「あっ、幻香…って、どうしたの?その顔」
「さっきまで眠かっただけですよ」
「いや、そうじゃなくて…。あの、その、眼が…」
「目の色変えてまでもやらなきゃいけないことがあるんです」
「それでもおかしいでしょ」
至急やる必要が出来たので、ここに来るまでの維持をしてみようと『紅』を発動した。その結果、吸血鬼が元だからか、極度の集中状態に入ったからか、眠気は吹き飛んだ。まあ、ここに来るまでに一度解けてしまって集め直すことになったとき、一気に疲れと眠気が襲ってきたのだけど。
屋台の暖簾をくぐり、椅子に座る。わたしの顔をじっと見つめるミスティアさんが、小さくため息を吐いた。
「ま、幻香に変わりなさそうだし、いっか」
「ありがとうございます。今日はお客として来たわけじゃないんですがね。残念ながら」
「それでもいいよ。…そうだ。少し前におでん作ってみたんだ。味見してくれる?」
「いいんですか?」
「いいのいいの。他の人の意見が欲しかったし、何よりこんな時間になったらお腹空くでしょ?」
「…そうですね。いただきます」
食べることを忘れて昼食夕食を抜いていたにもかかわらず、飢えを感じていないのだけど。しかし、食べたくないというわけではない。なんとも不思議で不気味な感じだ。
「温め直すから、ちょっと待ってね」
そう言いながら大き目の鍋を取り出し、炭に着火した。
さて、おでんが温まるのを待つのも兼ねて、わたしがここに来た要件を果たすとしよう。
「ミスティアさん。今日は頼みがあって来ました」
「頼み?…それより、もうそろそろ日付も変わるよ?もしかしたらもう変わってるかも」
「時間がないんです。手短に言いましょう」
ミスティアさんの目を見詰める。すると、何故か気圧されたように僅かに後ろへ下がられた。…解せぬ。
「わたしに、歌を教えてくれませんか?」
「へ?…う、歌?」
「ええ。付け焼刃で構いません。わたしはどうしてもその技術の基礎が欲しい」
「えぇっと…、極めるつもりはないんだね?それと、幻香。私の歌って幻香に一度も聴かせたことなかったと思うんだけど…」
「ええ、そうですね」
確かに、わたしはミスティアさんがどの程度の実力の持ち主か知らない。けれど、あの妖夢さんと幽々子さんが興味を持つ程度には心得がある。…もしくは、あの二人の気に障るほど耳障りだったか。
わたしは上か下かの二択で、上にいることを信じた。
「ですから、少し聴かせてくれませんか?」
「いいけど…。里からは遠いとはいっても、ここだと目立たない?」
…確かにそうかも。ミスティアさんの言うとおり、ここは里からは遠い。しかし、わたしはそれでも安心しているわけではない。そのことはミスティアさんも理解していたみたい。もしかしたら、わたしより気を使っていたかも。
軽く周りを見渡し、人影がないことを確認。耳を澄ませて余計な音を排してみるが、それらしい音は聞こえない。念には念を入れて空間把握をしてみたが、周辺に誰かがいる様子はなかった。
「…多分大丈夫。近くに気配はなかったです」
「そう?けど、いつもより小さな声で歌うね」
そう言うと、ミスティアさんは目を瞑り左手を胸に当てた。そして息をゆっくりと吸い込み、歌い始めた。その歌声は、まるで別人のようだった。一つ二つ高く透き通るような声。これで小さな声?冗談でしょう?これまでに色々な経験をしたつもりだけど、声に圧倒されるのは初めてかもしれない。それほどまでにミスティアさんの歌声はわたしの気を引いた。
…引いてしまった。
「あ…っ!」
均衡を保っていた集中の糸が引かれ、それと共に『紅』が解けていくのを感じる。やらかした…!ミスティアさんの歌声に気が逸れた。確かに美しくて惚れ惚れするほどだけど、今回に限ってはそれは集中を途切れさせるものとなってしまった。
ドロリとした疲労感と眠気がわたしを襲う。これから集中しろといわれても、それはとてもじゃないけれど出来そうもない。
「ちょっ…、幻香!?」
ミスティアさんがわたしの異変に気付き、歌を止めてわたしの元へ駆け寄ってくれた。
「大丈夫!?」
「…ええ。つい、聞き惚れ、ちゃい、ました、よ」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!?」
「大丈夫、です…。ただ、眠い、だけ…」
…もう駄目。限界。感覚が泥沼にでも沈んでいくように遠くなっていく。ミスティアさんを心配させまいと、動かない体の代わりにせめて微笑もうとしたけれど、上手くいっただろうか?
わたしの意識が完全に途切れる少し前に、さっきとはまた違う優しい歌声が聞こえた気がした。
◆
「――て、幻香」
…誰かがわたしの肩を揺すっている。それと同時に瞼の上からでも分かるほど強烈な光が一瞬突き刺さった。
「もう朝だよ?そろそろ私寝たいよ…」
薄目を開けると、ミスティアさんの顔があった。…ああ、そっか。『紅』が解けてそのまま寝ちゃったんだ。
体を起こすと、ドサリと何かが地面に落ちた。その音があった場所に目をやると、毛布が落ちていた。どうやら、わたしにかけてくれていたらしい。
「おはようございます、ミスティアさん。それと、毛布ありがとうございます」
「おはよう。それと、どういたしまして。…ふぁ…っ」
ミスティアさんが大きな欠伸をしたことに驚き、よく見ると目の下に薄っすらと隈があることに気付いた。
「ふぅ…。大丈夫だよ、幻香。幻香が起きるまで、誰もここには来なかったから」
「…わざわざすみません」
「いいのいいの。たまにそういうお客さんもいるから。ま、面倒なお客さんだったら放り棄てるんだけどね」
放り棄てるんだ…。きっと、そのお客さんの運がなければ、人食い妖怪の餌食となるのだろう。
「とりあえず、朝食食べる?結局食べてもらえなかったおでんだけど」
「面目ない…」
「気にしないでいいのに。…ふぁ」
おでんが入っているだろう鍋は、昨夜わたしが寝てしまった後鎮火して放置されていたようで、すっかり冷めてしまっている。なので、また温め直すことになってしまった。
「幻香、昨夜言ってた歌のことなんだけど」
「はい」
「いつまでなの?」
「明日です」
「明日ね。…え?明日?」
「急な話ですよね。けど、わたしも大変なんです」
「…付け焼刃で、っていうのはそういうことだったの」
そう言いながら、ミスティアさんは腕を組んで考え始めた。時間に余裕があればもっと楽に済んだのだけど、パチュリーに頼んだことが終わるのは明日だ。それに、本来ならこの二日さえも要らなかった。
しかし、いくら早くてもわたしの準備がまだだった。だから、この二日で全て終わらせようと思った。わたしがやらなければならないと思ったことの全てを。フランを外へ連れ出すためにわたしがしなきゃいけないことの下準備を。
「…よし、分かったよ。出来るだけ頑張ってみる」
「重ね重ねありがとうございます」
「けど、簡単じゃないと思うよ。…あ」
鍋から僅かに湯気が上ったのを見たミスティアさんが、器におでんの具を移してわたしに手渡してくれた。試しに一緒に渡された箸で大根を割ってみると、簡単に二つに分けることが出来、色が内側までしっかりと染み付いていた。
「美味しそうですね。いただきます」
「召し上がれ。…けどさ、何で急に歌なんてやろうと思ったの?」
「ああ、それですか?…熱ッ」
口の中に入れた大根が思った以上に熱く、戻してしまった。慧音に見られたら何と言われるか…。
手で仰いでおでんから熱を飛ばしながら、わたしは言った。
「普段とは違う声を出したいからです」