相良良晴←ヤンデレ   作:コーレア

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第107話 真田の子の話

5月6日 夜

信濃・更級郡 松代温泉

武藤 喜兵衛

 

 僕は、近習としてお館様に幼少の頃から付き添ってきた。けど、お館様が信濃で戦っておられる間は、僕は躑躅ヶ崎館で留守番をしていたから、武田家での初陣はまだだった。

 それが変わったのが、越軍を見ていた海津城からの狼煙《のろし》に関する会議の最中で、武田家での初陣がいきなり命じられた。

 兄上や妹達は心配してくれたけど、私は養子とは言えお館様の母君の実家である大井家の支族である武藤家の者なのでいつでも行けるように備えてたし、何より久留里城の戦を体験した僕に、怯えや震えというのは無かった。

 名将同士の戦いだからなのかすぐに戦! とまではいかないけど、それよりも今この時点をどう乗り越えるかが問題である。

 

「良い湯だなあ」

「そうですなぁ」

 

 相良殿と父上、そして僕。何の取り柄もない僕が、何故か名将と慕う2人と湯気が濃い温泉に一緒に入っています。

 片や『今猿田彦様』と呼ばれ、北条家を徐々に変えていっていき、様々な戦法を生み出す御方。

 片やお館様との合戦に敗れ、上野に落ち延びるものの、その合戦の手際に惚れ込んだがために山本殿に調略した同郡の者達を手土産に臣従し、真田家に安定をもたらした御方。

 私は、何故かその山本殿に推挙され、猛将の兄上や謀将の が見える源二郎がいるのに、お館様の戦いをすぐそばで見ることが出来た幸運な者。それだけなのに、相良殿の指名で入ることが出来た。

 

「源五郎も近くに来なさいな」

「はっ」

 

 身命を賭けて武田家に仕える事を内外に示すために家紋を『六紋銭』に変えた父上は、僕を含めた子供達にも厳しく当たり、だから即座に体が動いた。

 真田の郷よりかはまだ暖かいけど空気は冷たく、首から下を覆う熱さは心地良い。

 濃い湯気でぼんやりとしていた名将の御方達の体つきが、幾分かはっきりしてきた所まで来て、僕は遠慮して止まる。

 

「遠慮するな。相良殿直々のご指名であるからな」

「はい」

 

 そんな私達を見ていた相良殿がおもむろに口を開き、父上の厳しい視線が別の所に移る。

 

「真田さんは、どんな作戦を考えているんだ?」

「……直球ですな」

「回りくどいのは苦手だからな。このお湯の周りには、忍が二重にいるし、聞かれる心配も無いだろ?」

「…………まあ無いというのが正直な答えですな。越軍の配置は、以前の3回に比べても固く、そして相互を補いあう物。こちらから攻めても抜けないでしょうな」

「……そっか」

 

 父上の嘘をついていない瞳を見据えていた相良殿は、少し間を置いてから心なしか楽しそうに呟いた。

 言う事を言い切った父上は「老いると長く入れませんな」と言い、そそくさと男湯から出ていき、その周りに草の者達が集うのがわかった。

 父上がくぐった扉を少し見ていた相良殿は、小さく溜め息をついて、傍らの石にあった を上げる。

 

「温泉卵余ったな」

 

 ……そういえばそうだった。

  に入れられた鶏卵は、長い間お湯に浸かり、すっかり出来上がっていた。

 相良殿が温泉卵を取り出している間に、風魔の少女が音もなく側に現れ、適量の越後塩が入った小皿を平たい石の上に置き、恭(うやうや)しく相良殿から温泉卵を受け取る。

 そして、1発で温泉卵の殻は割れ、固まった白身から湯気がほんのりと沸き上がる。

 

「自分の好きなように食べてくれ」

「はい」

 

 例えば海津城で受け取ったならば熱々だが、お湯に浸かりすっかり暖まった手は悲鳴を上げることなく、それは口も同様だった。

 見よう見まねで、頭頂部から塩をつけた白身にかじりつくと、越後により近いからかはわからないけど、何時もよりはっきりとした塩味が、白身が抵抗なく潰れる感触と共に広がる。

 次いでもう一口かじりつくと、今度は黄身に達したようで、ぽろぽろとした独特の感触と味が広がる。

 

「美味しいだろ?」

「はい!」

 

 1人2個ずつ都合6個茹でていたわけで、父上が去ったので、3個食べる事が出来た。

 そのどれもが美味しく、箱根の地が羨ましく思い、そして絶対こっちでも広めていこうと決意するには充分過ぎた。

 後で行儀悪かったと反省する事になるけど、指についた塩を舌で舐めていると、唐突に相良殿が言葉を漏らす。

 

「綺麗な指だな」

 

 と。

 食べるのに夢中になっている間に風が吹いたようで、垂直に上がっていた湯煙は斜めに流れ、そのぶん見えやすくなっていたようだ。

 少し固まった僕は、一先ず心のこもってない礼を言って、その場を切り抜けようとしたけど、そうは問屋は卸さないのが相良殿である。

 

「政虎さんの関東攻めの少し前、俺は常陸の方に行ってた。その最後の方で、大きな騒動の始まりに巻き込まれてしまったんだ。今も、()()()()ために動いてるけど、その原因はわかるか?」

 

 常陸のお家騒動、と言えば、上総で聞いたあの家の事しかあてはまらない。

 相良殿はわかっていて、けれどもその瞳は私の顔をじっと見つめたままだ。

 その瞳を見て、僕は北条家の人々が相良殿に我が身を(ゆだ)ねるのがわかったような気がした。


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