運命の人 ―アカギ逸聞録―   作:天照院

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偶然な必然

 

 

 

 季節は、夏真っ盛り。

 8月になって夏休みに入った学生らは、夏期講習や短期で車の免許を取得を目指したり、旅行やバイト等に勤しんでいる。

 それは薫自身も例に漏れず、友人達と夏のイベントを計画しながら、カトレアでバイトをして日々を過ごしていた。

 

「来たよ」

「あ、さっちゃん。いらっしゃいませ」

 

 友人の佐知が、いつものようにカトレアに客としてやって来た。

 

「ねえ、薫目当ての客、増えたんじゃない?」

 

 空いていた奥の席に座った佐知が、カトレアの客層をさり気なくチェックしながら、水を持って来た薫にこっそりと話しかける。

 来店早々何の冗談だと、半ば呆れた薫も同じく、周りには聞こえない小さな声で返した。

 

「此処は喫茶店だよ。雰囲気とマスターの珈琲が美味しくて来店して下さってるの」

「絶対薫目当てだってー」

「はいはい。じゃあさっちゃん、注文決まったら声かけてね」

 

 薫は他の客からの注文を受けに、からかい気味の佐知から一度離れた。

 赤木と再会の一件から二ヶ月。薫はすっかりバイトに馴染んだようで、今ではカトレアの看板娘として評判になり、密かに薫目当てで店を訪れる客もいる程であった。

 

「今週の花火大会の事なんだけど」

 

 バイトを終え、待っていた佐知との帰り道である。色々な話で盛り上がる中、週末の花火大会が話題に上がった。

 

「先輩達も一緒に良い?」

「先輩?」

 

 佐知を介して仲良くなった友人の美香と共に、佐知と薫を合わせて三人で花火大会へ行く約束をしていたのだが、そこへ新たに三人追加となるらしい。

 訊けば、同じ大学にいる美香の彼氏とその友人だと言う。

 

「まあ、男友達がいない薫には良い機会だと思うよ? こういうのから出会いって生まれたり、繋がり出来たりするもんだし」

 

 多分、佐知なりに考えてはくれているのだろうけれど、薫はいまいち乗り気にはなれない。

 

「相手がヤだったらそれでさよならでも良いし、ね?」

「う、うん……」

 

 佐知の手前、無下にも出来ず、結局薫はこれを受け入れたのであった。

 花火大会当日。薫は、祖母に貰った白地に青の撫子柄の浴衣を着て、待ち合わせの公園に小走りで入った。

 

「薫、こっちこっち」

 

 派手目に盛った髪型の美香と、ボブヘアを編み込みでアレンジした佐知の二人が、浴衣を着て中のベンチ前で手招きをしている。

 

「ごめんっ! 歩き慣れてなくて遅くなっちゃった」

「まだ五分前だから大丈夫。それよりさぁ」

「薫、超似合ってんじゃ〜ん」

 

 美香と佐知が、薫の周りを戯ける様に一周しながら言った。

 

「そ、そうかな?」

「うんうん!」

 

 女三人で楽し気に浴衣の柄や小物を褒め合っていると、背後から『お待たせ』の声がして振り返る。

 

「もう〜〜! 待ってたんだからね」

 

 美香が真っ先に反応して、彼氏らしい男の腕にしがみ付いた。どうやら彼等が例の3人らしい。

 

「このコ達が美香の友達? あ、オレ、彼氏のツヨシです。ども」

 

 流行りの髪型をお洒落にキメた美香の彼氏は、佐知と薫に軽く挨拶をし、友人である後の2人を紹介し始める。

 

「こっちは中学ん時からのダチで、マサヤ。で、こっちのイケメン君はソウタ君っていいまーす」

 

 如何にも女受けの良い風貌の二人がそれぞれに挨拶をすると、佐知と薫も『初めまして』と言葉を交わした。

 

「オレ達三人もキミらと同じ大学で三年だから、今後ともよろしくね」

 

 マサヤが佐知を見つめて言った。どうやらこの男は佐知狙いらしい。

 

「電車使う?」

「混んでるから歩こうよ。一駅ぐらいの距離だし」

「じゃ、早速行きますか?」

 

 挨拶もそこそこに、集まった六人は、目的地である花火大会の会場まで歩いて行く事にした。

 

「へぇ、あの店の近くなんだ。オレもあの辺に住んでるよ」

「そうなの? じゃあさぁ──」

 

 今の会話は、マサヤと佐知である。

 初めは皆が固まって歩いていたのだが、気付けば男女三組に別れて歩くようになり、先頭に美香とツヨシのカップル。その後ろを佐知とマサヤが。一番後ろにいた薫は、必然的にソウタと並んで歩いていた。

 

 やっぱりこうなるよね……。

 

 マサヤと歩く佐知は満更でもなさそうで、薫から見ても分かりやすい。

 

 さっちゃん、楽しそう。

 

 隣のソウタとまだ会話すらしていなかった薫は、通り過ぎる店々に明かりが点いていく様を、何となく見つめるだけだった。

 

「薫──、ちゃんだっけ?」

 

 ソウタの声に我に返った薫は、慌てながら『あ、はい』と返事をした。

 

「その浴衣と髪型、可愛いね。自分でやったの?」

「えっと、これは祖母に貰った浴衣で、着付けも教えてもらってたので。髪は、簡単にまとめただけです」

 

 薫のぎこちない返しにソウタはくすりと笑い、『緊張しなくても良いよ』と、爽やかそうに言う。

 まるで恋愛漫画に出てくるような雰囲気を醸し出すソウタは、背も高く爽やかなイケメンで、すれ違う度に色々な女性から目を惹かれていた。

 

 確かにソウタさんはかっこいいと思うけど……。

 

 物腰も柔らかく、誰にでも好かれそうな外見をしているのに、薫はむしろそれが何となく苦手だと思っていた。

 

「薫ちゃんはさぁ、彼氏いないの?」

「は、はい。いません」

「マジ? 凄い可愛いから絶対いると思ってた」

「いたら来てないと、思います……」

「だよね。じゃあさ、オレ立候補しても良い?」

「え」

 

 二人してその場に立ち止まった。まだ花火前だというのに、ソウタは直球に攻めてくる。言い方も随分と慣れているのか、きっと自分に物凄い自信があるのだろう。

 

「オレ、実は薫ちゃんの事を前から知っててさ、ツヨシの彼女の友達だって聞いて今日の花火大会めちゃくちゃ楽しみにしてたんだよね」

 

 どうやらソウタは、初めから薫狙いの参加だったようだ。

 

「だから薫ちゃんに彼氏いなくてほっとした。いないんだったら、立候補するから」

 

 ソウタが冗談なのか本気なのかがわからない。

 

『新しい恋をすれば、自然と古いのは消しちゃうのよ』

 

 佐知に言われた言葉が頭に響いた。

 

 ──本当に?

 

 ここで空気を読んで『うん』と軽く答えれば、もしかしたら佐知の言う新しい恋は始まるのかもしれない。

 

 でも、これで良いの? 忘れるなんて、本当に出来るの?

 

 そう思った時、脳裏に赤木しげるの顔が浮かんでいた。

 

「オレ見た目も悪く無いし、薫ちゃんに釣り合ってると思うんだよね」

「あの、ごめんなさ──」

 

 自信気なソウタの言葉とややかぶり気味で謝ろうとした時だった。

 

「……っ痛! オイ、当たったんだけど?」

 

 立ち止まっていたソウタの肩にワザとぶつかって来た、ガラの悪そうな一人が言った。

 

「マジで肩痛いんですけど?」

「え!? ぶつかってないです!」

 

 若いチーマー風の四人組の男達に顔色を変えたソウタは、あたふたとしながらそれを必死に否定した。

 

「何? じゃあオレらがワザとぶつかって来たって言いたいの?」

「い、いいいや、別にそ、そんな事言ってませんっ!」

 

 睨みを利かせ、顔面蒼白のソウタを四人が絡みながら囲む。通り過ぎる者達は皆、触らぬ神に祟りなしとばかりにこの騒ぎを知らぬ顔である。

 

 どうしよう。みんなとは離れちゃってるし。

 

 このままでは何があるかわからない。薫は警察に通報しようと、巾着バックの中に入れているケータイを取り出そうとした。

 

「なあ、このコお前の彼女?」

 

 四人の内の一人が薫の隣に立ちながら、イヤらしく肩に手を置いた。

 

「やめて下さい!」

 

 薫がその手を跳ね除ければ、その男は『超カワイくね?』と、ニタニタ嫌らしく笑い始めた。

 

「なあ、このマジカワイイ女ってお前の彼女なの? 友達? 花火観に行っちゃうのかな?」

 

 囲まれて縮こまり、脂汗の様な汗をかいたソウタと目が合う。そして直ぐに逸らされた。

 

「ち、違います!」

 

 圧倒的、即答。ソウタは、『友達でもないし、知らない人です』と俯きながら答えた。

 

「へぇ〜〜、知らないコなんだ。だったらちょうど良かったわ」

「オレらこのコに用出来たから、もう行ってイイヨ。イケメンくん」

 

 軽く背中を突き飛ばされたソウタは薫に対して若干気まずそうにしたものの、直ぐに解放されて安心したような表情に切り替えてから、一人で走り去ってしまった。

 

 ええ! そ、そんな……。

 

 まさか置いて一人で逃げてしまうとは。人の間を掻き分けて逃げて行くソウタを見つめたまま、薫は呆然とその場に立ち尽くした。

 

「ブハハッ! なっさけなっ。女置いて簡単に逃げやがった」

「んな奴ほっとけほっとけ。オレらで楽しもうぜ」

 

 リーダー格らしき男が、薫の肩に手を回して強引に引き寄せる。

 

「やめて下さい!」

「さあ、行こうぜ」

 

 抵抗するにも力では敵わなかった。関わりを避ける通行人や、逃げてしまったソウタには期待も出来ない。男達は人通りの少ない脇道に薫を連れて行こうとする。このままでは一体何をされるのかわからない。

 

 どうしよう、どうしたら良いの?

 

 不安に押し潰されそうになりながらも、薫は心を落ち着かせて、どうやって逃げ出そうかと考える。

 

「黙っちゃってどうしたの?」

「警察に通報します……」

「どうやって?」

 

 薄気味悪く笑い合う男達を睨めば、薫の肩に回していた男の手が、いやらしく腰に移動した。

 

「全然恐くないんだけど?」

「嫌っ!」

 

 薫は反射的に腕を振り上げた。

 振った手には巾着バック。堅い部分が、丁度男の顔面にヒットしていた。

 

「痛あっ!」

 

 男は痛みで手を離し、両手で自分の顔面を押さえる。

 

 ──逃げるなら今!

 

 不意を突かれて驚いている男達の隙を狙い、薫は急いで大通りに出た。

 

「オイ! 待て!」

 

 慌てて追って来る男達の怒号を無視し、薫は人混みを避けて走った。

 だらだらと歩く人の間を走る薫と、それを追いかける男達は周りには少し異様に見えていたのか、『女の子追いかけられてんだけど?』や『事件?』などと言う声がちらほらと上がっていた。

 

 交番があれば良いのに。

 

 助けを求める為、走りながら交番を目で探した。しかし、近くには交番らしきものは見当たらない。このままでは捕まってしまうだろう。

 

「はあっ、はぁ……っ」

 

 息切れだ。今すぐにでも何処か隠れれる場所に入って、警察に通報出来れば。そう思った次の瞬間である。

 人混みの間から突然左腕を掴まれ、二人ギリギリ並んで歩けるくらいの薄細い路地に、薫は引き込まれてしまったのだ。

 

「──え!?」

 

 絶体絶命かと思われていたのに、暗い路地に引き込んだ相手を見上げて薫は驚いた。

 

「し、しげる君……っ」

 

 何故赤木が此処にいるのか、何故自分を路地に引き込んだのか。今すぐ訊きたい事はあるのに、あまりの事で気が動転し、上手く喋れない。

 

「あ、あ、あのわた……っ」

「何で追いかけられてんの、アンタ?」

「と、友達と逸れて、そしたら──」

 

 乱れた前髪を手ぐしで一度直し、落ち着かせる為に一呼吸しようとすれば、何かの視線を感じた赤木が、薫から通りの方へと目を向ける。

 追いかけていた四人が路地に入って来た。先程巾着バックを顔面に受けた男は、路地にいた薫を見るや否や、『みーつーけたっ』と愉快気に笑って見せた。

 

「あっれー? 誰?」

 

 チーマーの男達は薫の隣にいた赤木に気付いたものの、薄暗くて見えにくかったのか、目を細めて赤木を見遣る。

 

「オレらそのコに用あんの。あんたさぁ、黙ってどっか行ってくれたら痛い目合わないから。さっさといなくなってくれない?」

 

 薫は体を強張らせ、赤木は相手を見据えたまま、何も答えない。

 

「オイ! お前ェに言ってんだよ!」

 

 別の一人が、赤木を睨みつけながら身を乗り出して声を張り上げる。

 

「ククク……」

 

 赤木は掴んでいた薫の腕を離し、静かにくつくつと笑い出した。

 

 し、しげる君?

 

 薫は、一歩前に歩み出た赤木の横顔を不安そうに見つめた。赤木は何故、そんな風に落ち着いていて、しかもこんな状況下で笑っていられるのだろうか。

 

「何が可笑しいんだ?」

「痛い目合いたいらしいな、ああ?」

 

 赤木の笑いを挑発と受け止めた男達は、一同にいきり立った。

 チーマー風達の様子を気にする事もなく、赤木は嘲笑いながら更に言う。

 

「揃いも揃って無駄に吠えるなよ」

 

 その言葉に切れた一人が、『うるせえぇ!』と声を上げながら赤木に殴りかかろうとした。

 

 危ない!

 

 思わず悲鳴を上げそうになった薫は、その後の光景に只々言葉を失った。

 

「ぎゃっ!」

 

 さらりと軽く避けた赤木が背後を取って後ろから男の脚を蹴り飛ばせば、男は硬いコンクリートの壁に顔からぶつかって倒れてしまった。

 

「……ぐっ! この野郎!!」

 

 後ろを狙ってきた相手には回し蹴りをして倒し、抵抗するように蹴り上げてきた相手には瞬時で避けると、眉間を狙いながら顔面を一発殴って吹っ飛ばしたのである。

 

「ヒイッ!! ま、待ってくれ! も、もう勘弁してくれ!」

 

 あまりの事に戦意喪失した残りの一人は、腰を抜かしながら必死に赤木に対して頭を下げていた。

 赤木にやられた二人は壁にもたれて気絶し、顔面を殴られた男は鼻が折れたらしく、鼻血を流しながら呻いていた。

 

 な、何が起こったの?

 

 赤木は表情も変えず、息切れひとつしていない。止めてくれと悲願した相手には、冷めた目で見つめる以外、それ以上何もしなかった。

 薫は、地面に倒れているチーマー風の男達を倒したその背中を見つめたまま、今のこの状況を頭の中で整理するのに精一杯だった。

 やっと我に返らせたのは、パトカーのサイレンの音。どうやら誰かが通報したらしい。

 チーマー風の男達もその音に慌てたのか、よろめきながら壁にもたれるようにして立ち上がったり、何もされなかった一人が、起き上がれない一人を抱えて立たせたりしている。

 

 此処にいたらダメだ……。

 

「しげる君、こっち!」

 

 警察が来てしまったらこの状況は大変マズイかもしれない。兎に角逃げなければと、薫はゆっくりと大通りの方へと歩く赤木の左手を掴むと、路地の奥へと走った。

 浴衣のせいで上手く走れないのも、履き慣れない下駄で足が痛いのも今は忘れ、ただ夢中で走る。

 長い路地を抜けて新たな通りに出ると、視界にいち早く入った、斜め前の脇道へと急ぐ。

 

 確かこの先は……。

 

 脇道から出た先にあったのは、港に面した広い公園だった。

 薫は設置されたお洒落な街灯が照らす場所を避け、手摺柵の前まで移動しながら、耳を澄まして当たりを見渡した。

 今はサイレンの音も聞こえず、あのチーマー風達が追って来る様子も無い。

 

 これで、大丈夫……だよね?

 

 そう思ったと同時、一気に力が抜けてしまったのか、薫は絡んだ足のせいで前のめりに倒れそうになった。

 

 あっ──!

 

 しかし、薫は倒れなかった。

 寸前、手摺柵とは少しズレた方へと腕が引かれたような感覚がして、僅かな温かみのある壁に顔面からぶち当たり、事なきを得えたからだ。

 壁があって助かった。もたれかかった薫はホッと安堵したが、これは何かが変だと気付いた。

 

 ──違う。これは壁じゃない。

 

 では、何だ。

 壁だと思われたそれは、赤木であった。赤木は、薫によって掴まれていた手を掴み返し、瞬時に自分の方へと引っ張ったのだ。

 支える様に受け止められたこの状態は、夜で薄暗くとも何となく側から見たら察するであろう、カップルの抱き合ってる姿である。

 

 ちょ、ちょっと、これは……!

 

 赤木の乱れの無い心音にどきりとした時、遠くで花火の上がる音がした。

 

「こっからでも見えるねぇ」

 

 どうやらこの場所は、穴場スポットだったらしい。カップルらしき男女の声に意識を戻した薫は、『ご、ごめんなさい』と、慌てて赤木から離れようと動いたが──。

 

「急に動くとまた倒れる」

 

 動くなと言わんばかりに、背中に回された手は薫を押し付け、更に赤木と密着状態になる。

 

「は、はい……っ」

 

 打ち上げられる花火にかき消されそうな声で答えた薫の顔は、恥ずかしさも相まってまるで茹で蛸の様であった。

 変わらない赤木の心音に対し、激しく高鳴る心臓の音は、確実に赤木にも伝わっている筈だ。

 

「あの、も、もう大丈夫だから……」

 

 聴こえたのかはわからないけれど、背中を押さえていた手の力が緩まったのがわかり、薫はゆっくりと赤木から離れてた。

 

「ありがとうございます……」

 

 まともに赤木の顔を見る事が出来ない薫は、手摺柵に手を置いて一呼吸。ちらりと横に立つ赤木を見れば、打ち上がっている花火の方向に顔を向けている。

 

「どうりで。やけに人が多いと思った」

 

 そう言った赤木の顔を、打ち上がった花火の明かりが仄かに照らす。その照らされた横顔をダブらせるのは、あの日見た、花火の記憶だった。

 

「前にも、こういう風に花火……、見た事あったよね?」

 

 あの時も追いかけて来る男達から逃げ、巻いた先の橋の上で花火を見ていた。

 

「さあね、覚えてない」

「そ、そっか……」

 

 何となく訪れた沈黙が二人を包み、やがてフィナーレを迎えた花火が盛大に打ち上がった。

 

「しげる君……」

 

 言いそびれたお礼を言わなければ。薫は、暗い静かな海に目を向ける赤木の名を、やや緊張を含んだ声で呼んだ。

 

「さっきは、あの……路地での事、助けてくれてありがとう」

「別に助けたつもりはないけど。俺は俺で、あいつらに用があったからな。都合が良かっただけ」

「え、知ってる人達だったの?」

 

 赤木は『知らない』と答え、港側に背を向けた。

 

「ま、待って!」

 

 来た方向へ去ろうとする赤木を、薫はまたも呼び止める。

 

「しげる君が現れなかったら、わたし今頃どうなってたか……。だから、そんなつもりじゃなかったとしても、本当に、嬉しかった。ありがとう」

 

 あんな恐い目に合ってたのに、またあなたに会えて、わたしは嬉しい。

 

 背中を向けたままの赤木は、やはり後ろを振り向きはせず、立ち去って行く。

 そんな赤木の背中を見つめて、薫は『おやすみなさい』と呟いた。

 

 どんな偶然でも良いと思った。あなたに会えるなら……。

 

 

 

「薫! 本当にごめんね!」

 

 その後、佐知からの着信を受けて合流を待っていると、半泣きの佐知が皆を引き連れて現れた。

 逸れてしまったあの時、佐知は薫と離れた事になかなか気付けずにいたそうだ。

 

「二人で一緒にとばっかり思ってて……、そしたら……っ」

「オイ、ソウタ!!」

 

 怒るマサヤに腕を引っ張られて出て来たのは、顔面蒼白のソウタだった。

 

「ごごご、ごめんなさい!! オレ恐くて……っ本当、ごめんなさい!」

 

 イケメンで自信があった筈のソウタは、涙と鼻水を垂れ流しながら、薫の足下で情けなく土下座をした。

 

「も、もう良いよ。もう気にしてないし、無事だったんだから、ね?」

 

 正直ソウタに腹は立ったけれど、これ以上彼に土下座させるのは良い気分じゃない。

 イケメンの面影無しのソウタを抱え起こすマサヤとツヨシ。白けたこの場の空気のせいで早々に解散となる。

 散々なようで、だけどそうでもなかったかもしれな花火大会の夜は、呆気なく静かに幕を閉じた。

 

 

 

 花火大会の再会から2日後。

 今日も薫は、カトレアで接客の真っ最中だった。

 

「薫チャン、いつもの頼むよ」

「はい。いつものですね」

「すいません、ケーキセット一つ」

「はい、かしこまりました」

 

 常連客の注文を受け、近藤にオーダーを入れる。

 すると、入り口でカランとベルの音が鳴った。

 

「いらっしゃいませ──」

 

 入り口に顔を向ければ、薫の胸が大きく高鳴った。

 もうカトレアには来てくれないと思っていた赤木が、店にやって来たからである。

 

「良かったですね」

 

 カウンターにいる近藤が、薫だけに聞こえる声で優しく微笑んでだ。

 

「はい……!」

 

 薫も笑みを返し、グラスに水を注いで、奥に座った赤木のもとへと向かった。

 

「いらっしゃいませ。ご注文をお伺いいたします」

 

 

 

 


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