仕事に行きたくないから徹夜で書いてみた。
さ、目が覚めたら仕事だ。
「それじゃあ、今知っている事を軽くテストしてみようか、ベル君」
エイナの朗らかな声に、ベルは肩を震わせた。
先程、初心者講習という聞き慣れない言葉に対し、ベルはこう答えた。
『え、何ですかそれ』
『うん、わかってた。それじゃあ、今日から私がクラネルさんの担当アドバイザーになりますね。これから何度も顔を合わせるようになるし、堅苦しいのは無しにしましょう。ベル君って、呼ばせてもらうね? さ、行きましょうか』
唐突な流れに逆らうことも出来ず、講習室へと連れ込まれ、今まさに講習の真っ最中であった。
「ゴブリンと戦うときの注意点は?」
エイナは問い、
「えっと……あっ、関節を狙うときは骨の──」
ベルは答え……
「うん、違うね?」
切られる。
「じゃあ、ゴブリンの生態や習性、能力について講義するね」
エイナは白紙の束とペンをベルに手渡した。
「は、はいっ! これにメモすれば……」
「ベル君はその紙に、ゴブリン、ってひたすら書いていこうか。百回くらい」
「え」
「うん?」
笑顔であった。
「メモを作っても、忙しい冒険者さんは中々読み返す時間がとれないでしょう? だから、
「え」
「うん?」
笑顔であった。
「そうすれば、自然と思い出せるようになるわ。さ、始めるよ?」
ベルは背筋が、うっすらと寒気を覚えるのを感じた。
「大丈夫! もし、講義の後のテストがダメだったら──」
ここにきて、いくつかあった選択肢の全てを、自分は間違えていたのだと言うことを悟る。
「
そして、自分がもはや手遅れの状態であるということも。
………
……
…
たどり着いた講習室前は、付近に人がいないことも相成り非常に静かであった。
僅かに、部屋からは女性のものらしき穏やかな声が漏れ聞こえる程度。
「ここですね」
「よし、とにかく入るか」
カイトはそう言っていきなりドアノブに手を掛けて……
「おっと、こういうときはノックだったな」
少し迷ってから手で扉を叩いた。
「……何故迷ったんですか?」
「蹴るか叩くか斬るかで」
「良かった…………正解で本当に良かった」
二人のそんないつもの会話に続き、
「はい、どなたですか?」
若い女の声と共に扉が開いた。
「今は初心者講習中なのですが……」
眼鏡をかけた、長耳が特徴的な美女が顔を出す。
誠実そうな面立ちと、清潔感のある雰囲気。
何故だか一瞬、カイトを仰ぎ見るリリルカであった。
「人を探しているんだ。ここにいると聞いて来た」
至極普段通りのカイトに、思わず安堵の息を吐く。
「ああっ! ヘスティア・ファミリアの方ですか?」
目を細めて笑う美女。
リリルカは一瞬、ゾクッとする何かを感じた。
これはまずい、何かよくわからないがまずいことが起ころうとしている。
そう感じた。
「──や、そうでもない」
カイト様が返事をボカした!?
驚愕のリリルカを余所に、会話は続く。
「あの、違うのでしたら、人違いではないかと」
「ファミリアがどうこうじゃないんだ。ただ心配で、探しに来たんだ」
「……つまり、ベル君のお知り合いだと?」
「仲良くやらせてもらってる」
「そうですか……まあ、そろそろ休憩でしたし、中へどうぞ」
「感謝する」
そう言って部屋に踏み込むカイト。
リリルカも追従し、入った先に、ベルを見つけた。
「ベルさ──」
パンいちだった。
毛布を羽織ったパンツ一丁のベルが、机に向かって一心不乱に何かを紙に書き留めていた。
「……え、ん? あれ、ベル、様?」
ベルは反応を示さない。
ただ黙々とペンを走らせている。
リリルカは懸命に状況を把握しようとして、すぐ匙を投げた。
もういいや、今日は疲れた。
本人に聞いちゃおう。
そんな結論を出してベルに近寄る。
リリルカの耳に、か細い呟きが聞こえた。
ともすれば聞き逃してしまいそうなその声は、ベルの口から発せられていた。
「ベル様?」
「リ………………リ」
自分の名前が呼ばれた気がして、リリルカは更にベルへと近付いた。
「ベル様!」
ようやく声が、鮮明になった。
「ゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリンゴブリン」
「ひぃっ!?」
人生最高速度で、リリルカは後ずさる。
「ベル……無事でよかった」
「どこが無事ですか!?」
「俺もリリも心配していたんだ。色々あったかもしれないが、それが一番大事だよ、ベル」
「ダメです! これはスルーして話を進めていいレベルではないですよ!?」
「いやいや、俺の元部下もたまにこんなだったし」
「それはその部下さんがおかしいんです! カイト様だって────」「カイト?」
リリルカの言葉を、女が遮った。
「カイト・アルバトスさん?」
振り返った二人の瞳に、講師用の机で、恐らくはベルが書いたであろう答案の添削をしている女が映った。
にこやかな笑みで、答案から目をそらすことなく。
「ヘスティア・ファミリア団長で、一月半前に冒険者となって、一度としてギルドの講習を受けた形跡がなく、今日初めてダンジョンに挑んだベル君をいきなり五階層まで連れていったカイト・アルバトスさん?」
笑顔である。
昔セイルが言っていた言葉を思い出す。
『ああいう笑い方してる女には、絶対逆らうな。男じゃ勝てないようにできてる』
石畳の上で正座して、二人揃ってキリカに詰められていた時の話だった。
思えば顔を合わせたときすでに、その予感はしていた。
だから慣れない誤魔化しなど使って、自分に対しての明言を避けたのだ。
恐らく、リリルカが名前を呼ばなければ、決定的な証拠もなくこの場を切り抜けることが──
「まあ、わかってましたけどね。嘘ついてたのは。ヘスティア・ファミリアの黒剣使いと、それに付き添うサポーター……お二人は、低階層ではそれなりに目立っているんですよ?」
どうやら、希望も救いも無いらしかった。
「……ふぅ」
採点が終わった答案をまとめ、女はようやくカイト達を見た。
「エイナ・チュールと申します。僭越ながら、本日よりベル君の担当アドバイザーとなりました」
立ち上がる。
カイトとリリルカはそれだけで、半歩後ろへ下がった。
リリルカなど、軽く震えながらカイトのズボンの裾を握っている。
「さ、ベル君、採点終わったよ?」
エイナが声をかけると、ベルは正気に返ったように顔を上げた。
「け、結果は!?」
ぷるぷると、震えながらの声。
「んー……」
エイナは眉にシワを寄せて唸る。
それだけで、ベルは顔を絶望に染め上げて歯を震わせ始めた。
「さ、三千回は嫌だ、三千回は嫌だ、三千回は嫌だ……」
何のことかはわからないが、とにかく嫌なことだけは伝わってきたカイト達であった。
「ベル君」
「はいっ!」
笑顔。
「合格よ!」
「いぃぃぃぃぃいやったあぁぁぁぁあああ!!」
安堵、
「じゃあ次はコボルトね」
「あああぁああぁあああぁあああぁぁあ!!!?」
からの絶望。
どうしよう、可愛い後輩が完全に調教されている。
カイトはため息を吐いた。
これがセイルやリロイなら、何のためらいもなく見捨てておける。
二人が女関係で窮地に陥るときは、大抵本人に原因があったからだ。
だが、ベルがそういう真似をやらかすとは考えにくい。
「なあその、今日はダンジョンで疲れてるんだ。講習ならまた今度に──」
「アルバトスさん達も」
エイナがぐりん、と顔を向けてくる。
リリルカが小さく悲鳴を漏らした。
「早く席に座ってください。ヘスティア・ファミリア向けの初心者講習を始めますよ?」
「リ、リリはヘスティア様の眷属じゃ──」
「もちろん、ソーマ・ファミリア所属でアルバトスさんとずっとコンビを組んでいて、今日もベル君を色々と手助けしてくれたリリルカ・アーデさんも、ね?」
「いえ、ですから──」
「ね?」
「………………はい、承知いたしました」
………
……
…
この日、月が空に上る頃、講習室には大量の紙が散乱することとなった。
そのほとんど全てに、低階層で出現するモンスターの名前がまんべんなく何度も書き込まれていた。
癖のないちょっと崩れた字と、丸っこい字で書かれた紙は、所々に涙が落ちたと思しき滲みが見てとれた。
たまにスペルミスの目立つ汚い字の紙は、途中からモンスターの名前ではなく子供がやるような文字の書き取りに変わっていた。
「ほら、これが『あ』です、綺麗に書けるまで練習しましょうね、今、ここで」
後輩と女の子の横で、ひたすら五歳児レベルの書き取りをやらされたカイトの心には、大きな傷が残ることとなった。
ベルに伝えなければいけないこととはなんだったのか。
次回、晩餐