運命の人 ―アカギ逸聞録―   作:天照院

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雨に濡れて

 

 

 

 

 紹介してくれたバイトの初日は、難なく無事に終わった。バイトは週4日。だいたい講義が無い曜日の午後からシフトを組んでもらい、テスト前などは優先されて休みを貰える事になった。

 

「うちは大体夜のお客様が多くてね、夜の9時位まで営業しているよ。夜遅いけど、大丈夫かい?」

「住んでるアパートは此処からも近いんで、大丈夫です」

「それなら良いけど。街の中だからね、繁華街もすぐそこだし、夜道には気を付けなさい」

 

 近藤は『近くに交番もあるから』と、女性の夜道への一人歩きを心配してくれていた。

 まだ始めたばかりだが、初めてのバイトがカトレアで本当に良かったと、薫は心の底から何度もそう思った。

 そんなある日。午前中にあった講義が早くに終わり、 カトレアでバイトを始めて五日目の事だった。

 午後になると客が来ない時間帯に店が一時間程準備中となり、近藤が休憩に入る。その間薫は店の外や中の掃除をし、午後からの客を迎える準備をするのだ。

 バイト日は髪をポニーテールにし、近藤が用意してくれた白のシャツと黒の膝竹タイトスカート、ショート丈の黒いエプロンにローヒールを履いた格好をする。

 初日の次の日から客として来た友人達によると、薫のバイト姿はすこぶる評判が良かった。

 

「さて、準備中の看板外してきてくれますか?」

「はい!」

 

 さあ、午後からのカトレアが開店するぞと、薫は看板を準備中から営業中に変えて中へと戻った。

 薫の主な仕事は、接客である。開店すると、一人二人と客が入ってきた。

 

「いらっしゃいませ」

「あれ、マスター、新しい若いコ雇ったの?」

「ええ。手際も良くてね、助かっていますよ」

「へぇ。良かったじゃないマスター。益々この店に来るのが楽しみになるよ」

「ありがとうございます。今後ともご贔屓に」

 

 来店して来る客の接客に集中していた薫は、まさかそんな会話がカウンター席でされているとは知らず、任された仕事を真面目にこなしていた。

 

「ありがとうございました!」

 

 何人かの客が帰り、店には客が三人程になった。窓から見える外は、気付けばもうすっかり日が落ちている。

 帰った客の後片付けをしていた薫は、入店を知らせるカランという、出入り口に設置していたベルの音に反応し、ドアの方へと顔を向けた。

 

「いらっしゃいま──」

 

 言いかけて思わず止まった。

 

 あの人は……。

 

 いつか人違いをしてしまった、あの白髪の男が店に現れたのである。

 まさかこの店で会ってしまうとは。なんという気不味さ。けれど今はバイト中。相手は客である。

 

 向こうは覚えてないかも。

 

 そうだ。そうかもしれない。そんな事を考えつつ、薫は冷静を装いながら、奥に座った男に水を出した。

 

「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか?」

「あ?」

 

 男は出された水から薫へと目を移すと、少しだけ驚いていた様に見えた。

 

「……珈琲」

「珈琲でございますね。では、少々お待ちくださいませ」

 

 男から注文を受けると、直ぐに近藤にオーダーを通した。待っている間に他の客の接客や会計を済ませ、カップや皿を引いたりしていると、ちょうど珈琲は入れ終わっていた。

 

「お待たせいたしました。ごゆっくりどうぞ」

 薫は男に注文の珈琲を出し終え、再び他の客の接客や後片付けに勤しむ。だがその際中でも、薫は赤木によく似た男の事が気になってはいた。

 

 あらためて見ても、やっぱり似てる。

 

 人違いだと言われても、やはりあの、何とも言えない雰囲気が赤木しげると同じだった。

 数分後。珈琲を飲み終えた男はそっと席を立った。会計かと、薫がレジ前に向かおうとすれば、男はレジには向かわずに直接薫へと歩み寄った。

 

「手、出して」

「え、て?」

 

 男が近寄って来た事に少しだけ動揺する。 "手を出せ"とは一体どういう意味なのか。薫は言われるまま、一応相手の前に両手を出した。

 

「はい」

 

 薫の掌の上に、ポンと一万円札が置かれる。

 あぁ、会計。そう思ってお釣りを返そうと、レジに体を向けた時だ。

 

「お客様お釣りをっ」

 

 近藤の慌てた声に驚いて振り向けば、男は既に店を出て行ってしまったのである。

 

「え、ええっ!?」

 

 薫は大急ぎで追いかけようとドアを開け、外に飛び出した。

 

「お客様……あれ?」

 

 男の姿はもう無かった。あるのは、駅前の通りを歩くサラリーマンやOLや、派手な若者だけだった。

 

「お釣り……」

 

 少し辺りを見渡して見たものの、結局男は見つからなかった。

 店に戻って暫く近藤と考えた結果、珈琲代金だけは受け取り、後のお釣りは近藤が預かっておく事になった。

 

「仕方ないですね。あのお客様は今回初めて来られました。次も来るかはわかりませんが、来店された時に必ずお返しする事にしましょうか」

「はい!」

 

 しかしイマドキ珍しい若者ですね。近藤はそう言って微笑んだ。

 薫にはよくわからないが、バブル期にはよくあったらしい。しかしこのご時世に希有な事をする人がいたものだ。

 薫には信じられない行為であり、赤木しげるにそっくりなあの男が、益々奇妙に思えたのだった。

 

「──で、見つかったの? その客」

 

 佐知にカトレアでの出来事を話せば、謎の男について興味津々の様子であった。

 

「ううん。それから二週間も店には来てない」

「薫が最近ちょっと上の空だったりするのって、もしかしてその男のせい?」

 

 流石勘が鋭い。薫は話すのを少しだけ躊躇うも、佐知には不思議と気心が許せている。現にカトレアでの話を、佐知だけにはしていたのである。

 

 さっちゃんになら話しても、きっと大丈夫。

 

「さっちゃん、あのね……」

 

 そして薫は、今まで誰にも言えずに黙っていた赤木しげるの話をする事にした。

 

「成る程ねぇ。薫の初恋相手にそっくりだったってわけだ、例の男は」

「う、うん」

「聞いてる限りじゃその男子って、結構やんちゃしてそうって感じなんだけど。薫ってば一切そういう話に入って来ないし、前月イケメンの先輩に告られたのにあっさり振っちゃうし、一体何でよって思ってたけど。ふーん、まだ初恋相手想っちゃってんのか」

 

 佐知は戯けながら、薫に向かってからかい気味に言った。

 

「ちょ、さっちゃん」

「ムカつくぐらい純粋って意味込めて言ってんの。薫、あたしにさ、話してくれて本当にありがとう」

「ううん。さっちゃんにだけは、この話を聞いてもらいたかったし」

 

 二人して見つめ合うと何だか照れ臭くなって、どちらからともなく笑い合った。

 

「照れるなぁ! って、二人で友情深めるのも良いけど、先ずはその男子にそっくりな例の男探してみよう?」

「え?」

「だって初めて見たのもあの駅前通りだったし、薫がバイトしてる喫茶店にも来たんだから、あの辺りにまた現れるんじゃない?」

 

 佐知の急な思い付きにより、二人一緒に通りを探しては見たが、結局、例の男は現れはしなかった。

 

 

 

 その日は、小雨の降る午後だった。

 午後からの講義に合わせて大学に向かう途中、大きな交差点で赤の信号に引っ掛かり、横断歩道の前で立ち止まっていた時の事だ。

 傘を差さす薫の斜め前に、ストレートグリーンのシャツを着た誰かが立った。

 普段なら気にも留めはしない。けれど薫は、何となく目の前の人間がどうしようもなく気になって、傘を少し上げるようにしてその人物を見た。

 

 ──あ、この人!

 

 白い髪をした若い男の後ろ姿は、間違いなく例の男であった。雨だというのに傘も差さず、濡れる事など全く気にしていない様子で、降ってくる雨で服や髪は僅かに濡れていた。

 

 絶対あの人だ!

 

 薫はそっと側まで近づくと、傘を持っていた腕を伸ばして、自分の傘の中に男を入れた。 男はそれに気付くと、顔だけを薫へと向けてきた。

 

「アンタは……」

「こんにちは」

 

 薫は少しだけ緊張した。何せ、ひと月ぶりに会ったのだから。

 

「濡れるぜ」

 

 傘から出ている薫の左半分が濡れている事を、男は顎でしゃくりながら知らせた。

 

「大丈夫です。それより、お店に来ていただいた時の事なんですけど」

「店?」

「カトレアという喫茶店です」

 

 男は何となく思い出したようで、『それが?』と返した。

 

「お釣りです。受け取らないで帰られたので。良かった、会えて」

 

 これでお釣りを返す事が出来る。近藤も喜ぶだろう。薫は、ほっと胸を撫で下ろした。

 

「あぁ、その事。釣りはもう良い」

「え? だって……」

 

 男からの思わぬ返しに唖然となる。

 

「でも、九千円以上のお釣りですよ?」

「要らない。好きにすれば」

 

 それを言い終えると同時、信号が青に変わると、男は薫の傘からスッと出て、そのまま立ち去ろうとした。

 

「え! あ、あのっ」

 

 折角見つけたというのに。薫は焦りながら男を追いかけた。

 

「待って下さい!」

 

 男は呼び止めに取り合わず、そのまま突き進む。

 

 どうしよう。このままじゃお釣りが。こうなったら……。

 

 薫は一呼吸置いた。差していた傘をたたみながら、歩く自身のスピードを上げて男の前に立ち塞がったのである。

 

「……何?」

 

 男を見上げ、何も喋らずに男の左手を掴むと、薫は元の方向へと戻るように走った。

 

「一体全体、何の真似?」

 

 連れて走る男の言葉に、薫はあえて何も答えなかった。ただ一心に目的地へと走る。小雨に濡れてしまっていた事など、少しも気にならないくらいに。

 きっと何かを答えていたら、隙をついて去られてしまうと思ったからだ。

 見慣れた駅前通りの喫茶店、カトレアに到着し、薫は勢い良くドアを開けて入った。

 

「おや、佐鳥さん。今日は確かお休みですが?」

 

 店は丁度、準備中だった。

 カウンター側のキッチンに立っていた近藤は、午後からの準備を行っている最中に突然入って来た薫を不思議に思い、その後ろにいる男が視界に入れば、少し驚いた顔をした。

 

「すいません、突然入って来て。あの、見つけました!」

「その方は確か……」

 

 無理矢理前に押し出されるように出た白髪の男を見て、近藤は準備作業を中断し、『お待ち下さい』とキッチンの裏にある部屋に入ってしまった。

 店の中で二人だけになれば、薫は思い出したかのように自分が掴んでいる男の手に目を向け、慌てながらその手を放した。

 

「ご、ごめんなさい!」

 

 持っていたブラウンのトートバッグからハンカチを取り出し、男へと差し出す。

 

「良かったらこれ、使って下さい」

「アンタが使えば?」

 

 薫に差し出されたハンカチを、男は受け取りはしなかった。

 

「あの、無理矢理すみませんでした。やっぱりお釣りはちゃんと返したいって思ってたんです。だからその──」

「……相変わらずなんだな、アンタは」

「──え?」

 

 何が相変わらずなのか。互いに見つめ合うようにいると、キッチン裏の部屋から近藤が出て来た。

 

「申し訳ありません、遅くなりまして。これを」

 

 白い封筒に入ったお釣りを、近藤は男に渡すように目の前に出した。

 

「さっきこの人にも言ったんだけど、釣りは要らない。お好きにどうぞ」

 

 やはり男は受け取ろうとはしなかった。どうすれば受け取るのだろうか。

 

「さようで御座いますか。それは困りましたね──あぁ、でしたら、この店での飲食代はタダ、というのはいかがでしょうか? お代はこの釣り銭分から頂きますので」

 

 近藤の提案に少しだけ考えながら沈黙し、『アンタらがそれで良いなら』と、男は仕方なさげに答える。

 

「はい。では、いつでもお待ちしております」

 

 ──良かった。

 

 これでお釣りの件が丸く収まる。薫は安堵のため息を漏らした。

 

「用は済んだだろ?」

 

 男は踵を返し、カトレアから出ようとしていた。その様子を見逃すまいと薫は、近藤に深いお辞儀をしてから慌てるように男を追って店を出た。

 つい先程まで小降りだった雨は、いつの間にか大雨になってしまっていた。男はまだ、カトレアの僅かな軒先の下にいた。つまり、店のドア前に立っている状態である。

 

「雨……、凄いですね」

 

 背後から声をかける。傘を差して疎らに行く人々や雨の音、それらが淡々と流れていく。

 少し後ろで男の背中を見つめながら、店の中で男が言った言葉を、薫は思い出していた。

 

  『相変わらず』この人は、わたしにそう言った。

 

 この男との面識は、初めて会った駅前の通り。カトレア、交差点。どれも会話らしい会話は無く、"相変わらず"という行動はしていない。

 ふと、中学生の時に赤木を強引に家に連れて来た光景が頭に浮かんだ。赤木の手を掴んだあの日と、目の前の男の手を掴んだあの時の事が重なっていく。

 薫は、息を飲みながら確信した。

 

「──しげる君」

 

 男は何も答えない。

 

「あなたは、しげる君でしょ?」

 

 続けて問えば、男は軒先から出て歩き出してしまった。

 

「待って!」

 

 傘も差さずに勢い良く飛び出せば、降ってくる雨に一瞬で全身が濡れた。けれどそんな事はどうだって良い。薫は、赤木しげるであろう男を追った。

 

「しげる君!」

 

 走りはしないけれど、男は背中を向けたまま何も返そうとはしない。

 

「わたしは、しげる君とまた会えて本当に良かったって思ってる!」

 

 雨脚が強まる中、ずぶ濡れになりながらも背を向けて行く男に、付いて追いかける薫の姿を何人かが振り返りながら見ては、一人、また一人と通り過ぎて行った。

 駅前から離れて少し経った頃、男は急に立ち止まって、付いて来る薫へと振り向いた。

 お互い全身は雨で濡れている。白い髪の毛先から滴を流しながら、男は淡々と言った。

 

「いつまでついてくんの? いい加減さ、帰れよ」

「……嫌、帰らない。しげる君が、認めるまで帰らない」

 

 雨音だけが二人を包み、他は何も聴こえてこない。薫は相手の目から逸らさずに、じっと見つめ返した。

 その場に立ち続けて数秒後。男は軽く溜め息を吐いたかと思うと、突然、薫の右手首を掴みながら何処かへと足早に歩き出したのである。

 

「え?」

 

 一体何処へ行くと言うのだろうか。

 降り止まない雨によってずぶ濡れになった若い男女は、そのまま繁華街の少し外れた通りへと消えて行った。

 

 


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