夢みる竜は鳳翔ける空を仰ぎて海を飛ぶ   作:YeahBy

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グフッ……. _:(´ཀ`」∠):_;
時間が足りない……。
しんでしまう……。




四節 討チ起コシ(うちおこし)

 地の上で、水の上で、如何なる物語の幕が開こうと、または閉じようとも、朝は無分別にその上へとなだれ落ちてくる。好もしさも厭わしさも区別せず、ひとしなみに。

 

「──どういうことなのです?」

 

 空が白んでさほど間もない、横須賀鎮守府は第三司令部。いまだ太陽に温められる前の、冴えざえとした早朝の空気に、それすら生温く感じるほどの、冷ややかな声が響いた。

 

「件の海域へは、まず当横須賀と呉、佐世保から艦隊を編成して出撃し、その間、舞鶴と高雄基地(そちらさま)は本土近海の哨戒にあたるということ──会議に出席していただいた後、さらに口頭でも書面でも詳細を通達したと記憶しているのですが、この電の思い違いだったのでしょうか?」

 

 灰色の角ばった電話機は、尋常の寸法で作られたものではあるが、声の彼女にとっては、それでもいささか持て余すような大きさである。

 その彼女の、可愛らしいとしか表現できない幼い手が、野暮ったい造形の受話器を、いまにも粉砕せんばかりの握力で締め上げ、めりめりと不吉なきしみを上げさせていた。

 

「……なにを勘違いしていらっしゃるのです? それが必要か判断するのも、編成を許可するのも、本営たる当横須賀なのです。そもそも艦娘は、本営の下命によって各鎮守府に配置されているのであって、その一切は本来、本営に帰属するものです。断じて、基地司令(あなた)個人に所有されているわけではありません」

 

 こうして吹き込んでいるこの言葉を、字に起こして無関係の第三者に読ませたとして、これが成人男性の腰ほどしかない、いかにも幼げな少女の口から飛び出したのだと、信じられる者がどれだけいることだろう。

 

「そういえば、なのですが。基地司令(あなた)、同様のことを、すぐに確認できるだけでも、もう三回はしていらっしゃるのですね。──はわ? 脅しなどではないのです。もとより本営は、脅してまで基地司令(あなた)にかかずらう必要などありませんですし……。──はい、その()()()()()()で、本営の指示に従い、第三司令部秘書艦であるこの電が、こうしてお話しているのです。そうでなければ、基地司令(あなた)のようなお方とは、とてもとても……」

 

 大人しげで、どこか舌足らずな口調に似合わぬ、慇懃な言い回し。言葉尻を捉えつつじわじわと、退路を一つひとつ丁寧に断つ、老獪かつ陰険ともいえるもの言いである。

 それでいて、そこに撃発寸前の砲弾のような激情が込められていることは、どれほど鈍感な人物が見聞きしても、間違えようもないことであった。

 

「司令という立場は、言うなれば艦娘の運用許可証なのです。そしてそれを許可しているのが本営である以上、その意思を無視した独断での運用というのは、要するに貸与された機材を私物化し、供給された資材を横領しているということに他なりません。この意味、今回こそおわかりいただけます?」

 

 腹の底で煮え立つものを抑え込んだまま、あくまで冷徹に事実を突きつける。考えようによっては、大声でがなりたてるよりも、よほど恐ろしい対応であった。その熱量が十全に解き放たれる、然るべき機会というものを待ち、その場では一切、浪費する気がないからである。

 

「はい。おわかりいただけたところで、現時点をもって貴官より全指揮権を剥奪します。追って沙汰しますので──()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 それでも最後のその一言にだけは、もはや鬼気に近いものを漂わせて、横笛を思わせる可憐な声で、冷然とささやき込んだ。

 

「では」

 

 余韻もなにもなく、ほとんど一方的に通話を切断する。本体と受話器がぶつかる音は、むしろささやかだったが、それだけに固い意思を感じさせた。

 張りつめた糸のような沈黙が室内に満ちる。小さな体がもうひとまわりは縮みそうなほど、盛大なため息を吐き出した彼女、駆逐艦電が物憂げな視線を上げると、両手を重ねて自らの口を塞いだ夕張と眼が合った。

 

「…………なにしてるのです?」

 

 打って変わって力の抜けきったような電に、軽巡洋艦夕張がぱたりと手を降ろして苦笑した。室内の雰囲気が一気に緩み、他二名の間にも糸が切れたような笑みが浮かぶ。

 

「もう、なんなのですか」

 

「なにって」

 

「さすがの()初期艦さまさま、よねぇ」

 

 眉を寄せる電の柔らかな頬を、夕張ともう一名──軽巡洋艦大淀がつつき回す。

 

「ご苦労だった、電。えらく面倒な役割をさせたな」

 

 反発するように、ほっぺたを膨らませる小さな()()()()を、最後の一名が労った。

 

 初老の男であった。元は全体が黒かったのであろう、刈り込まれた短髪に、ところどころ霜をおき、若かりし頃の端整さを想像させる面貌には、深い苦労の跡が刻まれている。

 だがそれらは決して、男を衰えたる者と印象づけはせず、白い軍装に包まれた、厚みのある体躯と相まって、むしろ経年による円熟味を感じさせた。

 

 重厚な木製の執務机に座したまま、くっきりとした濃い眉を下げるその男に、電は、ふんと鼻を鳴らす。

 

「司令官さんのために苦労したわけではありません。そもそも、その面倒を進んで背負い込んだのは、この電の方なのです」

 

 腹の虫が治りませんでしたので──並べば祖父と孫娘としか思われないであろう相手に、ずいぶんと遠慮のない物言いであった。それも、当の電によれば、男は彼女の司令官であるのだ。本来ならば許されぬ類の放言である。

 

 しかし、文字通り鼻であしらわれた男、司令官こと松岡辰之進中将は、それを鷹揚に渋い笑みひとつで許した。

 

「で、予想通り先走ってくれたのね?」

 

「はい、先走ってくれました。おおむね予想通りなのです」

 

「急に()()()が音信不通になって慌てたのでしょうね。今を逃せば、もうどうしようもありませんし」

 

「いずれにせよ、もう詰みだったのです。()()()の道連れで、一網打尽にすっきり捕らえられるか、今回の独断専行を口実に、芋づる式に罪が明るみに出されるかの、二択しかなかったのです」

 

「現地の艦娘たちには、あらかじめ指示を伝達してあるわ。ただの人間には逃げようがない」

 

「偶然を利用する形になりましたが、これで掃除は完了しましたね」

 

「いいえ、焼却炉で燃え尽きるのを確認するまでが、上手なお掃除なのです」

 

「さすがは()初期艦さま!」

 

「それはもういいですから……」

 

 軽巡洋艦二隻と駆逐艦一隻が、和気藹々と首尾を話し合う中、松岡中将はいくつかの書類を執務机に並べていた。それらを一枚ずつ丹念に読み返した後、まとめて前へと滑らせる。

 

「さて──では、軽巡大淀」

 

 張りのある低音が、眼鏡の艦娘を呼んだ。軽口に興じていた三隻の姿勢が、ぴしりと改まる。室内の空気が、先刻とは別種のもので張りつめた。

 大淀が一歩前へと踏み出す。同時に電が退がり、夕張と並んだ。二隻を従えるような立ち位置で、大淀が背筋を伸ばす。

 

「打ち合わせ通り、ここに記載された内容を各位に通達せよ。次いで、高雄基地の先行艦隊を回収し、現地の艦娘および憲兵と連携して高雄基地()司令を拘束させる」

 

「了解いたしました。各鎮守府に電話と打電にて通達の後、高雄基地先行艦隊を回収し、艦娘および憲兵方に高雄基地()司令を拘束させます」

 

 復唱し、切れの良い動きで敬礼しつつ拝命した。そのまま退室の許しを得て、慌ただしく扉をくぐっていく。

 

「──軽巡夕張」

 

 首の後ろで束ねられた、蕎麦切色の尾が跳ねた。一歩、近づいた夕張に松岡中将が厳然と下命する。

 

「必要資源の算出は済んでいるな。一両日中に、ここから出撃する全艦の艤装および兵装を、もうひとたび確認し、艦娘の状態も併せて報告せよ」

 

「承知しました。一両日中に艦隊の装備確認と、素体の体調を点検して報告いたします」

 

 同じく復唱し、滑らかな動作で敬礼。背中に垂れる尻尾と、スカートの裾を翻しつつ、許可を得て退出した。

 

「──駆逐電」

 

「はい」

 

 するりと前へ出る。踵をそろえて直立する電に、松岡中将は他二隻に対するよりも、やや和らいだ声と表情で命じた。

 

「高雄基地からきた先行艦隊を温かく迎えてやってくれ──食べさせて、休ませて、労わってやってほしい」

 

「承りました」

 

 柔らかく受諾して、一呼吸。電はゆっくりと敬礼しつつ、静かに復唱する。

 

「高雄基地先行艦隊の受け入れ準備と、その後のお世話、電にお任せください」

 

「頼んだ」

 

 緩やかにきびすを返す。後頭部の髪留めでまとめきれず、綻び落ちた毛先が、左肩でさらさらと揺れた。ひんやりと冷えた取手を握り、分厚い扉を引き開ける。

 

「すまない。本当にすまない……」

 

 不意に追いかけてきた謝罪に、電は肩を強張らせた。開いた隙間に、半身を押し込もうとした体制のまま、静止する。

 

「ブルネイの艦たちが動くまで、私は結局のところ、手をこまねいているしかできなかった。守ってもらっている我々自身が、君たちを苦しめるような真似をしてしまっている。さらには、君たちに仲間を見捨てるような選択をさせ──あまつさえ、その助けなしには、次々とわいて出てくる白蟻どもの処分すら、まともにできない始末だ」

 

 電は室内に視線を転じた。重々しい執務机に鎮座する男の、白い軍装に包まれた広い肩が、実年齢よりもずっと老け込んだように見えた。

 艦娘を指揮するに足る者を采配し、また自らも何十という艦娘たちを動かす者の、責任と経歴を負う双肩は、今このとき、苦悩し、疲弊しきった男のそれでしかなかった。

 

「これほど我々に尽くしてくれている、君たちの献身に対して、この体たらく。あまりにも──あんまりにすぎる酬いだ。私は心底、恥ずかしくて申し訳なくてならない」

 

 様々なものが入り混じった声色で、松岡中将は悔悟する。

 

「陸の君たちを守ってみせると、私は誓ったはずだった。だがこの後に及んでなお、それを果たせてはいない。本当に、彼女に会わせる顔がない……」

 

 電は、半ば室外に踏み出しかけた足を引き戻し、そっと向き直った。後手に扉を押しやる。金具同士がこすれる小さな音を残して、再び内外が閉ざされた。

 

「誰もが、理想通りに振る舞えるわけではありません」

 

 きっぱりと、電は言い切った。温度を感じさせないほどに平静な口調であった。しかし、それは意外なほど優しく響いた。

 

「電も──わたしも、かつて望んだようには、できませんでした。これからもきっと、あまり上手くできないでしょう。でも、その原因を、あなたに求めようとは思っていません」

 

 小さな背を、厳つい扉に預ける。やんわりと腕を組んで寄りかかる姿勢は、彼女にはあまりに不似合いで、いかにも不遜だ。だがそれに言及することもなく、松岡中将は耳を傾けた。

 

「誰も彼もが、それぞれ勝手な思惑で、誰かと綱引きしているのです。綱を手にし続ける以上、なにもかも自分の望み通りになることはありえません。だって、他の誰かと、常に引っ張り合っているということなのですから。世の中そういうものなのでしょう」

 

 静かな眼に宿る光は、幼い姿形からは想像もつかないほどに、怜悧で苦み走ったものであった。世の理不尽に打たれ続けてきた初老の軍人よりも、さらに多くの不条理に歯を食いしばってきたような、酸いも甘いも噛み分け、清濁併せ呑むことを知った、古兵の眼差し。

 

「わたしもかつて夢をみました。今もみているのかもしれません。でも、かつてあったように、ずっとあれるわけではないのです。──はがねの艦すら錆びさせるだけの時間を経て、それよりもっと柔な(もの)が、まったく挫けずにいられるだなんて、そんなのありえないのです」

 

 若人に対するように、小さな小さな老兵は語り聞かせる。その語りが、いかなる思いから生み出されたものであるのか、長らく共に戦い続けてきた男にも、その心の内すべてを察することなど、できはしなかった。

 しかし、その()()()()()()()()()()()だけは、男もよく知っていた。

 

「だからこそ、わたしは──わたしたちは、()()()()が、この上なく美しく、鮮烈で、愛おしく、恐ろしく思えるのではありませんか」

 

 ひととき、沈黙が落ちた。一人と一隻は、そろって同じ背を脳裏に描いていた。それは在りし日の理想のかたちであり、今もなお、彼と彼女に立ち止まることを拒ませる、共通の動機であった。

 その在り方に魅了されたのだ。彼女のように、怠惰も妥協もなく、気高いまま生きていけたらと、そんな夢をみていた。願い続け、挑み続ければ必ずそうあれるのだと、無邪気にもそう思っていた。

 

「きっと、()()()()ほど、挫折と蹉跌を知っているひとはいません。でも、なにによって、どんなに打ちのめされても、()()()()は叫び続けることができる。手を伸ばし続けることができる。思い続けることができる。そして最後には、どんなかたちであっても、望む結果をつかみ取ってしまえる──それはもう、狂人にしかできない所業なのです」

 

 批判するでも侮辱するでもなく、電は話題の主をそう言い表した。

 

「あなたは、()()()()のようにはなれませんでした。あなた自身が()()()()より劣っているだとか、そういうお話ではありません。ただ、あなたが()()()()とは違うという、それだけのことなのです」

 

 分厚い扉から、電は背を離す。ローファーと床を打ち鳴らし、男に背を向けた。重い取手をひねる。

 

「わたしだって、そうなのです。あなたと同じように、()()()()のようにはなれませんでした。でも、あなたと同じく、嘘偽りなく、常に最善と思える選択をしてきました──ですから、それでもできないわたしが、それでもできないあなたを責めるなんて、それはまったくの御門違いなのです」

 

 ようやく温まり始めた室温を気にして、控え目に扉を開く。すり抜けるように、薄い肩を傾けながら、肩越しに一瞥を投げた。

 

「だからこそ、わたしたちは、わたしたちの選択をし続けましょう、司令官さん。たとえそれが、最高の結果に結びつかなくても」

 

 それなら、わたしたちにもできるはずなのです──そう最後に言い残し、電は第三司令部を後にした。

 

「──詭弁もいいところなのです。自分だって罪悪感で身動きとれないくせに」

 

 独白が、廊下に落ちて転がった。

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 

 黎明は照らす先を区別しない。夜を追い立て、なべてこともなく降り注ぐ。たとえそれが、本営横須賀から遠く海を隔てた、足跡のように連なる群島の一隅であっても。

 

「──瑞鶴、また左肩が上がっている」

 

 竜飛が淡々と伝える。

 拠点のすぐ側、密集した木々の隙間で、若い鶴がややぎこちなく、竜飛が貸し出した予備の弓を引いていた。

 

 また、という言い口が示す通り、幾度か繰り返されたやり取りではあるが、指導する竜飛の声に、この程度で呆れの色はにじまない。単純に事実を指摘しているだけである。

 

「うっ、うぅぅ……!」

 

 しかし、受け取る側はそうは思わないらしく、食いしばった歯の間から、むずかるような唸り声を押し出した。

 瑞鶴は──というよりも、竜飛が思うに、おそらく正規空母は総じて、負けん気が強い。この子の場合、その向かう先は教示する竜飛ではなく、上手くできない自分自身なのだろうと察し、うっすらと苦笑する。

 

「落ち着け、誰もがつまずく課題だ。──弓を貸してごらん」

 

 宥めつつ、穏やかに背を叩くと、瑞鶴は唇を尖らせながら、馬手を放した。弦が鳴りながら跳ね返り、弓手が逸れる。そこにつまづきの原因を垣間見て、竜飛はひとつ頷いた。

 

 竜飛と瑞鶴が、共に朝焼けを見た日から八日目、陽が昇ってすぐの早朝である。

 

 暗さも明るさも、過ぎれば眼をくらませる。あの翌日から、砂浜の広い面で行おうとしていた弓の鍛錬は、払暁の光とそれを受けて輝く海によって、すぐさま中止を余儀なくされた。

 

 眩しすぎる暁光に眼をやられた竜飛と瑞鶴は、仕方なく場所を改めることにして、まぶたをしょぼしょぼさせながら、拠点へと引き返した。出かけてすぐ戻ってきた二隻に、()()()がなにごとかと眼を見開いていたが、理由を知るや声を上げて笑った。

 

 その()()()が、外壁の角から顔をのぞかせた。なにを言うでもなく、体格差すさまじい空母たちの鍛錬を眺めている。朝食を煮炊きする火の調節が、ひと段落したのだろう。

 

 艦娘というものたちの大半が、火気を嫌う傾向もあり、当初は火を熾すことも、それを保つこともおっかなびっくりであった。竜飛がほとんど身を寄せるようにして、微に入り細を穿って教えた結果、いまや()()()も慣れたものである。

 

 二隻の注目を集めつつ、竜飛はおもむろに自らの襟元を開いた。着物の内側に収まっていた、大小ふたつの環が揺れる。

 眼を白黒させる瑞鶴と()()()を気にもとめず、軽く身をかがめて、ぐいと両袖を抜く。苔色の着物を腰の周りにまとわりつかせたまま、上半身は黒い襦袢一枚の姿となって、弓を受け取った。

 

 姿勢を変えて、左足をにじり出す。足先を張り出した木の根に阻まれ、仕方なくそれを踏みしめた。うねる洋上よりは安定している。

 

 瑞鶴のために、できるだけ平らな場所を選んだものの、やはり足場が悪い。とはいえ、この()()()()()()は、弓そのものに慣熟しておらず、動きながら射る段階に達していない。人ひとり分が平らであれば、どうとでもなる問題ではある。

 利点があるとすれば、逸れた矢でもどこかしらに刺さるため、見つけやすいという点か。まともに飛びすらしなかった場合は別として。

 

「御前、弦の方を引いているだろう。しかも弓の方は前に倒すようにして、過剰に力を入れていないか?」

 

 矢を番えていない素引きの状態で、やおら諸手を立ち昇るように掲げて打ち起こした。次いで空を割り開くように滑らかな仕草で、成りと弦とを引き分ける。

 

 その一連の動作を、瑞鶴は食い入るように見つめていた。やや吊りがちの大きな眼があまりにも強烈で、目線の当たった箇所が焦げそうなほどであった。

 

 あるはずもない視線の熱さを、体のそこかしこに感じつつ、引き分けから会に至る直前で静止する。唇の他は一寸たりとも動かさないまま、臨時弟子(デシカッコカリ)を呼んだ。

 

「瑞鶴、触ってごらん」

 

「え」

 

 竜飛の指示に、瑞鶴は一瞬、唖然として口を開いた。

 

「どこにどれくらい力が入っているのか、触って確かめてみるんだ」

 

「いい、んですか?」

 

「いいよ。御前はきっと実践派だ。論理で説かれるより、見て、して、実感する方が上達が早い」

 

「は、はい……!」

 

 小さな暫定師匠(センセイカッコカリ)よりも、よほど大きな瑞鶴が、未知のものにでもするように、そろそろと両手を伸ばしてきた。そのまま恐々と、肩や腕を撫でまわす。

 

「あ──」

 

 なんとも言い難いくすぐったさに、眉を曲げて堪えることしばし。感嘆とも驚愕ともつかない声が、竜飛の額へと降ってきた。

 

 遠慮がちだった掌が、丹念に筋肉の力みと弛みを確かめる。籠手をまとわぬ弓手の、肩を、腕をやんわりと揉み、肩口から胸元にかけての関節の位置を調べ、背中にまわって、背骨の左右を、うなじから腰の上あたりまで順番に指で圧してたどった。

 

「わかるか。力任せに引くから、ぶれてしまうんだ。手の内は程よく。弦を引くのではなく、体を開くように弓を押して、弦と分ける。腕ではなく、背中と姿勢で引くようにしてみなさい」

 

「は、はい」

 

 我に返ったのか、逃げるように感触が去った。一拍分の沈黙の後、再び指が肩甲骨の間に戻ってくる。そのまま体温は面積を増やし、指先から掌までが、そっと竜飛の背を温めた。

 

「あたし……。あたし、竜飛さんみたいに、できるようになりたいです──なれるでしょうか」

 

 投げかけられたのは、問いのかたちをした希望だった。

 

「当たり前だ」

 

 咀嚼するより早く、答えが口をついて出た。ほとんど反射的な返答であったが、なにひとつ、間違っているとは思わなかった。

 

「……いいや。私程度じゃあなく、私以上になりなさい」

 

 引き分けが、会に到達する。触れる温もりの下で、己の背に力が充溢しきるのを感じた刹那、馬手が振り開かれた。弦が冴えて鳴り、弓返りも鋭く、存在しない矢が、的とした板切れを、過たず射抜く光景を幻視した。

 

 ゆったりと残心しつつ、いましがたの射を反芻する。

 何度かの呼吸を挟み、肩越しに振り仰ぐと、瑞鶴が的を凝視していた。瞬きすら忘れたように、的を穿った幻想の矢尻を見つめ続ける。

 

「──できるのかな」

 

 うっすらと震えを含む声で、瑞鶴は再び問いかけた。あるいはもはや問いなどではなく、竜飛に向けたものですらなかったかもしれない。

 

「できるとも」

 

 冷たく澄み、しかし焦がれるほどの熱をはらむ瞳が、竜飛を捉えた。竦んだように揺れる新緑の輝きは、それでも一点のくもりもなく、こちらを見返していた。

 あの日、この眼を灼いた朝焼けよりも、なおもまばゆい、始まりのそれ。

 

「私から持っていけるものは、すべて持っていけ。ありったけ盗みとって、御前のものにしてみせなさい」

 

「はい」

 

「楽しみにしている──まぁ、まずは」

 

 弓を突き出す。黒い襦袢の袖が翻り、傷だらけの細い腕が露わになった。

 これまでに負った手傷の数々は、竜飛自身にすら、どういった状況での負傷であったか、思い出せないほどに多かった。しかし、これらの痛みが竜飛を育てたのだと、それだけは自信を持って宣言できる。

 

「よく観察して、数をこなして、試行錯誤しなさい。自分にぴったり合ったかたちを、創り上げるんだ。弓の腕は、弓を引いてしか上がらないぞ」

 

「──はい!」

 

 胸元に押しつけられた弓を受け取り、瑞鶴はいかにも跳ねっ返りな笑みを返した。

 

 

 

 

 

 

 拠点は狭く、その食卓も狭い。

 食卓といっても、半壊した戸板に足をつけただけであるが。

 ささくれで手を切らないよう、大判の布をかけられたそれは、竜飛が索条を利用して、大まかな寸法を測ってこしらえたもので、床に置いてガタつかないだけ御の字の出来栄えである。

 

 その粗末なテーブルもどきを囲めば、いかに竜飛自身が小型の艦であっても、他二隻の大型艦が空間を圧迫し、鼻を突き合わせるような距離になる。

 密集した、かがめば額同士をぶつけそうな食卓に、湯気を立てるごつごつとした椀が、三つ置かれていた。

 

 厚く輪切りにされた木を丸く削る、いかにも呑気な作業工程を経て作られた木椀は、使用できる工具やかけられる時間、手間との兼ね合いで、相応に大ぶりの品だ。

 

 その重い椀を両手で持ち上げ、静かに啜る。

 

「ちょっと薄かったか?」

 

「いいえ、美味しいです」

 

「うん。むしろ、よくこの環境でここまで作れますね」

 

「…………そうか?」

 

 竜飛は視線を泳がせた。

 瑞鶴はこう言うが、あまり自慢できるようなものを、作ったつもりはなかった。

 

 夜明け前に釣った魚が、どれも小さかったため、鱗をとって大まかに骨を取り除き、身を叩いてすり潰した。それに自生していた生姜を刻んで混ぜ、やや物足りないながら、つみれをこしらえた。これも自生していた野草と共に汁物に仕立ててみたが、調味料など、海水を蒸留し、飲み水を得る過程にできた塩のみである。

 

「私、最初はご飯を食べること自体に、ちょっと変な感じがしてたのですけれど、いまはもう病みつきです」

 

「あたしも同感! それだけでも、この体になって良かったって思っちゃうわ」

 

 幼い艦娘二隻が、笑いさざめく。素直な表現に、竜飛もいたたまれなさを拭われ、つい唇をほころばせた。大きすぎる椀の中身を、竹で作った箸でついばみつつ、二隻を見渡す。

 

「食べながら聞いてほしい。明日から遠征に行こうと思う」

 

 ()()()が、両手で持っていた椀をそっと置く。竜飛なら持て余してしまうそれも、()()()の手の中では、やや大きいだけに見えてしまうのだから、ただごとではない。

 

「燃料が心許ないんだ。敵性艦も静かなことだし、いまのうちに戦っても問題ないだけ確保しておきたい」

 

「では、調達に行かなくてはなりませんね」

 

「あぁ、周辺海域の様子を見つつ、ゆっくり遠征してこようと思う」

 

「はい?」

 

「えっ?」

 

「うん?」

 

 思わずといった風情で声をもらした()()()と瑞鶴に、竜飛は片眉を上げた。

 

「もしかして、竜飛さんだけで行くおつもりですか?」

 

「それはそうだろう。いざという時に御前たちも動けるように、燃料を調達してこようという話だぞ。御前たちが行ったら、汲んだ端から溶けてなくなるじゃあないか」

 

 ()()()と瑞鶴が、ぐ、と押し黙った。悪意はないが、容赦もない率直な発言は、二隻を黙らせるには充分な説得力を持っていた。

 

「幸いにして、御前たちはこうして、三食きっちりよく食べてくれているから、停泊中の燃料消費は、最小限で済んでいるけれどな」

 

「はーい。師匠(せんせい)、質問です」

 

 瑞鶴の挙手が、頭上を突き上げた。暇をみては射を手ほどきしていた結果、ときおり彼女からこう呼ばれるようになった。

 言葉の意味するところは、いささか大仰だと感じているが、瑞鶴にすれば愛称のつもりなのだろうと考え、好きなようにさせている。

 

「なにかね、瑞鶴五号生」

 

 艦娘基礎教練過程の学年区分と、第五航空戦隊とをかけた呼称で応じる。海軍兵学校を真似て組まれたものであるが、実際には四号から始まり、一号が最上級生であるため、五号は存在しない。入学すら危ぶまれる現状に寄せた、単なる冗談である。

 

 この一週間強で、それなりに竜飛の性格を把握してきている瑞鶴も、特に機嫌を損ねるでなく、挙げていた手を、ひらひらと振って降ろした。

 

「燃料消費の軽減と食事との関係を教えてください」

 

「よろしい、ざっくり説明しよう。さすがにわかっていると思うが、軍艦(ふね)をただ浮かべておくだけでなく、最低限でも機能させておくには、燃料を消費する。たとえ停泊待機していても、中身が動いているなら、それに燃料を食われるからな──()()()と瑞鶴のような大型艦だと、その()()()()も相応の量になる」

 

 外壁に沿って並べられたドラム缶を、窓の穴ごしに指し示す。空の缶の方が多くなったそれを、二隻は神妙な表情で見やった。妙にそろった動作に、思わず頬を緩め、視線が戻ってくる前に、むりやりそれを抑え込む。

 

「では、そもそも艦娘が常に維持しなくてはならない機能とはなにか。御前たちが人の形になった今、その()()というのは、要するに身体的なものに他ならない。活動し、思考し、戦闘するに足るだけの活力がなければいけないんだ。これを完全に停止してしまうわけにはいかない。それは死を意味するわけだからな。生身の体で、不便な点のひとつだ」

 

 人差し指で、肩口を軽く叩きながら解説すると、熱心にその仕草を凝視してきた。

 唇に堪えきれない苦笑が浮かぶ。

 微笑ましく、くすぐったく、そしてなんとも充実している。二隻と潜伏し始めてから、こういった場面が増えた。

 

 自分のようなものが、この無垢なものたちに、たとえ些細なことでも、なにかをしてやれている。それが苦しいほどに幸せで、それだけに堪え難い。腹の底からじわじわと沸き立つような焦燥感が、この穏やかな日々に警鐘を鳴らすのだ。

 

 気を緩めてはならない、すぐにまた鉄火場に飛び込み、満身創痍できりきり舞いすることになる。自分がするべきは、火中の栗を拾いに行くことで、このような安穏とした幸せなど、不相応も甚だしい──と。

 

「御前たちの身体機能は、人と似ている。だがそれと同時に、その本質は軍艦(ふね)だ。つまり、人の形をしていながら、燃料を消費することで、その身体機能を維持できる。同じく人としての側面も持っているので、摂取した食物を活力源とし、やはり身体機能を維持できる」

 

「だから、ちゃんとご飯を食べると、燃料を節約できるのね」

 

「三度の食事より、燃料の方が割高ですものね」

 

「そういうことだ。ついでに補足もしておこう。惜しいことに、艤装、兵装、航行装置などの方は、燃料でなければ動かない。あれらは魂を起点にしてつながった、御前たちのもうひとつの体だ。だが──あっちには給油口はあっても、ものを食べる口がないからな」

 

 肩をすくめ、そんな軽口で締めくくった。()()()が鈴を転がしたような声で笑う。

 

「それは、本当にもったいないことですね」

 

 感情の動きに合わせて、花びらが舞い落ちた。ふわりと着地するや、溶けるように消えてしまう。あまりに場違いな、しかし奇妙に心をざわつかせる南国の淡雪は、この大きな幼い艦娘に似ていた。

 しばし声もなくそれに見とれた後、かすかなため息でそれを振り払い、仕切り直す。

 

「ともかく、明日の朝から遠征に出るよ。最短で三日、最長で五日くらいを見込んでいる。大丈夫だとは思うが、警戒を厳にしつつ潜伏していること。生活に必要なあれこれは、いままで見てきたからだいたい把握しているだろう? 今日の午前中は瑞鶴の発着艦訓練にあてて、午後からはざっくりとそのあたりを確認しておこう」

 

 椀を持ち上げて、汁を飲み干す。重たいそれをそっと戻し、穴の空いたドラム缶の椅子を立った。

 

「おかわりはいるか?」

 

「……いただきます」

 

「あたしも欲しいです」

 

 片や遠慮がちに、片や元気よく差し出された椀を受け取り、鍋の蓋を開けた。

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 

師匠(せんせい)って、何者なんですか?」

 

 思わずこぼれ落ちてしまった問いに、瑞鶴は内心で冷汗をかいた。

 この体における発着艦の手順を確認し終えて、ひと息ついたまさにそのときである。気の緩みとともに、口も緩んでしまったのか、疑問に思いつつも、あえて訊ねまいとしていたそれが、不意にこぼれ落ちてしまった。

 

「──漠然とした質問だなぁ」

 

 常にはない、間延びした反応であった。頬を引きつらせる瑞鶴の、あまりに正直すぎる表情筋を、苦笑ひとつで許容し、竜飛が浜辺へと視線を投げる。

 

 曙光ほどの痛烈さを失った太陽は、それでも砂浜と海面を燦然ときらめかせている。

 自分とともに木陰に佇む竜飛の、この南の島にあってすら白い面貌に、明るみの鮮烈さは、同時に、陰にあるものさえ鮮やかに際立たせるのだと、瑞鶴は知った。そのまま、思いのほか長いまつげが作り出す、眼もとの陰影をぼんやりと眺める。

 

「具体的に、私のなにを知りたいんだ?」

 

 問い返され、意識が引き戻される。その背景を問うことに、はっきりとはしないながらも、忌避感を抱いていた瑞鶴とは裏腹に、竜飛は気安い様子であった。

 

「じゃあ──なにをしてきたひとなんですか?」

 

「経歴か? そうだな……。こういう漂流生活を長らく続けた後、変な縁があって海軍本営に十年と少し飼われていた。そのとき、いろいろあって監禁されて、その後さらに軟禁されて、鬱憤がたまりすぎた結果、トチ狂って大騒ぎしながら出奔。いまに至る」

 

「なんですかそれ……」

 

「……本当にいろいろとありすぎて、説明が面倒きわまりなくてな」

 

 指先で下唇をたどりつつ、眉をひん曲げる竜飛。こだわりのなさすぎる師に、瑞鶴はすっかり拍子抜けしてしまった。

 

「そもそも、私がなぜ海にいるのかは、あのとき()()()に話したのを、聞いていたのじゃあなかったか」

 

「あのとき──えっ、あの、あ……」

 

 うろたえる。その反応こそが、これ以上ない肯定となった。

 

 薄暮の下に晒された、白く、細かな傷に彩られた背中を思い出す。一瞬のみではあれど、窓穴から垣間見たそれは、窃視に対する罪悪感と、滅多にないものを見てしまったような、なんとも形容しがたい感情とともに、脳裏に焼きついていた。

 

 眼の前の師が言うところには、空母というのものは皆、程度の差こそあれど、記憶力に優れているらしい。役割を考慮すれば、必須の能力ではあろうが、皮肉にも今このときばかりは、それが瑞鶴の足を引っ張る結果となった。

 

「気づいてたんですか……」

 

「近くの気配には敏感な方でな。とはいえ、あのときは()()()()()()()程度だったのだがね。確信をもったのは、そのあと夜中にここで弓を引いていたら、御前が来たときだ。御前、あのとき──」

 

 竜飛が、に、とわざとらしく歯をむいて見せる。揶揄するような、しかし不思議と人好きのする眼が、瑞鶴に向けられた。

 

「──まだ知らないはずの、私の名を呼んだだろう?」

 

「…………え? ──あっ⁉︎」

 

「迂闊、だったな。ふ、ふふ……」

 

 思い起こして、素っ頓狂な声を上げる。口をあんぐりと開けた、間の抜けた顔で竜飛を見つめると、その薄い唇から、吐息のような笑い声がもれ出た。細い肩が震える。

 切れ長な目尻を下げた、控えめな笑みだった。鋭利な顔立ちや、普段の精悍な姿からは、想像もつかないほどに、可憐な笑顔である。

 

「うっ……。は、話を戻しますよ! それじゃあ、海軍と合流したら、竜飛さんはその()()()でまた本営に行くつもりなんですか?」

 

「いいや?」

 

 ほんのりと笑いが尾をひいた声で、否定する。首を振る動作とともに、竜飛の視線が外された。どこともしれない、海の向こうに眼をやって、他人事のようにささやく。

 

「私ではなくて御前たちだよ、()()()で本営に行くのは」

 

「竜飛さんは」

 

「行かない。合流するつもりもない」

 

 穏やかな表情とは裏腹に、きっぱりと言い放った。瑞鶴は瞠目する。変貌、と表現してもいいほどに、かたく、陰をはらんだ声色であった。

 

()()()は、信用できるんだ。けれど、海軍は──あそこには……」

 

 言葉を詰まらせる。否、呑み込んだのだろうか。

 物静かで、瑞鶴や()()()を慮ることは多くとも、率直で明朗な竜飛がするには、違和感を禁じ得ない態度であった。

 

「──私のようなものがあそこにいても、誰も幸せにならないし、できない」

 

 幾度か逡巡するように唇を開閉させたあと、奥歯にものが挟まったような口ぶりで、そう続けた。大概の場合において、根拠を示し、筋道を明確にしてものを言う、およそいつもの竜飛とは思えないような煮え切らなさであった。

 

 瑞鶴は押し黙った。今度こそ、踏み込んではいけない、吃水線の存在を感じた。

 

「すまない、気にしないでほしい。ともかく、御前たちのことは()()()──信用できる提督に任せようと思っている。私は私で、好き勝手にやっていくから、心配する必要はない」

 

「でも……」

 

 それでも納得しきれず、やみくもに食いつこうとする瑞鶴の髪を、不意に小さな手が優しく梳いた。ふたつに結いあげた内のひと束を、かたい指先で撫で、毛先をさらさらと零すように弄ぶ。

 

「ありがとう、瑞鶴」

 

 そのうえ、頑是ない幼子をあやすように礼など言われたら、瑞鶴はもう、今度こそ言葉を失うしかないのだ。

 

 まるで、いつかと同じように。

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 

 明朝。袂から取り出した二枚の紙を差し出すと、二隻が怪訝な表情でそれを受け取った。

 

「お守りだ。願掛けとも言うがね。今のうちに渡しておく」

 

 掌に収まってしまうまでに、複雑に折りたたんだ、その紙の()()()を、幼子たちがそろってきょとんと見下ろす。

 

「すべて終わって、海軍で最初に提督と会うまで、開くんじゃあないぞ」

 

 願掛けとは、そういうものだからな──そうつけ足す竜飛に、()()()は、熟練の絵師によってひかれたような、美しく線を描く眉を、情けなく下げる。

 

「嫌ですよ……。竜飛さん。今のうちだとか、すべて終わってだとか、縁起でもない。無事に帰って来れないみたいじゃありませんか……」

 

「え?」

 

 ぽかんとする竜飛を見据え、()()()はその透き通った大きな瞳に、いまにもこぼれ落ちそうなほどの露をにじませた。

 

「──いやいや。私からすれば、御前たちの方がよほど心配なのだがね。本当に、私が帰ってくるまで、二隻で無事に生活できるといいのだけれども」

 

「もぉ。師匠(せんせい)ったら、それはさすがに心配し過ぎ──でも、ないかも……」

 

 竜飛の本音が混じった軽口を、笑い飛ばそうとして、徐々にその語勢と自信を失速させていく瑞鶴。

 

 この孤島生活で、日常の雑事のほとんどは、二隻に手伝わせるまでもなく、竜飛が手早く片をつけてしまっていた。必然として、二隻がそれらを経験する機会も少なく、それに伴って技術の向上も微々たるものである。

 竜飛の手がなくなった途端、生活に必要なあれこれに悪戦苦闘することは、火を見るよりも明らかであった。

 

「え、ええと、あの。昨日、ひと通り教えていただいたので、きっと、大丈夫かと……。──た、たぶん」

 

「そうだといいがね。まぁ、火と水さえ確保できれば、あとはどうとでもなるさ。私も慣れない頃は酷いものだったよ」

 

 まったく自信のなさそうな二隻に、竜飛は苦笑する。手にしていた索条のたわみを、軽く振り回すようにして伸ばした。

 

「念のため、もう一度だけ確認しておく。二隻はその隠蔽を最優先にし、現地点にて潜伏していること。敵性艦が近づいても、発見されるまで手出しは控えて、極力やり過ごすこと。もしものことがあったら、ひらけて丸見えのこちら側ではなく、昨日の内に案内しておいた、見通しの悪い北側からこっそり出ること──大丈夫か?」

 

「はい、大丈夫です。竜飛さんもお気をつけて」

 

「あたしたち、いい子にしてますから。早く帰ってきてくださいね。せーんせい?」

 

 内心を押し殺し、おそらく精一杯の笑顔を作って見せているのであろう二隻に、竜飛も笑い返した。

 

「善処しよう。では、行ってくる」

 

 ひらりと手を振り、空のドラム缶を満載したボートを曳いて出航する。二隻の視線を背に感じつつも、振り返らず、粛々と航路をとった。

 

 

 

 

 

 

 洋上に点在する油井は、海軍が制圧し、管理下に置いているものを除き、そのほとんどが敵性艦によって押さえられている。しかし、すべてではない。

 

「──っと……」

 

 その()()()()()()()例外に、竜飛はいた。拠点よりもさらに小さな島の、目と鼻の先にある、これもまた小さな施設の跡地で、持ち込んだドラム缶の最後のひとつを、燃料で満たす。

 

 島の方角を見やれば、浅瀬からこちらへ向けて、粗末な桟橋が組まれ、()()()()()()をした小屋が、いくつかその上に載っていた。作業小屋だったのだろうか。

 

 丸くすり鉢条にへこんだ、施設の外壁を撫でる。

 好立地であるにも関わらず、稼働していないところを見ると、おそらく、設備を竣工したか否かの段階で、敵性艦の襲撃によって、一旦は放棄されたのだろう。弾痕とおぼしき跡をつつきながら、竜飛はそう推察した。

 

 その後、ほとぼりが冷めた頃に改めて調査し、湧出量かなにかの問題で、危険を冒してまで汲み上げるに能わないと、閉鎖したのかもしれない。もし有用な油井であるなら、艦娘を配してでも採油しにかかるはずだ。

 

 むろん、すべて推論でしかなく、実際のところは不明である。いずれにせよ、竜飛のような立場のものにとって、比較的に新しい、まだ使用可能な施設は、非常に得難いものであることだけは、確かだった。

 

 竜飛は、満杯になったドラム缶を、艦娘の膂力に任せてボートに積み込み、自在結びで固定する。

 

「よし」

 

 ボートを係留していた索条を解き、曳きながら桟橋を歩いた。あちらこちらが腐り落ち、空いた穴から揺れる海面がのぞいている。

 竜飛は足を踏み外さないよう注意しつつ、油井ではなく島の方にある、利便性など知らぬと言わんばかりの、簡易的な係留施設に、ボートを持っていった。

 

 錆によって、頭をでこぼことさせた係船柱に、変則的なもやい結びの輪をかけ、結び目に触れて強度を確かめる。

 

「まぁ。取りに来られるのかは、わからないが……」

 

 聞くものもない呟きをこぼし、ふと口もとを押さえる。

 なんて馬鹿な──竜飛は眉間にしわを寄せて苦く笑った。()()()や瑞鶴と過ごす内に、随分と口数が増えてしまった。否、戻ってしまったというのが、正確なところかもしれない。

 

 前日の昼間、瑞鶴に語ったように、これまでのすべての時間を、ひとりで生きてきたわけではなかった。そして、そういった時間が、優しく、幸せであればあるほど、竜飛は息もできなくなるような危機感を覚える。

 

 竜飛は、弱い。

 ()()()のように、頑強な装甲や強大な主砲もなく、瑞鶴のように、最新鋭の航空機を運用できるだけの素地も、土壇場で見せる爆発的な潜在能力もない。

 

 あるとするなら、艦娘としては当たり前の水に浮く特性と、旧い機体でないと操れない、空母としては中途半端な管制能力だけだ。

 強いて優っているものを、ひとつでも挙げられるのなら、それは、この人の形をした体の扱い、ただそれのみである。しかしそれも、艦娘たちが経験を積めば追い抜いてしまえる要素なのだ。

 

 戦い続けるためには、竜飛は誰より鋭くあらねばならなかった。一切の油断も容赦も、してはならなかった。それこそが、竜飛を戦うものたらしめている、唯一の要素であるのだから。

 

 ──だから、()()()の懊悩に、知ったような顔で説教するような資格など、本当はないのだ。

 

「さて」

 

 今度は意図して声を上げる。穏やかな幸せに浸りきって、鈍ってしまった意識を、いま一度、研ぎ直す。

 

 竜飛はその場に膝をついて、地面にやや大判の布切れを広げた。雫がしたたり落ちた跡のような形や、砕けた枯れ葉のような形が描かれた、それは海図であった。

 ()()()や瑞鶴に見せていたものと比べ、四半分ほどの大きさでしかないそれは、しかし拠点で使用していたものより細かく、大量の書き込みがしてあった。

 

 その海図の上を、骨ばった指先がなぞる。

 

 あの二隻が、あの説明で納得してくれて本当に良かった──思案しつつも、頭のどこか隅の方に、そんな思いが浮かんできた。

 

 いずれかの鎮守府に所属し、実際に艦隊行動をとっている最中なら、旗艦の指示を強硬に拒否することなど、まずあり得ないであろう。しかし、あの場において暫定的な旗艦である竜飛は、自分とあの二隻を、良くも悪くも、艦隊として括ることはしてこなかった。

 あの環境にいるうちは、彼女たちも、思い余って任務では決してしないような判断を、してしまう可能性があった。

 

 それだけは避けなければならなかった。この遠征、否、()()()()にだけは、絶対に連れて来るわけにはいかなかったのだ。

 

 ──燃料の不足に関しては、嘘でもなんでもない。正確には、()()()()()()()()()()()()()を除いて不足しているのであり、それも出がけに指示した北側の、入り江と呼ぶにはあまりにささやかな砂浜に、目立たないように置いてある。急場に際して、実際にあの場所から出航しない限り、まず気づくまい。

 

 出航時の二隻の様子を思い返すと、竜飛も少々、気が咎める。しかし、この状況では他にどうしようもなかった。

 

 瑞鶴を迎え入れてからしばらく経つが、このところ、敵性艦による襲撃が、まったく行われなくなっていた。

 

 瑞鶴を保護する以前は、下位のものばかりとはいえ、四日に一度は必ず敵性()()の襲撃を受けていた。散発的な()()()による襲撃は除いたとして、()()()()()()()に規則性があったことを鑑みれば、拠点とした島は、固定の航路に近かったのだろうと、竜飛は考えている。

 

 以前、拠点の移動に関して()()()と相談した際にも、話題に上ったことではあるが、固定の航路ということは、竜飛たちが撃沈した艦隊がどこを航行していたのか、敵性艦側も把握しているということだ。

 要するに、あの拠点は、すでに割り出されているはずなのである。加えて、瑞鶴が加わる二日前、竜飛は敵性艦隊のうち、駆逐艦の一隻に、撤退を許してしまっている。

 おそらくそれが原因で、一旦、襲撃頻度が増したにも関わらず、あの夜からぱったりとそれが途絶えているのだ。

 

 この状況に、違和感を覚えない方がおかしい。

 

 どこかで、なにかとんでもない事態が、起こりつつあるのではないか。そのために、敵性艦も、たかだか三隻のみの少数艦隊に手をこまねいている暇など、なくなったのではないか。

 

敵性艦側(あちら)か、艦娘側(こちら)か──事を起こそうとしているのは、はたしてどちらなのか……」

 

 いずれにせよ、きっと今回も後手に回るのだろうな──ぼやきつつ、海図を畳んで懐にしまう。

 

 袂をさぐり、作業中は外していた黒い弓懸を挿した。台皮を押さえ、本体と同色の紐で巻き止める。四掛のそれの、使い込まれて毛羽立った弦枕の表面を撫で、浮いた股を押し込んだ。軽く握って放し、具合を確かめる。

 

 次いで胴をまさぐり、左上半身のほとんどを覆う籠手の、着け心地を確認した。手首の緒を歯で緩め、一本だけ露出した馬手の小指を差し入れる。手首の内側をのぞき込み、そこに仕込まれた暗器を眼で確かめた。

 弓手をそのまま鞭のように振るう。手もとに飛び出てきた()を五指の間に挟み、その先端まできっちりと見てから、器用に元の位置へと差し込んだ。

 

「よし、では──」

 

 伸べた右腕の上に、ずるりと飛行甲板が生え出でる。同時に矢筒や探信儀も表出したことを、背の重みで感じ取りつつ、右足を退いて半身になった。通常発艦姿勢。

 射法の前半を省略し、するりと一挙動で打ち起こして引き分け、瞬く間に会へ。

 

「偵察機、発艦」

 

 ──いざ、戦さ場へ。

 

 

 




難産……というか、書き手のコンディションが悪すぎて大変でした。

なんとかある程度書く > 疲労した状態で続きを書く > 寝不足等で頭が働かない >「違う、こんな話をしたかったんじゃない」> 書き直す > 最初に戻る

こんな作業を、*と改行で区切った場面ごとに、三回以上は繰り返してました。
没にしたものがメモ帳に大量に……。
しかもそこまでやっておいて、未だに微妙に納得いきません。

ああぁ、次こそはもう少し話を進ませたい……。

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