…自由?いきなり何を言っているんだ、お姉様は?
「なにそれ。この部屋を出てもいいならさ、いつもみたいに『十分反省したかしら?』って言えばいいのに」
「…それもそうね。だけど、そんなことどうでもいいのよ」
「どッ…!?」
頭に血が一気に駆け上がる。視界が真っ赤に染まる。右腕が意識せずに僅かに動く。このままだと殴り付けると思い、意思の力で右腕を抑えつける。
「…どういうことよ」
「もう、いいと思ったのよ」
「何がさ」
「ここに、紅魔館に留めておく必要が、よ」
「…え」
今、なんて言った?紅魔館に留めておく必要が無くなった。…そう言ったの?
つまり、絶縁?え、嘘!?まさか月の異変へ無断で行っておねーさんが目覚めるまでの一週間永遠亭に籠っていただけで、こんなことになっちゃうなんて思いもしなかった!ええと、こういう時って名前変えた方がいいんだっけ?あれ、名字だっけ?それとも両方?
「…ガーネット。うぅむ、似過ぎかな…?けど、これがいいかな…」
「急に何を言ってるの?ガーネットが欲しいの?」
「いらないよ、そんなの。分かるでしょ?新しい苗字考えてたんだよ」
「み、名字?」
「名前はフランなんちゃらにしたいんだけど…」
おねーさんは、私のことを『フランさん』って呼んでくれている。だから、フランの部分だけは変えないでおきたい。
「…は?…大丈夫?」
そんな私の考えはお姉様に伝わることなく、何故か逆に心配されてしまった。呆れた表情で、憐れむような目線で私を見るお姉様が無性にムカつく。
「だって、絶縁だよ?縁切りだよ?名前変えなきゃ。…あ、そうだ。フランチェスカにしよう。それと、スカーレットはミドルにしてもいい?ね?」
フランチェスカ・S・ガーネット。なかなかいい名前じゃないかな?
そんな私の言い分は切って捨てられ、お姉様は人を馬鹿にするつもりしか感じないわざとらしい溜め息と共に言った。
「…絶縁なんかしないわよ」
「あれ?違うの?」
なぁんだ。無駄なこと考えちゃった。先に言ってほしかった。…ま、いいか。そんな事より、お姉様の言う『自由』の本当の意味を知りたい。
「じゃあ、どういうつもりなの?」
「…勝手に勘違いして、もう…」
「頭押さえるのはあとにしてよ。早く教えて」
「はいはい。…『出掛けるときは誰かと同行すること』。約束したわよね?」
「したね。面倒臭かった」
「もうしなくていいわ。一人で、自由に、羽を伸ばして、好きなところへ、貴女の意思で、行っても構わない」
「…え」
私を四百九十五年間地下に幽閉したお姉様が?私が出たい、出たい、と幾度となく言い続けてやっと得られた仮初の自由。その枷をこんなに早く外すものなのか?…にわかに信じがたい。
「…本当?」
「ええ、本当よ」
「後で嘘でしたー、なんてない?」
「言わないわよ」
「代わりに別の枷がある、とか?」
「…そうね。出来れば、何処に行くつもりで何時頃帰ってくる予定かくらいは言ってくれると嬉しいわね」
「それだけ?」
「それだけ」
本当に、それだけ?そんな、あって無いような枷だけ?本当に、自由になってもいいの?
そんな感慨だと思うものに浸っていたら、お姉様が少し前のことなのに、何十年も前を懐かしむかのように言った。
「…幻香と出会いは、きっと貴女に劇的な変化をもたらしたのでしょうね」
「そうだね。あの出会いが無かったら、私は今もずぅっと部屋に閉じ込められてたと思う」
「そうね。…この運命が覆ったことは、感謝しているのよ」
…また運命か。あの胡散臭い運命とかいうのを中心に考えているお姉様は、もうちょっと別の視点を持った方がいいと思う。
そんなお姉様が、私を通り越して部屋の奥へ視線を向けた。そして、どこか嬉しそうに表情を綻ばせた。
「あ…、人形が残ってる…」
「兎の?」
「ええ。貴女に与えるように私が咲夜に言ったのだけれど。…壊さないでくれたのね」
「…壊、す?」
ガギリ…、と心が嫌な音を立てて軋む。
「貴女から狂気が、破壊衝動が潰えるなんてことが有り得たのね」
「…潰え、る?」
心に、冷たい何かが突き抜ける。
「…収まるじゃ、なく、て…?」
「そうよ?だから、貴女を自由にしてもいいと思えたのだから」
お姉様の言った言葉が頭を素通りする。何を言っているのか、よく分からない。
心の薄い皮が剥げてゆく。埋まったと思っていた、大きな穴が顔を覗かせているのが分かる。おねーさんが目覚めたことで埋まったと思っていた心の穴。確かに埋まった。埋まったはずだ。そう思ってた。だけど、違った!心の穴は、二つあった!どうして気付かなかった?どうして気付かなかった?どうして?どうして!?どうしてッ!?
「…ちょっと、フラン?」
産まれたときからいつもあったじゃないか。私の心に巣食う何か。昔は愛おしく思っていた。それはいつも傍にいた!今では鬱陶しく思っていた。だから抑えつけてきた!なのに、どうして無くなったことに気付かなかった!?消えてしまったことに気付かなかった!?
私の狂気!私の破壊衝動!ものを壊したくてしょうがなくなる気持ち!
「あ…、ぁあ…!」
言葉にならない何かが私の口から漏れ出る。
四百九十五年間、この部屋で何をしていたか?ところ構わず壊し続けてきたじゃないか。装飾品が置かれれば砕いた!生活用品も構わず割った!人形を贈られれば引き裂いた!部屋を飾りたてられれば破り捨てた!冷たく冷え切った死体を壊して壊して壊し続けた!粗を探すように、壊れるところがなくなるまで!ひたすら!無我夢中で!
生きた生き物が、私と瓜二つの生き物が、おねーさんが、初めて目の前に現れて、その珍しさに気が逸れるまで!
どうしてそんなことも忘れていた!?何で忘れるなんてことが出来たッ!?
「どうしたのよッ!返事をしなさいフランッ!」
何時から無くなった!?何時の間に消え去った!?思い出せ、何か兆候があったはず。こんな簡単に消えるはずがない!私自身、それくらい分かってた!何かあったはず!何か、何か、何か…ッ!
「…あ」
おねーさんが、私になった。そのとき、おねーさんの右手を壊した。その『目』を砕いた。今もそこら中に光っている『目』と同じように、私の手の平の上に動かして潰した。
罪悪感を感じた。確かにそうだ。おねーさんを、大切な人を、かけがえのない人を壊したんだから。けれど、それはおかしい。私は、前までの私なら!その罪悪感に勝るものが私を突き抜けた!絶頂にも似た快感!世界が無限に広がるような開放感!天まで昇るような爽快感!どうして感じなかった!?何を壊しても湧き上がるそれが、どうして湧き上がることがなかった!?
「訊いてるのッ!?フランッ!フランドール・スカーレットッ!」
ガクガクと視界が揺れる、気がする。けれど、そんな事も気にならない。
じゃあ、私の狂気は何処へ行った?この世から消え去った?そのはずだ。そうでなくてはおかしい。それ以外有り得ない。…はずなのに。そのはずなのに!どうして私は、そんな恐ろしい考えを思い付いているの!?
証明するものはない。これっぽっちもない。一切ない。皆無だ。絶無だ。私の勝手な考え。身勝手の妄想。独りよがりな解釈。…けれど、それが正しかったら?そんなはずない、と言いたい。だけど、一度思い付いてしまった考えは収まることなく、私の中を暴れまわる。
「…行かなきゃ」
私の両肩を抑えつけている二つの何かを退ける。覚束ない足取りで、廊下を進む。行かなきゃ。
「フランッ!何処行くのよ!」
何かが、私の耳を通り抜けた。何かは、分からない。行かなきゃ。
この考えを否定出来る情報。妹紅が、萃香が、おねーさんの友達が集めているだろう情報。その中に、私のあまりにも吹っ飛んだ考えを否定してくれるものがあるはずだ。そう願いたい。有り得ない、って断言してほしい。そうじゃないと、私はどうすればいい?
そのときは、きっと彼女達も一緒になってくれるだろう。だって、協力し合う、って言ってたから。
行かなきゃ、行かなきゃ、行かなきゃ…。