運命の人 ―アカギ逸聞録― 作:天照院
嵐の日からひと月。
あの一件以来、キクラはカトレアや薫の前にも現れていない。マスターの近藤にも一応は耳に入れ、店は出禁。暫くの間、仕事終わりを早く切り上げさせてもらい、人がいる時間帯になるべく帰宅するようにしていた。
赤木も同じく姿を見せてはいなかったが、この時、不思議と気にはならなかった。
「お疲れ様です」
「お疲れ様でした」
カトレアからの帰り道での出来事である。ここ最近、誰かに見られている気がしていた薫は、帰宅途中に何者かに付けられている妙な気配を感じ取った。まさかキクラがと、背筋に冷たいものを走らせる。初めは気の所為かと思われたが、自分が気配のする方へ急いで振り向けば、慌てるようにして誰かが建物の中へ隠れるのが見えてしまった。
もう交番は通り過ぎてしまっていたし、助けを求める為に人がいる近くのコンビニかスーパーに逃げ込むべきかもしれない。薫は人の波に紛れ込むように走った。これならキクラであろう人物を巻いて逃げられると思ったからだ。
あそこのスーパーに入ろう。
近くのスーパーが目に入り、そこへ逃げ入ろうとした時だった。
「ちょっと探したわよー」
「え!」
スーパーの入り口の手前で誰かに腕を組まれて驚いた。誰だと反射的に見れば、どこかで見たような気がする。化粧や服装に派手さは無く、薄化粧にカジュアルな格好であったので一瞬わからなかったが、間近で見れば確かにこの女、赤木と一緒にいた例の女であった。
「もー、道に迷ってんなら迎えに行ったのに。さ、早く早く」
「え、ちょ……」
組む腕を引っ張るようにして歩き出した女に戸惑いを隠せない。女は近くにいたタクシーに薫ごと乗り込むと、『出して』と運転に伝えた。薫はその際、何となく自分が来た方向へと視線を向けて見る。
──ええ!?
キクラだと思い込んでいたのは間違いだったらしく、派手目の柄のシャツにジーパンと、白のジャージ姿の全く知らない男二人組が、発進したばかりのタクシーを見つめて立っていたのだ。
「あんまり見ちゃ駄目」
女に止められた薫は、従うようにゆっくりと顔を下げて前を向く。
「あの……、あの人達は?」
「後で教えてあげる」
「は、はあ」
突然の事で訳もわからずに女とタクシーに乗った薫は、そこから少し離れた繁華街に降り立った。
「付いてきて」
「え、あ、はい!」
言われるままに付いて歩いて行けば、年季の入ったビルの二階にある、【アモール】という店の前に到着した。
「あたしの店なの。どうぞ、入って」
「お邪魔いたします……」
薫は恐る恐る入る。中は薄暗い。照明が点いて一番最初に目に入ったのがカウンターと席。狭くもないが広くもない。どうやらスナックであるらしいが、営業しているように見えない。カウンターの内側の棚に飾られているであろう酒瓶が一つも見当たらず、足元にはダンボールが幾つか置かれているからだ。
「散らかっててごめんね。この店、移転するから色々片付けてる最中で」
だからなのかと把握していれば、女は椅子に乗せていた箱やら書類などを他へ寄せて『ここへどうぞ』と、薫をその空いた椅子に座らせる。
「オレンジジュースで良い?」
「お、お構いなく!」
カウンターの内側に立った女は冷蔵庫からオレンジジュースの入った瓶を取り出し、栓を抜いてグラスに注ぐと薫の前に出した。
「まだ名前言ってなかったわね。あたしは久遠ゆかり。ゆかりって呼んで」
「佐鳥……薫です」
「薫ちゃんね。よろしく」
「はい、よろしく、お願いします」
久遠ゆかりと名乗った女は形の良い唇に笑みを刻み、自分のグラスにもオレンジジュースを注いで一口含んだ。
「聞きたいこと、色々あるでしょ? 例えばあたしとアカギ君との関係とか」
訊いて良いのかどうかわからなかったことを先に言われて、薫はどきりとした。
「アカギ君とは男女の関係じゃないから」
「えっ?」
「ある日チンピラもどきのナンパ野郎にしつこく声かけられててね、相手したくないし無視してたんだけど、腹が立ったのか暴力振われそうになったの。そしたらその時、たまたまそこを通りかかったアカギ君に助けられた」
嵐が来る前に偶然に出会ったあの時は、久遠が赤木にお礼をすると言って一緒だったのだそうだ。
「あたしには歳の離れた弟がいてね、アカギ君はその弟みたいな感じなのよ。だから安心して」
赤木にはそれ以上の感情は無い。久遠は言う。薫は顔を少し俯かせながら問うた。
「あの……、わたしに、何でそんな事を言うんですか?」
「あら、あなたとアカギ君ってそういう仲じゃないの?」
「そういう仲……? ち、違います!」
薫は、茹で蛸のように顔を真っ赤に染めて否定した。
「そうなの? あの日薫ちゃんを追うようにアカギ君行っちゃったから、あたしてっきりそうかと思ってたけど」
「本当に違います! 絶対! しげる君とは何でもなくて、昔の知り合いっていうかその……っ、友達でもないし、それにしげる君はわたしの事なんかなんとも思ってないですし!」
大慌てで赤木との関係を否定する薫に少々呆気に取られながらも、久遠はその様子が可笑しくなって小さく笑った。
「そんなに否定しなくてもいいのに」
「ほ、本当の事なんで……」
また顔を俯かせれば、久遠は『ねえ』と声をかけてこう言った。
「薫ちゃんはアカギ君のこと、どう思ってるの?」
「え?」
俯かせていた顔を上げると、先程までの笑みが久遠からは消えていた。
「好きなんでしょ?」
「ええ!? あ、あの……」
動揺からか口籠る。
「ねえ、薫ちゃん。悪いことは言わない、アカギ君のことは諦めた方が良いわ」
「な……っ」
何でそんなことを。まだ会ったばかりの女から突然に赤木を諦めろと言われても納得がいかない。薫は少々不服に思って椅子から立ち上がった。
「わ、わたしがしげる君をどう思ってようと別に良いじゃないですか。何で突然、あなたに諦めろだなんて言われなきゃいけないんです?」
「ごめんね急に。でも聞いて。あなたをつけてた連中ね、末端だろうけど、川田組のヤクザよ」
ヤクザ。それを聞いてもピンとこない。何故ヤクザが薫をつける必要があったのか。
「あたしの店にも一回来たのよ。アカギ君を訊ねてね」
「し、しげる君を?」
「何処かで見られてたのかも。アカギ君といるの。薫ちゃんをつけていたのも、きっとアカギ君の事を探ろうとしていたんだと思う」
二人は赤木を探していたらしい。一体何故なのか。二人の末端ヤクザは確かに薫を尾行してはいたが、その件に赤木が関係しているという話はにわかには信じがたかった。
「薫ちゃん。あなたそういう連中には無縁でしょ? それなら一生無縁でいた方が絶対に良い。半端な感情で好きになっちゃいけない相手なのよ。よくある様な男女の幸せを望んでるんだったら、アカギ君をおすすめしない」
「す、すみません。あのわたし、用を思い出したので帰ります!」
これ以上は聞きたくない。薫は久遠に頭を下げると、呼び止められるのも無視して店から走り去った。
店から飛び出すように出た薫は、繁華街から家路の方角へと歩きに切り替えて、物思いに耽るかの様に赤木の事を考えていた。
『オレとアンタとは違う。オレとは交わらない側の人間だ』
中学生の時に赤木から言われた事を思い出し、花火大会の時のチーマー風の連中やキクラを相手している時の赤木の様子が頭を過ぎる。
──わたし、しげる君のこと何も知らないんだ。
今まであまり気にしてこなかった赤木の素性。
確かに"普通の"とは無縁の様な存在にも感じられはしたが、久遠に知らされるまで、赤木がヤクザと関わりがあるなんて想像もしてこなかった。
『よくある様な男女の幸せを望んでるんだったら、アカギ君をおすすめしない』
他の人ならば、怖気づいて二度と近寄りもしないのかもしれない。だが薫はそうはならなかった。確かに赤木の事は何も知らない。けれど他人に言われたくらいで赤木を嫌いになったり、敢えて避けたりなどはしたくはなかった。
早く、帰ろう。
久遠から言われた事をあまり気にしないでいようと思いながら、例の二人組に尾行されてないかを警戒しつつ、住んでいるアパートへと急いで帰った。
そして、その日から三日後の日の事だった。週末の午後に佐知と会う約束をしていた薫は、自宅から待ち合わせ場所へ向かう途中、待ち伏せしていたであろう黒いスーツを着た男達に、半ば強引に車に乗せられてしまったのである。薫は怯えながらも『一体何処へ』と問うが、男達は何も答えてくれなかった。
暫くして、乗せられていた黒塗りの高級車がとある場所で停まった。そこは庶民には無縁の、如何にもといったような老舗の高級料亭だった。
「すみませんが、中へお願いします」
黒スーツの男達に頭を下げられ、戸惑いつつも中へと足を踏み入れた薫は、案内された料亭内の個室で一人待たされた。
──どうしよう。
きっと自分を連れて来たのは、久遠が言っていた川田組の者かもしれない。でも一体何故なのか。赤木関連だとしても、その理由がわからない。薫は静かなこの部屋でひとり息を呑んだ。佐知に連絡すべきなのかを迷ったが、巻き込んでしまうのではと恐れて出来なかった。
「待たせてしまって申し訳ない」
少し待った頃、黒いスーツにサングラスの中年の男が現れた。男はテーブルを挟んで薫の前に腰を下ろす。
「何も言わずに連れて来てすまなかった。自分は川田組の若頭をやっている石川という者だ」
「あ、あの、わたしは──」
「佐鳥、薫さんだね? 悪いがお嬢さん、あんたの事は少し勝手に調べさせてもらっているんだ」
薫は驚いていた。まさか初対面の、しかも的中していたヤクザ。川田組の石川という男から、自分を調べていたと聞かされるなんて。
何で──。
その理由を問おうとすると、薫より先に石川が切り出した。
「赤木しげるを知ってるだろう? 今日此処へお嬢さんを連れて来たのには理由があってね」
「……しげる君と此処と、私に何の関係があるんですか?」
膝の上で握り締めていた両手は微かに震えてはいたが、薫はなるべく冷静を装って石川を真っ直ぐに見つめる。対し石川はサングラス越しから薫を見つめ返し、ひとり可笑しく笑い出した。
「ハハ、そんな怖がらなくて良い。……まあ、ヤクザに縁の無いお嬢さんにとっちゃあ恐ろしかろうな。安心しろって言っても無理な話だろうが、何をしようって連れて来たんじゃあねぇさ。お嬢さんにはただ、今晩此処へ居てもらうってだけの事」
「どういう……」
「夜になったら、ある二人の対決がこの料亭で行われる予定になってる。一人は川田組の代打ち。もう一人は赤木しげるだ」
その対決内容は、麻雀というものでやるらしい。曰く、赤木は麻雀の天才なのだとか。石川は更に続けて言った。
「うちの組長がどうしてもとそれを望んでいるんだが、赤木は簡単には受けてくれやしない。強引に連れてくる事は可能でもな。それでお嬢さん、あんたは赤木がやる気を出してくれる材料ってワケさ」
「材料? 何でわたしなんですか?」
「赤木のイロだろ?」
「……色?」
「ああ、すまん。恋人って言やぁわかるか?」
"イロ"の意味を知った薫は、久遠の時と同じように否定した。
「違います! わたしはしげる君の彼女でも何でもないです! ただの知り合いなだけなんです。材料とかっていうのも意味がわからないですし、だからわたしが此処に居たところで何の役にも立たないと思います!」
「役に立たない事は無いと思うがね。うちの若い者が赤木を探るついでに親し気な相手も調べさせてたんだが、赤木の方から接触しようとしてたのはお嬢さんだけだったと聞いてる。お嬢さんが働いてる店に赤木が行こうとしてたみたいだが、尾行に気付いたせいで入るのをやめて引き返したらしい。それでここひと月店には近寄りもしなかったそうだ」
石川はその報告を受けて二人がそういう関係、もしくは赤木が薫を気にしている相手だと思ったのだと言う。薫は首を横に振り、それはたまたまであると返した。
「ふふ、まぁそれは、奴が来ればわかるだろうよ。お嬢さん、すまないが暫くこの部屋で待っていてほしい。信じられないかもしれないが、こちらは手荒な真似は一切しないし、対決が終われば帰ってもらってかまわない」
それまではどうか居てほしい。石川はそう頼むと『暫くくつろいでいてくれ』と、薫を残して出て行ってしまった。
──そんな。
まさかこういう状況におかれるなんて思いもしなかった。手荒な真似はしないと言われたものの、完全に不安は拭いきれない。けれど逃げるなんてのはあまりにも無謀過ぎるし、佐知に連絡なんてもってのほか。それに赤木の事が気がかりだ。仕方がないと薫は、この個室の部屋で大人しく待つ事にしたのだった。