気分転換を兼ねて、ちょっとだけ外の空気を吸おうと思った。
普段から地下の射撃場やら工場やらで息苦しい生活をしているのだから、ちょっとした休みの日くらい外の新鮮な空気に全身を浸そうと考えた。愛用のゴーグルはアジトに置いてきている。万が一の事態に陥る可能性も否定できないが、こういう時くらいは暗部との関係を一切合財絶っておきたい。夢も希望も手放した自分にとっての、最後の日常。最後の砦。
「クレープでも食べに行くっスかねぇ」
爽やかなアクティブ系青年(自称)であるゴーグルだが、こう見えても甘味ものに目がない根っからのスイーツ大好き系男子である。行きつけの洋菓子店は毎週チェックしているし、スタンプカードは既に五枚目に突入しようとしているくらいだ。暗部に身を置く彼にとって、スイーツは唯一の清涼剤とも言える代物であった。
そんな彼が最近ハマっているクレープ店。第七学区の公園付近に不定期で開店する移動洋菓子店の営業日が、見事に今日と重なった。これは何かの奇跡か、それとも神の思し召しか。なんにせよ、スイーツジャンキーのゴーグルとしてはここで向かわなければ自らの矜持が廃る。
アジトを出て、件の公園へと足を進める。途中に学園都市を流れる川沿いを通るのだが、科学と機械が溢れるこの街においてなかなかにミスマッチな自然の風景を眺めるのも彼は好んでいた。整地されている為完全な天然ものとはいかないかもしれないが、それでもそこに広がる自然風景には、普段彼が生活する世界に塗れる血と硝煙の臭いは存在しない。学園都市に残された数少ない平和の象徴。
(まだ平和な日常なんてものに縋っている辺り、オレもまだまだ甘いっスけどね……)
暗部の世界に飛び込んでそれなりの時間が過ぎた。今までに殺した人間の数なんて覚えてはいない。悲鳴や怒号も腐るほど聞いてきたし、死体なんてそれこそ脳裏に焼き付くほどに目にしてきた。今更この世界から抜け出そうなんて気は毛頭ない。
しかし、彼の心はどこかで安息を求めているのかもしれない。休暇の度にこうして河原の近くを歩き、公園でクレープを食べるという『どこにでも存在する平凡な日常』を、ゴーグル自身が欲しているのかもしれない。
――――そんなものを求めたところで、『彼女』は帰ってこないというのに。
「っ……あー、やめやめ! 今くらいは楽しいことを考えるっスよ!」
頭を振って雑念を追い払う。せっかくの休暇なのにこんなじめったいことに思考を支配されてしまっては元も子もない。心身ともに休み、リラックスすることが今回の最大の目的なのに、これでは休暇の意味がない。パンパンと頬を叩いて気分を入れ替えると再び足を動かし始める。
その時、彼の視界に見覚えのある少女が引っ掛かった。
背中の辺りまで伸ばした艶のある黒髪に、花を模した髪飾りを付けた中学生程の少女。年齢にしては少々大人びた身体つきだが、まだどこかあどけなさが残る。
柵川中学一年生、そして現在ゴーグルが所属する暗部組織【スクール】の同僚でもある佐天涙子が、雑草が生い茂る河原に四肢をついて何かを探すように一生懸命な様子で辺りをきょろきょろ見回していた。手足が汚れることも気にしていないのはお転婆な彼女らしいとは思うが、つい数時間前までアジトの地下施設で佐倉を気にかけていたはずの彼女が何故こんなところにいるのか。
疑問に思い軽く首を傾げるゴーグルだったが、答えはすぐに提示された。
『あーもー! 八つ葉のクローバーなんて本当にあるのー!?』
「クローバー……?」
溜まった疲労を吐き出すように天を向いて声を荒げる佐天。彼女の叫びを耳にしたゴーグルは手に入れた情報を脳内知識と照らし合わせると、合点がいったと軽く頷いた。
幸せを運ぶ四つ葉のクローバー。それだけでも随分なレアアイテムだが、世の中にはそれをさらに超える枚数のものが存在するらしい。そして、複数葉のクローバーすべてに特別な意味合いがあり、その意味に合った願いを込めてお守りにするのが最近流行っているのだとか。以前暇つぶしに流していたニュース番組の特集で見た覚えがある。
ということは。現在の状況と彼女が置かれている環境、その他諸々を照らし合わせると、佐天の目的は手に取るように分かった。
(ようするに、佐倉クンにお守りとしてクローバーを渡そうとかいう寸法っスね)
思春期の佐天らしい考えだと思うが、それと同時にくだらないという嘲笑も生じた。
科学至上主義の学園都市、その中でも一際深いところにある暗部世界。その地獄に身を置く立場の人間が占いや迷信に頼ろうとしている時点で甘えているとしか形容の仕様がない。たとえ彼女が非力な無能力者で、大切な人に少しでも力になれるという思いから生じた行動だとしても、だ。一方的な想いは相手の身を苦しめ、滅ぼす枷となる。ようするに、愚かな行動だと表現するしかない。
……が、不意に脳裏に浮かぶ忘れたはずの光景。
――――の為に作ったの、少しでも力になりたくて。
「っ! クソッ!」
白衣の女性。自らに向けられる笑顔と言葉。慈愛と優しさに溢れた、今では感じることすらできない温もり。
そんな
いつもなら無骨なヘッドギアがあるはずの頭部を、無意識に触っていることには終ぞ気が付かないまま。
☆
太陽もすっかり沈み、完全下校時刻が近づき始める。
スマートフォンの懐中電灯機能で周囲を照らしながら、佐天は未だに目的の代物を探し続けていた。
「うぅ、見つからないよぅ……」
もう何度目になるか分からない泣き言が口をつく。すっかり汚れてしまった右手で汗を拭うと、そのままの勢いで草むらの上に仰向けに寝そべった。黒に染まる世界の中で、月明かりだけが煌々と佐天を照らす。
「……やっぱり、無謀だったのかな」
ぽつり、と。
そんな言葉が内から溢れ出す。そっと右腕で両目を隠すと、生暖かい感覚が伝わってきた。遮られた視界の中で、疲労感に苛まれながらも彼女は静かに、それでいて確かに内心を吐露していく。
「あたしがやろうとしていたことは全部無駄でしかなくて、佐倉さんにとっても余計なお世話でしかなくて……所詮は、ただの自己満足でしかなくて……」
思い出す。今までの佐天と佐倉の会話を。蘇る。今までの佐天と佐倉の関係を。
特別仲が良い訳ではなく、二人っきりで行動するようなことをしてきた訳でもない。自分と彼はあくまでも『御坂美琴を通じて知り合ったただの友人』だ。彼からしてみれば、何故自分が暗部に入ったのかすら不思議に思う程だろう。実際、佐天本人も確かなことは分かっていない。彼の力になりたい、支えたいとは垣根に言ったが、何故自分がそこまで佐倉の為に行動しようとしているのかすらマトモに理解してはいない。
何かで助けてもらったとか、借りがあるとか、そんなことはないけれど。
それでも、理由は分からないけれど、佐倉望という少年を支えたいと思った。その思いだけで今までやってきた。薄っぺらい覚悟だけで、ここ数日過ごしてきた。
だが、そんな思いでさえ、自分には貫き通すことも許されないのだろうか。
「無能力者だから、とか言い訳する気はないけれど……もしあたしにも能力があったら、あの人の助けになることができたのかな……」
分かっている。そんなことは有り得ない。たとえ自分に能力があろうが無かろうが、彼を一番近くで支えることは佐天には出来なかっただろう。あの超能力者の少女が常に傍にいた。友人でしかない自分がその位置に立つことはできない。所詮は荒唐無稽な妄想だ。無理で無茶で無謀で……非現実的な空想だ。
現に、自分はクローバー一つ見つけることができないではないか。
「……もう、帰ろう」
最初から可能性の低い勝負ではあったが、ここまで駄目だとむしろ清々しい。いいではないか。誰にも迷惑をかけていないのだから、諦めても問題ないではないか。
頬に残った涙を拭うことも忘れ、虚ろな瞳で空を見上げながらゆっくりと立ち上がる。空元気とは裏腹に重い足取りで帰路に着こうと足を動かす。
そんな時だ。
背後から、彼女に向かって声がかけられたのは。
「クローバーってのは根本で繋がってるんっスよ。だから、四つ葉以上の代物を探したいのなら、それを一度見つけた周辺で探すのが一番手っ取り早い。手当たり次第に全体的に探すのは愚策もいいところっスわ」
「え……?」
聞き覚えのある声。それでいて、この場では聞こえるはずがない声。状況の把握が追い付かないまま、佐天は目を丸くして背後に視線を向ける。
荒い質感の短かい髪。長袖のシャツにベストを着込んだどこにでもいるような風貌の青年。普段ヘラヘラしているはずの顔は今まで見たことがないくらいに真面目な表情を浮かべている。彼を現すシンボルと言っても良い土星の輪のような無骨な機械は見えないものの、目の前にいるのは確かに佐天が知る彼だ。
仲間達からゴーグルと呼ばれる少年は、右手を伸ばすと佐天の目元をぐいっと拭う。
「らしくないっスね。佐天ちゃんは泣いてる顔より笑ってる顔の方が似合うっスよ?」
「ゴーグル、さん……?」
「はいな。皆さんお馴染みゴーグルさんっス」
「どう、して……?」
「……まぁ、こっちにも色々と思うところがありまして。つーかアンタ見てると思い出したくない
若干気恥ずかしそうに目を逸らし、軽く舌打ちを見せるゴーグル。何故彼が佐天の事情を知り、かつこの場に来て手伝おうとしてくれているのかまったく分からない。ぽかんと間が抜けた表情で彼を見上げたままの佐天だったが、慌てて正気に戻ると口を開いた。
「で、でも! 探すって言ってもそもそも四つ葉自体が見つからないし……」
「オレに任せるっスよ。一分あれば余裕で見つけてみせる」
「一分なんてそんな無茶な……」
「念動力の波を辺りに放って、探査機みたいに使うんス。海豚や蝙蝠は超音波を使って周囲の様子を探るっていう話は知ってるっスか?」
「た、確か前に授業で……」
「それと同じ原理っすよ。そんで、オレはなんだかんだ大能力者っス。四つ葉のクローバー? 八つ葉のクローバー? そんなもん、オレが本気出せば夕食前っスよ!」
「ゴーグルさん……」
先程とは打って変わって自慢げな様子で胸を張るゴーグル。予想だにしない彼の善意に止まっていたはずの涙が再び溢れ出す。それだけではない。疲れ切っていたところに不意打ち染みた優しさを浴びせられ、ついには嗚咽までもが止まらなくなってしまった。
「う、ふぐっ……ありがとぉ、ございます……」
「女の子が泣くもんじゃないっスよ。常に綺麗な笑顔でいなきゃ、可愛いのに勿体ないっス」
「でも……どうして、あたしの為にわざわざ……」
「……さーてね」
泣きじゃくる佐天の頭にポンと手を乗せ優しく撫でながら、彼は明後日の方向に視線を向ける。
その顔に浮かんだ表情を、佐天は終ぞ忘れることができなかった。
「場違いなヤキでも回ったんでしょ、たぶん」
☆
「……似合わないことしちまったっスねぇ」
日付変わって10月8日。以前【アイテム】とかいう暗部組織に殺されたスナイパーの補充が行われ、砂皿緻密が新たに【スクール】に加わった。今はそんな彼が自己紹介を丁度終えたところだが、窓の桟に頬杖をついてぼんやりと外を眺めるゴーグル。ぽつりと口をついて出た言葉は、昨日佐天の手助けをした自分に対する嘲笑だ。
自分は暗部組織の人間であり、佐倉望や佐天涙子を利用しているだけの存在。彼らに対する善意なんて欠片も持ってはおらず、助けるなんてもってのほかだ。自分の課せられた使命は、おそらくは彼らの障害になるものでしか有り得ない。
……それなのに、どうしてあんなことをしてしまったのか。
「はぁ……」
溜息をつきつつも、何の気無しにスマートフォンを取り出すとそこにぶら下がるストラップを眺める。ラミネート加工された、四つ葉のクローバー。幸福を象徴するその植物は、今朝佐天からお礼として渡されたものだ。佐倉にだけ渡しておけばいいものを、なんとも余計な事ばかりする子供である。
渡された時の言葉が、これまたどうしてゴーグルの頭から離れない。
――――あたしは、ゴーグルさんにも死んで欲しくありません。
「……こっちの気も知らないで、好き勝手言いやがって」
愚痴を零すが不思議と彼の表情は綻んでいた。本人はおそらく気づいてはいないのだろうが。
再び溜息をつくと、スマートフォンをポケットに戻す。そろそろ明日の準備をしないといけない。運命の日がやってくる。自分達【スクール】が革命を起こす、学園都市転覆の日が。
10月9日。学園都市独立記念日。
悪役達が蔓延る
次回からは皆様お待たせ暗部抗争編。やっとここまでこれた……!