ナザリックの赤鬼   作:西次

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第十四章 女の戦い

――結局、昨夜はモモンガは帰ってこなかったな。よほど、今の仕事に集中したいらしい。

 

 朝早くからウォン・ライは、道にまで伸びてきた茨を切っていた。カルネ村の道路事情は、そこまでよくはない。細かなところに整備が行き届いていないのだが、きっとそこまで労力をかける暇がなかったのだろう。

 茨は道の外側に茂っているから、もう少しくらい放っておいても、問題にはなるまい。しかし、こうした小さく細かい部分をしっかりやりたがるのが、彼の性格だった。

 

――野茨はトゲがうっとおしく、道端に伸びてくると通行の邪魔になる。地球のそれとはいくらか違いもあろうが、駆除して悪い種でもあるまい。

 

 しかし、こうした野草の処理など何年ぶりにすることか。今となっては、中国でも絶滅に近い種であろう。子供のころは、弟たちがこれで怪我をしたこともあったが、今や不毛の大地となった大陸では、ここまで伸びることはまずない。

 自然がそのままであることは、幸いである。幸いであるならば、どんな作業であれ、やはり楽しむべきだ。

 努力を厭わない? その程度では修行が足りぬ。修行を好む、という段階に至るならば、それはそれでよいことだが充分ではない。

 いかなることであれ、楽しむことが最上だ。そしてウォン・ライは、どのような雑事であれ、楽しみを見出す才能を持っていた。

 

――茨は、荊棘(けいきょく)とも呼ばれる。そして荊棘の花は、あれで結構美しい。荊棘花にたとえられた女性も、かつて中国には存在したと聞く。うろ覚えだが、さて、どのような物語であったか。

 

 単調な作業の中でも、きっかけ見出して面白みを感ずるのがコツである。頭の中ではあれこれ考えていても、彼の手足は機敏であった。そして指先は繊細であり、行動には後に続く人々への思いやりに満ちている。

 

――それにしても、茨にも華があると認めた人は、なかなかセンスがいい。街中では、トゲがあるから駆除されるが、野にあるならば愛でるのも一興か。この世界では、荊棘はどのような花を咲かせるのだろう。

 

 この手の植物は、完全に駆除するのが難しい。だから適当に処置して放置する、ということが結構あるもので、こうして邪魔になるほど伸びるのも、その結果だった。

 ウォン・ライも、現地の植生に詳しいわけではないから、根絶までは考えていない。ただ、ここを通る人がトゲに足を引っかけないように。しばらくの間は、茨で頭を悩ませることのないようにと、なるべく深く刈り取った。

 本気で絶やすつもりならば、手段はあるのだが――それはそれで、無粋な気がしたのだ。

 

――これで、よいか。

 

 そうして働いているうちに、村長と出会った。彼は彼で、早朝から働き出すのが日課であるらしい。

 勤勉なものは好ましい。お互いに軽く挨拶をしてから、言葉を交わす。

 

「ウォン・ライ様。朝早くから、精が出ますな。意外ではありますが、手際もいい」

「若いころは、色々な仕事をした。つまらないものであっても、面倒なものだろうと、嫌とは言えぬ身分であったからな。結果として、様々な事柄に習熟してしまったが」

 

 こうして役に立てるのなら、その苦労は無駄なものではないのだと、ウォン・ライは言った。

 実際、彼の顔に苦悩の色はない。すがすがしく感じられる声で、村人たちの役に立てて嬉しい、とまで言う。

 

「そこまで気遣っていただかなくとも、よろしいのに」

「いや、やはりできることはやっておきたくてな。それに、手が回らぬところを補助してやらねば、協力する意味もないだろう。……ちょっとした手間で皆が喜んでくれるなら、これくらいは惜しむものではないさ」

 

 彼は何でもないことのように、作業を続けた。確かに手慣れているが、むしろ手際の良さ自体が違和感を覚えさせた。

 こんな些事をさせて良い人ではない。村長は、直感的にそう思った。思ってなお、直言がはばかられるほど、本人が楽しんでいたのが問題であった。

 

「……他に、やるべきことがあるのでは、ないですか?」

「今、村人の安全を確保すること。それは私のやるべき仕事で、優先すべき仕事なのだ。その作業は細やかであるべきで、手を抜いてはならないと思っている。……どうしてだろうな。私は、目に見える人々をまず助けたいのに、そうした人々から敬遠される。私自身の不徳ゆえと思うが、改めて聞かされると堪えるよ」

「いえ! 悪い意味で言ったわけではないのです。ただ、ウォン・ライ様にはもっと大きな役割があって、そちらの専念することが、我々のためにもなるのではないかと。こうした些事は、我々で処理したほうが適切ではないかと、そう思っただけです」

 

 やはり村長も、似たようなことを言うのだな――と、ウォン・ライは苦笑した。

 その様が、村長には少しだけ寂し気にも見えた。彼自身、間違ったことを言ったつもりはないのだが。

 

「私としては、些細な気づかいを忘れては、大きな仕事などできない、と言いたくもあるが。……まあ、ここは村長の顔を立てよう。後は任せるが、良いな?」

「はい。どうぞ、村のことはお任せください。若い連中も、やる気になったようですし、充分に働いていただいたと思っております」

 

 ウォン・ライは深くは追及しなかった。そうすることが、村長のメンツを守ることだと理解していたから。

 温情も過ぎれば毒となる。心配するよりは、信頼する方が人間関係としては健全だろう。村長も仕事があるらしく、すぐに別れた。

 そうして、村を見回りながら、ウォン・ライは道行く人々に挨拶した。人々を観察していれば、後の課題も見えてくる。

 また、そのように別に深く考えずとも、身近な人々との触れ合いは、彼を楽しませた。気遣いを見せる人もいれば、驚く人もいる。そういうものであろう、と彼は思った。

 

「失礼、貴方がウォン・ライ殿ですかな?」

「ああ、そうだが、貴方は?」

「わしはリイジー・バレアレと申します。孫ともども、これから村の世話になりますので、ご挨拶に参りました」

 

 新入りらしい老婆とも、彼は親しく言葉を交わした。村に来たいきさつから、これからの仕事について。話題の種は、いくらもあった。

 モモンガの働きが、目に見えて現れている。それを実感できたことで、ウォン・ライも労働意欲がわいて出てくるのを感じた。

 

――人が人を思いやる気持ちに、限界などない。慈しむ気持ちを持てば、自然と礼に適う態度を取れるものだ。

 

 礼を尽くせば、人々は応えてくれる。そう信じて、ウォン・ライは今日を生きている。さて、次は何をしようかと、思考を巡らせた。

 きっと、モモンガも同じように楽しんでいるのだろう。そうあってほしいと願いながら、彼は仕事に取り掛かった。

 

 

 シャルティアの件がなければ、おそらく村に終日居続けたであろう。それを残念に思うのは、もはや当人だけではなかったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シャルティアが寝返った、と聞けば動揺するのも無理はない。

 だが、ただの状態異常である、と聞けば『なんだその程度か』と安心できる。認識が変わるだけで、現実まで変化するわけではないのだが、人の心とはまことに都合よくできている。

 しかし、原因がわからないというのは不気味であった。状況が唐突であるゆえ、まずは外部勢力の犯行を疑いたくなるが――それならそれで、奇襲に備える必要が出てくる。

 シャルティアの耐性をぶち抜いて、その意思に干渉するナニカ。それを見定めねばならぬと、モモンガは気を引き締めた。

 

「――詳細は理解した。ともあれ、セバスらは任務を続行してよい。ただ、警戒は強めよ。油断を戒め、慎重に事を進めるように」

「はい。しかと、伝えましょう」

 

 アルベドは、神妙な面持ちでモモンガの言葉を聞いていた。彼女であれば、その言葉をそのままに、間違いなく伝えてくれるであろう。

 

「他に何か、伝えることはございますか?」

「己を責めるな。お前たちが無事でよかった、と。……私は、お前たちの安全と幸福を心から願っている。たとえ治癒できるとしても、傷ついてほしくないのだ。無論シャルティアも同様であると、そう心得るがいい」

 

 モモンガは、その身をナザリックに置いていた。表向きの、冒険者としての顔は今は忘れる。後で仕事が停滞したことで頭を悩ませるのだろうが、それはいい。取り返しがつくものだ。

 

――だが、この件は無視すれば酷いことになる。そうした予感がある。根拠のない直感だが、この手の感覚は案外馬鹿にできないものだからな。

 

 アルベドに向かい合うと同時に、己の心とも向かい合う。やるべきことは決めている。退こうとは思わない。妥協することも。

 

「私が出張る。私自身でなくてはいけないことだ。――だから、討伐隊を派遣する、などと言ってはくれるなよ」

「……以前であれば、一度は異議を申し立てたでありましょうが。男を立てるのも、女の務めでありますれば」

 

 今はあえて、譲りましょう。

 アルベドはそう言った。引っかかるものを感じるが、モモンガは追及しない。負い目があるだけに、突っ込むのが怖くなったのだ。

 何より、その表情が怖い。身内の女性が、悲しんでいる。その暗い表情が、ここまで心に来るとは、彼にとっても計算外であった。

 

「う、うむ。そうか。反対されると思っていたが」

「考えないわけでは、ありませんでした。心境の変化、といえばそれまででございますが――ともあれ、不興を買わずに済んだのであれば幸いです。ウォン・ライ様に相談した甲斐があったというものですわ」

 

 そうだ、ウォン・ライだと、モモンガは思った。シャルティア対策は一人でも立てられるが、答え合わせをする相手が必要である。彼ならば、いかに備えいかに応じるか。その見解を知りたいところであった。

 アルベドの相談内容も気にはかかるが、なんとなく、追及する気にはなれなかった。デリケートなことだとすれば、こちらから聞くのはあまりに不躾であろう。

 

「彼は、いつ戻る?」

「まもなくかと。村の仕事に区切りをつけ次第、戻られると仰られていましたから――」

 

 ならばしばし待つか、と時間つぶしの方法を考えているうちに、ウォン・ライは姿を現した。

 

「私個人の準備は整えた。いつでも行けるが、どうする」

 

 特に明確に指示したわけではないが、彼は彼の仕事があったはずである。それを置いてまで備え、駆けつけてくれたことを、モモンガは感謝した。

 

「忙しいだろうに、すまないな」

「なんの、これくらいは負担のうちに入らぬさ。余裕はあるが、緊急性があることには違いがない。シャルティアに何が起こったかは、いまだ断定できん。しかし、結果だけはわかっている。……もし、これが意図的に引き起こされた事態であれば、必ず落とし前をつけさせてやりたいものだ」

「――ああ、もっともだ」

 

 ふつふつと、怒りが湧き上がるのを感じる。モモンガは、穏やかな怒りというものが、いかに始末が悪く、後を引きずるものか、改めて自覚した。

 強くならないから、爆発することがない。それでいて意識してしまう程度には感ずるのだから、消化不良を起こしてしまいそうになる。

 

「しかし、今はまずシャルティアだ。私自身が解決せねばなるまい」

「彼女のステータス、装備の構成は覚えているかね? モモンガ殿とは、相性はよくなかったと思うが」

 

 殴り合いになるとは限らないが、そうなったときの備えはいる。いや、おそらく決戦になると、見込んでおいた方がいい。

 何かしらの手段で、穏便に状態異常を回復させられるのなら、それが一番である。しかし、それをアテにして、他に何の備えもしないというのは、楽観を通り過ぎて怠惰の極みだろう。

 

「戦うにしても、準備すればどうとでもなる。――いや、慢心はいかんな。だが、勝率は十分あると見込んでいる。たとえ、一対一であっても。……ウォン・ライ、わかっているとは思うが」

「もちろん、止めはしない。が、支援は十分にさせていただく。万一に備えるのは、当然のことだ。そうだろう?」

 

 真に勇気があるものは、恐れを飲み下し、行動するものだ。だが勇気しか持たないものは、事態を乱すばかりで収拾がつかなくなる。

 モモンガは、決して勇だけの男ではない。事後の対策は、すでに考えている。それに、これは己にどこまでの単独行動が許されるのか、それを試す好機でもあった。

 

「備えか。そうだな、必要なことには違いない。……私の単独行動は、果たして無謀であるのか否か。ここらで確かめるのも悪くないだろう?」

「無茶には違いがないのだ。討伐隊を組んで、多対一で安全に対処する方法がもっとも無難だが、モモンガ殿はそうしたくないという」

「……ああ。これは、我がままだな。そう、認めよう」

 

 シャルティアの現状は、自身の失態が招いたことだと、モモンガは考えている。だから、けじめをつけるのは、痛みを知るべきなのは、己であると捉えているのだ。

 何より、もはや身内として認識している守護者たちを、互いに争わせることが辛い。そんな光景を見るくらいならば、多少の危険がどうだというのか。

 ――ウォン・ライには、それがわかる。そうした責任感を共有できてこそ、友と言える。

 

「道理である。生みの親との交流の長さを顧みれば、我々が始末をつけねばならぬ。それが誠意というものであろう。……モモンガ殿、貴方の判断は正しい。私は支持するよ」

「――ありがとう。わざわざ危険を冒しに行くのだ。止められて当然と、私は考えていたが」

「誰より心を痛めているのは貴方だ。どうして止められようか。……心痛を収めるのに、あえて自らを責める。そうせねば収まりがつかぬというのだろう。責任感の強い、貴方らしい判断じゃないか」

「そうか。私らしいと、言ってくれるか」

「長い付き合いだろう? お互いに。それくらいは、言わせてくれ」

 

 ウォン・ライは、モモンガの心情を察したように話を進めた。これには彼自身、苦笑で返すよりほかはない。あれこれと言葉を重ねると、余計に気恥ずかしくなりそうだったからだ。

 

「すでに戦術は考えている。――と、まあ、こんな具合でどうかな」

「それなら――で、こう……というところで、アレを――」

「うん。良い感じだ。それでいこう」

 

 しかし、傍から見ているアルベドにしてみれば、その息の合ったやりとり自体が、嫉妬の対象である。流石にここで割り込むほど、空気の読めない女性ではないが――。

 乙女心、とでもいうべきか。名状しがたい感情が、積み重なっていくようで、落ち着かない様子を見せた。

 これにはモモンガも、流石に気付かずにはいられない。配慮が必要かと、声をかける。

 

「アルベド」

「――ッ! はい、何でしょうモモンガ様」

「苦労を掛けるが、改めて命じておく。……信じて待て。案ずるなとは、あえて言わん。だが信じよ。私はナザリックの支配者として、相応しい格をここで見せたい。そう私が発言していたと、守護者たち全員に、お前が伝えるのだ」

 

 良いな、と重ねてモモンガは言った。

 

「……確認いたします。モモンガ様単独で、シャルティアに挑む。それで間違いはありませんか?」

「もちろんだ。――準備は必要だが、やはり手伝いはいらん。ウォン・ライがいれば事足りるゆえな」

 

 モモンガは、ウォン・ライをちらりと見やった。彼は微笑んで、一礼する。

 ならば憂いはないと、続けて言った。

 

「シャルティアは、今何かしらの手段によって、異常な状態にある。距離を取って、状態異常の解除をまず試みる。それでうまくいかない場合は、一度撃破し、復活させよう。それで正常に戻ればよし。戻らなければ……相応に対処し、様子を見る必要があるな。異論は?」

「ございません。適切な対処と考えます」

 

 決まったなら、後は行動に移すだけである。時間を置く理由はないのだから、モモンガはさっそく装備を吟味し始めた。

 考え直すことがあれば、ウォン・ライが相談に乗るだろう。アルベドは、一連の出来事を黙って見ていた。

 彼女には傍観するだけの余裕があったと、そう言えるのかもしれない。ただ別の言い方をするのであれば、ただ傍観する以外に、やるべきことがなかったとも言える。

 二人の関係は、やはり特別であるのだと。それを思い知らされて、わかってはいたものの――やはり、己が感情を持て余してしまうのが、アルベドという女性であった。

 

「ウォン・ライ様」

「どうした? 不安か」

 

 呼びかけてはみたものの、モモンガの前で彼と面と向かっては、やはり気おくれを感じずにはいられない。

 無意識に嫉視してしまうような相手である。一呼吸を入れてから、再度口を開いた。

 

「協力とは申しましても、手段は広うございます。今回の件、半端な手段では、効果もないでしょう」

「もっともだ。ゆえ、積極的にかかわらせてもらう。最悪の展開を想定して、備えておきたいと思っているとも」

 

 積極的、備える。そうした言葉の中に、アルベドは不穏なものを感じた。ゆえに問う。

 

「……まさか、一対一という前提を覆すつもりでは、ありませんか?」

「ほう、なかなか鋭い」

 

 愉快気に、ウォン・ライは笑ってみせた。

 なのに、モモンガは意に介さず異議を唱えない。邪魔されるなどと思ってもいないような態度である。

 ウォン・ライは不穏な言を吐いた。そうでありながら、この態度はどうなのだ。理解が足りぬ、及ばぬということが、ここまで歯がゆいのかと、アルベドは思い知らされた。

 

「が、ここで直接割り込むようでは友とは言えぬ。さりとて心配一つせぬ、というでは、やはり友人足りえないのでね。――保険を仕込むだけだ」

「具体的には?」

「モモンガ殿の死亡率を下げる。端的に言ってしまえば、それだけのこと」

 

 それのどこが具体的なのか――とアルベドは突っ込みたくなったが、ぐっと堪える。

 モモンガも、補足が必要だと思ったのだろう。穏やかな口調で説明した。

 

「うむ、アルベドは知らないかもしれんが、一度だけ致死ダメージを肩代わりするスキルがあってな。……発動するまで、本人が解除しない限り長時間持続する。高レベルのタンク役には必須の技能ゆえ、ウォン・ライも当然覚えている。諸々の心配も、これで軽減できればいいのだが」

 

 致死ダメージと一言で言うが、要するにHPを超過したダメージを受けた際、そのダメージをそっくりそのまま術者に移し替えるスキルである。ウォン・ライはタンク役に相応しく、HPもモモンガと比べれば遥かに高い。一度ダメージを肩代わりした程度では沈まないので、どちらにとってもリスクのない話である。

 これがあれば、不意の一撃で倒れる可能性は消える。そして一撃を受け流す余裕ができたなら、モモンガにはいくらでも打つ手があった。

 

「よくわかりました。しかし、自動復活の指輪をつけていれば、さらに安全度は増すのではありませんか?」

「いや、復活は、一度死亡判定を受けてから発動するもの。その一度の死亡判定が、この世界においてどのように作用するのか? 実験していないので、これがわからない。……万が一のことを考えるならば、そもそも死亡判定など持ち込ませない方がいいと思うのだ」

 

 アルベドの問いに、モモンガはそう答えた。復活の指輪をつけるよりは、その分だけ火力なり防御なりを伸ばすべきだと。

 本音を言えば、彼は自分を追い込んで、不退転の覚悟で臨みたかったのだ。その理由はと言えば、非合理ではあるが、モモンガなりの責任感がそうさせたがっている。

 なのに、ウォン・ライを巻き込むことを躊躇わないのは、それだけ強く信頼しているから。

 

「そういうことだ。まあ、最低でも撤退する余裕は生まれよう。現状、モモンガ殿が死亡する、という展開が最悪の中の最悪だ、と思っている。ゆえ、このスキルが発動したら、撤退するか援軍を向かわせるか、その二択を選んでもらいたい」

「……場合によっては、諦めろと?」

「これが最大限の譲歩だと理解してほしい。誰もが貴方を心配している。己一人の命ではないと、わかってくださっているだろう?」

「それは、そうだが……」

 

 このスキルは、HPの高いタンク役が、打たれ弱い後衛に使用するのが一般的である。重ね掛けができず、一度使用すれば数時間の冷却時間が必要になるため、使いどころが難しいものだが……今回に限っては、悩むような場面ではあるまい。

 死んでも蘇生の手立てはある。だが、積極的に活用したい手ではないし、現実としてどうなるかは不明瞭なところがあり――万が一の事態など、考えたくもないというのが本音であった。

 ゆえ、譲歩をウォン・ライは求める。追い詰められたならば、わがままはひっこめてくれと。

 

――モモンガ様は、拒否なさらないはず。すると、あの提案が、結果的に私の不安を取り除くことになる。かの赤鬼様は、そこまで考えて話していたというの?

 

 アルベドは、ウォン・ライが意味ありげにこちらを向いて、片眼をつむっているのに気づく。内心を読み取られたようで、それがまた悔しかった。

 

「了解した。そういうことであれば、拒否するのも気の毒か。……シャルティア相手に、致死ダメージを受けるようなことがあれば、即座に退こう。そこまで事態が推移したなら、何かしらつかめていることもあるだろうしな」

「ありがたい。……アルベド、そういうことだ。最悪の事態は、これで避けられる。戦闘中、何者かが乱入してくる可能性さえ潰せば、無難な結果に終わるだろう」

「――はい。そういうことであれば、わずかに残っていた懸念も消えます。どうか、ご存分に」

 

 彼女はそれで、納得したように不安を顔から消してみせた。そして微笑んで、安心しましたと答える。内心はどうあれ、彼女にとって顔を作るくらいは容易いことだった。

 そうするのが礼であると、わきまえているかのように。モモンガはすっかりそれを真に受けて、戦闘への前準備に集中し始めた。

 状況を想定する。まず懸念すべきことは何か、初手は素直に通るか。通らない場合の対応、彼我の実力差と性能の違いについて――彼には、考えるべきことが山ほどあったから。

 男にとって、女心は永遠の謎である。その逆もまたしかり。君臣、家族の間柄であろうと、他者を理解するというのは容易なことではない。

 ただ、経験だけがその齟齬を埋める。ウォン・ライは察していた。アルベドには、まだ言葉が必要である――と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 モモンガは出陣した。冒険者組合からシャルティアの件が持ち込まれる、などの思いがけない出来事はあったが、彼はこれを上手にさばいている。

 やるべきことに変化はなく、事が終われば地位が向上し、組合への影響力が強まるのだから、良く身を処していると言えるだろう。

 

――不測の事態、というほど深刻な結果にならなかったのは僥倖だ。外のつながりがあったからこその結果で、やはりモモンガ殿は、何かしら持っている人であるな。

 

 災い転じて福となす。何事にも両面があると知り、一方的なものの見方をしないよう努めるのは、ウォン・ライの癖のようなものだった。

 もしもの際、撤退を支援する態勢だけは整えておいたが、おそらく必要となることはあるまいと、ウォン・ライは考えている。

 モモンガは常に謙遜するが、ここぞという時の勝率は非常に高い。なるほど、敗北を喫した経験は数多いと、それは認める。全盛期のユグドラシルは、まさに魔境であったから。

 だが事前に対策が可能であり、準備に時間をかけられて、敵の情報もあらかた把握している。そこまでの条件がそろっていて、分の悪い勝負に持ち込まれるなど、彼に限ってはありえない。ウォン・ライは、これを正しく理解していた。

 信じている、のではない。知っているのだ。彼がこんなところで負けるような男ではないと、最初からわかっているから、不安など微塵もない。

 

「これで、良かったのですね?」

「確認を取ろうとするあたり、やはり納得はしておらん様子だな」

「……確認は、あくまで確認ですわ。そこに他意など」

 

 だが、悩むべきことが全くないとも言えぬ。気を遣うべきは、戦闘以外のところにあった。そう思うからこそ、今ウォン・ライは、アルベドと向かい合っている。

 共に、いざとなればシャルティアとの戦いに割り込める位置で待機していた。もし、何者かが乱入してくるような気配があれば、こちらで迎え撃つ予定である。退却時の支援が必要であれば、当然二人で対応することになろう。

 他の守護者たちは、ナザリックの一室で戦いの成り行きを見守っていた。そこまで過剰に戦力を投入すべきでない、と考えたからだ。

 

「モモンガ様とシャルティアとの戦いは、順調に推移しています。周囲の警戒網にも、異常はありません」

「戦いを見守るくらいは、片手間にできると。つまり、時間が空いたわけか」

「――ただ待機しているよりは、お互いに語りたいことを語り合って、理解を深めるのも、よろしゅうございましょう。何か、不都合でも?」

 

 アルベドがこのような発言を行ったのは、単純に機会ができたことが第一。そして余裕があるうちに、ウォン・ライという唯一無二の存在と向き合いたい、出来れば他人の目がない場所で――というのが第二の理由である。

 

「良いとも。他者の理解が難しいのは、当たり前のこと。言葉を尽くそうじゃないか。――我々は、同志であるはずだ。すでに、認識のすり合わせは済ませたと思っているが」

「お互い、それほど多くの時間を割けたわけではありません。……いえ、多少なりとも忌憚なく言葉を交わしたからこそ、改めて話し合いたいこともできるというものです」

 

 ウォン・ライは、決して話しにくい相手ではない。威厳もあって厳格な所もあるが、その本質は穏やかであり、相対すれば柔らかな雰囲気を感じさせ、何より聞き上手だった。

 だから、アルベドも一対一で面と向かえば、言葉を引き出されてしまう。これもまた、人徳とでもいうのだろうか。ちょっとした言葉としぐさで話を促されると、不思議と口が滑るのだ。

 

「正直に答えさせていただけるならば……完全な理解は不可能、ということがわかった程度なのです。何と申しても、この身は女なれば。男子の矜持も、その夢も、私にとってはさほど重く感じられない。私の想いと、かのお方の幸福。その両立に比べれば――ええ、あえて危険を冒すということ自体が、受け入れがたいものなのです」

 

 両者は、すでに一度語り合っている。ウォン・ライは、アルベドに理解を求めていて、彼女もなるべくわかり合いたいと思っている。

 なにしろ、彼女にとってウォン・ライは鬼門なのである。ある種の疫病神と言ってよい。彼がいるからこそ、モモンガは彼を頼りにしてしまう。最後の拠り所にしてしまう。

 決して、彼女自身には甘えてはくれない。どこまで行っても、モモンガにとってアルベドは庇護すべき対象で、おろそかに扱えぬ身内なのだ。

 頼ることはあるだろう。力を求めることもあろう。だが、寄りかかってよい対象ではないと、彼は自戒している。見栄を張り、己の力量を誇示しようとするのは、それゆえであるとアルベドの中の『女』は見抜いていた。

 

「もちろん、愚かな女の妄言と、笑われても仕方ないとは思います。でも、仕方がないではありませんか。……好いた殿方を理解したい。けれど、殿方のほうにも、同じく私のことをわかってもらいたい。案じる私の感情をくみ取ってくれるなら、もっと踏み込んで受け入れてほしいと願うのは、傲慢なことでしょうか?」

 

 好いていればこそ、モモンガの言動にやきもきするのだし、積極的に役に立ちたいと願うのだ。対等であることは無理でも、身内として特別な存在になりたい。そのためには、モモンガという人物の核を見定めねばならぬし、より深く心情を理解したくなる。

 

 モモンガの心情を、深いところまでくみ取れぬ彼女にとって。さらなる理解を求めるならば、ウォン・ライの視点が欠かせない。ウォン・ライを見定めることによって、モモンガが何を好み何を忌避するかを知るのだ。

 友人というものは、己の鏡である。鏡を見れば、実像が知れる。アルベドは直接向かい合うのも恐れ多いと感ずるがゆえ、まずは間接的に理解を深めようと図っていた。

 

「だとしても、健全な傲慢さだ。まして男を想う女性としては、当然の願望であることだろう。モモンガ殿は、アルベドの本音や内心の譲歩をくみ取れぬほど、鈍くもなければ狭量な人物ではないさ」

 

 このアルベドの姿勢に対し、ウォン・ライは励ますように言った。

 

「少なくとも、率直に好意を伝えれば、無視したり、そっけなく対応したりすることはあるまいよ。モモンガ殿は、他者の好意を無下にすることに慣れていないし、誠意には誠意で返すことが当たり前の、まっとうな感性を持っている。だから、もっと踏み込んでほしいなら、その気持ちをわかりやすく伝えてあげるのが一番いい」

 

 実際、モモンガは繊細なところがあり、よく思い悩むタチである。であるがゆえ、あれこれ手を回すし、コミュニケーションも細やかに取りたがる。

 そうしてよく考えて、よく見ようとするから、失敗も少ない。物事から外れる解釈をすることもあるが、後々振り返れば大事な部分は外さず、ピタリとはまった采配になっている、ということもままある。

 長い付き合いのウォン・ライは、それを単純に勘が鋭い、と捉えてはいない。おそらく本人さえ理解していない、無意識下の観察眼とでも言うべきもの――ではないか。

 

「まあ、シャルティアの件が無事解決したら、ゆっくり二人で話し合う機会を設ければいい。ナザリックの運営関係をダシに使えば、口実としては十分だろう。くどいようだが、言葉を尽くすことは重要だ。君臣はもとより、男女間ならば尚更だと私は思っている」

「……実務的な話であれば、そこから私情に持ち込んでいくのは、難しくありません? ちょっとムードがない、と言いますか、その――」

「率直に言うのは、はしたないのではないか。あまり押すと引かれるのではないか。そうした懸念はわかるとも。確かに、モモンガ殿は奥手なところがあるからな」

「……恋心というものは、本当に厄介なものです。一つ満たされれば、また一つ欲しくなる。時間がたてばたつほど、より深く寄り添いたくなるのですから、難しいものですわ。我慢しすぎると、かえって暴発しかねません。けれど、そんなことでモモンガ様を悩ませたくないと思うのも、本当なのです」

「――まあ、暴発も時と場合によっては良い影響になる。いっそ場所を定めて発散させてやるのも手だが、どう受け止めるかは、モモンガ殿の器量次第かな」

 

 彼も社会人であるから、コミュ能力は十分ある。だが、私人としてはむしろ気難しい方だ。

 なにしろ、情の深い男である。情の深い人物は、交友関係がやたら広くなるか、逆に狭まるかのいずれかで、モモンガはどちらかといえば後者だった。

 ギルドメンバーは数多かったし、交流にも積極的であったが、それは気兼ねなく対等に付き合える環境――ゲームの中であればこそ。現実の人間関係が、ひどく寂しいものであったことは、モモンガという人物の性質を表している。

 そして、交友関係が限定されれば、情が深い分だけ、入れ込み具合も尋常ではなくなるものだ。

 

「モモンガ殿はギルドメンバーには親しかったが、全員に等しく、その重い愛情を向けたわけではない。その中でよほど近しくなれた一部だけが、彼の本質に触れられたのだ」

「例えば、たっち・みー様のような?」

「そうだな。彼がそうであったのは間違いない。出会いからして劇的であったし、尊敬にたる人物でもあった。だから、今でもモモンガ殿に影響を与えている」

 

 妬み、嫉み。感情を抑えつけるのも、楽ではない。

 時に恋する乙女は、鈍感な想い人の友人を強く嫉視する。恋愛とは別方向の関係と分かっていても、いや分かっているからこそ、友人以上に深く接してくれないことが悔しいのだ。

 

「では、ウォン・ライ様はそれ以上に近しいのでしょう。だからこそ問いますが、私はモモンガ様に如何に接するべきでしょう。この気持ちは、恥ずべきものでもなければ、隠すべきものでもないと、私は思いたい。感情のまま、生のままに捧げたい。そう考えるのは、不敬でしょうか? ……おそらく、誰よりもモモンガ様を理解しているであろう、貴方に聞きたいのです」

 

 ウォン・ライは苦笑してみせた。買い被りだ、と一言ことわってから、彼は答えた。

 

「思いやりの気持ちを忘れず、ただ傍らにあれ。求めるより先に、相手の心を満たすことを考えよう。意識すべきは、そこからだ。……モモンガ殿は、寂しがり屋だ。それでいて、心の痛みに強いから、耐えようとすればどこまでも耐えてしまう。良い思い出が一つでもあれば、それを拠り所にして堪えてしまう。傍らで見ていれば、よくわかろう。そこを逃さず支えて、力になってやれるならば。今の私の場所までならば、すぐに追いつけることだろう」

 

 だから気後れすることも、悲観することもないのだと、彼は言い切った。アルベドを励ますために言ったのだと、はっきりわかる。

 

「モモンガ様は、冒険者としての役目もありましょう。常に傍にあることなど、不可能では?」

「体が傍にあらずとも、心は寄り添うことができる。物理的な距離など、いくらでも埋められるのが心というものだ」

「……私はいつだって、モモンガ様を案じています。慕っています。でも、それだけで十分気持ちが伝わるとは、限らないでしょう?」

「結論を急くな。愛情の表現は多様である。まずは、こころざしを同じくし、相手の価値観に寄り添うことだと、言えばわかろうか」

 

 アルベドは、思考した。モモンガの価値観、それを完全に己は理解しているかと言えば、必ずしもそうとは言えないと気づく。

 ナザリックこそが至上とする考えに、違いはなかろうが。さて明らかな部外者、他国に関してはどうであろう。少なくとも、モモンガは一定以上の価値を認めているように感じる。

 この世には多様な考え方があり、多くは愚にもつかぬものであれど、モモンガはそれらを尊重しているのだろう。そうでなければ、この世界に己の足跡を残したいなどと、考えるはずがない。

 ならば、そんな彼の価値観に寄り添うとは、どういうことか。アルベドは、これを改めて考えねばならないのである。

 

「なるほど。確かに考えてみれば、視点を切り替えて考慮するならば、モモンガ様の新しい側面に気づけた気がします。……気づけばすぐに理解できることなのに、気づくことが難しい。ああ、分かり合うということが、こんな難事であるなんて。私、これまで真剣に考えたことなどありませんでした」

「それを知っただけでも、大いなる進歩だよ。知らぬことを自覚し、敬虔にして身に修める。そうした心構えができてこそ、君子と言えよう。アルベドは聡明だが、智者とは言い難い面もあった。――これでようやく、学を修める基本ができたのではないかな」

 

 智者ではない、と言われては、アルベドも反発したくなる。だが、ウォン・ライの声に軽蔑の色はなく、あわれみの感情もない。

 むしろ子供の成長を喜ぶような色があって、それが彼女を戸惑わせた。

 

「智者ではない、ですか。頭が悪いつもりは、なかったのですけれど」

「わかりやすく言おうか。――己を省みて、反省する。人々の言葉に耳を傾け、自らの在り方を正す。過ちあれば素直に認めて、手本を参照しながら理想を追う。言うは易しで、自負するも勝手だが、本当の意味で身に着けるのは難しい」

 

 この点、モモンガは完璧にできている。だからこそ、彼は智者だといえるのだ。

 さりとて、モモンガにできるのだから、アルベドもそうあるべきだ、などとウォン・ライは言わない。言い聞かせ方にも、人それぞれに適切な表現があるものだ。

 

「アルベド、お前は自身の至らなさを自覚した。そうだな?」

「……認めます。私は確かに、至らぬところがあったのでしょう」

「いいことだよ。己の弱みを知らねば、智者とは言えぬ。また、知っても改めることができなければ、やはり智を持たぬ小人と言われても、否定はできまい」

 

 知ってなお改めぬこと、これを過ちという。アルベドは、自身が優れていることを理解しているがゆえ、己の欠陥に気づけなかった。

 いわば優れた人物の欠点というもので、実力と実績が備わりすぎると、己の長所ばかり見て、欠点に目を向けることを怠りがちだ。

 優れた自分に優越感と自負を持ってしまうため、弱みを自覚することを忘れてしまう。この傾向を、彼女はようやく自覚したといってよい。

 

「――ええ、ええ。そうでしょうとも。まったく、自分と向かい合うのは、難しいものですわ」

「自覚こそ全ての始まりだ。そして一旦自覚すれば、目標の半分は達している。何故なら自覚できるだけの才覚があれば、誤りを正すことなど、残り半分の力で十分だからだ」

 

 だから決して、己を卑下するなとウォン・ライは言った。智者とは、知識や知恵が優れていることだけを指すのではない。己が分を知り、道理をわきまえてこそ智者たりえるのだと。

 そして己を知り、他者を知ることが、いかに難しいことであるか、こんこんと彼は説いた。そしてアルベドには、素質があると断言した。その気になれば、誰よりも人を思いやれる人になれると。何よりも愛する人の力になりえるのだと、力強く説き続けた。

 

「愛する人に、言葉を惜しんではならない。だから、私は常に言葉を尽くしたいと思っている。ただの沈黙より、雄弁に価値があると信ずるがゆえだ。……だから、アルベド。これからも話をしよう。モモンガ殿のこと、ナザリックのこと、あるいは、この世界のことも。多くを知ろう。多くを経験して、多くのことを認めようじゃないか。そして、彼が決して無視できぬほど、素晴らしい女性になってほしい」

「……はい」

 

 あまりに暖かな言葉であったから、アルベドの頑なな心にさえ、深くしみいるように響く。初心な生娘の、純真な心根は、ここで新たな価値観に染められたといっても過言ではなかろう。

 

「シャルティアとの決戦も、そろそろ決着が近いと見える。……結局、保険は保険のままに終わりそうだ」

「結構なことです。モモンガ様が順当に勝利するなら、それに越したことはありませんもの」

 

 アルベドは、凱旋を飾るモモンガの姿が、すでに脳裏に描かれていた。

 いかに彼をねぎらうか。そればかりに気が向いて、シャルティアに対する隔意など、どこかに吹き飛んでしまったようで――。

 事態がどう転ぼうと、後にしこりを残すことはあるまいと、そう思わせるだけの余裕が、彼女には備わっていたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 騒動が一段落して、シャルティアも問題なく復帰した頃。

 リジンカンは、クレマンティーヌと相対していた。彼女からの情報収集は、それなりに重要であるからして、早めに済ませられるならばそうすべきだったから。

 彼女は蘇生に際して、いくらかのペナルティを負わされている。体調は本調子ではないし、レベルもダウンしていた。抵抗力を削ぐことで、従順にさせようとしたのである。

 

「体の調子はどうだ?」

「……別に、悪くないけど」

「なら良かった。環境が変わって、しばらくは慣れないだろうが、これも必要な処置だと理解してほしい。――本気で気分が悪いなら、待遇の改善も、俺の方から通しておくが、どうだ?」

 

 情報を得るには、相手からの協力が不可欠だった。そしてリジンカンは、なるべく穏便に協力を仰ぎたいと思っている。

 態度はぶっきらぼうだが、それなりの気遣いを見せるのは、懐柔するためだ。

 

「で、素直に話すとでも?」

「気骨ある女だ。いや、そうでなくてはな」

「脅しにも痛みにも屈しないからね。――時間の無駄じゃない? 早く殺せよ」

 

 リジンカンは、快活に笑った。大したことではない、と言うように。実際、どう転んでも彼に痛手はなかった。

 自分がしくじったら、デミウルゴスにでも引き渡せばいいのである。失敗したからと言って、失うような面目など彼にはない。

 

――まあ、支配なり魅了なりで処理すれば早かろうが。シャルティアの件があるだけに、親父殿もそうした方法は、なるべく取りたくないんだろう。

 

 クレマンティーヌはひねくれものである。追い詰められれば、かえって反発したがるのが彼女の本質であった。

 負けを認めないではないが、負けても矜持があると言いたいのだろう。だから殺せと、彼女は言う。

 

「まあ、ゆっくりやるとも。――酒はないが、茶ならばある。一杯どうだ?」

 

 いらない、と拒否するのは容易いが、容易に脱出できる状況でもないと、彼女は分析している。

 リジンカンほどの手練れが、油断なく見張っている今、何ができるだろうか。ただ反抗するだけの己に、存在価値はあるものか。

 

「得体のしれないものを、口に入れたくはないんだけど」

「毒見してほしいのか? ……思ったより繊細だな。いや、それも可愛げというべきか」

 

 やんわりと断ったのは、複雑な感情ゆえである。リジンカンは茶化すように言ったが、あざけっているような様子でもない。

 茶をカップに入れて、一息に飲み干してみせる。不思議なほど嫌味さを感じさせないのは、彼がどこまでも自然体であったからだろう。

 

「ま、杯は用意しておくから、飲みたくなったら適当にやるといい。俺の役目は、お前の話を聞くことで、痛めつけることが目的じゃあない。さしあたって、急ぐような理由は――あるような気もするが、まあお前には関係ない。だんまりを決め込みたいなら好きにすればいいさ」

 

 この通り、何もない部屋だから退屈だとは思うがね――と、彼は言う。

 

「退屈なのは、そっちも同じだろ」

「ん? そうでもない。美人と席を同じくして、気を悪くする男がいるものか。話す気になるまで、お前の顔でもながめてるさ」

 

 リジンカンの言葉が脳内に到達するまで、数秒。そして意味を理解して席を立つのは、ほんの一瞬のことであった。

 

「ふざけてんの! アンタ――ッ」

「怒るな怒るな。まるで猫が毛を逆立てているようだぞ? 微笑ましくて、これはこれで悪くないが、どうせなら懐かれたいものだな」

 

 クレマンティーヌの手が、腰に回る。が、そこに己の得物はない。流石にそこまで温情をかけるほど、目の前の男は間抜けではなかった。

 

「剣術指南がお望みなら、また時間を作ろうか。訓練用の剣なら、死ぬ危険もあるまいし――」

「そうじゃなくて! ……なんで、私の相手がお前なんだよ。情報が欲しいなら悠長なことをせずに、拷問でも何でもすればいいだろ」

「何でと言えば、親父殿がそう望んだからだな。俺としては、是非にもと思っていたわけじゃない。ただ、そうしろと言われたら、あえて拒む理由もなくてね。――で、せっかく自分で尋問するなら、気ままにやりたいわけさ。痛いの苦しいのは、好みじゃない」

 

 リジンカンは、もう一杯茶をあおった。

 言うこともやることも、クレマンティーヌの気に障る。なぜかと考えると、一つの結論に行きついた。

 

「女たらし。あからさま過ぎて引くよ、気持ち悪い」

「伊達男を気取れるほど、女に慣れているわけでもないんだが。まあ、それでも身の危険を感ずる程度には、異性として意識してくれている、と。いや、逆に安心した。これで何も感じないとか言われたら、それはそれで男の沽券にかかわることだ」

 

 暖簾に腕押しとばかりに、リジンカンは彼女の口舌をまともに受け止めない。ある意味では誠実に答えているのだが、まったく堪えた様子がなく、些細な感情の揺れ動きすらない。

 それがまた、クレマンティーヌの癇に障るのだ。

 

「決めた。何も話してなんかやらない。ぜ――ッたい、情報なんか漏らしてやらないんだから」

「そうか。じゃあ俺から話をしよう。話題は……家族について。どうだ? 興味深くはないか?」

 

 いきなり何を話すのやら――と思いながらも、彼女は黙って耳を傾けた。

 他にすることがないから、命を握られているに等しいからと、理由を作りながら大人しく聞いていた。

 己の中に芽生え始めている感情が、何というものなのか。それを自覚することの、ないままに――。

 

 

 

 

 

 

 


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