運命の人 ―アカギ逸聞録― 作:天照院
「夏、終わっちゃったね」
「マジでそれ。休みはまだあるけど、気分的には終わったよね」
8月の最後の日。佐知から誘われたカラオケからの帰り道、夕暮れの街並みを背にし、2人で途中の駅まで歩きながら話をしていた。
話題は、夏の終わりから赤木しげるへと移る。
「 "しげる君"とやらは来てるの?」
「うん。昨日も来てくれたよ」
あの日以来、赤木はカトレアに時々訪れるようになっていた。
特に進展は無い。折角カトレアに客として来てくれているのに、変に馴れ馴れしく話しかけるべきではないと、今更ながら薫は遠慮しているのである。
それを聞いて焦れったく思った佐知曰く、お釣り分消費する為だけに行くのであれば、最初から万札を出して『釣りは要らない』などと言うだろうか。薫がいるからカトレアに来るのだ、と。
──それは無い。
薫は否定した。
雨宿り先での、薫を見る拒絶の眼差しが頭を過ぎったからだ。
「他の事ならポジティブな薫が、恋愛に関してはネガティブよねぇ」
佐知の仰る通りである。
「もうさぁ、あたしがキューピッドに──」
「だ、大丈夫だよっ……!」
折角だけれどと、薫はそれを丁重に断っておく事にした。
9月に入ったが、残暑はまだまだ続行中。しかも本日は台風が近づいている為、空は非常にぐずついていた。
「また雨が降りそうですね」
午後からバイトであった薫は、店の中の窓から見える空の様子を伺いながら言った。
「佐鳥さん。夜から雨、強まるそうです。帰れなくなるといけませんので、今日はもう切り上げて下さい」
「え、でも……」
台風が来るせいでお客様も少ないでしょうし、何より佐鳥さんの帰り道が危なくなってはいけませんからね。マスターの近藤は薫を気遣い、早めに帰るよう促した。
「お疲れ様です」
「お疲れ様でした。帰り道、気を付けて帰って下さいね」
近藤の気遣いは有り難かった。曇っているけれど、外はまだ夕方の明るさが残っている。小降りの雨だったが、今の時間帯なら嵐に巻き込まれる前にアパートに帰れそうだ。
あ、醤油買わなきゃ。
なるべく自炊をしようと心がけている薫は、切らしていた醤油の事を思い出した。
何もこんな嵐の前にわざわざ購入する必要があったのかといえば、薫にはあった。
今日は安いんだよねぇ。
いつもお世話になってる近所のスーパーにて、本日醤油が安売りしているのだ。
大嵐ならまだ諦めがつくがそうではないし、近藤に早めに終わらせてもらったのでまだまだ余裕がある。
さっさと買って帰れば大丈夫だと思う。
そうと決めれば急ぐべし。小雨降る中傘を差しながら、薫は足早に急いだ。
広い交差点が赤信号で立ち止まる。渡って右は、アパートやスーパーへと繋がる道。真っ直ぐ進めば用の無い繁華街。
待っている間に耳に入ってくるのは、パラパラと傘に雨が当たる音や、交差点を通り過ぎて行く車とバイクの走行音。そして、信号を待ちながら会話する人の声。
「いい加減離れろよ」
「くっつかなきゃ濡れるじゃない。傘一本しかないんだから」
男女の声が背後からした。聴くつもりはないけれど、後ろにいるせいで仕方なく耳に入る。
「ねえ、何か食べてから行く?」
「別に。オレはどっちでも良い」
「じゃあ食べに行こう」
まあ、よくあるようなカップルの会話だった。
──なんか、似てる。
男の素っ気ない返しというか声が、赤木の声に似ていると、何故だか薫は思った。きっと日常的に赤木の事を考え過ぎてしまっているせいだろう。つい数日前も風貌がそっくり過ぎる男を見た時は、危うく声をかけてしまいそうになった程だった。
よく見れば違ってたしね。
佐知に言えばきっとからかわれる。今回も黙っておいた方が良さそうだ。薫は心の中で自嘲気味に笑った。
「あ」
もう直ぐ信号が青に変わろうとしていたその時。薫の足下に何かがコツンと当たって、前に転がってきた。
見ぬふりは出来ずに拾い上げると、それは卓球玉くらいの大きさのキラキラした、丸い飾りのキーホルダーであった。
「ごめんなさい!」
後ろにいた彼女の落とした物であろうか。薫は振り向いてそれを渡そうとした。
「ありがとうございます」
「いえ──」
彼女に手渡した瞬間気づいた。声が似ていると思った男の方、その人物が赤木であった事を。
──し、しげる君?
赤木と目が合う。薫を見ても、特に表情に変化は無い。広がる視界に入ってきたのは、傘を持ちつつ赤木の腕を組む相手。派手過ぎない出で立ち、年上の大人の色気が漂う。ワインレッドのルージュの唇が、とても眩しかった。
ずきり。薫の心臓は酷く痛んだ。
「なぁに? 知り合い?」
二人して目を合わせて黙るのが気になったのか、女は赤木を見ながら問う。
「まあな」
「やだアナタ、こんな可愛い子と知り合いだったの?」
上品な声で笑いながら赤木と密着する女をこれ以上見ていたくは無い。赤木から目を逸らした薫は、この場から一刻も早く離れてしまおうとする。
「あの、わたし、急いでますので! それでは失礼します!」
二人から踵を返し、薫は青信号の横断歩道を走った。
──しげる君だった。
フラッシュバック。その度に薫の心臓が締め付けられる。大人の女性と一緒にいた赤木にショックを隠しきれなかった。
どこまで走ったのか。気づけばスーパーを通り越してしまったらしい。
「ああ、もう……っ」
今は買い物どころの気分じゃないのに、哀しいけど安売りの醤油が勝ってしまう。
上がる息を落ち着かせ、薫は肩を落としながらスーパーへと引き返した。
雨粒がだんだん大きくなっていくのが、傘を伝ってわかる。軽いはずだった足取りも、重石をつけられたのかと思う程に重たい。
彼女、かな……?
親し気な間柄のように見えた。
「はあ……」
今年一、深いため息を吐いた。
──あぁ、何か泣きそう。
さっきから心臓は痛むし、目頭が熱くなる。
これって初恋の相手だったからショックなだけなのかな?
自分は、未だに中学生の時の初恋をこじらせているのだろうか。
わたしは、わたしは……。
苦しくて辛い。もう一度出そうになったため息を我慢しつつ、重い足取りで路地の角を曲がる。
「薫ちゃん」
後少し歩けばスーパーに到着という時だった。突然に名前を呼ばれて、薫は反応するように顔を上げた。
見れば車一台通れるくらいの狭い道の真ん中に、誰かが傘も差さずに立っているではないか。
──え?
繁華街側と違って人通りも少ないこの道は、雨のせいで他には誰も歩いてはいない。なら、自分以外の"薫"を呼んだ訳ではなく、前に立つ人物は確実に自分の事を呼んでいるのだ。
「あの、……どなたですか?」
薄暗くてよくわからないその人物は、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「ハハ。わからないかな?」
全身を雨に濡らし、ニコニコと笑みを浮かべた男──、心許ない街灯が照らす。近付かれてわかった。確かここ最近ずっと、カトレアに来ていた客だった。
「あなたは……」
名前は知らない。肩まで届きそうな長い髪、カーキ色のTシャツが好きなのか、いつもこの色の服を着ている印象。カウンターの隅の席に座っている事が多いこの客の男とは、注文や会計以外の必要会話をした事が一度も無かった。
「そうだったね、まだ名前を言ってなかった。僕、キクラユウイチって言うんだ」
「そう、なんですか……」
「薫ちゃんは今日はもう帰るんだね。嵐がくるから危ないし、そりゃそうか」
「あ、はい……」
キクラと名乗った客の男の笑みは崩れない。不気味に思えてくる程。しかし、何でこのような日にこの道で、ばったりと。たまたま近所に住んでいての偶然なのであろうか。
「あの、風邪ひかれますよ?」
「ああ、平気平気」
今夜はそんなの気にしてられない、と意味不明な事を言うキクラとの会話をどう返して良いかわからない薫は、早々にこの場を切り上げてスーパーへ急ごうとした。
「……それじゃあ、わたし、失礼しますね」
今は誰かと会話をしたい気分にもなれず、さっさと買ってアパートに帰りたかった。
「あ、スーパーで買い物?」
キクラの横を通り過ぎた直後、要らない返事がきた。
「はい。買い物しなきゃいけないので、それじゃあ──」
これ以上愛想良く返せる余裕なんて今は無いのだ。だから早くに行ってしまいたいのに。キクラはそんな事御構い無しでニコニコと笑いながら、くるりとこちらに向き直って付いて来る。
「あ、あの……」
「薫ちゃん自炊してて凄いなぁ。僕ね、いつも見てて思ってたんだよね」
「──え?」
「でもさ、一昨日はお弁当買ってたけど、疲れちゃってたのかな? そこが残念ポイントかな」
「え? え?」
キクラの言っている事に動揺した薫は足を止めた。
「わたしの後を……、ずっと付けてたんですか?」
「ハハっ、やだなぁ。流石にまだ家までは行かないよ。僕だってそこはちゃんとわきまえてるんだから。あ、でも今日仲良くなったから行けちゃうね」
薫は顔を強張らせた。キクラの笑みの不気味さの理由、今言った事、全てに背筋が凍る。
一体いつからなのか。カトレアに現れてからずっとなのか。
────恐い。
じわじわと恐怖感が増す。すぐにでも走って逃げてしまいたいのに、足がすくんで動けないのだ。まるで金縛りにでもあったかのように。
「薫ちゃん、どうしたの? スーパー行かないの? 行こうよ」
「いっ……、行き、ます」
ここで行ったとして、キクラが去ってくれるとは思えない。おそらくアパートも把握しているだろうし、今逃げ帰るのも不味い気がする。
どうしたら──?
こういう時は下手に刺激せず、スーパーまでは我慢するべきか。店なら他に人はいるし、なんとかなるかもしれない。などと考えつつ、叫び出したい気持ちを押し殺して冷静を装う。全身が痺れているかのような感覚の中、一歩、一歩と歩き始める。そうするとキクラは、薫の一歩後ろを付いてきた。
特に話しかけられるでもない、重苦しい沈黙。何だかスーパーまでの道程が長くなってしまったかのようだ。
雨は先程よりも強まってきたように思える。
「薫ちゃん」
キクラが後ろで呼びかける。
「アイツさ、……薫ちゃんの何?」
「な、何って、誰がですか?」
「あの白髪のヤツだよ」
言われて思い浮かんだのは赤木しげるだ。
「その人がどうし──」
「ウザったいんだよアイツー!!」
笑顔から一変。怒りの表情である。遮って声を荒げたキクラに驚き、薫の足はまた動けなくなった。
「たまにしか来てないくせにさあ、薫ちゃん嬉しそうにするじゃん? 僕なんか薫ちゃんのシフトには必ず来てるのにさー! 僕にはしてくれない違う笑顔するよね?」
「ご、ごめんなさい。そんな、接客をしたつもりじゃなくて……」
自分はそのつもりじゃなくても、キクラにはそう見えたらしい。咄嗟に謝りはしたが、よくよく考えれば謝る必要はなかった。
「アイツ誰なの?」
「あ、あの、……中学生の時、と、友達です」
実際には友達ではないし、赤木からしたらただの"知り合い"程度でしかない。
「友達? 嘘だ」
「え?」
「アイツは薫ちゃんを狙ってるんだ! 絶対絶対そうだ。僕の薫ちゃんを!」
小さな子が駄々をこねるかの如く、キクラは地団駄を踏んだ。
──だ、駄目だ。スーパーまで持たないかもしれない。
その様子に慄くあまりに後退りをしてしまえば、逃すまいと左腕を掴まれた。
「きゃあ!」
堪らず悲鳴を上げてしまうと、キクラは焦りの表情を浮かべる。
「ま、まま、待って! 薫ちゃんを怖がらせるつもりなんかじゃないんだよ? 僕はね、薫ちゃんに近寄る悪い虫に怒ってるんだ。だからね、だから、僕がずっと側にいてね、守ってあげようって思ってるんだ!」
「け、結構です! 離してください!」
「何で、何でだよ? 僕は薫ちゃんの為にやってるんだよ? わかってよォォ!」
雨さえ降っていなければ、稀有な誰かが通報してくれたかもしれない。辺りにはマンションや住宅もあるけれど、雨とはいえこの騒ぎに誰一人現れないのは、ややこしい事に巻き込まれたくないからなのだろう。
「ごめんなさい、わかりません。あ、あの、お願いですから離してください」
取り敢えず落ち着いてもらいたかった。
しかしキクラは、一向に腕を離そうとはしなかった。
「やだよ! 離したら薫ちゃん逃げるでしょ?」
「痛っ……」
ぎゅうぎゅうと握り締めるかのように力が込められて、掴まれている腕が痛む。
「そうだ。スーパー行くのやめてさ、薫ちゃんの住んでるとこ帰ろうよ。嵐くるし、危ないからね」
再び笑顔。キクラは掴んだ腕を引っ張り、強引に薫のアパートへと向かおうとした。
「や、いや!」
まるで綱引き状態。このままでは危険だ。
薫は抵抗しつつ、差している傘でもってキクラを叩き、隙を狙って逃げようと考えた。花火大会での行動再びである。
決して冷静な判断ではなく、取り敢えずの策なのだ。
「早く薫ちゃん!」
こうなったら……っ
傘を下ろして片手で閉じようとすれば、量の増えた雨が薫の全身を濡らした。
「ぎゃっ!」
今の声はキクラだ。傘を閉じようとした瞬間の出来事である。
ほぼ同時だった。庇うように薫の前に現れた赤木がキクラを殴り飛ばしたのは。正確には顔面を殴り付けたのだが、反動でキクラが吹っ飛んでしまった。
「し、しげる君!?」
薫は唖然として目の前の赤木に驚いた。
だって、だってしげる君は。今さっき女の人と──。
「な、何で?」
どうして、何故。疑問をぶつけるが、その前にキクラがヨロヨロと立ち上がってポケットからバタフライナイフを取り出した。鼻は確実に折れているのか曲がっていて、鼻血がボタボタと流れている。
「ックソ! あ、現れたな悪い虫め! お、お前なんかこの僕が退治してやる!」
キクラはそのナイフを赤木に向けて突進。だがしかし、赤木はそれを難なく避ける。そして背後にまわってキクラに回し蹴りを食らわした。
「ぐえ!」
前のめりに倒れたキクラは歯を食いしばり、負けじと赤木を睨み付けて立ち上がろうとする。
「き、貴様ぁぁあ!」
「ククク」
赤木はキクラを相手に笑っていた。その笑みはまさに狂気。けれど満足はしていない。
──しげる君!
その狂気の笑みに身体をぶるりと震わせながら薫は、二人の様子を黙って見ているしか出来ない。
「つまんねぇな」
「うるせえあああ!」
嘲笑うかのように向かって来るキクラを何度も殴り倒す赤木は、ついにはキクラからナイフを取り上げてしまった。
「使いこなせてもいないくせに持ち歩いてんのか?」
赤木は地面に倒れているキクラの髪を持ち上げて顔を近づける。
「うわぁあ!」
最後の力とでもいうのか。キクラはまだナイフを隠し持っていて、赤木の顔面にナイフを突き刺そうとした。──が、赤木はそれをギリギリで避け、またもキクラの顔面を殴り付けた。
「使い方がなってねえな。ナイフはこうやんだよ」
「……や、やめ、れ」
戦意喪失のキクラの右手を地面に押さえ付け、ナイフをその手に突き刺す寸前、勇気を振り絞った薫が声を上げた。
「しげる君!」
刺すのを止めた赤木は、薫に顔を一度向けてからまたキクラへと戻し、再びナイフを持つ手に力を入れて勢い良く差し込もうとした。
「やめて、くれああああ!!」
血やら涙やら涎やらでぐちゃぐちゃになったキクラが叫ぶ。手の甲に突き刺される筈だったナイフの先は、指先ギリギリ、真横の地面にあった。
「あ、あ、あ、あ、ああ!」
赤木はナイフを何処かに放り投げると、じいっと黙ってキクラを見下ろしながら呟くように言う。
「どうした? オレを退治するんじゃなかったのか?」
「ぁぁあ、うううあ……」
キクラは赤木の狂気にガタガタと震え、薫へと目を移して嗚咽を漏らすと、小さな子供のように喚き散らしながら逃げて行った。
後に残るはずぶ濡れの二人。
薫は、我にかえるようにして赤木に近寄る。
「し、しげる君」
どうして。と訊く前に、赤木の右頬に目が行く。キクラのナイフを避けた筈ではあったのに。僅かに切れていて、血が、雨の滴と混ざって滲んでいるのがわかった。
「血が、出てる」
昔を思い出しながら薫は言った。
「ちゃんと消毒しなきゃ、化膿しちゃう」
赤木の頬に手を伸ばそうとすれば、その手を止めるように赤木が掴んで離した。
「こんなもんは擦り傷」
「わたしの住んでるアパート、近いから」
先程までのキクラに対する恐ろしさなど、何処へ消えて行ってしまったのだろうか。目の前の赤木と見つめ合って薫は、中学生の時の自分達に重ねて言う。そして赤木の手を掴んで走り出した。
雨粒は激しさを増し、風は勢いを増す。
嵐がやって来た。