「あ、」
たった一人の家族の血に濡れた己の両手を見て、
「ああああぁぁぁぁあぁぁぁぁぁっぁぁぁぁああああぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!?」
慟哭が響き渡った。
………………………………
それは大聖杯の、アンリ・マユの足掻きだった。
状況は自身に不利に推移しており、間もなく自身を殺さんとする者達が訪れる。
それを少しでも遅らせるための一手。
だが、挑む者からすれば、それは絶望的な一手だった。
「■■■■■■■■――ッ!!」
「くっ!?」
最も早く自身の戦闘にケリをつけたのは、真アサシンを倒したライダーだった。
彼女は持ち前の機動力を生かして即座に他の戦闘の支援へと向かおうとした。
だが、その彼女の前に同一神話体系の中で、否、この地球上においてなお最強と言える英雄が立ちはだかった。
理性を奪われ、技を失い、呪いに侵され、宝具たる「十二の試練」すらストックは三つだけの不完全な状態ながら、それでもその男は最強だった。
もし十全な状態だったら、あの英雄王にすら勝っていただろう英雄の中の英雄。
「■■■■■ッ!!」
ヘラクレス、ギリシャ最大の英雄が、ライダーを進ませぬと立ち塞がった。
狭い空間内を暴風の様に振るわれる斧剣を辛うじて回避しながら、ライダーは思考する。
(私一人ではどうにもならない。)
ライダーは彼の実力を知るが故に、回避に徹した。
かと言って、逃げる事も出来ない。
今自分が此処から逃れ、一時的に生き永らえた所で、ヘラクレスが他の戦闘に介入した時点で勝敗は決まってしまう。
(仕方ありませんね。)
覚悟を決め、釘剣を握り、
(タイミングは一瞬、間違えればその時点で詰みですが…。)
以前の様に、喉を裂いた。
高速移動中に行われた自傷、それも結構な深手のそれは、当たり前の様に洞窟中に鮮血を撒き散らしていく。
だが、そんな状態になっても、ライダーは一切の減速を行わない。
(さて、あとは彼がどれだけ抗うかですね。)
一縷の希望を胸に、ライダーは駆け抜けた。
……………………………………………
憎い相手だった。
その筈だった。
そうに違いなかった。
でも、殺したくなんてなかった。
自由の利かない状態で、来ないでと叫んだ。
夢現のまま、拒絶する様に影と呪いの軍勢を差し向けた。
なのに、なのに/なんで!
まるで大好きな先輩の様に、彼女は自分の名前を叫びながら、その片手に眩い光を掲げながら、邪魔する全てを斬り伏せながら、自分の下へとやってきた。
その名の通り、凛とした装いは見る影もなく、埃と土と汗と泥に塗れながらも、それでも尚輝きを失わない瞳を自分へと向けてくる。
そんな目で見ないで、その目で映さないで、私を見ないで!
蟲蔵で汚れ果てた自分には、家族に捨てられなかった彼女が、真っ直ぐと己らしく生きている彼女が、目が潰れる程に眩しかった。
来るな、来るな/来ないで!
影を刃とし、呪詛を弾丸にして、決して寄せ付けないと放った魔術は全て光の斬撃の前に切り捨てられた。
そして、そのまま斬り伏せられたのなら、どんなに良かったか。
「ごめんなさい、遅くなったわね。」
そう言って、遠坂凛はたった一人の妹を抱き締めようと腕を広げて…
「来ないで!」
拒絶する/突き放すように、放たれた影の刃に、腹を貫かれた。
「もっと早く、こうやって貴方を抱き締めたかった。」
そして、そのまま抱き締めた。
「ごめんなさい。私、貴方のお姉ちゃんなのに、こんなになるまで気付けなくて。」
先輩とも、兄とも、ライダーとも違う。
ただの家族として、姉妹として、言葉に出来ない程の愛情を、行動で以って示した。
だが、そこまでが限界だった。
(や、ば…もう意識が…。)
ぐらりとその体が傾き、ずるりと己の腹から流れた血溜りの中へと倒れた。
「あ、」
そして、冒頭へと至る。
「ああああぁぁぁぁあぁぁぁぁぁっぁぁぁぁああああぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!?」
巨大な胎児にも似た、黒い大聖杯を背景に、その端末となってしまった少女の叫びが響き渡る。
涙を流し、必死になって治癒魔術を発動させながら。自分が刺してしまった姉を助けようとする。
確かに憎かった。
確かに羨ましかった。
同時に、同じ位大好きだった。
なんで忘れてたんだろう、なんで今思い出してしまったんだろう。
結局、私は人間にも蟲にも怪物に成り切れない半端者だった。
こんな様になると皆分かっていたから、きっと捨てられたのだろう。
「やだ、だめ、こんな所で」
血溜りの中から抱き上げて、必死に声をかける。
だが、流した血の量が多すぎるのか、それとも無茶な魔術行使の影響か、一向に凛は目覚めない。
「お願い!死なないで、姉さん!」
その絶望の最中で、漸く桜は、以前と同じ呼び方で凛を呼べた。
「任せろ。」
その時に、不意に聞き慣れた、とても愛しい人の声がした。
「投影、開始。」
その手に投影されたのは、遠坂凛の持つアゾット剣だ。
士郎は正確にそこに蓄積された使用者の経験を読み解き、本来彼の技量では使用できない魔術を行使する。
これは一重に彼の投影の異常さとそこに蓄積された凛の技量、何より「投影品を使い捨てにする魔術行使」が割りと凛の宝石魔術に通じるものがあった故だった。
とは言え、本家の足元にも及ばないお粗末なものだったが。
それでも、今すぐ死ぬという状態を脱するには十分なものだった。
「先輩!?」
「よ、桜。」
桜の見た士郎は、ボロボロだった。
左腕はアーチャーのものを移植し、聖骸布で包んでいた筈だが、それすらも殆ど解けている。
全身は裂傷と打撲、無茶な投影行使と左腕からの侵食によって、左肩から金属に、剣へと変化している。
普通なら、すぐさま治療を施すべき状態だった。
息をするだけで苦しく、歩くだけで激痛が走る筈だ。
そんな様になって、なお
「割と元気そうだな。良かった。」
彼は大事な女に微笑んでみせた。
「せん、ぱい…私、姉さんを…っ」
慄き涙を流しながら、桜は告解する。
自分は、兄に引き続き、姉まで手にかけたのだと。
「そうか。なら、後で一杯遠坂に怒ってもらわないとな。」
それを、士郎はあっさりと許した。
何故なら、彼は正義の味方ではないく、ただ二人のためだけの正義の味方だから。
例え彼女達が何十、何百、何万と人を手に掛けた所で、もう彼は小揺るぎもしない。
「だからさ、桜」
そして、その手の中に歪な短剣を逆手に投影し、振り上げ、
「一緒に後で怒られよう。」
桜の胸元へと突き立てた。
……………………………………
「そんな奴とは、縁を切ってな。」
重症を負ったアルトリアが駆け付けた時、既にその場での戦闘は終わっていた。
「セイバーか…良かった、桜と遠坂を…。」
見れば、士郎の傍には気を失った凛と桜がいた。
桜は兎も角、凛はこのまま放置すれば危ないだろう。
「えぇ、奥には私が行きます。シロウは凛と桜を」
咄嗟に、黒く染まった聖剣を額を守る様に構えた。
瞬間、血の様に赤く染まった槍が降ってきた。
「ぐ、ぬ…!」
ミシリと、バーサーカーに匹敵するステータスを持つセイバーですら、得物を取り落としそうになる程の一撃に動きが止まる。
直後、追撃として胴体に放たれた蹴りを魔力放出で逆に弾き飛ばしながら、襲撃者から士郎達を守る立ち位置に動きながら、襲撃者の姿を見据える。
「なんだ、色ボケて鈍った訳じゃなさそうだな。」
身を覆う鎧は黒く、荒々しい棘に包まれ、全身に走る血色のルーン。
一瞬誰かと疑う姿だったが、その実力にルーン魔術、何よりその真紅の槍は見紛いようがない。
「ランサー…貴様。」
「全呪解放。蠢動しな、死棘の魔槍。」
業、と全身のルーンが輝き、ステータスを生前の、全盛期の頃となる。
そして、死の呪いを纏う魔槍もまた、ギチギチと音を立てて穂先が枝分かれし、より攻撃的な姿となる。
「さぁ、絶望に挑みな。」
光の御子、クランの猛犬、赤枝の騎士が一人。
アイルランド最大の英雄、その反転存在が立ち塞がった。
まだ数話は続きます。