9月6日 昼前
越後・頸城郡 不動山城周辺
怖い。
それが、憲政に同調して挙兵した山本寺が輝虎に攻められはじめて2時間も経たない内に感じ始めた事だ。
「殿! 脱走兵が後を絶ちません!」
「う、うむ」
越後についで甲信でも反乱が起き、今朝には上杉憲政と武田義信の間で同盟が結ばれたと公表され、すでに越後に入らんとする北条家と合わせて越甲相三国同盟という恐ろしい同盟が結ばれる! と兵達は浮き足だったが、そんなのお構い無しと言わんばかりに、輝虎は昨日以上の城攻めをして、泰然としている総大将を見た諸将達も的確に落としてきていた。
援軍要請はすでに送っているものの、憲政と義信からの双方から『北条家の動きが変わってきたのでそれを見極めてから』という返事が来る。越後に入らんとした北条軍本隊が、憲政の挙兵の直後に北条家に降伏し家名を変えた毛《・》利《・》高広がいる厩橋城まで引き返したらしい。
その援軍が来ないという情報が、輝虎方によって瞬く間に広められ、今や末期の状態になっていた。
「……降伏だ」
結局。
反乱を主導した定長は隠居し、跡を弟の景長が継ぐという形で和議は成立し、髪を剃りあげた定長は城内に迎え入れた輝虎に拝謁する。
形式的な挨拶が終わり、目を伏せたままの彼が輝虎から一番遠い所まで退いた直後、外からある者が着いたという報告が来る。
「通して」
「はっ」
幾分か更に部屋の緊張感が増す中、1人の少女が堂々と部屋の中に入ってきて、輝虎の前に座る。
「川中島以来ね、晴信」
「ああ。あの時はこんな事になるなんてな、輝虎」
そして、と武田晴信は続ける。
「お前もな、相良良晴」
呼ばれた良晴は「まあな」と普通に返し、なんとも言えない笑みを浮かべる。それを見て苦笑いをした晴信は、輝虎の方を見て。
「頼む」
頭を下げる。
「武田の家を
「勿論よ」
輝虎は即答でこたえ、微笑みを浮かべながら言う。
「
その軍神の言葉に唖然とした晴信は、最初は小さく、やがて大きく笑い声を上げ、それが収まり目元の涙を指で拭いてから言い放った。
「更に厄介な野郎になったな」
「野郎じゃないわ、乙女よ」
「違いない」
あらかじめ準備されていた晴信と宇佐美定満の間で取り決められた約定の事が書かれた紙に2人はサインをして、晴信から手を出す。
「よろしく頼む」
「こちらこそ」
上杉輝虎と武田晴信。
決して相容れるはずの無かった龍と虎が手を結ぶ。
「事態は更に混沌としてきました。ここで整理しましょう」
と声をあげたのは直江大和で、輝虎に命じられるがままに動いていた上杉軍諸将や、同じく主についてきた晴信の旗本も賛同し、2人が許可を出す。
「よ…近衛様と相良も何かあれば」
「うむ」
「ああ」
「まずは下越ですが、ここに伊達氏宗と蘆名盛隆が攻めこんでいます。ただし、蘆名家の動きは鈍く、伊達家も掴んでいるようですがやる気は全く無いらしいです。それに加え、最上家も伊達家に小規模な攻撃を仕掛けており、陣中は『すでに目的は果たした』という空気が流れているとか」
「目的?」(晴信)
「恐らく、今回の戦は『上杉家は奥羽に関わるな』という示威行為だというのが私達の憶測です」
「なるほどな。そもそも輝虎は、攻められない限りは攻める気はもう無いんだろ?」
「ええ」
「次に上越についてですが、晴信殿の情報によると武田家反乱軍が野尻城で武田家正規軍と戦っています」
「守将は秋山虎繁だ。軍もたんまりいるし、後援があれば春日山と結ばれる事は無い」
「協力するわ。ただしーー」
「わかってる。荒らしたら打ち首だ。この城の南は の異母妹の仁科盛信がいて、 の辺りで小競り合いをしているらしい。越中の方はどうだ?」
「…越中は神保家が富山城に舞い戻り、それに椎名殿が対抗しています。こちらも抜かれる心配は無いでしょう」
「その2つは3つは変わらず、という訳ね」
「はい。一方で、大きく動きを見せたのが中上越が接する関東と信濃でございます」
「少し良いでおじゃるか?」
輝虎と晴信と直江大和の三者で進んでいた会議に入っていたのは、何時ものお歯黒をつけた公家姿の近衛前久だった。
「どうぞ」
「此度の戦、北条家の動きは少し不思議だ、という事を相良と話しておっての。北条の事は相良の方が詳しいからこやつに話させたいのじゃが」
「わかりました。よし…相良。忌憚なく言って」
「…ああ。憲政
「関東に中央とは独立した国家を作ることだな」
「正解。その前提を考慮したら、何で北条家は越後に攻めいれようとしたんだ?」
「そりゃあ、輝虎の領土を削って上野を含めて支配しようとしたからだろ?」(政景)
「だけど、越後は関東か? 関東は、確か鎌倉府での範囲は甲斐、相模、武蔵、房総、上野、下野、常陸、そして奥羽だ。越後は仇敵の領国といっても、支配する意味がない。それに、だ」
「……何?」
「上野や神流川、それに小田原で輝虎さんの強さは知ってるはず。近衛さ…様から聞いたけど、上野は武蔵とかより北条家に反発してる。そんな不安定な土台の上で、三国峠ぐらいしか越えれる所が無い中で、慎重派な氏康
「……持とうとしねえな」
「ならなんで北条家は憲政の要請を受けたんだ?」(晴信)
「それは……わからない」
ズココッ! と擬音が出そうな勢いで、部屋にいたほぼ全員がずっこける。
「とにかく、何の後ろ楯もなしに越後を攻めるのはおかしいんだ。例えば……」
ある可能性を良晴は考え、それが懸命に表に出ようとしていた記憶にすぐにリンクする。そこから、ある結論に至った彼は、徐々に顔が青ざめてくる。
「相良?」
「……良晴?」
「相良?」
3人に呼び掛けられて、やっと良晴は反応する。
「挟撃じゃない。片方は味方なんだ」
と。
そして、やっと良晴が考えに思い至った直後。
「お待たせしておりました、相模守様」
1人の老人が、少女に平伏していた。
「
「はい」
この時をもって、北条家の新たなる戦いは始まる。
夏風邪長いです……。