2月下旬
相良良晴が久し振りに京から小田原に帰ってきた時、北条家の首脳陣はある書状の作成に
一方、小田原のみならず全国から京に向けて多くの集団が歩いていく。武装した彼らは、良晴の報告から京の北の山のどこかに捕らわれているとみられる足利義輝の救出のために、一旦は鳥羽に集まる。
何日か経って全員が揃うと、その翌日には山へ向けて出発する事になるが、兄思いの義昭やその実質的な管領と言われている細川藤孝からの言葉もなく、日増しに上がっている緊張感が本物だと彼らに知らしめた。
「大和、ですか」
「ええ。幕府に認められた私を大和守護代として認めない輩が
彼らが思っている通りの事に更に油をかける報告が来たのは、奇しくも出発と同じ頃合いだった。
細川藤孝は内政も上手い松永久秀が直接この茶室に来た事に、その動いてる輩の厄介さを感じる。
「具体的には?」
「興福寺など南都仏教の宗徒が畠山家と北畠家、それに一色もちらほらと」
思わず舌打ちしそうになった藤孝だが、茶人の彼女がそれを何とか止める。
しかし、乱暴な言葉まで止める事は出来ずに、眉をひそめながら言う。
「平和を乱そうとしやがって」
「仕掛けた貴女がそれを言うとは」
久秀の返しに、彼女なら気付くだろうという事は予想していた藤孝は、嫌みをこめたそれに笑みを返すだけだった。
そして、その大和での動きが、庶民や遠くの大名にまで知られるぐらいの事件となって発現した。
「うん、今日も平和だね!」
すぐ後にその死をもって平和の終わりを告げる事になる少年は、信秀と信奈の2代から任された小木江城の城下を見下ろしながら言う。
「今日はどんな予定?」
「はっ。津島改造ならびに日光川ならびに木曽川の堤の工事の視察にございます」
「いつも通りか」
「……今日は天気は良いそうですので手伝いもよろしいとのお達しにございます」
「了解ですっ」
織田家という美形の血筋にあどけなさが加わり、相良良晴から密かに流行っている敬礼をする彼に、彼の傅役は溢れかける熱情を必死に抑えようとする。
そこまでは何時も通りの日々なのだが、傅役の熱情は別の方に転嫁される事になる。
ターンッ……
「……えっ?」
彼の目の前で、生涯仕えていこうと思っている主君が、ゆっくりと倒れていく。
最低限の甲冑の兜の方が、主の頭から離れて落ちていく。
「彦七郎様ー!!!!」
傅役の絶叫は津島のみならず遥か清洲まで響いたと、後に人々は言い合ったという。
小木江城狙撃事件。
1発の銃弾が、
そして同じ日、小田原の相良良晴は城内の一室で、ある自分の計画をこの世界での主に打ち明けていた。
「……本当にそれで良いのね?」
「ああ。……いい加減とかれたいしな」
「わかったわ」
主の答えに、良晴はホッとする。
「ただし、生きて帰ってきなさいよ?」
「……善処するよ」
主とその後も北条家や領民、開発中の品々や作戦、南蛮や対明も含めた貿易の事など色々と話し込んだ良晴は、満足した表情で、やはり城内にある自室へ帰る。
その日は次々と何時ものように自分の部屋を訪れる北条家の氏康や家臣、最後の古河公方や当代の鎌倉公方の家臣、公家、神主、大商人などなどの相手をして、夜も深まった頃に舞い込んできた凶報に眉をひそめる。
翌日には、凶報の発信源である織田家から「捜査をお願いしたい」と依頼があり、幕府に船便を、主の北条氏康にお伺いをたてる。
「じゃあ陸路かしら?」
「になるな」
「だったらこの書状を今川家に」
「わかった」
「見たら駄目よ?」
「見ないさ」
「言いながら見てるのがちらほらといるから」
「絶対見ないよ」
「本当ね?」
「ああ」
……見るな見るなと言われたら見てしまうのが神様の時代からの約束、だが結局良晴はその書状を駿府で義元に渡すまで見る事は無かった。
彼はそのまま東海道を西に歩いていき、家安の歓待をさらりと受けてから、なるべく早く尾張国に入る。
「やっぱり違うな」
思わず彼が呟き、周りの護衛達も頷いたように、尾張の国内の空気は今まで通った国々のそれと明らかに違っていた。
人々の顔つきはあの時代に戻り、武器を売る屋台も増えてきていて、更に野菜も品薄だという所が多くの店の軒先を見てわかった。
「相良様、お久し振りです」
「お久し振りです」
そして、わざわざ国境の近くまで織田家の重臣の1人である丹羽長秀が迎えに来るという状況に、相良は予想以上に物々しい空気だと認識を改めた。
更にれっきとした城である清洲城に入ると、良晴は更に認識を変えざるを得なくなる。
「ご主人様」
「ああ」
幾つかの家でこういう空気を感じた事がある相良衆にとっては慣れたもので、風魔がすぐに織田家内の不穏な空気の原因を探し始める。
一方、良晴は憔悴した織田信奈から歓待を受けた後、事務的な手続きをして、織田家から頼まれた小木江城事件の捜査を幕府の者として始める。
「それじゃあ頼む」
「へい」
織田家内の捜査を副将の朝霞永盛に任せ、良晴はすぐに現場の方へと馬で走る。
本猫寺の蜂起どころか、織田家の摂津進出自体が無かったため無いだろうと決めつけていた長島合戦のその始まりの城として、良晴は小木江城の事を記憶していたが、正にその惨劇が目の前に現れる。
追い剥ぎによって金目の物を盗られた雑兵達の死体は、交易路の近くにあたる事から津島の商人に雇われた者達によって、1つの巨大な穴に入れられ、今は火葬する前の弔いの時期になっている。
「あれは……」
「幕府の者じゃ」
「戦いの理由を探りに来たのか?」
「どうせ織田家優位に裁定するのじゃろ」
ヒソヒソではない音量の話を無視しながら、良晴ら一行は長島と尾張国を分ける 川の川岸に立つ。
そして、相良衆の中でも一際大きな声を出す男が、川に足を浸からせながらもなるべく前に進み、大きく息を吸う。
「我らは! 幕府より! 此度の戦の捜査を! 命じられた! 相良家の者である! ご協力願いたい!」
幕府からの者とまではわかっても、旗印が『足利二つ引』で甲冑も着ていた事から何処の家かわからなかった商人達が後ろで慌ただしく動き始めるが、相良衆は勿論それは無視する。
「相良様……」
「……」
本猫寺で出会い、幾つもの世界の中でも決して長島にはいなかった が、その舟に乗っていた。
大坂から派遣された彼女は、にゃんこう宗の大きな拠点の1つで巻き起こった事件の後始末に翻弄され、少しやつれた表情を浮かばせていた。その表情を見て、良晴はにゃんこう宗が仕掛けた戦いではないとより確信を深めるが、それは表情に出さず、彼女達がつれてきた空舟に乗って、 寺の中洲へと向かう。
ずっと心配そうな瞳で見つめてきたぐらいしか変わった事はなく、静かに、単調に聴取は進んでいく。
「まだその話を全部信じる訳にはいかない。だからといってこっちからは攻めたりはしない。誰かから挑発されたとしても絶対に乗らないでほしい」
「はい」
木曽三川の東岸に戻ると、既に永盛の文を携えた風魔が群がる商人達に紛れていた。
梅千代を介して「織田家不穏。別の場所を本部に」という内容の文をみた良晴は、少し考えてから、商人達の中から北条家に近い陸運の商人を呼び寄せ間借りする事を頼み、商人は二つ返事でそれを了承する。
その商人が同僚などに話している間に、良晴は織田家に向けて文を書き、風魔に届けさせる。織田家から了解の返事がやって来たのは、津島に着いたのと同じ頃合いで、駆けつけてきた長秀に改めて事情を説明する。
「そういう事が……」
「可能性だけどな。これから探っていくから、丹羽さんには織田家の
「……わかりました。…相良様に護衛をつける事が出来ない事になり申し訳ございません」
「良いよ、別に謝らなくても」
そして、巷の情報の集積地でもある津島と、色々な情報の集積地でもある清洲と長島で集めれる限りの情報を集めた相良良晴。
彼から幕府に報告書が送られたのは、尾張に入ってから5日後の事で、幕府は彼の提案を許可する。
「……わかった。受け入れよう」
石山のけんにょからも返事を得た良晴は、そのまま清洲城に赴く。
「…………わかったわ」
何者かが「織田家が経済的に邪魔な長島を滅ぼそうとする準備に入った」との情報を流し、長島の警戒派を更に尖らせ、そして織田信治を暗殺する。小木江城の者達はこれに反撃し、不幸な戦が起きてしまった。
良晴の結論を聞いた信奈は、これからの長島や布教の事も含めたけんにょからの当主会談の申し入れを受け入れる。
これによって、織田家を2つに割ろうとした鷹派も鳴りを潜め、信奈の弟・信勝を御輿にのせていた鳩派の面々も安堵する。
「頼んだわよ」
「はいっ」
暦が3月に変わったその日、信奈はその信勝に領国の事を任せて、大坂に向けて出発する。
そして、それには相良衆もついていた。それが、犯人の狙いだとも気付かずに。