「私の友達は誰もここのメイドになってない」
「…嘘」
紫色の妖精メイドの答えに血の気が一気に抜かれた咲夜は、時間操作を駆使してまで弾かれるように紅魔館へ行ってしまった。…あんな咲夜は本当に久し振り、いや、もしかしたら初めてかもしれない。一体どうしたのかしら?
かなり心配になった私は、困惑した表情を浮かべる青色の妖精メイドと僅かに首を傾げている紫色の妖精メイドをその場に置いて紅魔館へと飛翔する。目的地は紅魔館で最も高い位置となる屋根の上。そこにはパチュリーとフランがいて、咲夜が必死の形相で二人に何かを訊ねていたのが見えたからだ。
「――いよ。誰それ?」
「…どういうことよ…?」
近付いていくと、フランからの答えを聞いて困惑している咲夜が見えた。私が近付いたことをフランが感じたらしく、表情があからさまに悪くなっていくのが少しばかり悲しくなってきたけど。
「咲夜」
非常に危うく見えた咲夜にゆっくりと近付き、下を向いている彼女の顎を持ち上げて私のほうへ向ける。目の焦点が僅かに合っておらず、顔面蒼白な彼女の目を見て私は言った。
「…今日はもう休みなさい」
「…お嬢様。承知、いたしました」
フラフラとした足取りで中へ戻って行く咲夜を見ていると、やっぱり不安になってくる。私がこう言えば、咲夜はもう休むだろう。これで落ち着いてくれればいいのだけど、明日まで引きずっているようなら、どうにかしなければならないわね。
「早かったわね、レミィ」
そんな私達の事なんかそっちのけで満月を見上げていたパチュリーが、私に目も向けずにそう呟いた。
「そう言うパチェは珍しく外に出てるのね」
「フランに頼まれたからよ。…ま、私も来たいとは思っていたからちょうどよかったわ」
「あら、上手くいくか心配だったのかしら?」
「うんにゃ。上手くいくことは保証されてたから」
「…どういうことよ?」
「どうでもいいでしょう?で、月侵略は失敗したの?」
「ふん、そんなのはもうどうでもいいわ。それより今は海よ」
「…はぁ、また面倒なものを…。そもそも貴女は海に入れないじゃない」
呆れた口調で言うパチェだけど、さっきから視線は満月から全く動いていない。後ろでブスッとした顔のフランも、その視線は満月に向いている。
「もしかしてパチェ、月に行きたかったのかしら?」
「…まぁね。興味がないと言ったら嘘になるわ。大図書館には決してないものだって、あそこなら知ることが出来るかもしれないし」
「なら乗ればよかったのに」
「嫌よ。痛い目に遭いたくないもの」
ちょっとばかり馬鹿にしたような笑みを浮かべながら放たれた言葉に、ほんの僅かに腹が立った。けれど、実際にちょっと痛い目に遭ったということと、ロケットを作ったのが誰かということを考えて、僅かに膨らんだ怒りを無理矢理飲み下す。
「ところでレミィ。咲夜が急に現れて『黒色の妖精メイドを知りませんか』って訊いてきたわよ。どうしたのかしらねぇ」
「知らないわよ。月に連れて来た妖精メイドの一人がいなくなったらしいのだけど、私は二人しか知らないわ」
「青色のと紫色の?」
「そう。…本当に、どうしたのかしら」
「…ま、知らないものは知らないでいいのよ。誤魔化して知ってる振りして相手を無意味に困惑させるほうがよっぽど面倒だし」
そう僅かに早口で言い切った。しかし、その行為は喉を少し無理したようで、コホコホと小さく咳き込んだ。咳き込んでいるところでかつ、咲夜が既に訊ねていることだろうことで悪いけれど、私も改めて訊いてみた。
「それで、パチェは知らないの?」
「…ええ。ロケットに搭乗した妖精メイドに黒色の子なんていなかったわよ」
「そう。…そうよね」
やっぱりパチェも知らないらしい。後ろにいるフランにも訊いてみようと思ったのだけど、話しかけてくるな、と言わんばかりに不機嫌になっている。喉が詰まるのを感じながらも、無理矢理口を開く。
「…フラン」
「…何よ」
「貴女も同じ事を訊かれたのかしら?」
「…そうよ。知らない、って言ってやったわ」
それだけ言うと、口を閉ざした。視線も最初からずっと合っていない。私はフランを見ていても、フランは私を見ていない。それが悲しかった。
ロケット発射の時にその場にいたパチェはともかく、どうしてフランにも訊いたのかは知らないけれど、三人目の黒色の妖精メイドの存在は咲夜を除いて誰も知らないらしい。私自身もそんなのがいた記憶はない。
「フラン。戻るときはパチェと――」
「一緒に、でしょ?いちいち言わないでいいよ」
「…そう。分かってるならそれでいいわ」
けれど、あんな狼狽えた咲夜を見ていると、咲夜の見間違いで済ますことはどうしても出来なかった。
フワリと浮かび上がり、近くの窓から紅魔館の中へと入っていく。窓を潜る一瞬前に、おねーさん、とフランが呟いたような気がした。