運命の人 ―アカギ逸聞録―   作:天照院

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勿忘草

 

 

 

 

 雨降る中、妖しげな建物のデカデカとした看板を見上げながら、薫は唖然呆然と立ち尽くしていた。

 

 ──え、嘘でしょう?

 

 繁華街裏のホテル街に、さり気なく佇んだ1棟のホテル。この外観はまさしく、友人達から得た情報でしか知らないラブホテルそのものであった。

 何故この場所に連れて来られたのか。男は何ともない表情で薫の手首を掴んだまま、ホテルの中へと入って行った。

 

「ちょ、ちょっ……!」

 

 軽く混乱した状況の中、否応無しにある一室に男と入る。掴まれていた手首は解放されたのだが、薫は部屋の出入り口であるドアの前に、ひとり動けずにいた。

 一方、薫をこのホテルへと連れて来た当人はというと、さっさと区切られた部屋の奥へと進み、表情を崩す事なく平気な顔をしている。

 

「そんな所でいつまで突っ立ってんの?」

 

 区切られた部屋から男が声をかける。

 

「え、だ、だって……」

「ほらよ」

「わっ!」

 

 タオル一枚を投げられてあたふたとした薫は、咄嗟にそれを顔面で受け取った。

 

「此処に入ったのはただの雨宿り。勘違いすんな」

「え、雨宿り?」

 

 薫が聞き返せば男は突然、濡れたシャツを目の前で脱ぎだしたではないか。

 

「え! ちょっ!」

 

 当然の如く薫は驚き、反射的に男から背を向けた。

 

「何?」

「な、何って、だってそれは……っ」

 

 薫の狼狽える行動を何となく察したのか否か、男は『別にこんくらいの事で気にすんな』と、濡れた上半身をタオルで拭きながら言う。

 

 気にするなって言われても……。

 

 そちらは良くてもこちらは良くない。薫は受け取ったタオルで顔を拭きつつ、落ち着かせる為に一呼吸置いてみた。

 

 そうだ。今は恥ずかしいとか、場所がどうこうじゃないんだった。

 

 動揺のあまりに忘れそうになっていた"本題"を切り出そうと、薫はなるべく冷静を装って男のいる奥の部屋に足を踏み入れる。

 視界に直ぐ様入って来た派手な広いベッドには、一瞬だけ怯みそうにはなった。

 

「しげる君」

 

 ベッド近くのソファに腰掛ける男は、反応するように薫へと目だけを移す。ジーンズのポケットから煙草の箱を取り出し、一本だけを口に咥えてからそれをライターの火でつけると、一度吸って煙を吐き出した。

 

「あなたは、しげる君なんでしょう?」

「しつこいね。アンタ」

「答えて」

 

 タオルを持つ手には汗。薫は男を見つめながら、その手をぎゅっと握り締める。

 

「正解」

 

 表情に変化は無い。男は再度吸って、煙草の煙をゆっくりと吐いた。

 

 やっぱりしげる君だった……!

 

 目の前の男が赤木しげるだとわかると、気持ちは一気に高ぶった。

 

「……それで?」

「え?」

「俺が赤木しげるとわかって、それで何?」

「な、何って……」

 

 薫を見つめるその目は、酷く冷めている。

 

「わたしは、会えて嬉しくて──」

「へえ、そう」

「あ、あのっ!」

「何を期待してるつもりか知らないけど、アンタの望むようなお花畑な展開にはならない」

 

 拒絶の目で見つめられ、雨に濡れた身体以上に心が冷えていく。

 

「ご、ごめんなさい。まさか偶然に会えるなんて思ってもみなかったから、だから……」

 

 赤木であった男から目を逸らし、部屋の隅にある椅子へと腰を下ろす。と同時、薫の目頭は熱くなった。

 

 ──どうしよう、泣きそう。

 

 この必要以上に気不味くなった雰囲気の中、赤木の目の前で涙など絶対に流したくはない。

 

「……お、お手洗いってどこかなぁ」

 

 などと小さく独り言を口にして椅子から立つと、部屋中を見渡しながら区切られたもう一室へ、悟られないよう入る。中は、洗面所と風呂場が一体化したつくりだった。

 鍵の無いドアを閉めて洗面台の鏡の前に立つと、限界だった涙が頬を伝う。

 蛇口をひねって水を出し、涙を洗い流しながら両手で顔を覆った。

 

 何で涙なんか……。

 

 しっかりしろ、泣くなと自分に言い聞かせる。

 顔を上げて鏡に映る自分を見つめた薫は、濡れてへばりつく髪をタオルで拭いたり、手櫛で直したりして身だしなみを整えた。

 幸い下着までは透けていなかったが、濡れた衣服が気持ち悪いのに変わりはない。赤木のように脱いで乾かせれば良いだろうが、勿論そのような事は出来やしない。堪らず溜息を漏らしそうになり、慌てて首を振る。

 薫は少しの緊張を持ってドアノブを回し、開けて出た。

 変わらず部屋の空気は淀んでいるように感じる。赤木は二本目の煙草を吸いながら、何処か宙を見ている様子である。

 

 窓があれば外の様子を見る事も出来るのに。

 

 残念ながらこの部屋に窓は設置されておらず、薫は仕方なく先程座った椅子に再び腰を下ろした。

 

 何か、何か話さなきゃ。

 

 沈黙は余計辛い。けれど、何を話したら良いのかわからない。薫は横目で赤木を何度か見ながら、あれこれと頭の中で考えていた。すると──。

 

「何?」

 

 視線が気になったらしい赤木の方から話しかけられて、薫は少し気が動転したのだろうか、『此処にはよく来るんですか?』という、どうでも良いおかしな質問を投げてしまったのである。

 

「はあ?」

「べべ、別に変な意味じゃなくてっ」

 

 何が『変な意味じゃなくて』なのか、上手くは説明出来ない。

 

「慣れてたから、こういう所に来た事あるのかなぁっていう、素朴な疑問っていうか……、うん」

 

 何でわたし、こんなくだらない質問をしちゃったんだろ?

 

 そうは思いながらも、少しだけ気になったのは確かだった。

 

「くだらねぇな……」

 

 ごもっともである。

 赤木は薫を見つめながら、煙草を灰皿に押しつけて消した。いくら気が動転したとはいえ、赤木に対して本当にくだらない質問だったと、薫は自省する。

 そして沈黙は再開。赤木はごろりとソファの上に寝転がり、瞳を閉じた。

 

 わあ。寝ちゃったらもう話しかけれない。

 

 僅かな寝息が聴こえる。これ以上赤木に話しかけるのは、何だか気が引けてきた。

 色々訊きたい気持ちはある。だが、それを訊いてどうしたいのか。赤木が言ったように、本当に『それで何?』だ。

 あの薫を見る拒絶の眼差しは、この再会を喜んでなどいなかった。

 心の何処かで薫は期待していたのかもしれない。赤木の言う、お花畑な展開を。先程の涙は、そんな自分を少しでも恥じたからだった。

 

「ごめんなさい……」

 

 薫は椅子の上で膝を抱える様に体育座りをし、自然とそう呟いていた

 

 

 

「────で、どうなったの? で? で?」

 

 カラオケの室内にて。薫の隣に移動した佐知が、食い入る様に訊いてくる。

 

「ちょっとさっちゃん落ち着いて」

「これが落ち着いてられるかっての! 薫あんたね、本当にもうありえないんだからねっ!」

 

 佐知はコップに入ったオレンジジュースを飲み干し、乱暴にテーブルの上に置いた。

 

「どうしてもっと早く教えてくれなかったのよ!」

 

 赤木しげる本人であるとわかったあの日から、既に五日が経過していた。

 薫はこの事を佐知に伝えるかどうか悩みに悩んだ結果、とうとう黙り切れずに話したのである。

 

「薫から『カラオケ行こう』だなんて珍しいと思ったのよ。まさかそんな事あったなんて知らないしさあ」

「ごめんね、さっちゃん」

 

 悄気(しょげ)る薫に『仕方ない』と小さく息を漏らした佐知は、『にしてもありえない!』と声を荒げた。

 

「そ、そうだよね。再会したばっかりなのに、『雨宿り』で普通は……入んないよね」

「何にもされなかったってどうなワケ?」

「え、そこ?」

「だってそうでしょ? だって仮にも初恋同士が久しぶりに再会したんじゃない」

「さ、さっちゃん、ちょっと待って。『初恋同士』って何? 初恋だったのはわたしだけで、しげる君は違うよ」

 

 佐知は『違うの?』と、フードメニュー表を手に取りながら言った。

 

「てっきりさぁ、その"しげる君"とやらもそうだと思ったんだけど。だって、わざわざ薫に会いにさよならを伝えに来る? そんな気持ち無かったら言いには来ないでしょ」

「違うから。しげる君は昔も今も、わたしの事なんて何とも思ってない。寧ろ逆、逆なの」

 

 薫がグラスに入ったアイスミルクティをストローで口にし、『会えて嬉しかったのは、わたしだけだよ』と呟けば、佐知はフードメニューをテーブルに置いて薫を優しく抱き締めた。

 

「さっちゃん?」

「思う存分泣きなさいよね」

「や、泣かないよ」

「初恋ってのはね、実らないもんなのよ。少女漫画みたいにロマンチックになんてならないの」

「ん、そうだね」

「薫にはもっと良い男が現れるから。次の恋見つけたら、絶対忘れちゃうんだからさ」

 

 赤木を忘れられるのだろうか。佐知に慰められながら薫は思った。

 

「忘れられなかったら、どうしよう?」

「女の恋はね、上書き保存って言うんだって」

「何それ?」

「新しい恋をすれば、自然と古いのは消しちゃうのよ。だから大丈夫」

「……へえ、そうなんだ」

 

 佐知を抱き締め返し、思考は別へ。薫の頭の中は、五日前に戻っていた。

 五日前。短い睡眠を終えて眠りから覚めた赤木と共にホテルを出た薫は、すっかり雨も上がった夕暮れの太陽に目を細めつつ、慌てて半分の代金を赤木に渡そうとした──が。

 

「いらない」

「で、でも!」

「連れ込んだのは俺だしな」

 

 赤木は受け取りもせず、薫をろくに見ようともせずにそのまま去って行こうとする。

 

「あ、あの!」

 

 緊張しながら呼び止めた。止まってはくれないと思ったが、赤木は数歩進んだ先でその足を止めてくれた。

 

「カトレアにはこれからも来て下さい。勿論、お客様として」

 

 きっと来てはくれない。それでも……。

 

「近藤さん、マスターがお待ちしてます。わたしはいますけど、ただの店員ですから。今月は火曜と木曜が休みなんで、わたしがいない時にでも、是非!」

 

 此方は決して振り向かない赤木に、精一杯の笑顔を向ける。

 

「じゃあわたし、行きますね」

 

 返事は聞かなかった──否、聞きたくはなかった。これで最後にはしたくないと思ったからだ。薫はその場から踵を返した。

 それからひと月。赤木がカトレアに姿を現わす事はなかった。

 

 

 


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