5月1日 夕方
相模・小田原城
やっと来た。
自分の部屋に相良良晴が来たとき、北条氏康はそう思い、そして疲れた表情の彼を見て少し
「遅かったわね」
「ああ……あの3人の相手をしてたからな」
「綱成、氏良、氏照ね」
「……よくわかったな。後、良氏への返信も書いてたから疲れたのなんの」
口ではそう言うものの、表情は明るく、氏康も怒る気はわかなかった。
「それで? 重要な話っていうのは?」
なので、彼女は良晴が帰宅後すぐにと自分との話し合いを求めてきた理由を聞く。
一気に真剣な表情になった良晴は、1つの隠語でそれに応える。
「
と。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
その3人によって、過去の衝突なども一旦忘れて結ばれた甲相駿三国同盟は、3人それぞれの目的がその相手と衝突する事がなかったので、今まで続いている。
つまり、武田信玄と北条氏康は対上杉のために、今川義元は上洛作戦のためにである。
だが、甲越同盟によって、徐々に状況は変わり、三国同盟にも不可視の軋みが出る事になる。武田家にとっては上杉家と争う意味が無くなり、同盟を結んでいる意味も無くなったに等しくなってきたからだ。
となると、武田家の外交方針も変化する。北と東は甲越同盟によってこっちからで無ければ安全だし強敵なので、拡大方向は西か南に限られてくる。
そして、その西と南はというと手を繋ぎあっていた。北条家と今川家の相駿同盟は言わずもがなだが、相良良晴によって天下人の三好家と北条家は事実上の協力関係にあり、その三好家と敵対する六角家と手を繋ぐ斎藤家と敵対する織田家が手を繋いでいた。整理すれば、北条家と今川家と三好家と織田家の陣営が六角家と斎藤家と対立しあっているという訳である。
武田家にとっての悲願である上洛を目指している今川家と
「交渉を続けよ」
とは信玄は言ったものの、彼女自身、対斎藤家の最前線が服属したばかりの木曽家なので大して期待はしていなかった。
そして、北西の飛騨へは上野国より山越えが難しいとなれば、道は1つしかなくなる。その道は、武田家のもう1つの悲願の達成にも繋がるから、家中の支持も高かった。
史実では道三と同じくらい取り込むのが容易ではない者が美濃を制したため行われた道を信玄は辿ろうとし、史実ではすでに故人だった太原雪斉がそれを察知する。
「条件も揃ってるわね」
「ああ、氏秀さんの策でな」
武田信玄による駿河侵攻と、それに伴う三国同盟の破綻、そして越相同盟の結成。
今度はそれが迫っているのが良晴からの知識でわかっていた氏康だが、しかし彼女は逃げようとしなかった。
「いずれは歩まさせられる道。だったら時機がわかっていた方がやりやすいわ」
「……だな」
翌5月2日、北条氏康は春日山城の上杉謙信へ向けて氏秀考案の策が書かれた書状を、隠す事なく早馬で送る。
『北条家は上杉家の上野・下野・常陸の支配権を認める代わりに、上杉家は北条家の相模・武蔵の支配権を認める』
『三浦郡と下総・上総・伊豆は鎌倉公方の直轄地、安房は里見家、下野は宇都宮家、常陸は佐竹家の領土と認める』
『唯一の鎌倉公方は足利良氏であり、唯一の関東管領は上杉謙信に養子に入る北条氏秀であると認める』
『両家は公方様の室町幕府再興を支える』
その4つが主な条件である同盟の提案に、北条家の支配が確固たる武蔵国からの北進を事実上止めれるその中身に上杉軍の男達は支持し、幼い卵松と姉をみた謙信も、ある条件を付け加える事を送り返す。
その条件は折り込み済みだった北条氏康は、氏秀に確認を取ってから、彼女自身を越後へと送る。
「お初にお目に掛かります、上杉さま。御姉様の妹の北条三郎氏秀でございます」
「越後国主の上杉謙信よ。やはり氏康に似てるわね。けど、肌の色は私に似ているわ」
「沼田城の戦いから引きこもりがちでしたので。しかし、御姉様と上杉さまの攻防、相良良晴や長尾殿などの家臣の方々のご活躍、そして各々の生きざま。それらを見ていますといてもたってもいられなくなり、この越後に参りました次第です」
「なるほど。貴女も『義』の精神を持っているというわけね」
「小さいものですが」
「小さいもなにも無いわ」
謙信は微笑みながら、微かに震えている氏秀の手を取って囁く。
「貴女のその義の精神があれば、上杉家と北条家の橋渡しを、そして幾多もの血を流してきた関東の戦乱を終わらす事が出来るわ」
その言葉を聞きながら、氏秀は思っていた。まるでこの世の人ではないようだ、と。そして、なんと慈愛に満ちた眼差しなのだろう、と。
謙信も、彼女の芯の通った眼を見て、今までの考えを改めていた。氏秀は地面を踏みしめる事の出来る戦国武将だ、と。そして、愛を真正面から受けとれる眼差しだ、と。
「私にもしもの事があれば、姉上と
そして、貴女は『上杉景虎』と名乗ってほしいの。日『景』を守る『虎』として、私の父上が名付けてくれたように」
「謙信さまっ!」
2人の会見を上杉家の男達に混じって見ていた謙信の姉・綾が、謙信と同じような微笑みを浮かべながら氏秀の前へと来る。
「氏秀……いえ、景虎。謙信が貴女が小田原を発ったと聞いて、私の所に来て、自分で縫った兎のぬいぐるみよ」
「姉上っ」
「いいじゃない。ね?」
北条家と同じ な暖かみを向けてくる謙信に、ついに北条氏秀……いや、上杉景虎の感情は抑えきれなくなった。
「ありがとうございます! このぬいぐるみを謙信さまだと思い、誠心誠意役割を果たさせて、そして上杉家の一員として振る舞います!」
そう、景虎は泣きながら誓い、上杉家は盛り上がる。
『真に勝手でございますが、姉離れをさせていただくために、御姉様を姉上、上杉さまを謙信さまと呼ばせていただきます!』
元気はつらつな景虎からの書状に、氏康が嫉妬したかどうかは彼女自身と小太郎のみが知る事である。
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5月3日
甲斐・躑躅ヶ崎館
「先手を打たれたな」
なかば公然と成った上杉家と北条家の和平、そして越相同盟の締結の事を見聞きして、武田信玄は苦笑いを浮かべた。
今川家を攻めれば自動的に北条家とも戦う事になるが、恐らくはその辺りの気を察し、上杉謙信も同盟に踏み切ったのだろう。
「表面上は甲越同盟も合わせまして四国同盟になりますな。そのままの方が良いかもしれませぬが?」
「だが、美濃を味方として通れば今川家を助け、敵として通れば畿内が難しくなる。だったら、攻めて姿勢を明らかにするしかないだろう」
「しかし、北信の攻防がおさまったとはいえ、人に戻ってきているとはいえ、上杉謙信は義の武将。いずれを攻めても三方を囲まれますぞ」
「それもわかってる。まあ、現実論としては何処かが混乱した隙を狙うしか無いだろうな」
「現実を見失っていなく安心しましたぞ」
「さすがに見失わないよ」
父上に叱られるしな、と信玄は最後に付け加え、謙信と氏康に越相同盟ではなく関東の平和を祝福する。2人もそれに応え、それは周りにも感知される。
相駿甲三国同盟、甲越同盟、そして越相同盟。その3つの同盟によって、関東には平和が訪れる。
だが、まるでそれを待っていたかのように新たな戦乱の報が良晴の所に来る事になる。