3月4日
織田信奈は、優先順位を間違えない名将である。故に、2つの凶報ーー織田信勝と若江城謀反ーーがやって来た後、目の前の本猫寺を見て、前面に広がる海を見て、1人うなずく。
「鳥羽に行くわよ」
「はっ」
だが、家臣達に自分の考えを伝えない性格であり、更に危急存亡をかけた時なので、まさに必要最低限のみの言葉だった。
新参の大和衆や伊勢衆は勿論ある程度の長さ信秀の時から仕えている織田家も首を捻るが、1人良晴だけは納得した表情を浮かべた。
「……相良殿はお分かりで?」
「ん、ああ。鳥羽まで撤退して、よ……幕府から官軍を名乗る許可をもらって、まずは足元の信勝を破ろうという魂胆だろうな」
「何故、信勝からと?」
「自分の家と同盟している家、どっちを優先する? 同盟している家は、日ノ本一円から仲間を呼び寄せれる家として、だ」
「……しかし、若江城は撤退の途中ですぞ」
「だが、織田家に気付かれないほどこそこそしていたという事は、逆に言えば数が集められなかった事だ。だから、本猫寺が出てこなかったら、若江城も出てこないよ」
良晴の言葉に、長秀も含めた織田家の武将達はうなり、改めて彼を見直す。
実際、柏原の戦いの影響で今で言う戒厳令が敷かれていた河内で集めれる兵力は知れたものの、若江城の中に籠る者達は野次や石を飛ばすぐらいしか出来なかった。
整然と河内の湿地帯を通った織田軍は、守口で朝廷からの使者である近衛
「どうせすぐに終わるのじゃ」
鳥羽に行こうとした信奈に良晴を連れていって良いか聞いた前久は、彼女をそう説得して、彼を幕府への前に本猫寺への使者として引き抜く。
「……それで? 本当の目的は?」
最後は舟で本猫寺に上陸する事になるので、前久は途中下車していた舟に再び乗り、良晴はその隣に座る。
家人に扇を
「本当の目的とは?」
「幕府の使者なら、朝廷に来た人をそのまま連れてくるなり呼ぶなりしたら良い。わざわざ俺を引き抜く理由には弱いだろ?」
「本猫寺と織田家の双方と顔見知りだから、はどうじゃ?」
「俺より細川さんの方が重臣だろ? 関白と共に行けるぐらいの。幕府の直轄領ならなおさらだ」
良晴の指摘に、前久はおじゃる顔には似つかわしくない笑みを浮かべる。
「やはり賢くなったな」
「……北条家と上杉家を渡り歩き、全国で動き回ってたらおのずとな」
「世界を渡り歩いている、からじゃないか?」
輝かしすぎる風貌ぐらいしか『力』のない前久は、世界を渡り歩いていないはず……と、良晴は驚きながら思わず彼の方を見るが、おじゃる姿には似つかわしくない獰猛な笑顔をして自分を見ているだけだった。
だが、この舟の上に空気のように溶け込んでいる少女の事にも考えが向き、そしてこれまでの事を思い出すと、おのずと答えが出てきた。
「…………そっか、けんにょもか」
「……はい。そういう事、です」
前久の近習の1人になりきっていた猫耳の少女は、庶民にも流行として広がっていたフードを取り、少し疲れたような表情を
「……気付かなくてごめんな」
「謙信みたいに行動で示して無かったし仕方ないよ。それに、自分の気持ちの名前に気付いたのはこの世界が初めてだし」
照れ臭そうに話すけんにょだが、それによってより重要な事が、更に如実になった事を気付かない彼女では無かった。
「教興寺の大戦の時も微かに感じてたけど、今までのような傷心じゃなくて恋心だったら、猫耳と気配の無さが一緒に出来るみたい」
「それを使って元康らから逃げたのか?」
「近衛様が元康に宛てた手紙を盗み読みしたからね♪」
ご愁傷さま、と良晴は恐らく河内のどこかで大わらわしているであろう元康とその家臣達に思うが、それがけんにょの気に触れたようで、舟の上だというのももろともせず彼に近付く。
そして、彼の両肩に手を置き、顔を寄せ、むっとした表情を愛しの人に見せながら一言。
「他の女の事考えたら駄目」
と。
良晴は少し視線をそらしながら「ああ」と答え、にやにやと公家らしからぬ笑みを浮かべる前久に「そっちも一緒だろ?」と矛先を向ける。
関白の事をそっちと呼んだ事に、本当の近衛家の家人達が殺気立つのを片手をあげておさえながら、前久は答える。
「まろの家内は高貴な公家出身で、ぐいぐい来る事は無いのじゃ」
「どこ……だ?」
「
「…………なるほど」
前久が溜め息をついたのと、舟が本猫寺の湊の1つに接岸したのは同じ頃合いの事だった。
それから
『本猫寺の全面武装解除』
『自治権の幕府への返還』
『幕府の加賀・越中への特例の実施』
『本猫寺の大坂から京への退去』
その条項にその加賀や越中のにゃんこう衆徒達が騒ぎ立つが、それはすぐにおさまる事になる。
織田信奈、相良良晴を襲う。
その速報が、清洲を発信地として全国に広まっていったからだ。